日曜日は気持ちのいい夏日だった。昨日までの猛暑が嘘のように暑さは和らぎ、青空の下を跳ね回りたくなってしまう。予想よりも気温が低かったせいで、服を選ぶのにいつもの何倍もの時間がかかってしまった。
俺が集合場所である北原駅前の広場につくと、そこにはすでに甘田の姿があった。真っ白なTシャツに踝丈のズボンを合わせている。モデルみてぇ。
すぐに声をかけようかと思ったが、ふと思い立って足を止める。甘田はまだ俺に気づいていない。遠巻きに横顔を観察していると、甘田にしては珍しくそわそわと落ち着きがなかった。前髪に触ってみたり、服のすそを伸ばしてみたり。
……緊張してやんの。よくできた舞台の裏側を見た気持ちになり、笑みが零れた。早足で近づき、右手をあげて挨拶をする。
「おはよー」
甘田は落ち着きのない様子から一転して笑顔になった。
「渋澤先輩、おはようございます!」
「待った?」
「待ちました! 1時間前に着いちゃったんで」
……さすがに冗談だよな?
10分ほど歩いて目的地についた。地域一番の品揃えを謳うゴルスポは、商業ビルのワンフロアに堂々と店を構えている。自動ドアをくぐるとスポーツ用品店特有のゴムの匂いが肺に流れ込んでくる。
「何、買いてぇの?」
まだ人気の少ない店内を眺めながら尋ねた。
「ショータイとTシャツを1枚ずつ。あと夏に向けて買っておいた方がいい物ってあります」
「日焼け止めはないと肌が死ぬ。あとはアイシング用の氷嚢とか、一つ持ってると便利だけど」
「なるほど」
「あ、高跳び用のスパイクは? 短距離用で跳ぶと足ぶっ壊すよ」
甘田は手を打った。
「そう、スパイク買っとけってコーチに言われたんです。アドバイス貰えますか?」
「アドバイスするほど種類ないと思うけど……ま、いーや。順番に見ようぜ」
陸上用品の売り場は出入り口から最も遠いところだった。陳列棚には鮮やかな色合いの運動着が、そして壁面にはランニングシューズとスパイクが所狭しと並べられている。
「高跳び用のスパイクは……2種類しかないですね」
高いところに陳列された高跳び用スパイクを見上げながら、甘田は残念そうに言った。
「マイナー競技だからな。甘田、足のサイズは?」
「28㎝です」
「でかっ」
「渋澤先輩は25㎝ですよね?」
……何で知ってるんだ。何度目だよ、これ。慣れてしまっためか動揺は少なく、すぐに聞き返す。
「甘田って親もでかいの?」
「父親が大きいです。母親は普通ですけど」
「きょうだいは?」
「妹がいますけど、そこまで大きくないですよ。平均よりちょっと高いくらい」
「ふーん」
甘田って妹いるんだ。人懐こいから末っ子かと思ってた。年の離れた姉ちゃんの尻に敷かれてそう。
どうやら顔に出てしまっていたらしく、甘田は探るように目を細めた。
「渋澤先輩……何、考えてます?」
「えっ……いや、甘田は下の子っぽいよなーって」
「そうですか? 何で?」
「年上に懐くのが上手だから」
思ったままのことを深く考えず口にすると、甘田は悪戯な表情で笑った。
「俺、上手なんだ」
「……上手じゃん。何だよ、その顔」
「そっかそっか、上手かぁ」
甘田は俺を見下ろしてにんまりと笑っている。何だかとても恥ずかしいことを言ってしまった気がして、俺は甘田に肩をぶつけた。
「調子にのんなっ」
「のってないです。巻い上がってるだけ」
「同じだわ!」
ああ、もう。またしてやられてる。でもいつもと違って一方的に振り回されてる気分にはならなかった。むしろ楽しいくらい……何でだ?
「あれ、渋澤と甘田だ」
思考を遮るように名前を呼ばれた。振り返るとマネージャーの筒美が立っていた。そして筒美の隣で可愛らしいワンピースに身を包んでいるのは――秋保だ。……まじか。楽しかった気持ちが穴を空けられたように萎んでいく。
「……おっす、偶然だな」
筒美は、俺の変化に気付くこともなく会話を続ける。
「ほんとにね。2人で買い物?」
「甘田が高跳び用のスパイク欲しいらしくて」
「ああ。甘田、高跳びにしたんだってね。コーチから聞いたよ」
「筒美先輩も買い物ですか?」
尋ねたのは甘田だった。
「そう、コーチに頼まれて、テーピング用のテープとかプロテインとか色々」
「へー、大変ですね」
甘田と筒美の会話を聞きながら、秋保の方を盗み見た。大きなリボンのついた鞄を胸の前に抱き、甘田の顔を見て固まってしまっている。……わかりやす。
「渋澤、ちょっとこっちきて」
突然、筒美に腕を引っ張られた。
「何?」
「プロテイン選んでよ。あたし、よくわかんなくてさ」
「俺もよくわかんねぇよ」
「いいから来てって!」
ぐいぐいと強引に腕を引っ張られる。遠ざかっていく甘田と秋保の姿を見ると、みぞおちのあたりが鈍く痛んだ。
「何なんだよ!」
プロテインの陳列棚のそばで、俺はようやく文句を言った。
「ね、渋澤。凛々のために協力してよ」
「は?」
「このあと4人でカラオケ行こうって誘うからさ、のってきてよ。凛々、甘田と行きたがってたんだ」
あー……なるほどね。そういうこと。
「凛々、歌うまいんだよ。2人で歌わせてあげたらイイ感じになると思うんだよね。だから協力して! お願い!」
筒美は顔の前で両手を合わせた。承諾しようとしたが、舌が上顎に張りついてしまって声が出なかった。
わずかな時間に色々なことを想像してしまった。甘田が秋保に笑いかけている姿だとか、薄暗闇の中で顔を近づけて話しているところだとか、仲良く並んでマイクを持っている姿だとか。それって……それってさ、どうなの。
「ごめん、無理」
思いがけず大きな声が出た。筒美は食い下がった。
「そんなこと言わないでお願い。カラオケ代、おごるからさ」
「いくら頼まれても無理。俺、今日は甘田と2人で買い物に来たんだわ。甘田を誘いたいなら好きにすればいいけど、俺は協力しない。行きたくねぇし」
「……そっか」
筒美は視線を伏せたが、すぐにいつもの明るい顔に戻った。
「変なこと言ってごめん! 忘れて!」
筒美はプロテインを3袋かごに入れ、来た道を戻っていく。悪いことしたかな、でも行きたくないのはほんとだしな。少し距離を置いてついていくと、シューズ棚の前に秋保と甘田の背中が並んでいた。
「わ、私も少し走ってみようかなと思ってて」
「いいんじゃない? 記録会とか出てみれば」
「そこまでなれるかなぁ……甘田くんは高跳びだけにするの?」
「や、普通に短距離もやる。長谷部先輩にハードルもやってみればとか言われてて」
「甘田くんならできるよ、きっと……!」
筒美がまた俺の腕を引っ張った。わかってるよ、邪魔するなって言いたいんだろ。でも俺は筒美の手を振り払い、空気を読まずに声をかけた。
「甘田、スパイク履いてみなよ」
「あ、渋澤先輩。プロテインいいのありました?」
「まーね」
甘田の横では、秋保が取り残されたような表情を浮かべていた。……ごめんな、でも今日はダメ。秋保の表情を見ないようにして在庫棚のそばにしゃがみこむ。頭上から甘田の声が聞こえた。
「じゃ、また部活で」
「うん……またね」
秋保は何度も振り返りながら別のコーナーへと歩いていく。何を考えているかは手に取るようにわかったが、俺は知らないふりをしてスパイクを探した。秋保に悪いと思う気持ちはあった。でもそれ以上にほっとしている自分がいた。
買い物が終わると11時半を回っていた。
甘田が探してくれた飲食店は、雑誌などでも有名な本格ハンバーガー店だった。西部劇風店内には肉を焼くいい匂いが充満し、カウボーイハットを被った店員たちが忙しそうにハンバーガーを運んでいる。開店直後だというのに、店内は多くの客で賑わっていた。
「渋澤先輩、何にします?」
「何が美味いの?」
「チーズバーガーが有名らしいですよ。有名人も食べにきたことがあるって」
「じゃあそれにしようかな……」
注文列の真ん中から、注文カウンターの真上に掲げられたメニュー表を見上げた。ベーコンエッグ、アボガド、テリヤキ、どれも美味そうだが初めての店ではお勧めを食べるに限る。
「俺はテリヤキバーガーにしようかな……あ、セットがありますね」
「ほんとだ。飲み物つくじゃん」
「コーラですか?」
「ハンバーガーといえばコーラだろ」
店内が満席だったので、テイクアウトにして外で食べることにした。北原駅から徒歩で10分ほどのところには、北原川の河川敷がある。
なだらかな河川敷に並んで腰を下ろすと、気持ちのいい夏の風が吹き抜けていった。長く伸びた芝生が膝にあたってくすぐったい。手を伸ばせば届くところでコオロギの鳴く声がする。小学校の遠足みたいだな。
「渋澤先輩、どうぞ」
「ん、さんきゅ」
包み紙を剥いでかぶりつくと、口の中に肉汁が溢れ出した。
「うまっ」
ファストフード店の安いハンバーガーとは別の食べ物みたいだ。夢中で食べていると、横顔に甘田の視線を感じた。
「渋澤先輩の美味しそうですね……」
「……」
「一口ちょーだい?」
ぶれねぇなお前。いつもなら断るところだが、甘田のテリヤキバーガーも魅力的だ。一口ずつ交換するのも悪くない。
「ん、一口な」
紙包みを差し出した。甘田は一瞬だけ驚いた顔をして、それから俺の手ごと包み紙を握った。甘田の顔が近づいてくる。薄く開かれた唇が目に入った。
「あ――」
心臓が大きく脈打ち、反射的に目を瞑ってしまった。ハンバーガーをかじる振動が手に伝わってくる。少し時間が経ってから、俺はとてつもなく恥ずかしいことをしてしまったと気がついた。
やばい、どうしよう。これじゃまるで期待してたみたいじゃん。
「……俺、ひょっとしてミスりました?」
「ミ、ミミ、ミスって何のことだよ」
「キスの方を期待されたのかと」
「はぁ!? 砂が目に入っただけだわ!」
「風もないのに」
「うるせぇー!」
恥ずかしすぎて涙まで出てきてしまった。甘田から顔を背け、勢いよくハンバーガーをかじる。ああもう、味がわかんねぇよ。
「渋澤先輩」
「何!」
「ちょっとこっち向いて?」
「向かねぇ!」
「キスしたい」
「俺はしたくないっ!」
「顔を見てから考えてよ」
むぎゅ、と頬を挟まれた。強引に甘田の方を向かせられる。人懐こい胡桃型の瞳と、形のいい唇が目の前にあった。その気になればすぐにキスできる距離だ。
全身の血液が沸騰したみたいだった。甘田の顔を直視することができなくて、俺はハンバーガーを持ってない方の手で自分の顔を覆った。
「何なんだよもぉ……俺をからかって楽しいのかよ……」
泣いているわけではないのに声が震えた。甘田はきょとんとした声を出した。
「俺、渋澤先輩をからかったことなんてないですけど」
「からかってるだろ! 現在進行形で!」
「えー」
甘田の手が離れていく。ほっとしたのは束の間のことで、次の瞬間には手を握られていた。指先が絡まる。少し汗ばんだ肌の感触、流れ込んでくる体温。ただそれだけのことで呼吸の仕方を忘れた。
「何でからかってると思うんですか?」
甘田の声は責めているような調子ではないが、だからといってごまかせる雰囲気でもなかった。
「何でって……本気だと思えって方が無理だろ……初めて会ったときからずっとそんな感じじゃん」
「一目惚れですけど」
「嘘つけ! 一目惚れされる要素がねぇんだよ!」
一目惚れなんてものは、甘田とか秋保とか見た目のいい奴にだけ縁のある言葉だ。俺には関係ない。甘田が「うーん」と悩ましげに唸る声を聞きながら、芝生を掴むように指先を動かした。放してくんねぇかな。別に繋がなくたって話せるじゃん。でも振り払う気にはなれなかった。
「誰にも言わないつもりだったんですけどね。俺、中受で失敗してるんですよ」
声のトーンを落とし、甘田は切り出した。
「中受? 中学受験?」
「そう。頑張ったけどダメで、地元の公立中学に進学したんです。親に責められるとかはなかったんですけど、失敗がトラウマで努力するのが怖くなっちゃって」
甘田はそこで言葉を区切る。絡まった指先に力がこもる。
「全力で努力したのに届かないって怖くないですか? お前の努力は無意味だったんだって否定されてるみたいで」
「あー……うん。わかる気はする」
「そんなことがあって、中学では適当にやってたんですよ。テニス部に入ってはいたけど友達作りくらいの気分だったし、勉強も……下地があるから成績は良かったですけどそれだけだったし」
行く末のわからない話に耳を澄ませた。ハンバーガー冷めちまうな、なんて場違いなことを考えながら。
「でね、中三の夏に北原運動公園でテニスの大会があったんですよ。2回戦で負けて公園内をぶらぶらしてたら、陸上の記録会やってるのを見つけて――渋澤先輩が跳んでたんです」
「……え?」
北原運動公園は市内で一番大きな運動場だ。野球場にテニスコート、体育館、陸上競技場に至るまで多くの施設が同じ敷地内に詰め込まれている。
昨年の夏、北原運動公園で開かれた記録会――忘れるはずもない。その記録会で、俺は高校に入って初めての自己ベストを出した。あの跳躍を見られていた。
「初めは全然興味もなくて。ちっせぇ選手が1人いるなぁ、くらいの気持ちで見てたんです」
「……ちっさくて悪かったな」
「褒めてるんですよ! 同じ高さのバーでも、背の高い選手が跳ぶのと、渋澤先輩が跳ぶのじゃ迫力が違うんですから」
そんなもんなのか。自分じゃよくわからない。
甘田は記憶を思い起こすように遠くを見た。
「あのときの渋澤先輩、2本は失敗したんですよね。3本目で跳んだんです。俺は一度の失敗で嫌になっちゃったけど、諦めないで努力すれば越えられないと思った壁も越えられるのかなって。そう思ったらもう胸がグワッてなっちゃって」
「……」
甘田が息を吸い込む音が聞こえた。
「渋澤先輩に会いたくて、俺、緑栄高校に入ったんですよ。一目惚れなんです。渋澤先輩と、渋澤先輩の跳躍に一目惚れしました」
からかうな、なんてもう言えなかった。
高跳びは同じ高さに3度まで挑戦することができる。1度目と2度目を失敗しても、3度目で跳べばまた次の高さに挑戦することがでる。そうやって高みを目指していく競技だ。
あの日、2度の跳躍を失敗してもうダメかもしれないと思った。でも自らを奮い起こして望んだ3度目の跳躍がうまくはまった。今まで一度も超えたことのない高さのバーを超えることができた。甘田の言うことは誇張じゃない。あのとき、確かに俺は越えられないと思っていた壁を越えたのだ。
……俺の跳躍に一目惚れしたんだって。どんな殺し文句だよ。甘田の話が本当だとしたら、俺は――?
「俺、さ……よくわかんねぇんだよ。甘田のことは好きだけど、恋愛方面で好きかって訊かれると自信なくて……」
言いながら甘田の表情を伺うと、意外にもショックを受けた様子はなかった。
「はい、別にいいです。俺も、今すぐ渋澤先輩と付き合いたいとは考えてないんで。じっくり攻め落とします」
「……俺、要塞?」
甘田はようやく俺の手を放してくれた。無意識に追ってしまいそうになり、慌てて手を握りしめた。
その後は2人並んで少し冷めたハンバーガーを食べた。ポテトとコーラも一緒に。今日のコーラはやたらと美味かった。コーラなんて、どこで飲んでも同じはずなのにな。
俺が集合場所である北原駅前の広場につくと、そこにはすでに甘田の姿があった。真っ白なTシャツに踝丈のズボンを合わせている。モデルみてぇ。
すぐに声をかけようかと思ったが、ふと思い立って足を止める。甘田はまだ俺に気づいていない。遠巻きに横顔を観察していると、甘田にしては珍しくそわそわと落ち着きがなかった。前髪に触ってみたり、服のすそを伸ばしてみたり。
……緊張してやんの。よくできた舞台の裏側を見た気持ちになり、笑みが零れた。早足で近づき、右手をあげて挨拶をする。
「おはよー」
甘田は落ち着きのない様子から一転して笑顔になった。
「渋澤先輩、おはようございます!」
「待った?」
「待ちました! 1時間前に着いちゃったんで」
……さすがに冗談だよな?
10分ほど歩いて目的地についた。地域一番の品揃えを謳うゴルスポは、商業ビルのワンフロアに堂々と店を構えている。自動ドアをくぐるとスポーツ用品店特有のゴムの匂いが肺に流れ込んでくる。
「何、買いてぇの?」
まだ人気の少ない店内を眺めながら尋ねた。
「ショータイとTシャツを1枚ずつ。あと夏に向けて買っておいた方がいい物ってあります」
「日焼け止めはないと肌が死ぬ。あとはアイシング用の氷嚢とか、一つ持ってると便利だけど」
「なるほど」
「あ、高跳び用のスパイクは? 短距離用で跳ぶと足ぶっ壊すよ」
甘田は手を打った。
「そう、スパイク買っとけってコーチに言われたんです。アドバイス貰えますか?」
「アドバイスするほど種類ないと思うけど……ま、いーや。順番に見ようぜ」
陸上用品の売り場は出入り口から最も遠いところだった。陳列棚には鮮やかな色合いの運動着が、そして壁面にはランニングシューズとスパイクが所狭しと並べられている。
「高跳び用のスパイクは……2種類しかないですね」
高いところに陳列された高跳び用スパイクを見上げながら、甘田は残念そうに言った。
「マイナー競技だからな。甘田、足のサイズは?」
「28㎝です」
「でかっ」
「渋澤先輩は25㎝ですよね?」
……何で知ってるんだ。何度目だよ、これ。慣れてしまっためか動揺は少なく、すぐに聞き返す。
「甘田って親もでかいの?」
「父親が大きいです。母親は普通ですけど」
「きょうだいは?」
「妹がいますけど、そこまで大きくないですよ。平均よりちょっと高いくらい」
「ふーん」
甘田って妹いるんだ。人懐こいから末っ子かと思ってた。年の離れた姉ちゃんの尻に敷かれてそう。
どうやら顔に出てしまっていたらしく、甘田は探るように目を細めた。
「渋澤先輩……何、考えてます?」
「えっ……いや、甘田は下の子っぽいよなーって」
「そうですか? 何で?」
「年上に懐くのが上手だから」
思ったままのことを深く考えず口にすると、甘田は悪戯な表情で笑った。
「俺、上手なんだ」
「……上手じゃん。何だよ、その顔」
「そっかそっか、上手かぁ」
甘田は俺を見下ろしてにんまりと笑っている。何だかとても恥ずかしいことを言ってしまった気がして、俺は甘田に肩をぶつけた。
「調子にのんなっ」
「のってないです。巻い上がってるだけ」
「同じだわ!」
ああ、もう。またしてやられてる。でもいつもと違って一方的に振り回されてる気分にはならなかった。むしろ楽しいくらい……何でだ?
「あれ、渋澤と甘田だ」
思考を遮るように名前を呼ばれた。振り返るとマネージャーの筒美が立っていた。そして筒美の隣で可愛らしいワンピースに身を包んでいるのは――秋保だ。……まじか。楽しかった気持ちが穴を空けられたように萎んでいく。
「……おっす、偶然だな」
筒美は、俺の変化に気付くこともなく会話を続ける。
「ほんとにね。2人で買い物?」
「甘田が高跳び用のスパイク欲しいらしくて」
「ああ。甘田、高跳びにしたんだってね。コーチから聞いたよ」
「筒美先輩も買い物ですか?」
尋ねたのは甘田だった。
「そう、コーチに頼まれて、テーピング用のテープとかプロテインとか色々」
「へー、大変ですね」
甘田と筒美の会話を聞きながら、秋保の方を盗み見た。大きなリボンのついた鞄を胸の前に抱き、甘田の顔を見て固まってしまっている。……わかりやす。
「渋澤、ちょっとこっちきて」
突然、筒美に腕を引っ張られた。
「何?」
「プロテイン選んでよ。あたし、よくわかんなくてさ」
「俺もよくわかんねぇよ」
「いいから来てって!」
ぐいぐいと強引に腕を引っ張られる。遠ざかっていく甘田と秋保の姿を見ると、みぞおちのあたりが鈍く痛んだ。
「何なんだよ!」
プロテインの陳列棚のそばで、俺はようやく文句を言った。
「ね、渋澤。凛々のために協力してよ」
「は?」
「このあと4人でカラオケ行こうって誘うからさ、のってきてよ。凛々、甘田と行きたがってたんだ」
あー……なるほどね。そういうこと。
「凛々、歌うまいんだよ。2人で歌わせてあげたらイイ感じになると思うんだよね。だから協力して! お願い!」
筒美は顔の前で両手を合わせた。承諾しようとしたが、舌が上顎に張りついてしまって声が出なかった。
わずかな時間に色々なことを想像してしまった。甘田が秋保に笑いかけている姿だとか、薄暗闇の中で顔を近づけて話しているところだとか、仲良く並んでマイクを持っている姿だとか。それって……それってさ、どうなの。
「ごめん、無理」
思いがけず大きな声が出た。筒美は食い下がった。
「そんなこと言わないでお願い。カラオケ代、おごるからさ」
「いくら頼まれても無理。俺、今日は甘田と2人で買い物に来たんだわ。甘田を誘いたいなら好きにすればいいけど、俺は協力しない。行きたくねぇし」
「……そっか」
筒美は視線を伏せたが、すぐにいつもの明るい顔に戻った。
「変なこと言ってごめん! 忘れて!」
筒美はプロテインを3袋かごに入れ、来た道を戻っていく。悪いことしたかな、でも行きたくないのはほんとだしな。少し距離を置いてついていくと、シューズ棚の前に秋保と甘田の背中が並んでいた。
「わ、私も少し走ってみようかなと思ってて」
「いいんじゃない? 記録会とか出てみれば」
「そこまでなれるかなぁ……甘田くんは高跳びだけにするの?」
「や、普通に短距離もやる。長谷部先輩にハードルもやってみればとか言われてて」
「甘田くんならできるよ、きっと……!」
筒美がまた俺の腕を引っ張った。わかってるよ、邪魔するなって言いたいんだろ。でも俺は筒美の手を振り払い、空気を読まずに声をかけた。
「甘田、スパイク履いてみなよ」
「あ、渋澤先輩。プロテインいいのありました?」
「まーね」
甘田の横では、秋保が取り残されたような表情を浮かべていた。……ごめんな、でも今日はダメ。秋保の表情を見ないようにして在庫棚のそばにしゃがみこむ。頭上から甘田の声が聞こえた。
「じゃ、また部活で」
「うん……またね」
秋保は何度も振り返りながら別のコーナーへと歩いていく。何を考えているかは手に取るようにわかったが、俺は知らないふりをしてスパイクを探した。秋保に悪いと思う気持ちはあった。でもそれ以上にほっとしている自分がいた。
買い物が終わると11時半を回っていた。
甘田が探してくれた飲食店は、雑誌などでも有名な本格ハンバーガー店だった。西部劇風店内には肉を焼くいい匂いが充満し、カウボーイハットを被った店員たちが忙しそうにハンバーガーを運んでいる。開店直後だというのに、店内は多くの客で賑わっていた。
「渋澤先輩、何にします?」
「何が美味いの?」
「チーズバーガーが有名らしいですよ。有名人も食べにきたことがあるって」
「じゃあそれにしようかな……」
注文列の真ん中から、注文カウンターの真上に掲げられたメニュー表を見上げた。ベーコンエッグ、アボガド、テリヤキ、どれも美味そうだが初めての店ではお勧めを食べるに限る。
「俺はテリヤキバーガーにしようかな……あ、セットがありますね」
「ほんとだ。飲み物つくじゃん」
「コーラですか?」
「ハンバーガーといえばコーラだろ」
店内が満席だったので、テイクアウトにして外で食べることにした。北原駅から徒歩で10分ほどのところには、北原川の河川敷がある。
なだらかな河川敷に並んで腰を下ろすと、気持ちのいい夏の風が吹き抜けていった。長く伸びた芝生が膝にあたってくすぐったい。手を伸ばせば届くところでコオロギの鳴く声がする。小学校の遠足みたいだな。
「渋澤先輩、どうぞ」
「ん、さんきゅ」
包み紙を剥いでかぶりつくと、口の中に肉汁が溢れ出した。
「うまっ」
ファストフード店の安いハンバーガーとは別の食べ物みたいだ。夢中で食べていると、横顔に甘田の視線を感じた。
「渋澤先輩の美味しそうですね……」
「……」
「一口ちょーだい?」
ぶれねぇなお前。いつもなら断るところだが、甘田のテリヤキバーガーも魅力的だ。一口ずつ交換するのも悪くない。
「ん、一口な」
紙包みを差し出した。甘田は一瞬だけ驚いた顔をして、それから俺の手ごと包み紙を握った。甘田の顔が近づいてくる。薄く開かれた唇が目に入った。
「あ――」
心臓が大きく脈打ち、反射的に目を瞑ってしまった。ハンバーガーをかじる振動が手に伝わってくる。少し時間が経ってから、俺はとてつもなく恥ずかしいことをしてしまったと気がついた。
やばい、どうしよう。これじゃまるで期待してたみたいじゃん。
「……俺、ひょっとしてミスりました?」
「ミ、ミミ、ミスって何のことだよ」
「キスの方を期待されたのかと」
「はぁ!? 砂が目に入っただけだわ!」
「風もないのに」
「うるせぇー!」
恥ずかしすぎて涙まで出てきてしまった。甘田から顔を背け、勢いよくハンバーガーをかじる。ああもう、味がわかんねぇよ。
「渋澤先輩」
「何!」
「ちょっとこっち向いて?」
「向かねぇ!」
「キスしたい」
「俺はしたくないっ!」
「顔を見てから考えてよ」
むぎゅ、と頬を挟まれた。強引に甘田の方を向かせられる。人懐こい胡桃型の瞳と、形のいい唇が目の前にあった。その気になればすぐにキスできる距離だ。
全身の血液が沸騰したみたいだった。甘田の顔を直視することができなくて、俺はハンバーガーを持ってない方の手で自分の顔を覆った。
「何なんだよもぉ……俺をからかって楽しいのかよ……」
泣いているわけではないのに声が震えた。甘田はきょとんとした声を出した。
「俺、渋澤先輩をからかったことなんてないですけど」
「からかってるだろ! 現在進行形で!」
「えー」
甘田の手が離れていく。ほっとしたのは束の間のことで、次の瞬間には手を握られていた。指先が絡まる。少し汗ばんだ肌の感触、流れ込んでくる体温。ただそれだけのことで呼吸の仕方を忘れた。
「何でからかってると思うんですか?」
甘田の声は責めているような調子ではないが、だからといってごまかせる雰囲気でもなかった。
「何でって……本気だと思えって方が無理だろ……初めて会ったときからずっとそんな感じじゃん」
「一目惚れですけど」
「嘘つけ! 一目惚れされる要素がねぇんだよ!」
一目惚れなんてものは、甘田とか秋保とか見た目のいい奴にだけ縁のある言葉だ。俺には関係ない。甘田が「うーん」と悩ましげに唸る声を聞きながら、芝生を掴むように指先を動かした。放してくんねぇかな。別に繋がなくたって話せるじゃん。でも振り払う気にはなれなかった。
「誰にも言わないつもりだったんですけどね。俺、中受で失敗してるんですよ」
声のトーンを落とし、甘田は切り出した。
「中受? 中学受験?」
「そう。頑張ったけどダメで、地元の公立中学に進学したんです。親に責められるとかはなかったんですけど、失敗がトラウマで努力するのが怖くなっちゃって」
甘田はそこで言葉を区切る。絡まった指先に力がこもる。
「全力で努力したのに届かないって怖くないですか? お前の努力は無意味だったんだって否定されてるみたいで」
「あー……うん。わかる気はする」
「そんなことがあって、中学では適当にやってたんですよ。テニス部に入ってはいたけど友達作りくらいの気分だったし、勉強も……下地があるから成績は良かったですけどそれだけだったし」
行く末のわからない話に耳を澄ませた。ハンバーガー冷めちまうな、なんて場違いなことを考えながら。
「でね、中三の夏に北原運動公園でテニスの大会があったんですよ。2回戦で負けて公園内をぶらぶらしてたら、陸上の記録会やってるのを見つけて――渋澤先輩が跳んでたんです」
「……え?」
北原運動公園は市内で一番大きな運動場だ。野球場にテニスコート、体育館、陸上競技場に至るまで多くの施設が同じ敷地内に詰め込まれている。
昨年の夏、北原運動公園で開かれた記録会――忘れるはずもない。その記録会で、俺は高校に入って初めての自己ベストを出した。あの跳躍を見られていた。
「初めは全然興味もなくて。ちっせぇ選手が1人いるなぁ、くらいの気持ちで見てたんです」
「……ちっさくて悪かったな」
「褒めてるんですよ! 同じ高さのバーでも、背の高い選手が跳ぶのと、渋澤先輩が跳ぶのじゃ迫力が違うんですから」
そんなもんなのか。自分じゃよくわからない。
甘田は記憶を思い起こすように遠くを見た。
「あのときの渋澤先輩、2本は失敗したんですよね。3本目で跳んだんです。俺は一度の失敗で嫌になっちゃったけど、諦めないで努力すれば越えられないと思った壁も越えられるのかなって。そう思ったらもう胸がグワッてなっちゃって」
「……」
甘田が息を吸い込む音が聞こえた。
「渋澤先輩に会いたくて、俺、緑栄高校に入ったんですよ。一目惚れなんです。渋澤先輩と、渋澤先輩の跳躍に一目惚れしました」
からかうな、なんてもう言えなかった。
高跳びは同じ高さに3度まで挑戦することができる。1度目と2度目を失敗しても、3度目で跳べばまた次の高さに挑戦することがでる。そうやって高みを目指していく競技だ。
あの日、2度の跳躍を失敗してもうダメかもしれないと思った。でも自らを奮い起こして望んだ3度目の跳躍がうまくはまった。今まで一度も超えたことのない高さのバーを超えることができた。甘田の言うことは誇張じゃない。あのとき、確かに俺は越えられないと思っていた壁を越えたのだ。
……俺の跳躍に一目惚れしたんだって。どんな殺し文句だよ。甘田の話が本当だとしたら、俺は――?
「俺、さ……よくわかんねぇんだよ。甘田のことは好きだけど、恋愛方面で好きかって訊かれると自信なくて……」
言いながら甘田の表情を伺うと、意外にもショックを受けた様子はなかった。
「はい、別にいいです。俺も、今すぐ渋澤先輩と付き合いたいとは考えてないんで。じっくり攻め落とします」
「……俺、要塞?」
甘田はようやく俺の手を放してくれた。無意識に追ってしまいそうになり、慌てて手を握りしめた。
その後は2人並んで少し冷めたハンバーガーを食べた。ポテトとコーラも一緒に。今日のコーラはやたらと美味かった。コーラなんて、どこで飲んでも同じはずなのにな。



