甘田くんは渋澤先輩のが一口ほしい!

 その日はあいにくの雨だったので、放課後の練習はウェイトトレーニングとなった。体育館に併設する手狭なトレーニングルームでは、Tシャツ姿の部員たちがウェイトトレーニングの真っ最中。窓は開いているが風はなく、室内には生ぬるい空気が溜まっている。
「甘田、高跳びメインで行くのか?」
 俺がウェイト前のストレッチをしていると、コーチの声が聞こえてきた。無視できない2つの単語が並んでいたので、さりげなく聞き耳を立てる。
「この間、跳んでみたら楽しかったので」
「いいんじゃないか。甘田は身長もあるし、バネもある。メインでやれば伸びると思うぞ」
「ありがとうございます」
「じゃあ今後は跳躍パートに入ってくれ。渋澤、どこだ?」
 コーチがぐるりとウェイトルームを見回した。見つからないようにと身体を縮めてみたが、時間稼ぎにもならず見つかってしまう。
「渋澤、ちょっと来い」
「はい……」
 手招きをされて、渋々コーチのところへと向かう。
「甘田が高跳びで行くらしい。練習、見てやれよ」
「あ、はい……今日から?」
「今日から。無茶させんなよ」
 コーチは甘田の背中と俺の背中を一回ずつ叩き、別の部員のところへと行ってしまった。
 ……まじか。俺は甘田の顔を見た。直視することができなかったので、目は見ずに口のあたりを。形のいい唇がにっこりと弧を描いている。
「渋澤先輩、これからよろしくお願いします!」
 これ以上、何をどうよろしくすればいいんだよ、もう。

 ストレッチが終わったので、俺は甘田を引き連れスクワット台へと向かった。
 一口にウェイトトレーニングと言っても、種目によって内容は全く異なる。だから種目ごとにわかれてトレーニングをすることが一般的だ。
「スピードウェイトな。10回3セットだけど何キロでいく?」
 意味もなくバーベルに触れながら尋ねた。
「スピードウェイトって?」
「ゆっくり下ろして、早く上げる。踏み切りのときの太腿の使い方を意識して」
「浅めに腰を下ろす感じですか?」
「あー……俺が先にやるわ」
 今までずっと一人でトレーニングをしていたので、うまく説明できる気がしなかった。ウェイトバーの両側に重りをつけ、スクワット用のベルトを締める。ひやりと冷たいウェイトバーを握ると気分が引き締まった。ざわざわとうるさかった頭の中が静かになる。
 いつもこのくらい静かだったらいいのに。()()()()()があってからずっと、昼も夜も問わず頭の中がうるさくて仕方ない。
 ウェイトバーを肩にのせ、ゆっくりと腰を落としていく。スクワット台の正面の壁はフォームチェックのため鏡張りとなっている。何気なく鏡を見ると、甘田と目が合った。見ようと思ったわけではないのに、むしろ見たくなかったのに。静かになったはずの頭の中が途端にうるさくなった。
「あ――」
 腰が抜けた。いつもなら簡単に持ち上げられる重さを持ち上げることができず、俺は床に尻もちをついた。70㎏を越えるウェイトバーがセーフティーラックに落ち、ガシャンと派手な音を立てた。
「大丈夫ですか!?」
 甘田が慌てて駆け寄ってきた。怪我はしていなかったが、俺はすぐに立ち上がることができなかった。最近、こんなミスばっかりだ。甘田に見られていると思うと、頭と身体が噛み合わなくなる。ちっとも練習に集中できない。このままじゃいけないと思うのに取るべき手段もわからない。
「大丈夫。調子いまいちだから軽くするわ」
 わざと明るい声を出した。甘田の顔を見ないようにしながら、ウェイトバーの両側の重りを5㎏ずつ軽くする。ここまで軽くしなくちゃ練習にならないなんて情けなすぎるだろ。
 トレーニングになっているかどうかも怪しいまま全てのメニューが終わった。流れる汗を拭いながらストレッチスペースに移動する。俺が座ると甘田も座る。膝が触れるかどうかという場所だ。近い近い。
「補強するからもっと離れろって」
「あ、はい。すみません」
 甘田は5㎝ばかり俺から距離を取った。まだ近いわ。文句を言うために甘田の方を見るとバチッと目が合った。今度は鏡越しではない。鼓動が跳ねる。見たくないと思うのに目が逸らせない。甘田は目を細くして笑った。
「やっとこっち見た」
「は……え?」
「今日、俺のこと見てくれないじゃないですか。何かありました?」
 ……何かあったってお前が訊く? お前がキスなんてするからこんなことになってんだけど。キスした癖にいつもと同じような顔しているから余計にわけわかんなくなってんだけど。
 言いたいことはたくさんあったが、大勢の人がいるウェイトルームで言えるはずもなかった。だからといって黙っているのも悔しい。核心には触れないように質問を選ぶ。
「何で突然、高跳びやる気になったの」
「ダメでした?」
「ダメではないけど……俺が誘ったときは断ったじゃん」
「んー……」
 甘田は言葉を探している。
「やりたいな、って思う気持ちはずっとあったんですよ。でも俺の中で、どこまでが本気でどこまでが下心なのか区別がつかなくてですね」
「……下心?」
「まだ区別はついてないんですけど、とりあえずやってみようかなって。好きなものを躊躇するのも勿体ないですし」
「お、おう……」
 好きなものって高跳びのことだよな? いや、普通に考えてそれ以外ありえないし。俺のことが好きとかそういう話じゃないし。早まるな心臓。頼むから落ち着け。この間のキスもきっと大したことじゃない。だって外国人は挨拶でキスするじゃん。きっとそんな感じ。
「あ、甘田……こないだのアレってさぁ……」
「渋澤ぁー、これから補強? 一緒にやっていい?」
 勇気を出して切り出したのに、気の抜けた声に邪魔された。長谷部だ。良いとも言っていないのに、俺の隣にどっかりと腰を下ろす。
「長谷部……」
「ん、何?」
「甘田と話してたんだけど」
「話せばいーじゃん。俺が聞いちゃダメな話?」
「や……」
 ダメだけど、ダメだと言うと逆に居座られそうだ。長谷部ならやりかねない。
 俺が口をもごつかせていると、長谷部は甘田の肩を軽くたたく。
「甘田、高跳びやんだって?」
「はい、頑張ってみようかなって」
「いーじゃん。向いてると思うよ。渋澤も仲間ができて嬉しいっしょ」
 まぁね、と当たり障りのない返事をする。
「渋澤、去年から伸び悩んでるだろ。甘田にケツ叩いてもらえば今年はベスト出んじゃない?」
「っ……うるせーな!」
 長谷部の肩にパンチしようとしたが、ひょいと躱された。
「怒んなって、本当のことだろ」
「そんなぽんぽんベスト出る種目じゃねーんだよ!」
「それは知ってるけど。渋澤、筋肉つかねぇもんなー。食ったもんどこ行くの」
「ちょ、触んな。やめ……ひぃん」
 長谷部の手が伸びてきて、俺の脇腹を掴んだ。くすぐったくて変な声が出てしまう。調子づいた長谷部はしつこくまさぐってくる。俺が抵抗してもお構いなしだ。まじでやめろ。
「長谷部先輩。それ、止めてください」
 はっきりとした声で制止に入ってくれたのは甘田だった。長谷部は呆気に取られた顔をした。
「えっ……ダメ?」
「ダメです」
「遊んでるだけじゃん」
「俺以外の人が渋澤先輩に触るの、嫌なんで」
 待って、その言い方は誤解を生む。案の定、長谷部はぽかんとした表情になった。
「渋澤と甘田って……付き合ってる?」
「付き合いたいなとは思ってますけど」
「え、そうなの?」
「っ……甘田ぁぁぁっ!」
 俺は甘田に飛びかかって口を塞いだ。もがもごもご、と手の中で甘田の口が動く。
 もう勘弁してくれ。これ以上、俺の日常を引っ掻きまわさないでくれ。見られるだけでキャパオーバーだってのに。
 自分でも情けなくなるくらい必死で言い訳した。
「長谷部、本気にすんなよ! 甘田のこれはいつもの冗談!」
「そう? まぁ別に本気でもいいんだけどさ。付き合うことになったら先に言えよ」
「なるか馬鹿!」
「はいはい、この話はおしまいな。補強しよーぜ」
 長谷部はパンッと手を打った。確かに今はまだ部活中だ。関係ない話で盛り上がって補強を疎かにしたとなればコーチの雷が落ちかねない。
 俺は首筋がどうしようもなく熱を持つのを感じながら、甘田と長谷部と一緒に補強を始めたのだった。

 甘田からメッセージが届いたのはその日の夜のことだった。
『渋澤先輩こんばんは! 日曜日、空いてませんか?』
 リビングでだらだらしているときにそのメッセージを見て、戸惑った。
 日曜日は暇だけど……何でだ? 行き場をなくした親指が画面上を泳ぐ。
『予定は空いてるけど』
 たっぷりと悩んだ後、ようやくそれだけのメッセージを返す。俺が甘田と直接的なメッセージのやりとりをしたのは、実は今日が初めてのことだ。
 落ち着かない気持ちで履歴のないトーク画面を眺めていると、甘田からはすぐに新しいメッセージが送られてきた。
『一緒にゴルスポ行きませんか? 買いたい物があって』
『北原駅前のゴルスポ?』
『です!』
 ゴルスポ――正式名称をゴールドスポーツ北原駅前店。運動に関わるさまざまな商品を揃えた地域最大級のスポーツ専門店だ。
『他に誰か誘った?』
『誘ってないです』
『誘う予定は』
『ないです!』
 ……だよな。
 そもそも連絡をとるのが初めてなのだから、俺は甘田とプライベートで出掛けた経験はない。土曜日の部活終わりに、みんなで昼ご飯を食べに行くのが関の山だ。
 どうして甘田は俺を誘おうと思ったんだろう。甘田の思惑がわからないから不安になってしまう。
「2人でって……デートじゃん」
 口に出すと一気に恥ずかしくなった。
「いやいや、ただの買い物だし。先輩後輩ならこのくらい普通だろ。特別な意味なんてない! よし!」
 俺はごちゃごちゃと考えるのを止めた。親指を滑らせて甘田へのメッセージを打つ。
『10時に北原駅前集合でいい?』
 わーい、と喜ぶゴールデンレトリバーのスタンプが返ってきた。心なしか甘田に似ている。確信犯か?
『めちゃ楽しみです! 時間あったらランチも!』
『いーよ』
『店、調べておきますね。苦手なものあります?』
『あんま辛いのは無理』
 少し間を置いて、またゴールデンレトリバーのスタンプが返ってくる。可愛い、とハートマークを飛ばしている。こいつは画面上でもこんな感じなのか。照れるよりも先におかしくなってしまった。
「巧美、にやにやしてどうしたの?」
 不思議そうに尋ねてきたのは、専門大学の一年生である姉の一華だった。部屋着姿の一華は右手にマグカップを持っている。飲み物を入れるためにリビングへと下りてきたのだろう。甘田とのやりとりに夢中になっていて今まで気がつかなかった。
「別に、何もないけど」
 素っ気なく答えると、一華はにやりとした。
「嘘だぁ。相手、好きな子でしょ」
「はぁ!? 何で!?」
「だって顔ゆるゆるじゃん。どんな子? 可愛い?」
「っ……可愛くねーし! つーか好きな奴じゃないし! ただの部活の後輩!」
「ほう……巧くんは部活の後輩といい感じってことですな。青春青春、楽しみたまえ」
「何で偉そうなんだよ! もう部屋戻れよ!」
「はいはい。ほっほっほ……」
 ふざけた笑いを残して、一華は階段を上って行った。
 リビングが静かになると、自分の鼓動がいやに大きく聞こえた。ドッドッドッと胸の内側を激しく叩いている。一華が変なことを言うから。
「好……きじゃねーし」
 うるさい心臓を押さえながら独り言を言う。好きじゃない、好きじゃない。別に甘田のことは好きじゃない。好きか嫌いかで言われたら普通に好きだけど、それは部活の後輩として好きだと範囲内の話で、特別な意味はない。
 特別じゃない……よな? 確かめるためにスマホの画面を見た。いつの間にか甘田からまたメッセージが届いていた。
「日曜日、楽しみすぎて踊ってます!」
 踊ってんのかい。リビングの真ん中でスマホを片手に踊る甘田の姿を想像してしまった。どんなけ楽しみなんだ、でも悪い気はしない。
 甘田のことは特別じゃない、けど。日曜日が楽しみな気持ちは認めざるを得なかった。