恋――特定の相手に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは、
他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感、充足感に酔って心が高揚する一方、
破局を恐れての不安と焦燥感に駆られる心的状態。
俺は電子辞書の画面を見ながら、
こんな浮ついたことをよくここまでクソ真面目にかけるなと感心していた。
と同時に……
戸惑っている。それはもう、眼鏡を落して踏んづけてしまうくらいには……
だって、この辞書に書かれていることが自分に当てはまっているからだ。
(…………やばい)
自覚したばかりの気持ちに折り合いがつかないまま、俺は朝を迎えた。
辞書に書かれた内容が脳内でエンドレスリピートされている。
「まる!お前いつまで洗面所使ってんだよ!どけっ!」
兄貴がブチ切れるくらいに、俺は長時間鏡の前を占領していた。
「ったくどんくさいよな。眼鏡ないと生きていけんくせにバカだろ。
で、仕方なく昔不器用すぎて装着できなかったコンタクトに再挑戦するも、今だ入らずか。ウケる」
今日も今日とて毒舌全開の兄貴は、器用にコテを使って髪をセットしていく。
「ご丁寧に嫌味付きの実況ありがと」
「っとに、なんでこんな簡単なことができんのかなお前は。貸せ!俺が入れる!」
「えっ、無理無理無理!怖い!」
俺は後ずさって、兄貴から距離をとる。
けれど、「逃げんなボケ」と言われて強制的に鏡の前に縛り付けられる。
「怖いと思うから怖いんだよ。お前はここだけ引っ張っとけ」
俺は言われた通りに涙袋の下を人差し指でグッと引っ張る。
「ぅぅぅ……」
「うめくな」
兄貴は容赦なく瞼をグイッと持ち上げた。
眼球が飛び出しそうな感覚に息が詰まる。怖い、と思った瞬間。
「あ、」
兄貴の人差し指が、ほんの一瞬黒目に触れた。
鏡を見ると、右だけ視界が良好だ。
大きくも小さくもない普通の目、鼻、口が無難に配置された顔が鏡に映っている。
「えっ」
ぼけっとしている間に、左の目にもコンタクトが入った。その間二秒ほど。
「これでいけるだろ。お前、そのまま眼鏡捨てろ。前より幾分かマシに見えるぞ」
お礼を言う間もなく、引き戸がガラッとあいて、そのままの勢いで閉まった。
初めて、両目にコンタクト。
想像以上に視界が開けて、いつもと変わらない部屋が少し明るく見える。
丸眼鏡のフレームに遮られない俺の顔は、やっぱり自分で見ても冴えない。
(……隼人、気づくかな)
ふっとそんな贅沢な期待が頭をよぎり、俺はまた自ら自分の心臓のリズムを狂わせることになった。
――キーンコーンカーンコーン
廊下にチャイムが鳴り響く中、階段を一気に駆け上がる。
(やばいやばいやばい、遅刻とかありえん!)
最後の音が鳴り終わると同時に、俺は教室の扉をくぐった。
「……セーフ、か?」
「おはよ、まる。セーフセーフ!ってか、眼鏡!眼鏡どうした?」
息を切らしながら自席に座ると、もっちーが興奮気味に声をかけてきた。
「あ、あー。そう、今朝、寝起きに、眼鏡、踏んじゃって……」
急いでリュックから教科書を取り出しつつ、懸命に息を整える。
「仕方なく、慣れない、コンタクトに、苦戦してたら……こんな時間になっちゃった」
「ええー、ちょっとイメチェンがすぎん?なぁ、隼人もそう思うだろ?」
「え、あ、あぁ……うん……」
本人を目の前に、何の遠慮もなく騒ぐもっちーに対して、
隼人はなんだか煮え切らない返事だ。
(やっぱ、変だったかな?)
隼人の不自然な視線の逸らし方とキレのない返事に、
少しずつ落ち着いてきた心臓の鼓動が再び暴れだす。
「はや……っ」
「席付けー、静かにしろー」
かけようとした言葉は、担任の野太い声にかき消された。
隼人は正面を向き、その大きな背中で俺の視界を遮る。
誰もが教科書を開き始めた、ざわざわとした空間の中。
不意に、前の大きな背中がピクリと動いた。
隼人が首だけをグイッとこちらへ振り返り、変な顔で俺を覗き込んでくる。
丸眼鏡のフレーム越しではない、生身の視線が真っ直ぐにぶつかった。
「……全然普通じゃねーじゃんか、このイチゴ大福」
掠れた声でそう呟くと、逃げるように前を向いた。
(は……はぁぁぁ? イチゴ大福って何?まじでわけわからん)
意味を聞こうにも今はHR中。
担任が部活壮行会とかなんとか言っているが、今は全然耳に入ってこない。
頭の中がイチゴ大福に占領されたまま、
俺は目の前のきれいな黒髪を見つめることしかできなかった。



