窓際の特等席、秘密のエール


「……そっか」

それしか言えなかった。正直、安心した。
ここ数日ずっと苦しかったから。

「なんか、ほんとごめんね。俺小学生みたいだよな。恥ずいわ」

照れて眉毛が少し下がっている。その表情が幼く見えて、なんだか可愛い。

「…………あー、あのさ。ちょっと聞きだいんだけど……」

「え、うん。なんでも聞いて」

「隼人は今、彼女いるの?」

――よくぞ聞いたぞ、俺。
いないのは知っているけど、念のための確認。他校の線も潰しておきたい。

「えぇ?いきなりどうしたの?いないの知ってるじゃん雪丸」

「あ、まぁそうなんだけど。一応……」

――っしゃー!

「なんだよ一応って。なんの一応だよ」

くしゃっとした屈託のない笑顔。好きだ……

「ははは、内緒だよ。俺、ハードル跳んでる隼人、めっちゃ好きだよ」

――それ以外も全部好き……

「な、なになに?いきなりなんなん?」

「いや、急に言いたくなっただけ」

「えぇー?もう照れるじゃん」

やっぱりこの顔は、そういうことじゃん……

「でさ、あの……無理なら全然いいんだけど……
俺、陸上の試合、見に行っていい、かな?
えっと、あの……楽器はさすがに持っていけないけど、でも隼人の応援に行きたいなって」

――言えた。

全身から汗が噴き出している。こぶしを握りすぎて、手のひらが熱い。
隼人は両手で顔を隠したまま黙って俯いている。
どういう反応?

「もう……なんなん……さっきから。そんなの、いいに決まってんじゃん。
むしろ俺から誘おうと思ってたのに。先越さないでよ」

指の隙間からちらっとこちらをのぞき込んで、彼は小さなため息をついた。
そして、いきなり立ち上がり、ベッドの上で正座して俺の方を向いた。

「雪丸さん、土曜日試合の応援に来てくれませんか?」

キラキラ、黒曜石の目は俺をとらえて離さない。

「俺、絶対明日の予選勝つから。土曜日は、勝てばハードルの準決。
それとリレーの準決決勝があるんだ」

「うん。わかった」

隼人は一瞬だけ目を見開いた。信じられないものを見るみたいに。そして……

「ゆきまるぅー!」

「おわっ!」

突然ベッドが軋んでバランスを崩した。
後頭部が、ふわっと布団に包まれたかと思うと、いきなり隼人に抱きしめられた。

――え、え、はぁ?

「めっちゃうれしい。ほんとめっちゃうれしいよ。雪丸ありがと」

いやいや、それどころじゃない。
自分より一回り大きい身体に抱きしめられ、いつも見るだけだったきれいな黒髪が顔にかかる。
ほんの少し制汗剤の匂いがして、でも、隼人だけの匂いの方が大きくて……

自分の心臓の音がどんどん大きくなるのがわかる。
止めようとしても、勝手に暴走する。

「あ、あの、は、は、はやっと……」

逃げ出したいような、このまま包まれていたいような、もう自分がわからない。
なんとか出た声は、震えて裏返りそうだった。

「ちょっ、くるし……」

俺がうめいた瞬間、体に乗っかっていた重みがなくなる。代わりに冷房の空気が体を覆った。

「はっ、あ、ごごめん。俺何やってんだろ。いきなりごめん」

「いや、全然、全然だよ全然」

「そ、そう?」

「そう、そうそう!」

二人の間に沈黙が落ちる。焼けた肌で分かりにくいけれど、
隼人の顔は赤く染まっている。そして、きっと俺も同じだ。

「隼人」

俺は小指を差し出した。

「明日、報告待ってるからな。ちゃんと速報しろよ。
予選通過しても、だめだったとしても。
リレーだけでも、ちゃっと応援行くから。最近ハードル、調子悪いんだろ?」


「……なんで、それ……」

隼人は目を見開いて、言葉を失っている。

「さぁ。なんでだと思う?」

俺は頭が追い付いていない隼人を、にやにやとのぞき込む。

「来年があるなんて言わないからな。俺は土曜日に隼人が競技場でハードル跳んでるのをみたい。
来年じゃなくて、土曜日。だから……学校から応援してる」

うっすらと黒曜石の瞳に涙が浮かんでいる。

「俺、最近マジでタイムが伸びなくて……
結構腐りかけてたんだけど、なんか、マジでやる気出た」

「そっか」

「やっぱ雪丸すげーや」

そう言って、やっと小指を絡めてくれた。

「うん。約束。絶対予選勝ちぬく。待ってろよ!」

絡まった小指が熱い。

――がんばれ。

いつもはトランペットに乗せていた想いを、今だけは直接届ける。

たぶん。
初めて隼人を見たあの日から俺は、彼の走る理由のひとつになりたかった。