モイライ来りて糸を繰る


 それから何人かの客が来店したが、『鋼を持った男』という言葉に当てはまる特徴の人物はいなかった。
 十六時半が過ぎて陽向の退勤時刻まであと三十分を切ったところで、また思わぬ客がやって来る。

「陽向、お疲れ」

 ラフな私服姿でも様になる、引き締まった体躯の八頭身。来店するなりチルド食品の鮮度チェックを行っている陽向の姿を目に留めた辰巳は、にこやかに笑みを浮かべて声を掛けてきた。

「梶山君! どうしたの、珍しいね」
「ここって家から結構近いんだけど、意外と来ないんだよな。仕事まだ掛かりそう?」
「今日は五時までだから、もうすぐ上がりだよ。あれ? 勉強会はもう終わったの?」
「ああ、あれな。行かなかった。テスト勉強ならむしろ一人の方が捗るしな」

 何でもない風に言ってのけるが、辰巳の成績を考えればさもありなんというところだ。面倒見が良く教え方も上手な彼がクラスメイトと勉強会をすれば、解説役に徹してしまって自分がやりたい範囲の勉強が疎かになるのだろう。

「普段はそんなに食べないけど、頭使うとやっぱ甘いモン欲しくてさ。何かお勧めのある?」
「それなら、最近発売された生チョコが評判いいみたいだよ。こっちのデザート売り場にあるんだけど」

 話をしながら売り場を案内していると、店のチャイムが新たな来客があったことを告げた。ちらりと見てみたが、黒いキャップを目深に被った男性のようだ。何かを確認するようにしばらく店内をきょろきょろと見回した後、レジカウンターの方へと歩いて行く。タバコでも買いたいのだろうか。

「お勧めの生チョコってこれ? 結構量入ってるんだな」
「うん。値段の割には量が多くて、味もおいしいから人気みたい……」

 他の客もいることだし雑談は控えた方が良いだろうかと陽向が心配になったところで、レジの方から怒鳴り声がする。

「うるせえな! だからさっさと金出せって言ってんだよ!」
「わ、分かりました。今用意しますから、どうか落ち着いてください」

 黒いキャップの男が、店長に向かって何かを突きつけながら金を要求している。手に持っているのは鋭利なナイフだ。
 滅多に経験する事のない非現実的なシチュエーションに、陽向の意識が一瞬遠くなった。不意に横から腕を強く引かれて肩を抱かれる。
 辰巳だった。陽向を守るように両腕で抱きしめながら、その目は鋭く男の方を警戒している。

『五月の二十日あまり三日、鋼を持った男がよろずを売る店に現れる』

 まただ。またあの言葉通りの事が起こってしまった。
 陽向は震える手でズボンのポケットをまさぐり、消音モードにしてあるスマホを出そうとする。元はと言えば、こういう不慮の事態が起こった時のためにわざわざ英梨にシフトを代わってもらったのではないか。
 今、行動を起こさないでどうする。
 陽向はロック画面から緊急通報を呼び出し、一、一、零と番号を確認して発信しようとする。しかし極度の緊張とパニックからか手が震えてしまい、上手く操作できずにいる内に携帯を取り落としてしまった。

「おい! てめえ、何してやがる!」

 刃物を持った男の意識がこちらに向き、刃先を陽向の方に突きつけて歩いてくるのが見えた。
 終わった。せっかく事前にヒントを知っていたというのに、結局自分は何もできない。
 己の不甲斐なさに目を閉じようとした瞬間。
 ヒュッと風を切る音と、何か硬い物が床に落ちる音がした。同時にえっ、と男が間抜けな声を発する。
 握られていたはずのナイフは男の手を離れ、コンビニの床に転がっていた。とっさの事に理解が追い付かなかった陽向だが、一拍置いて辰巳の脚が男の手を蹴り上げたのだと知る。
 事態を把握できていないのは男も同じらしい。つい先ほどまで持っていたはずの武器をあっという間に体から剥がされ、呆然としている。
 そんな男の懐に大きく一歩踏み入った辰巳の左拳が、彼の右脇腹にめり込んだ。格闘技について陽向は詳しくないが、人体でいうと男が打たれた部位はちょうど肝臓が位置している辺りだ。

「げえっ、えっ」

 辰巳は容赦のないレバー打ちに咳き込む男の胸ぐらを掴み、腹部に自身の膝を叩き込む。男は今度こそもんどりを打って床に転がるが、辰巳は再び彼に近付こうとした。もはや息も絶え絶えと見える男に、さらに追い打ちを掛けるつもりなのか。

「梶山君、待って。梶山君」

 陽向の呼び声にも辰巳は反応しない。片手の指を鳴らしながら、冷徹な機械のように男へとにじり寄る。
 陽向は無我夢中で辰巳の背中に縋り付き、その硬い体を後ろから抱きしめた。

「たっちゃん、止めて!」

 必死になるあまり昔のあだ名が口をついて出る。するとようやく辰巳は立ち止まってこちらを振り返った。整った顔に何の感情も浮かべず、宝石のように綺麗な黒い瞳は瞳孔が完全に開いている。
 交感神経が活発になるとそういう反応が出ると、以前生物の授業で習った。瞳孔を開いて周囲の光を効率良く取り入れられるようにし、体の他の部位に回る血液を筋肉に優先的に供給して、通常時よりも強い力を発揮させる。危機的状況において戦うか逃げるかして現代まで命を繋いできた生物に、本能的に備わっている機能。
 辰巳の体は今、その恵まれたパラメーターすべてを戦うために使っているのだ。

「もう大丈夫だから。あとは警察の人に任せよう?」

 普段あれだけ優しくてコミュニケーション能力が高く、誰とでも上手くやれている幼馴染の、今まで見た事のない一面に陽向の声が震える。コンビニ強盗の男に刃物を向けられた時よりも、今の辰巳の方がずっと恐ろしかった。

「ねえ、お願い」
「お前がそう言うなら」

 冷酷な怒りを隠さぬ佇まいをしていながら、陽向に掛ける言葉の言い方は慈しみを感じさせる。そのちぐはぐさに陽向はますます混乱した。