窓際の特等席、秘密のエール




 気がつけば、俺はぼんやりとトラックを見つめていた。
周りの歓声もアナウンスも、何も耳に入ってこない。

 時間にしてたった十五秒。
たったそれだけのために、毎日血のはくような努力をしていた事を俺は知っている。

 結局リレーも目立ったバトンミスはなかったものの、
強豪にはついていけず準決勝敗退となった。
ここで、ほとんどの先輩たちの引退が決まった。

――あっけない。
あんなに努力しても、競技時間はこんなにも短いんだ……

競技場ではそんな俺の感傷もお構いなしに、次々と競技が行われていく。

ふと、スマホが震えた。


『線路側の駐輪場来れる?』

 まだスタンドで姿を見てない隼人からメッセージが届いた。
俺は返事もせずに、すぐに駐輪場に向かった。

「隼人!」

「雪丸、お疲れ。来てくれてサンキュ!って……なんで泣いてんの?」

 ――え、泣いてる?嘘だろ?俺が?

 確かめようと頬をなぞると、しっかり湿っているし、
何なら次から次に溢れてくる。

「え、いや、ごめっ……」

 ――なにか話そう。慰めないと。
そんな気持ちとは裏腹に頬を伝う涙は止まることを知らない。

「はは、もう、泣きそうだったのに、驚いて涙引っ込んだったじゃん」

 笑いながら話す隼人の目は赤いし、声だって震えている。

 ――あぁ、痛い。なんで自分のことじゃないのになんでこんなに痛いんだろう。
別に来年だってあるし、なんなら新人戦だってある。
まだまだ彼の陸上人生は続いていくのに。なのに。

「雪丸、応援きてくれてありがとう。俺、どうしてもお礼と、あと、ちょっと話がしたくて」

 隼人が一歩距離を詰めて俺の左手を握った。

「このタイミングじゃないかもしんない。っていうか絶対違うと思う。
でも、なんか、今言いたくて」

 握られた手が熱い。そして右手も握られる。

「俺、雪丸が好きだよ。友達の好きを超えたすき。意味わかる?」

 俺はまた言葉を失った。ついでに涙も引っ込んだ。

「さっき、スタンドから雪丸の声聞こえたよ。
あんなにがやがやしてるのに、なんでか雪丸の声だけはっきり聞こえたんだ。
めちゃくちゃ勇気もらったよ。なんか、カッコつけてるみたいではずいんだけど……。
でも、そこで俺は、吹部の応援が欲しいんじゃなくて、
楽器でもなんでもいいから、とにかく雪丸に応援してほしかったんだって今気づいた」

 ――え、え?

「クラスメイトの雪丸も、吹部の雪丸も、英語教えてくれる雪丸も全部好き。全部欲しい」

 ――え、は?

「だーかーら、彼氏になってって言ってるの。俺の恋人ポジションの雪丸も欲しい、だめ?」

 俺は足元がふらついた。頭が追いついていかない。
脳が理解できない。その途端、横にあった自転車に足を引っかけて倒してしまった。

ガシャーンガシャーンガシャーン!

案の定、雪崩のように十台ほどが一緒に倒れる。

「雪丸!」

「ご、ごめん!俺じゃない!いや俺だけど!」

「「…………」」

 少しの沈黙が流れて、隼人が俺を覗き込んだ。
その顔が、餌を前にお座りさせられている子犬みたいで、反則級に可愛い。

 俺はまたふらつきそうになり、慌てて自転車から一歩離れた。

「雪丸、だめ?」

 さらに追い打ちをかけてくる。

「……ねえ。返事、聞かせてくれてから倒れてくれない?」

 今度は獲物を狙うハンターのような表情で俺をみる。

「俺の特等席に座って、これからも俺のこと応援してよ」

 視聴覚準備室。あの埃っぽくて誰も寄り付かない俺だけの特等席。
あそこから眺めるだけで、充分幸せだったのに……

「はい、そうします……ひぃぃぃ、やばっ!」

「ひぃぃぃぃってなんだよ。ってかそうしますって何?彼氏になってくれるってこと?」

「そ、そうだよ!やばい……うぅぅぅ」

――もうすでに、一軍の破壊力についていける気がしない……

「はは、唸ってる。じゃあ、これからよろしくってことで。俺まだ応援行かないとだから」

「え?」

――チュッ

「あとで連絡する」

 黒い燕は爆弾を落として振り返らずに駆けていく。

 俺の右の頬が少しだけ湿っていた。
一瞬ふにっとした感触が、今でも鮮明に残っている。

 ――――!!!!

 俺は叫びだしたい衝動を必死に抑えた。

ずっと遠くから見上げていた黒い燕が、今はちゃんと隣にいる。

その事実だけで、俺は胸がいっぱいになった。