一
やわらかな日差しが差し込み、春の風がカーテンをふわりと揺らしている。視聴覚準備室は、俺――水野雪丸のお気に入りの場所だ。使われなくなった古いモニターやコード類が端に寄せられていて、空き部屋難民の吹奏楽部員ですらあまり近づかない。パート練習が始まるまで、俺はいつもここでひっそり音を出している。窓があるのも気に入っていた。校舎の端にあるこの部屋からは、第二グラウンドがよく見える。
人間観察が趣味の俺は、先週までソフトボール部の顧問を観察していた。でも今は違う。顧問のダサいTシャツなんて、もう目に入らない。
第二グラウンドの大半を牛耳るソフトボール部の群れを抜けた、西の端。五分咲きの桜が並列するバックストレートで、陸上部が種目ごとに練習をしている。二階まで届きそうな棒高跳びのポールは揺れ、砲丸投げの鈍い音が響く中、俺はいつも同じ場所を追っていた。等間隔に並んだハードルを、風に乗って燕みたいに飛んでいく背中。同級生の牧村隼人だ。俺は勝手に燕君と呼んでいる。
「今日もきれいなフォームだなぁ……」
トランペットを膝に置いたまま、窓の向こうへ目を細める。
「燕君……一台も倒してないや」
調べたらハードルの間隔は9.14メートルらしく、俺は、え、まじで?ってなった。その距離を三歩で跳ぶなんてアイツの足はいったいどうなっているんだろう。
――タッ、タッ、タッ。
跳ぶ。
目で追っていた彼の跳躍がいつの間にか指先に伝わっていた。トランペットを構えてもいないのに、彼が跳ぶたび無意識にバルブを押した。
まだ少し頼りない陽射しの朝。短かった春休みが終わり、今日からまた制服に袖を通す。ピロティに貼りだされたクラス分けの前には、科ごとに人だかりができていて、ため息や小さな悲鳴が聞こえてくる。比較的すいている二年理数科の前に立ち、俺は自分の名前を探した。
「あ、まるじゃん。おはよー。まるの席ここ。今年も席、前後だぜ」
予想通りの教室に入ると、去年も同じクラスのもっちーこと持田悠介に声をかけられた。
「もっちー、おはよ。今年もよろしく」
「おう!まじで数学ついていける気しねーんだけど。まる、テスト前に勉強会してくれよな」
まる――っていうのは俺のあだ名で、雪丸の丸からきている。まぁ、それだけの理由ではないんだけど……
「いや、だから俺、成績真ん中くらいなんだって。もっと賢いやつに教えてもらえよ」
「俺よりは賢いんだからさー。つれないこと言うなよぉ。ってかさ、わかってたけど……理系ってほぼ男だな」
もっちーは片肘をついて、窓側に目をやった。俺もつられて教室内を見るけど、あたりまえに同じ詰襟の制服を着た男がたむろしていて、セーラー服の姿はまだない。
「クラス替えっていっても、理系は二クラスしかないんだから、ほぼメンバー一緒ってわかってたじゃん」
「そうだけどさぁ。俺も普通科にすればよかった。うちの女子の制服、可愛いのになぁ。クラスでもセーラー服拝みたい。ってか、彼女ほしい!青春したい!まるも同じ気持ちだろ?」
もっちーは机に突っ伏して、俺の二の腕をつんつんしてくる。
「俺は――、とりあえず窓側行きたいな。まだ四月は廊下側寒いよね」
もっちーがじろりとこちらを睨む。
「そういうこと言ってない。冷めすぎなんだよ、まるは。でも窓側行きたいのは同意。五十音順なら、あ行が廊下側行ってほしいよな」
「俺もそう思うよ」
「え?」
ふいに視界の端が陰る。反射的に顔を上げると、俺ともっちーの間に見上げるほど大きな男が立っていた。
「うわ、牧村君じゃん。同じクラス、いえーい」
もっちーは昔からの友達みたいに、迷いなく手を上げた。もっちーの辞書には、人見知りという言葉は載っていないらしい。
「持田君、おはよ。今年は同じクラスになれたね」
「おう!理系同士仲良くやろうぜ。で、こいつなんだけど……」
「知ってる。水野雪丸君でしょ?吹部の」
「――え。なんで知ってるの?」
「めっちゃ楽器上手いって前のクラスの吹部のやつが言ってた。俺は牧村隼人。陸部でハードルやってる。一年間よろしく」
俺は、目の前に立つ男から目が離せなかった。
いつも窓越しに見ていた燕君が、今、俺の前の席に座っている。
いざ本人を前にすると、頭の中が真っ白になった。近くで見ると、思っていた以上に大きい。肩幅も、手も、脚も。窓からじゃわからなかった細かいところまで、勝手に目が追いかけてしまう。次々と情報が入ってくるその全部が、自分の「平均」から少しずつ遠くて、俺は思わず「燕君、でかっ」と、声に出してしまっていた。
「つばめ?」
「まる……なにいってんの?」
「あ、え、えーっと……」
やばい。頭の中だけで言ったつもりだったのに……二人の視線が一斉に刺さる。ごまかそうと口を開くけど、いい言い訳なんて一つも浮かばない。
俺は小さく息を吐いて、観念した。
「へえ。まるの趣味が人間観察ね。で、牧村君が観察対象だったわけだ」
「ははは。なーんだ、そう言うこと。雪丸君、おもしろいな。ってか、吹部から二グラ見えるんだ。どうだった?俺、かっこよかった?」
椅子を反対向けてこっちを向いた彼は、にやにやしながら俺に聞いてきた。
「うん……めっちゃかっこよかったよ。俺、初めて見たとき感動したもん。あんな幅を三歩で進むじゃん?しかもハードルもめっちゃ高い。それなのに、なんか、跳ぶってより跨ぐ感じで走っていくから……スゲーって思って、目が離せなくなって……」
勢いで全部しゃべってしまってから、はっと我に返る。……やばい。初対面で何言ってるんだ俺。これじゃ完全にストーカーだ。
恐る恐る隼人を見ると、両手で顔を覆ったまま耳まで真っ赤になっていた。指の隙間からちらっと目が合ったと思ったら、慌ててまた顔を隠した。
「め、めっちゃ褒めてくれんじゃん。茶化したのに、逆に照れるんだけど……」
もっちーはその様子を見てゲラゲラ笑っている。
「でも、実際会ったら想像よりでかかった!身長どんくらい?」
「百八十三センチっす……」
「まじ?牧村君、俺より二センチもでかいじゃん!今からサッカー部どう?走れる奴募集中!」
二人とも百八十超え……。きっと高校生男子平均身長の俺なんか、ちんちくりんに見えるんだろうな。
燕君ももっちーも、日焼けした首筋とか、机に置かれた大きな手とか、運動部って感じがする。途端に自分の学ランだけが薄っぺらく感じてしまう。
「そういえば、さっきから気になってたんだけど……」
「ん?」
「二人って、なんでそんな仲いいの?」
二グラを見ていた限りじゃ、サッカー部と陸上部が関わっている様子なんて一度も見たことがない。
「あー、それな。陸部って二グラじゃん?二グラって筋トレ器具がないんだよね。バーベルとかベンチプレスとか。だからウエイトトレーニングするときはメイングラウンドに行ってるんだけど、ちょうどサッカー部の部室前にあるんだよ」
「そうだったんだ」
「うん。頻繁に来るから、仲良くなっちゃった。ってかさ、牧村君って長いし隼人って呼んでいい?それか……燕?」
もっちーがにやにやしながら俺をからかってくる。
「じゃあ、俺ももっちーって呼ぼ。俺のことは、隼人でも、燕でもいいぜ?」
燕君までさわやかな笑顔でいじってきた。
「……俺も、これからは隼人って呼ぶ……」
「無理しなくてもいいのに。ってか、水野君はなんでまる?雪丸なら『まる』より『ゆき』のが自然じゃね?」
「そういえばそうだな。今更だけど、なんでまるなの?」
しまった。その質問だけは来てほしくなかった。兄貴の話になるからだ。
「あぁ――えっと……」
正直、ごまかしたかった。でも二人とも答えを待っている。
「……?」
「あ、うん……俺、兄貴いんだけど……」
「たしかまるの兄貴ってめっちゃ優秀って言ってなっかた?T大だっけ?」
「そう……」
なぜか気が進まない。とっくに劣等感なんて持たなくなってたのに、隼人の前ではなんでか……兄貴の話はしたくない。
「あいつはさ、腹立つことに勉強だけじゃなくて、なぜか人望もあって……地元では敵なしの人気者だったんだよ。腹立つことに」
「二回言った」
「二回言ったね」
「まあ、そんな兄貴が、ある日突然『お前全部平均だから通知表の丸みたいだな』って言いだして、それが広まって……それからずっとまる」
「え、兄貴ひどくね?」
隼人が眉をひそめた。
「俺に対してはクソだな。家は兄貴の絶対王政だし」
「それはわかる。俺んち姉貴二人だから……弟の俺に人権なし……」
もっちーが白目をむいている。
「はは、それな。でも言ってることは事実なんだよ。家族みんなでかいのに、俺だけ百七十ちょいで止まるし……遺伝子が途中で力尽きたらしいわ。ほんと理不尽」
言いすぎた。……なんで俺、こんなことまで話してるんだろ。兄貴の話なんて、普段は自分からしないのに。
「まる……俺まるって呼ぶのやめよう……」
「いいよ、そのままで。俺もまるで慣れてるし。あとずっと丸眼鏡ってのもでかい」
「ははは。そこもなんだ」
「そうそう」
隼人はそれ以上踏み込んでこなかった。俺は内心ほっと胸をなで下ろす。
「でもさ、普通てすごくね?」
隼人は、本当に不思議そうな顔で言った。
「だってさ、俺、どう頑張っても英語は平均取れないべ?それにハードルは跳べるけど、長距離はマジで無理。すぐバテる。シャトルランとかマジ無理」
「確かに!去年、理系合同で体力テストやった時、陸部のくせにヘボすぎって言われてたの覚えてる」
隼人は背伸びしながら「陸上っつっても、なんでもできるわけじゃないっつーの」と、悪態をついた。
「……っふ、ふふ」
思わず笑ってしまう。俺もシャトルランは毎年平均くらいだった。「マジ無理!」と悪態をつきながら体育館の床に転がる隼人がありありと浮かんで、肩が震える。
「何笑ってんの?そんなウケるとこあった?」
隼人はさらりと前髪を払って、俺をのぞき込んだ。黒曜石みたいな瞳が真っ直ぐこちらを見る。
一瞬、息をするのを忘れた。
「はい、席つけー」
教室の扉が閉まり、去年と同じ担任が教壇に立つ。ざわざわしていた教室が少しずつ静かになって、あちこちで椅子を引く音が重なった。
俺は目の前の大きな背中越しに担任を見た。
放課後、いつものようにウォーミングアップと基礎合奏が終わると、俺は視聴覚準備室に向かった。
窓から第二グラウンドを覗くと、陸上部には隼人を含めたいつものメンバーに加え、何人か一年生が混じっていた。まだ部活紹介も終わっていないのに、ずいぶんガチ勢が多いらしい。
俺はケースからトランペットを慎重に出し、マウスピースをはめた。開け放たれた窓の外では、ソフト部のキャッチボールが始まっていた。パンッ、パンッ、と乾いた音が響く。その音に重なるように、「よーい、ピッ!」という陸上部の掛け声が校舎前から聞こえてきた。
(たしか、隼人は坂ダッシュ苦手なんだよな……いつも終わったら地面に転がってる気がする)
俺はトランペットを構えて、野球の応援で何度も吹いたフレーズを口にした。
――パ―ッパパパ、パパパ、パパパ――
《アフリカンシンフォニー》
気づけば、グラウンドへ向かって吹いていた。
我ながらちょっと怖い。小さく頭を振って気持ちを切り替え、部活紹介で演奏する曲の練習を始めることにした。
「ウィリアムテル序曲からするか……」
いやいや、別に応援のための選曲じゃない。
そう自分に言い聞かせて、ふと窓の外へ目をやる。
その瞬間、隼人がこちらを見た気がした。
……気のせいか。
俺は慌てて意識を譜面へ戻し、そこに並んだおたまじゃくしへ息を吹き込んだ。



