約束は翌日の昼過ぎだったが、辰巳はほぼ時間ぴったりにやって来た。片方の手には駅前の洋菓子店の紙袋を抱えている。「さすがに手ぶらってわけにもいかないだろ」と、おいしいと評判のカスタードシューを兄の分も含めて買ってきてくれたそうだ。
「そんな、気を遣わせてごめん。お茶淹れるから少し待ってて」
「何か手伝おうか?」
「気持ちだけでいいよ、ありがとう」
彼に来客用のスリッパを出し、リビングへと通す。紅茶のティーバッグをひとまず二パック抽出し、カップに注いで出した。
テーブルで互いに対面するように座り、しばらくはお茶を飲みながら話す。最初は昨日起こった出来事への驚きと、あの後行われた事情聴取について話していた。
「一歩間違ったら過剰防衛で俺が捕まってたみたい。酷くねえ? こっちはナイフで殺されそうだったってのによ」
「それって多分、梶山君が空手の有段者だからだよね。でも正当防衛が認められそうで良かったよ」
辰巳が買ってきたシュークリームを一口頬張る。卵の風味と優しい甘さが口の中に広がり、ほんの少しだけ幸せな気持ちになった。
いつまでも恐怖を引きずっていてはいられない。
「それで、今日は悠さんは?」
「部屋にいるよ。今日は、っていうか、最近はずっと籠りっぱなしなんだ」
「後でちょっと挨拶してもいいか? せっかくだからシュークリームも食べてもらいたいし」
「もちろん」
二人ともシュークリームを食べ終わり、紅茶を啜る。紅茶のお代わりを注いで、軽く呼吸を整えたところでいよいよ本題に入った。
「なあ、それで昨日話してた事なんだけど」
今の辰巳は昨日のように困惑した様子はない。まるで陽向が何を言ってもすべて受け入れると暗に示しているような、そんな雰囲気だ。
陽向はもう一度、四月に起きた内容から順番に話した。土にまみれた状態で帰ってきた悠心。最初の痙攣とその後に口走った『四月の二十日、神の怒りが曙を焼く』という言葉。言った通りの日に落雷があり、桜の木、ひいては曙草が焼けたこと。四谷という男と彼について話した時の兄の取り乱し方。そして『五月の二十日あまり三日、鋼を持った男がよろずを売る店に現れる』という二度目の言葉と、昨日のコンビニ強盗。
話しながら、改めて今の状況が異常であると実感した。こうして一つ一つの出来事を並べてみると、どれを取っても日常の範囲内に収まり切らない。
「何と言うか……大変だったな。何か他に気になることはあるか?」
「二回目の予言……かどうかは分からないけど、それがあった時、部屋の中に影が見えた気がしたんだ」
「影?」
「うん。小さな子どもぐらいの大きさの。すぐに消えちゃったけど」
辰巳は両腕を組んだまま、何事か思案するかのようにしばらく黙っていた。表情もほとんど動いていないが、目元の様子だけは少し鋭くなっている気がする。
「一旦、悠さんに会わせてもらえないか? 話聞く感じ、あんまり会話できる状態じゃないんだよな」
「そうなんだけど、梶山君の顔なら見たら分かるかも。小学校の頃とか、たまにだけど一緒に遊んなこともあったよね」
「あった、あった。対戦ゲームで大人気なくボコボコにされたの、まだ覚えてるわ」
そんなことを言いつつ悠心の部屋に向かい、陽向がまずノックをする。返事はないが、もはやいつもの事であるため気にせずドアを開ける。兄はベッドの上に腰掛け、やはりぼうっと部屋の壁を見つめていた。
「悠さん、ご無沙汰してます。梶山です。覚えてますか」
辰巳は悠心の前に膝をつき、目線を合わせるようにしながら穏やかな声で挨拶する。
最初は何の反応も見せなかった兄だが、辰巳が再び「悠さん」と呼び掛けると、小さく唇が動いた。声にこそなっていないが、その動きは確かに「かじやま」と言っているように見えた。
「無理に話さなくて大丈夫です。ただ、陽向のことは俺が守ります。それだけ伝えておきたくて」
手短に言うと辰巳は陽向に目で合図をしたので、二人で部屋を出た。
「ありがとう。兄さん、反応してたね」
「ああ、意識はしっかりしてるみたいだ。だから尚更、早く病院に連れて行った方がいいと思う」
辰巳はリビングに戻りながら言葉を続ける。
「心療内科も早めに行った方がいいだろうけど、どちらかというならむしろ脳の方が先かもな」
「脳?」
「痙攣って、脳の神経系の問題で起きる時があるんだよ。お前が言うにはその予言って、痙攣して白目剥いてる間に口にして、言った後は大人しくなっちまうんだろ。アルコールの問題もあるし、一回脳波とかの検査を受けた方がいい」
「そうか……そうだよね」
言われてみると確かにその通りだ。これまで心療内科へ主にかかっていたから受診するならそちらだと思っていたが、痙攣が主訴なら脳を調べてもらうのが先だ。
日々をやり過ごすのに精一杯で、そんな事にも気付けなかった。
「病院、一人で連れて行けそうか? 悠さんが上手く外に出られそうにないなら、俺も付き添うけど」
「え、いや、それは悪いよ」
「悠さん、最後に見た時よりやっぱり少し痩せてたけど、それでも成人男性一人支えて歩くのは大変だぞ。土曜に開いてる病院とかなら一緒に行けるから」
何でもないように振る舞っているが、彼は自分が何を言っているか分かっているのだろうか。幼馴染とはいえ赤の他人の兄弟に付き添うなど、普通ではない。
それをこんなにも当然のようにやってみせようと言うのだ。どれだけ完璧超人なのだろう。それもこれも結局は自分が頼りないためで、陽向の心はどんよりと重くなった。
「なあ」
帰る直前。玄関先で振り返った辰巳は、少し躊躇うような間を置いてから続ける。
「昨日の時にお前さ、俺のこと『たっちゃん』って呼んだだろ」
「あ……あれは……」
「嬉しかった。ありがとうな」
かすかに笑って、辰巳は瀬戸家を後にする。開いた扉からどこかの家の夕食の匂いが漂ってきた。


