甘田くんは渋澤先輩のが一口ほしい!

 近づく一方だった俺と甘田の距離感は、俺が一方的に怒りをぶつけたあの出来事により初めて遠ざかった。
 甘田は挨拶以外で俺に話しかけてこなくなった。何かと理由をつけて傍にくることもなくなった。新人戦までは短距離メインで練習をすることにしたようで、ストレッチや補強を2人でやることもなくなった。目が合うことも、滅多にない。
「甘田、そのスポドリどこで買ったやつ?」
 補強の最中に長谷部の声が聞こえてきて、俺は気付かれないように視線を動かした。
「朝、コンビニで」
「見たことないな。新商品?」
「期間限定だったと思います」
「へー、一口飲ませてよ」
 長谷部が、甘田の持つペットボトルに手を伸ばした。甘田はわかりやすく迷惑そうな顔をした。
「いや、あげませんけど」
「何でだよ、一口くらいいーじゃん」
「気になるなら自分で買ってください」
「冷てぇー」
 長谷部が俺に話しかけてきたのは、練習が終わって競技場を出たときのことだった。
「渋澤、途中まで帰ろうぜ」
「……いいけど」
 長谷部は足を速めて俺の横に並ぶ。夕焼けが眩しかった。見慣れているはずの競技場のスタンドがやけに大きく見える。小人にでもなった気分だ。歩いているはずなのに少しも前に進んでいる気がしない。
「渋澤さ。週末の記録会、何出んの?」
「高跳び」
「だけ?」
「……うん。調子よくないから」
「ふーん」
 長谷部は軽い調子で相槌を打った。
 翔琉先輩にはああ言われたが、俺は高跳びを止めていなかった。性懲りもなくしがみついている。だって俺には他に何もないから。足も速くなければ器用でもない。高跳びがなくなったら本当に何もなくなってしまう。
「なー、渋澤。最近、甘田と何かあった?」
 遠慮がちに尋ねられ、心臓が嫌な音を立てた。
「……何で」
「や、さっき甘田と話してて思ったんだけど。最近、あれ聞いてないなと思って」
「あれって?」
「『渋澤先輩、一口ちょーだい』っての」
 図星だったので何も言えなかった。俺が足を止めると、長谷部も一緒に足を止める。
「2人で解決できる話なら口出しもしないんだけどさ。甘田、スパイクまで買ったのに高跳びやめちまうし、ちょっと深刻なのかなと」
「ん……」
「俺にできることあるなら協力するけど。何か、ある?」
 ……そんなの俺が聞きたい。長谷部に協力してもらって解決する話ならとっくに話している。
 でも話したって何も解決しない。だって俺が前に進めていないからだ。甘田を遠ざけたのに不調は続いている。身勝手な言い分を押しつけて傷つけた、後悔は日増しに大きくなっていく。
 黙って立ち尽くしていると、声が届くかどうかというところを甘田と秋保が通り過ぎて行った。微かな会話が聞こえてくる。
「最近ね、早起きしてランニングしてるんだ」
「わざわざ? 競技場で走ればいいじゃん」
「遅いから恥ずかしくて」
「誰も気にしないでしょ」
 会話の途中で甘田がこっちを見た。視線が絡んだのはほんの一瞬のことだった。すいと視線を戻して何事もなかったかのように歩いて行ってしまう。遠いな、もう走っても追いつけなさそうだ。そんなことあるはずないのに。
 俺が甘田の背中を見つめていると、横で長谷部が叫んだ。
「ほらぁー! 話したいことあるなら追いかけろよ!」
「……別にねぇよ」
「絶対あるだろ! 最近の甘田、ピリピリしてて絡みにくいしさぁー……頼むから元に戻ってくれよ……」
 元に戻れってどこまで戻ればいいんだよ。どこまで戻ったってもう元通りになんてなれないだろ。前に進むしかないんだよ、俺たちは。……でもどうやって? 何もなかったふりをして話しかければいいのだろうか。八つ当たりしてごめん、と謝ればいいのだろうか。どっちも間違いではないはずなのに、それだけでは足りない気がしてならなかった。
 一緒に帰る約束はしていなかったようで、甘田と秋保は駐輪場で別れた。黒いスポーツリュックを背負った甘田の背中はみるみるうちに遠ざかっていく。以前は俺の傍で止まってくれた。ちょっとしゃべっていこうかな、なんて屈託のない笑顔を浮かべ、俺の横に腰を下ろした。あの日々はもう帰ってこないのだろうか。
 日増しに大きくなる後悔に押し潰されてしまいそうだった。

 7月中旬。夏休み前の最後の記録会だった。
 数日間の曇天が嘘のようにその日はよく晴れていた。雲一つない空を見上げ、少し曇ってくんねぇかな、なんて贅沢なことを考えてしまう。どんなときでも晴れの日が嬉しいわけじゃない。少なくとも今の俺には、澄み渡る空はまぶしすぎた。
 記録会のために開放されたサブトラックで、一人でウォーミングアップをした。記録会用に編集した音楽を聴きながら身体を温める。調子はよくない、でも長年のルーティンのおかげで自然と身体は動いた。
 ふと、外周を走る集団が目に留まった。緑栄高校の短距離チームだ。談笑しながらウォーミングアップをしている。集団の真ん中で、頭一つ飛びぬけているのは甘田だ。柔らかそうな栗毛が、足取りに合わせてぴょこぴょこと揺れている。
 ……あいつ、やっぱり目立つな。
 こうやって一方的に甘田を見つけることが増えた気がする。前は目が合ったのにな。
 ウォーミングアップを済ませ、選手の招集所に向かった。顔見知りの選手たちに軽く挨拶をし、全員で高跳びのフィールドへと向かう。トラックでは4×100ⅿリレーの予選会が行われていたが、フィールドの中は別世界のように静かだった。今日は心も静かだ。今日だけではない、甘田を突き放した日からずっと。自分で望んだことのはずだった。でもそれが正しいことだとは思えなかった。
 調子は、練習のときほどではないが相変わらず悪かった。175㎝と180㎝を2本目で跳び、183㎝は3本目でかろうじて跳んだ。調子がいいときならアップ代わりにもならない高さだ。悩んだ末、186㎝はパスすることにした。バーが上がる。次は189㎝――今期は一度も跳べていない高さだ。
「渋澤、一本!」
 スタンドから長谷部の声が聞こえた。ユニフォームを着ているから、競技が終わった通りすがりに声をかけてくれたのだろう。
 ……甘田はいねぇのかな。探したのは無意識だった。長谷部の周囲にはおらず、スタンドのどこを見ても姿は見当たらない。競技を控えて招集場にいるのかもしれないし、別の選手の競技を見ているのかもしれない。仮に時間が空いていたとしても、あれだけ強く突き放したのだから見にくる理由もないだろう。
「勝手だなー……俺」
 見られたら跳べないくせに見てほしいと思うなんて。隣にいられたら落ち着かないくせに隣にいてほしいと思うなんて。身勝手に突き放したくせに離れていることが嫌だなんて。こんなのまるで――甘田のことが大好きみたいじゃないか。
「……あれ?」
 俺、何を考えた? 数秒前に自分が考えたことを思い出すまでに途方もない時間がかかった。誰が誰のことを好きだって? 俺が甘田を? 大好き? 何度も何度も頭の中で繰り返した。自分でもびっくりするくらいストンと胸に落ちた。男同士だとか、喧嘩中だとか、そんなことはもうどうでも良かった。
 そっか、俺、甘田のことが好きだったんだ。だからあんなに心が落ち着かなかったんだ。甘田の視線を、言葉を、素直に受け止められず勝手にこんがらがっていた。認めてしまえば、自分の行動と感情がようやく一本の線で繋がった。
「……会いてぇな」
 甘田に会って話したい。きちんと顔を見て謝りたい。話して、謝って、それで。
「――189㎝、1回目」
 審判の声で我に返った。ゼッケン番号を呼ばれてスタート位置に立つと、広いフィールドが自分一人のものになったみたいだった。気持ちいいな。忘れてた、俺はこの景色が好きだったんだ。
 深呼吸をして助走を始めた。タン、タンとリズムを刻んで徐々に早く強く。カーブを曲がりながらマットの向こう側を見た。甘田はいない、いるはずもない。強く地面を蹴った。糸に引かれたように身体が浮く。越えたと思ったが太ももの後ろがバーに触れた。カラカラと音を立てて地面に落ちる。
「惜しかったな」
 選手席に戻ると、顔見知りの選手が声をかけてくれた。
「越えた気がしたんだけどな」
「見ててもそう思ったよ。さっきと跳び方が全然違った」
「そう?」
「別人みたいだった。どんな裏技?」
「うーん、素直になること?」
「なんだそれ」
 2本目も、身体は越えたが足をうまく抜けなかった。バーに触れたスパイクのかかとを撫でる。残された跳躍はあと1本。不思議と焦りはなかった。早く跳びたい、もっと跳びたい。不調が嘘のように高揚した。
「渋澤、集中だよー!」
 筒美の声だった。何気なく見ると、筒美と秋保が並んでスタンドに立っていた。
 ……いや、何か後ろにもう1人いるな。
 小柄な筒美と秋保の後ろに、背の高い男が身を屈めていた。頭にはタオルをかぶっているが、隠しきれない栗毛がそよ風に揺れている。あれは……隠れてるつもりなのか?
「ふっ……」
 助走前だということを忘れて噴き出した。やっぱりお前も俺のこと見てるじゃん。わかるよ、見ないとか無理だよな。だって好きなんだから。
「……見てろよ」
 もう一度、魅せてやるから。
 短く息を吐くと背すじが伸びた。周囲の音が消える。空に響く雷管の音も、誰かが誰かを応援するか声も聞こえない。この世界に一人きりになった気分。でも一人じゃないことはわかってた。見ていてくれる人がいるから。
 初めの一歩を刻む。リズムをあげてカーブを曲がる。視界の真ん中に甘田がいた。いや、隠れるなら最後まで隠れてろよ。丸見えだぞ。
 息を止めて地面を蹴った。羽が生えたみたいに身体が浮いた。背中がマットに沈んでもバーの落下音は聞こえなかった。

「渋澤ぁー! ついにやったなお前ぇー!」
「自己ベストおめでとう!」
 競技を終えた俺は長谷部と筒美にもみくちゃにされていた。少し離れたところに秋保の姿もあるが、輪につっこんでくる勇気はないらしい。
「186㎝パスしたときは馬鹿かこいつと思ったわー! 189㎝2回失敗したときはもう終わりだと思ったし!」
「馬鹿で悪かったな」
「あそこから192㎝と195㎝一発クリアは想像しなかったよ! 渋澤すごい! お祝いにあとでエネルギーゼリーをあげよう!」
「それ全員に配ってるやつだろ」
 長谷部と筒美が尋常じゃなく喜んでくれるので、俺は冷静でいることができた。でも心の中ではそれこそもう跳び上がるくらい嬉しかった。半年振りの自己ベスト、それも文句無しの一発クリアだ。
「なー、秋保。甘田どこ?」
 長谷部に頭をわしゃわしゃにされながら、尋ねた。
「えっと……記録掲示板を見に行ったんだと思いますけど」
「ふーん」
「……何か伝えますか? その、喧嘩したんですよね……?」
 知ってたのか。まぁ甘田を見てれば普通は気付くか。明らかにおかしかったもんな、俺たち。
「や、ちゃんと自分で言うわ」
「何をですか?」
 馬鹿みたいに澄み渡った空を見上げ、少し考えた。
「……すごく大事なこと」
 3人に別れを告げて、俺は記録掲示板の付近に足を向けた。そこに甘田の姿はなかったが、人気のないスタンド裏に座り込んでいるのを見つけた。筒美から受け取った物だろうか、手にはエネルギーゼリーを持っている。
「甘田」
 名前を呼ぶと、甘田は軽く頭を下げた。
「お疲れさまです」
「100mどうだった?」
「追い風参考でした」
「まじ? そんなに風あったっけ今日」
「俺のときだけ吹いてたみたいで」
 そこで一度、会話が途切れる。甘田の口調は自然だが、目線は地面に向けられたままだった。そりゃそうだよな、ちゃんと言わなきゃわかんないよな。一歩、甘田の方に近づいてみる。
「この間の、ごめんな」
「別に……俺も無神経でしたし」
「あのさ。俺、今日半年ぶりに自己ベスト出たんだけど」
「……みたいですね」
「あのときさ。甘田が一番近くで見ててくれたら良かったのにって思ったよ」
 人気のないスタンド裏に俺の声が響いた。甘田は初めて顔を上げた。視線が交わる。こうして真正面から顔を見るのはいつ以来だろう。
「今日の俺さ。結構、かっこよかっただろ」
 自分で言うのも恥ずかしかったが、わざと胸を張って言った。甘田はたじろいだ顔をした。
「……凄くかっこよかったですけど!」
 お、認めた。
「何で突き放した後に惚れ直させるようなことするんだろうな、って憎らしくなりましたけど!」
「……ふ」
 笑いが零れた。良かった、ちゃんと惚れ直してくれたんだ。だってあの跳躍は甘田に見せたかったんだから。お前を魅せるために跳んだんだよ。
 悩んでいたことが嘘みたいに心が軽かった。今ならどんなところへも跳んでいける気がした。今日、今まで越えることができなかった高さを軽々と跳び越えることができたみたいに。
「それ、一口ちょうだい」
 甘田が持っているエネルギーゼリーを指差した。甘田は不思議そうな顔をした。
「これ、全員分あったと思いますけど」
「今、飲みてぇんだよ」
「……どうぞ?」
 甘田はよくわからないという表情でエネルギーゼリーを差し出した。
 俺は甘田に駆け寄った。差し出されたゼリーを受け取るふりをしてTシャツの胸元を掴んだ。そして――
 目を丸くする甘田の唇に、思いっきり自分の唇を押しつけてやった。

 終