甘田くんは渋澤先輩のが一口ほしい!

 連日30度を越える猛暑日が続いていた。太陽は出ているが空には分厚い雲が浮いており、湿気を孕んだ空気が立ち込めている。運が悪ければ夕立に見舞われるかもしれない。
「渋澤先輩、今日はマット出します?」
 ジョギングの最中に甘田が尋ねてきた。
「うん、出す」
「アップ終わったら?」
「んー、スタブロまで短距離に混じろうかな」
「じゃあ俺もご一緒しよっと」
 気温が高いためか、今日のジョギングはいつもよりスローペースだ。周囲の部員たちも走りながら雑談に興じている。
 芝生のでこぼこを避けると、甘田と肩がぶつかった。
「悪い」
 何気なく目線を上げた瞬間、甘田と目があった。慌てて目を反らすが視線が肌に残る。落ち着かない。くそぅ……油断した。
 一緒に出かけてからというもの、俺と甘田の距離はよりいっそう近づいた。近づいたといってもそれは他人にはわからないところだ。ふとした瞬間に目が合う回数が増えただとか。話をするときの距離が半歩分近づいただとか。でも俺はそのちょっとした変化に見事に心を揺さぶられている。今みたいに。
 グラウンドに予想外の来訪者がやってきたのは、ウォーミングアップが終わったときのことだった。ランニングシューズをスパイクに履き替えていた俺は、その来訪者の顔を見て叫んでしまった。
翔琉(かける)先輩!」
「よ、巧美。久しぶり」
 朗らかに右手をあげる人物の名前は萱口(かやぐち)翔琉(かける)――緑栄高校陸上部のOBであり、俺の憧れの大先輩だ。俺はスパイクを履くことも忘れて駆け寄った。
「今日はどうしたんですか?」
「でかい大会が終わったから、コーチに挨拶に」
「ベスト、出ました?」
 期待を込めて尋ねると、翔琉先輩は笑いながら首を横に振った。
「高跳びは出てねぇわ。ハードルで0.2秒更新したけど」
「えっ、ハードルも始めたんですか?」
「まぁな。巧美は、相変わらず高跳び1本でやってんの?」
「メインはそうですね。100mとかたまに出たりしますけど」
「ふーん、じゃあ今日も見てやるよ」
 翔琉先輩に肩を叩かれ、俺はガッツポーズをした。スタブロまで短距離に混じるつもりだった予定を変更し、さっそく準備に取りかかる。支柱とバーを出すためにスタンドの裏手にある倉庫へ向かうと、後ろから甘田がくっついてきた。
「さっきの誰ですか?」
 尋ねられ、俺は早口で答えた。
「萱口翔琉先輩、大学で陸上やってて国体とかインカレの常連なんだ。すげぇ人だよ」
「……すごく仲良さそうでしたけど」
「小学の頃からずっと一緒だから。俺が小3でクラブに入ったときの6年でさ、翔琉先輩に誘われて高跳び始めたんだよ、俺」
「へー……」
 抑揚のない甘田の声を聞きながら、倉庫の鍵を開ける。窓のない倉庫の中はたくさんの道具でごちゃついていた。壁のスイッチに触れると、古びた蛍光灯がちかちかと点灯する。
「せっかくだし甘田も見てもらったらいーよ。全国レベルの選手からアドバイス貰える機会なんてそうないぜ」
 甘田は答えなかった。気にもせずに支柱を外に出そうとすると、立っていた甘田と肩がぶつかった。
「わり、ちょっとどけて」
「……名前で呼び合ってるんですね」
「ん?」
「あの萱口って先輩と、名前で呼び合ってるんですね」
 甘田の声は落ち着いていたが、背中がぴりっとした。
「……小学生の頃から知り合いなら普通そうだろ」
「ふーん……」
 甘田は低い声で相槌を打ったっきり黙ってしまった。……何か機嫌、悪い? 背中にひりひりしたものを感じながら倉庫を出る。翔琉先輩を待たせるもの申し訳ないから。
 準備を終えて足慣らしをしていると翔琉先輩がやってきた。翔琉先輩は、スパイクの紐を結ぶ甘田を見て嬉しそうな声を出した。
「あれ、高跳び増えてんじゃん。1年生?」
「……甘田です」
 いや、声ちっさいな。翔琉先輩困ってるじゃねぇか。
「えーと……釜田?」
「甘田です」
「あ、甘田くんね。ずっと高跳びやってんの?」
「最近、始めました」
「へー、いいね。背ぇ高そうだけどなんぼ?」
「……182㎝です」
「お、有望じゃん」
「どうも」
 ……おーい、いつもの愛想はどこいったんだ。咎めようかとも思ったが、本格的に機嫌が悪そうな甘田の横顔を見てやめた。こいつもこんな顔をすることがあるんだな、と珍しいものを見た気持ちになってしまう。
 バーをセットし、先に甘田が跳ぶことになった。助走、踏み切り、着地。甘田の跳躍をバーのそばで眺めていた翔琉先輩は、感心した声を出した。
「うまいじゃん。ほんとに初心者? 何かスポーツやってた?」
「中学の頃はテニス部でした」
「テニスかぁ、身体の使い方がうまいのかな。ちょっと助走伸ばしてみようか」
 甘田と翔琉先輩が話すところを、俺は少し離れたところから眺めていた。翔琉先輩がアドバイスをすると、甘田の跳躍は目に見えてよくなる。もともと運動のセンスはある奴だし、翔琉先輩は教えるのがうまいから。
 ……楽しそうだな。甘田と翔琉先輩がはてしなく遠くに立っているように見えた。そりゃ教えたことをどんどん飲み込んでくれる生徒がいたら、翔琉先輩だって楽しいに決まってる。俺はあんまり器用な方じゃないし、記録だって伸び悩んでるから。翔琉先輩が笑顔で甘田の肩を叩く。取り残されたような気持ちだった。翔琉先輩も横は俺の居場所だったはずなんだけどなぁ。
「巧美は、なんぼから跳ぶ?」
 翔琉先輩に尋ねられて我に返った。
「あ……っと、180㎝からで」
「ベストなんぼだっけ?」
「1年のときに192㎝出してます」
「今季は?」
 さりげなく視線を落とす。
「……まだ186㎝、ですね」
「ふーん」
 翔琉先輩がこれといったコメントをしなかったので、俺は助走のスタート地点に立った。ふっ、と短く息を吐く。
 バーを見据え、1歩目を踏み出した。タン、タンとリズムを刻み、スピードを上げてカーブに入る。いける――そう思った瞬間、視界の端で甘田が動いた。マットの横に立ち、まっすぐに俺を見ていた。途端にリズムが乱れた。踏み切ることができずに、浮き上がりきれなかった身体がバーに触れた。
「あっ――」
 無機質な音を立ててバーが地面に落ちる。背中からマットに沈み込みながら俺は目を閉じた。まただ、また跳べなかった。甘田に見られるといつもこうだ。身体が思うように動かなくなる。
 のろのろと起き上がりながらマットの向こう側を見た。翔琉先輩は何も言わず、ただ腕を組んで立っていた。何を考えているのかはわからない。それが余計に怖かった。情けない跳躍なんて見せたくなかった。少しでも成長した姿を見せたかったのに。
「……もう一度、跳ばせてください」
 同じ高さを何度か跳んだ。助走の速さを変えてみたり、踏み切り位置をずらしてみたり、思いつくことは何でもした。でもダメだった。一度もバーを越えることができず、繰り返すたびに心がぐちゃぐちゃになる。助走の仕方も、踏み切りの感覚も、何をどうしていたのかわからなくなる。自分の身体が自分のものじゃないみたいだ。このままじゃ翔琉先輩に呆れられてしまう――最後には踏み切ることもできなくなってしまった。
「あー……巧美。もうやめとこうぜ」
 翔琉先輩に止められ、俺は中途半端なところで助走を止めた。膝が震えている。がむしゃらに跳んだ疲労だけではない。
「……すみません。俺、最近調子よくなくて」
「みたいだな」
 翔琉先輩は悩まし気に唸る。
「んー……ちょっとここまで酷いとどうすればいいかわかんねぇな……。どこかが悪いっていうより全部が噛み合ってない感じ」
「……」
「高跳び以外の種目もやってみれば? 今のお前、跳ぶのが苦しそうだ」
「え……」
 ……高跳びやめろってこと?
 目の前が真っ暗になった。高跳びが好きで、ずっとこれ一本でやってきたのに。いつか翔琉先輩みたいになりたいなって、ずっと憧れてたのに。今の俺には翔琉先輩に憧れる資格も、高跳びを続ける資格もないってこと? 暗闇の中に放り出されたような心地だった。掴むものを見つけられないままどこまでも落ちていく。
 翔琉先輩がその後も何か言っていた。でも俺には何も聞こえなかった。翔琉先輩の言葉だけがうるさい鐘のように頭の中に響き渡っていた。
「いい人でしたね、萱口先輩」
 スパイクを靴袋にしまいながら甘田が言った。翔琉先輩からたくさんのアドバイスを貰ったおかげで、甘田の跳躍は今日一日で見違えるほど上達した。
「……すごい人だって言ったろ」
 かろうじてそれだけを返した。目線を上げなかったことが甘田の気にかかったようだ。
「渋澤先輩、何か怒ってます?」
「別に」
「嘘。機嫌、悪いじゃないですか。こっち向いてよ」
 肩を掴まれ、強引に向きを変えられた。甘田の顔が視界の真ん中にあった。胡桃色の瞳が気遣うように俺を見ている。
 ――何だよその顔、憐れむみたいに俺を見るんじゃねぇよ。ぷつり、と何かが切れた。自分でも抑えられない感情が込み上げ、考えるよりも先に叫んでいた。
「っるっせーな! 誰のせいで俺がスランプになったと思ってんだよ!」
 スパイクが入った靴袋を力任せに投げつけた。甘田の戸惑った表情などどうでもよかった。身体の内側が煮えたぎっている。吐き出さないとおかしくなってしまいそうだ。
「自分は褒められからって調子に乗ってんじゃねぇ! お前が変なことばっかするからめちゃくちゃなんだよ、俺は!」
 お前が好きだなんて言うから、お前が手なんて握るから、お前がキスなんてするから。全部、お前のせいだ。お前が強引に入ってきたんじゃねぇか。ほんとなら翔琉先輩に褒められて、アドバイスされてるのは俺のはずだったのに。――高跳びやめろ、なんて言われなかったのに。
 八つ当たりだ、こんなの。わかってるのに止められなかった。
「お前がいると跳べねぇんだよ……頼むから出てってくれ、俺の世界(フィールド)から」
 最後の方は声が掠れた。言ってしまったと後悔する気持ちと、言いたいことを言ってやったという優越感がきっかり半分ずつ混じり合っていた。
 甘田は黙って俺を見つめていた。投げつけられた靴袋を地面に置き、唇を引き結んで視線を伏せた。そして何も言わずに俺の傍を立ち去った。
 他のグループに混じっていく甘田の背中を見ると、自分で望んだはずなのに置き去りにされたような気持ちでいっぱいになった。