五月も中旬に差し掛かった頃。結局、兄を病院に連れて行くことはまだできていない。陽向自身毎日の学校と家事、そしてアルバイトで疲弊しているのもあるが、悠心もあれから酒を飲まず特に目立った問題行動を起こしていないというのが大きかった。
金髪の彼のことはやはり気になるが、先日の兄の様子を考えると『四谷』という名前の知り合いなのだろうか。だがあまり仲が良いようには思えない。彼が友人なら兄も陽向以外の他人とコミュニケーションを取ることで気持ちの安定が図れるかもしれないが、確信が持てない以上は迂闊に提案するべきではないだろう。
「兄さん、晩ご飯だよ」
皿を載せたお盆を持ち、陽向は兄の部屋を訪れた。少し時間を置いてからでも食べられるよう、料理の上にはラップを掛けてある。一旦部屋の外にお盆を置き、扉を開けた。
悠心はベッドの上に横になっていたが、目は開いているので眠っているわけではないようだ。白いビニールクロスの天井を、何を考えているのかまったく分からない目で眺めている。
「今日は鶏ももが安かったから、チキンカレーにしたんだ。辛さは中辛だよ。兄さん、カレーは中辛に限るって高校の頃言ってたよね。覚えてる?」
例え何も言葉や反応を返してくれないとしても、陽向は悠心に話し掛けるのをやめない。いつか返事をしてくれる事があるかもしれないし、こうして毎日何かしら話していないと兄が言葉を忘れてしまうのではないかという、少々現実的ではない不安に駆られるのだ。
「兄さん、あのさ」
聞くかどうか迷ったが、口を開いた勢いに任せて言葉を続ける。
「四谷さんって、どういう知り合い?」
ベッド上に投げ出されている悠心の指先がピクリと動いた。
「友だち……って感じじゃなさそうだったけど、もし話せそうならどういう関係だったのか教えてくれないかな? ひょっとしたら兄さんの助けになるかもしれないし」
また兄の手が動いた。今度はわなわなと、震えるように。
嫌な予感がした。兄のこういう動きには見覚えがある。四月のあの日、あの不気味な言葉を呟いた時だ。
「ウウウウウウウッ」
あの時と同じ、低い呻き声が悠心の喉から発せられる。横になったままの体を大きく仰け反らせ、まるで何かから逃げるようにもがき始める。
「兄さん!」
痙攣する体に触れようとして、不意に視界の端を横切った影に陽向は動きを止めた。確かに今、子どものように小さな黒い影が一瞬だけ部屋の中に見えたのだが、次の瞬間には消えてしまっていた。
「ガッ、アアアアア」
陽向の意識はすぐに兄の方に引き戻される。彼は仰け反って細かく震えながら、ほとんど白目を剥きかけた状態で意味を成さない言葉を発していた。
今度こそ救急車を呼ぶべきだ。陽向は痙攣する兄と部屋の扉を何度も見比べ、ほんの少しの逡巡の後、自分の携帯を取りに行こうとした。
しかし突然、強い力で腕を掴まれる。悠心だ。口の端に泡を浮かべた兄が、陽向の腕を掴んでいる。
「兄さ……」
「五月の二十日あまり三日」
ひっ、と自分の喉から変な息が漏れたのが分かった。
「鋼を持った男がよろずを売る店に現れる」
はっきりと発語すると、兄の体からまたぐったりと力が抜ける。両目はしっかりと瞳の位置が戻り、規則正しい呼吸を繰り返していた。
陽向の心臓は飛び出しそうなほど激しく鼓動し、はっはっと口から短い息が漏れる。恐怖でろくに回らない頭で、兄が発した言葉の意味を必死に解釈しようとした。
「よろずを売るって……もしかして、コンビニ……?」
再びぼんやりとし始めた兄をベッドに運んで毛布を掛ける。部屋を出て、自分のスマートフォンでカレンダーを確認した。二十日あまり三日という言い方はあまり聞き慣れなかったが、調べてみると二十三日という意味らしい。
カレンダー上は土曜日だ。普段ならアルバイトのシフトが入っているがこの週は高校の中間テスト期間真っ只中のため、休みをもらっている。そのため、普段陽向がシフトに入っている時間には店長の小金井と英梨が出る予定になっていた。
よろずの店、鋼を持った男。何だろう、酷く胸騒ぎがする。
今は平日の夜、二十一時になるかならないかという時間帯だ。大学生はこの時間何をしているのだろう。メッセージアプリから通話を掛けても大丈夫だろうか。
そんな考えが頭を過ったが、気が付いた時にはもう英梨のアカウントを呼び出して発信していた。


