今日も今日とてうだるような暑さだった。
時刻は午後4時を回っているというのに太陽はまだじりじりと大地を焦がし、湿気をのせた風が頬を撫でていく。青空を割く雷管の音、スパイクシューズがタータントラックを踏みしめる音、ストップウォッチの数字を読み上げる筒美の声。聞き慣れたいつもの音だ。
「あっちー……」
俺は高跳び用の大型マットに寝転んで、聞き慣れた音に耳を澄ませながら、ぼんやりと空を眺めていた。
決してさぼっているわけじゃない。ただ夕方だというのにあまりにも気温が高いから、ちょっと休憩しているだけ。
「気持ちよさそ」
マットのすぐそばに甘田が立っていた。額に汗粒を浮かべ、ペットボトルとハンドタオルをぶら下げた甘田は、今日も変わらずイケメンだ。
半拍分だけ早くなる鼓動に気づかないフリをして、俺は素っ気なく尋ねた。
「メニュー、終わった?」
「まだです。でもコーチが『せっかくマット出してるから遊びのつもりで跳んでこい』って」
「ふーん」
未経験で陸上部に入部した甘田は、まだメイン種目を決められていない。
陸上競技は他のスポーツよりも競技数が多く、種目によって練習内容が異なるから、秋の新人戦を見据えればそろそろメイン種目を定めなければならない。
例えば高跳びや幅跳びといった跳躍種目をメインにしたいと思うのなら、今のうちから身体を作り始める必要がある。
「じゃあ適当に跳んでみる? 今日は他校の奴らもいないしさ」
俺は勢いをつけて起き上がった。
数ある競技種目の中で、高跳びはマイナーな部類だ。緑栄高校の陸上部でもメイン競技にしているのは俺だけだ。
「あまり高くしない方がいいか。助走のつけかたとかわかる?」
地面に落ちたバーを拾い上げながら、俺は甘田に質問した。
「ぐるっと走って左足で踏み切ればいいんですよね?」
「そうそう。違和感あったら途中で変えてみな」
「はい!」
幼稚園児顔負けのいいお返事だ。
半拍分早かった鼓動はいつの間にか治まっていた。
意外にも甘田の跳躍は様になっていた。高さは跳べないが初心者の割に動きがなめらかというか、センスを感じるというか。
イケメンで社交的で、加えて運動のセンスもあるなんて、天は甘田に色々なものを与えすぎじゃないか?
「はー……楽しかった!」
タオルを顔にあてながら、甘田は満足そうに言った。吸いきれなかった汗が顎を伝ってTシャツの胸元に落ちる。
「楽しかったなら良かったわ」
「ふくらはぎがパンパンです。思ってたよりハードですね?」
「ハードだよ。インハイに出るような選手でも、万全のコンディションで跳べるのは1日に10本くらいだって」
「そうなんですか?」
驚いた表情の甘田を見上げながら、俺はペットボトルの蓋を開けた。生ぬるくなったスポーツドリンクを喉に流し込む。会話に夢中になっているためか、甘田がいつものあの言葉を口にすることはない。
「俺、どうでした? 選手になれそう?」
「なれるなれる。センスありすぎてビビったわ」
「お世辞じゃなくて?」
「ねぇよ。初心者はそもそも踏み切れないことが多いんだよ。どんなに低いバーでも、いざ跳ぶとなると怖いみたいでさ。甘田は初めてなのに怖がってなかったから、普通にすごいと思った」
「渋澤先輩にそう言われると嬉しいなぁ」
つたない褒め言葉が響いたらしく、甘田はふにゃりと眉尻を下げて笑った。
おお、そんな顔もするのか。特別なものを見てしまった気持ちになり、胸がざわついた。わざとらしくならないように視線を逸らす。
「なー、甘田。高跳びやる気ない?」
マットに腰かけ、ずっと思っていたことを言ってみる。
「メインでやってんの俺だけだから、仲間がいるとすげぇ嬉しいんだけど」
甘田の反応を伺うと、真面目な表情でぴしゃりと返された。
「それはできません!」
「何でだよ。楽しかったんだろ」
「だって危ないじゃないですか」
「いや、高跳びは別に危なくねーよ? ハードルとかの方がよっぽど怪我するわ」
膝に痣を作っている長谷部の姿を思い出しながら、説明した。高さがあるため危険だと思われがちな高跳びだが、無茶な跳び方をしなければまず怪我はしない。バーの上に落っこちて背中が痛い、というくらいならたまにあるけど。
「んー……そういう危ないじゃなくて」
甘田は頬を掻き、俺の隣に座った。マットが沈み、体重差のせいで俺は甘田の方へと引き寄せられる。抗うこともできずに肩がぶつかった。
一瞬、呼吸が止まる。
「わり……」
反射的に謝罪すると、至近距離から甘田の声が降り注いだ。
「ほらね。こういう距離感が普通になっちゃうと、我慢できなくなりそうで」
「……は?」
肩をぶつけたまま甘田の顔を見上げた。すごく近い。汗で張りつく前髪とか、日焼けのせいで少しかさついた唇とか、そういうものがいつもよりずっと近い場所にあった。鼓動が跳ねる。今度は半拍分どころじゃない、全力で助走した後みたいだ。
「っ……俺も跳ぶ!」
ごまかしたくて大声を出した。顔を背けながら早足で助走のスタート地点へと向かう。
気もそぞろのまま一歩目を踏み出す。リズムを刻みながらスピードを上げていく。何百回も繰り返してきたはずの助走がふいに乱れた。あっと思ったときにはもう止まることができず、踏み切れないままバーに突っ込んでしまう。こんなミス、いつ以来だろう。
「いって……」
ぶつけた肩をさする。甘田が心配そうな顔で近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
伸びてくる手をやんわりと払った。
「大丈夫……もっかい跳ぶわ」
「バー、上げます?」
「うん、15㎝上げて」
甘田に合わせて低くしていたバーを、いつも跳んでいる高さへと戻す。慣れない高さを跳ぼうとすると助走の感覚が変わる。踏み切れずに突っ込んでしまったのはきっとそのためだ。
もう一度、今度は集中して助走を刻む。いつも通りのリズムだ。大丈夫、跳べる。地面を蹴って跳び上がる。
「あ――」
越えたと思った背中がバーを掠めた。カラカラと乾いた音を立てて地面に落ちる。嘘だろ、さっきまでは跳べてたのに。
俺は何度か同じ高さを跳ぼうとした。でも駄目だった。耳元で聞いた甘田の声と、触れ合った肩の感触に、どうしようもなく心を乱されていた。
跳べないことを他人のせいにするなんて情けない。そう思ってはみても、突如として俺の世界に入り込んできた甘田の存在をどう処理していいかがわからなかった。
「お疲れー」
「お先ーっす」
「また明日ねぇ」
思い思いの挨拶をして部員たちは帰路につく。時刻は18時を少し回ったところ。沈み始めた太陽が練習後のグラウンドを寂しく照らしていた。
俺がシューズやタオルを鞄にしまっていると、少し離れたところから秋保と甘田の会話が聞こえてきた。
「あ、甘田くん……途中まで一緒に帰らない? 同じ方向だよね」
「や、本屋に行きたいから別方向」
「そ、そっか。それじゃ仕方ないね……」
「また明日」
「うん、また明日……」
おいおいおい、何さらっと断っちゃってんの。すごい勇気出してたじゃん、秋保。
いつもなら甘田に体当たりをして文句の一つでも言うところだ。しかし俺は何も言わず、何も聞かなかったふりをしてそそくさとその場を離れた。甘田に限らず、今は誰かと話をする気にはなれなかった。
バスターミナルの駐輪場に自転車を止めた。急いで競技場を出てきたせいで、バスまではまだ30分以上も時間があった。近くには商業ビルもあるが見て回る気にもなれず、植え込み近くのベンチに座る。残っていたスポーツドリンクを喉に流し込むと、少しだけ気分が晴れた。
「あー……」
今日あった色々な出来事を思い出した。渋澤先輩にそう言われると嬉しいなぁ――ふにゃりと笑った顔だとか。ほら、危ないですよ。こういう距離――そう言ったときの真剣な顔だとか。誰かの表情一つに、こんなに心を掻き乱されることが今までにあっただろうか。
――これじゃ、まるで俺が甘田のことを好きみたいだ。
「……いやいやいやいや! それはさすがに勘違い! あるわけないってそんなこと!」
大声を出すと、ベンチの前を通りかかったサラリーマンが跳び上がった。すみません。
いや、でも叫びたくもなるんだよ。だって好きって言われてその気になっちゃうとか、俺、流されすぎじゃん? いくら恋愛経験がないからといって。
そもそも甘田が本気かどうかもわからないのに。深い意味もなく好きって言える奴で、俺のいないところでは長谷部とか筒美に同じこと言ってるのかも。そうだとしたら、本気にしてる俺が馬鹿みたいだ。
「よし、全部気のせいだ! 後輩に懐かれんのが初めてだから脳味噌が誤作動してるだけ!」
俺はすぱんと膝を叩いた。声に出すとようやく割り切れる気がした。甘田はただの人懐こい後輩、ドキドキしてんのは誤作動、以上!
「――俺が何ですか?」
キィッと甲高い自転車のブレーキ音と一緒に、聞きなれた声がした。甘田だ。黒いスポーツリュックをしょってスポーツバイクにまたがる甘田は、CMから飛び出してきたような爽やかさ。幻を見た気持ちになり、空のペットボトルを落としそうになった。
「甘田……何でここに?」
「本屋に寄りたくて。ほら、そこの」
甘田はバスターミナルに併設する商業ビルを指さした。そういえば大きめの本屋が入っていたっけ。
「漫画?」
「ルーズリーフです。なくなっちゃって」
「ああ……」
俺としては、それで会話を終わらせたつもりだった。しかし甘田は違ったようだ。自転車をベンチの横に止め、俺の横にちょんと腰を下ろした。
「……何?」
「ちょっと喋ってこうかなって」
「俺、バスあるけど」
「18時28分発ですよね? まだ時間ありますよ」
……何で俺のバスの時間を知ってんの?
胸のざわめきに気づかないフリをして話題を変えた。
「甘田って家どこ?」
「高校の近くですよ。徒歩10分くらい」
「え、いいな。ギリギリまで寝れるじゃん」
「渋澤先輩は朝日町ですよね?」
「言ったことあったっけ」
「ないですね」
ないのか。何で知ってるんだよ、ほんと。
せっかく話題を変えたのに同じところに行きついてしまった。胸のざわざわが止まない、気にしないと決めたばかりなのに。甘田が俺のことを知っているから何だというんだ。長谷部か誰かが話しているのを聞いて、たまたま覚えていただけに決まってる。深い意味なんてない。ほんの少しだけでも嬉しいなんて思っちゃいけない。
思い通りにならない心が煩わしくて、さっきよりも強引に話題を変えた。
「甘田ってさ、秋保とどうなの」
甘田はきょとんとした。
「どうなのって?」
「秋保のこと、どう思ってんのってこと。さっきも一緒に帰ろうって誘われてたけど」
「誘われましたっけ?」
正気か? さすがに秋保が不憫すぎる。
「もう少し向き合ってやれよ……頑張ってんじゃん、秋保」
「気を持たせるようなことする方が可哀想でしょ。可能性もないのに」
はっきりと言われて言葉に詰まった。
これ、俺が聞いちゃいけなかったやつだな。秋保の恋の結末を、部外者の俺が先に知ってしまうことになるなんて。
「……でもさ、そんなのわかんねーじゃん。頑張ってる姿を見てたら応えてやろうって思うかもよ」
「……なりますか?」
「ないとは言いきれないだろ。毎日あんな感じでこられたら、気がなくても意識くらいするんじゃねぇの」
俺には恋愛経験がないからあくまで想像だけど、間違ってはいないと思う。
甘田は「そっかぁ」とつぶやいた。心なしか浮かれた様子なのは、秋保の恋心を前向きに捉えてくれたからだろうか。それなら良かった。甘田が秋保を好きになってくれれば、俺はもう胸のざわめきを気にしないで済むから。
「渋澤先輩、一口ちょーだい?」
「……へ?」
甘田がいつもの言葉を言ったのは、本当に突然だった。
何で今、このタイミングで。俺は握りしめたままのペットボトルを見る。ベンチに座った直後に全部飲んでしまったから、一口やれる物はなにもなかった。
「これ、空だけど」
甘田の目の前にペットボトルを掲げた。甘田の手がペットボトルの真横をすり抜けた。指先が俺の頬に触れる。その指先に気を取られた一瞬のことだった。
「んっ」
顔に影が落ち、唇に柔らかいものが触れた。俺の周りだけ時間が止まる。離れていく甘田の顔をみて、ようやくキスされたのだと気付いた。
「へっ……え?」
「ごちそうさまです! じゃあ俺、本屋行くのでこれで!」
甘田は笑顔で自転車にまたがった。大したスピードも出さないまま駐輪場の方へと消えていく。
いやいやいやご馳走様じゃなくて。そんな菓子パンでも貰ったみたいな言い方。
おそるおそる唇に触れた。ほんの一秒足らずのことだったのに、甘田の唇の感触がありありと残っていた。自覚すると途端に身体が熱くなる。心臓がありえないくらいに鳴っている。空のペットボトルが手のひらから滑り落ちて地面を跳ねた。
「……はぁぁっ!?」
甘田の懐っこさに深い意味はないと結論付けたばかりだ。胸のときめきはただの誤作動だと言い聞かせたばかりだ。
でも今回ばかりはどんな言い訳も通用しそうにない。キスされたことに驚き、でも嫌ではなくて、超えたことのない高さのバーを越えたときのような高揚感に包まれている。破裂しそうな心臓をどうやって落ち着かせればいいのだろう。
「どうすんだよ、もうこれぇ……」
泣いているような情けない声は、夕暮れに吸い込まれて消えていった。
時刻は午後4時を回っているというのに太陽はまだじりじりと大地を焦がし、湿気をのせた風が頬を撫でていく。青空を割く雷管の音、スパイクシューズがタータントラックを踏みしめる音、ストップウォッチの数字を読み上げる筒美の声。聞き慣れたいつもの音だ。
「あっちー……」
俺は高跳び用の大型マットに寝転んで、聞き慣れた音に耳を澄ませながら、ぼんやりと空を眺めていた。
決してさぼっているわけじゃない。ただ夕方だというのにあまりにも気温が高いから、ちょっと休憩しているだけ。
「気持ちよさそ」
マットのすぐそばに甘田が立っていた。額に汗粒を浮かべ、ペットボトルとハンドタオルをぶら下げた甘田は、今日も変わらずイケメンだ。
半拍分だけ早くなる鼓動に気づかないフリをして、俺は素っ気なく尋ねた。
「メニュー、終わった?」
「まだです。でもコーチが『せっかくマット出してるから遊びのつもりで跳んでこい』って」
「ふーん」
未経験で陸上部に入部した甘田は、まだメイン種目を決められていない。
陸上競技は他のスポーツよりも競技数が多く、種目によって練習内容が異なるから、秋の新人戦を見据えればそろそろメイン種目を定めなければならない。
例えば高跳びや幅跳びといった跳躍種目をメインにしたいと思うのなら、今のうちから身体を作り始める必要がある。
「じゃあ適当に跳んでみる? 今日は他校の奴らもいないしさ」
俺は勢いをつけて起き上がった。
数ある競技種目の中で、高跳びはマイナーな部類だ。緑栄高校の陸上部でもメイン競技にしているのは俺だけだ。
「あまり高くしない方がいいか。助走のつけかたとかわかる?」
地面に落ちたバーを拾い上げながら、俺は甘田に質問した。
「ぐるっと走って左足で踏み切ればいいんですよね?」
「そうそう。違和感あったら途中で変えてみな」
「はい!」
幼稚園児顔負けのいいお返事だ。
半拍分早かった鼓動はいつの間にか治まっていた。
意外にも甘田の跳躍は様になっていた。高さは跳べないが初心者の割に動きがなめらかというか、センスを感じるというか。
イケメンで社交的で、加えて運動のセンスもあるなんて、天は甘田に色々なものを与えすぎじゃないか?
「はー……楽しかった!」
タオルを顔にあてながら、甘田は満足そうに言った。吸いきれなかった汗が顎を伝ってTシャツの胸元に落ちる。
「楽しかったなら良かったわ」
「ふくらはぎがパンパンです。思ってたよりハードですね?」
「ハードだよ。インハイに出るような選手でも、万全のコンディションで跳べるのは1日に10本くらいだって」
「そうなんですか?」
驚いた表情の甘田を見上げながら、俺はペットボトルの蓋を開けた。生ぬるくなったスポーツドリンクを喉に流し込む。会話に夢中になっているためか、甘田がいつものあの言葉を口にすることはない。
「俺、どうでした? 選手になれそう?」
「なれるなれる。センスありすぎてビビったわ」
「お世辞じゃなくて?」
「ねぇよ。初心者はそもそも踏み切れないことが多いんだよ。どんなに低いバーでも、いざ跳ぶとなると怖いみたいでさ。甘田は初めてなのに怖がってなかったから、普通にすごいと思った」
「渋澤先輩にそう言われると嬉しいなぁ」
つたない褒め言葉が響いたらしく、甘田はふにゃりと眉尻を下げて笑った。
おお、そんな顔もするのか。特別なものを見てしまった気持ちになり、胸がざわついた。わざとらしくならないように視線を逸らす。
「なー、甘田。高跳びやる気ない?」
マットに腰かけ、ずっと思っていたことを言ってみる。
「メインでやってんの俺だけだから、仲間がいるとすげぇ嬉しいんだけど」
甘田の反応を伺うと、真面目な表情でぴしゃりと返された。
「それはできません!」
「何でだよ。楽しかったんだろ」
「だって危ないじゃないですか」
「いや、高跳びは別に危なくねーよ? ハードルとかの方がよっぽど怪我するわ」
膝に痣を作っている長谷部の姿を思い出しながら、説明した。高さがあるため危険だと思われがちな高跳びだが、無茶な跳び方をしなければまず怪我はしない。バーの上に落っこちて背中が痛い、というくらいならたまにあるけど。
「んー……そういう危ないじゃなくて」
甘田は頬を掻き、俺の隣に座った。マットが沈み、体重差のせいで俺は甘田の方へと引き寄せられる。抗うこともできずに肩がぶつかった。
一瞬、呼吸が止まる。
「わり……」
反射的に謝罪すると、至近距離から甘田の声が降り注いだ。
「ほらね。こういう距離感が普通になっちゃうと、我慢できなくなりそうで」
「……は?」
肩をぶつけたまま甘田の顔を見上げた。すごく近い。汗で張りつく前髪とか、日焼けのせいで少しかさついた唇とか、そういうものがいつもよりずっと近い場所にあった。鼓動が跳ねる。今度は半拍分どころじゃない、全力で助走した後みたいだ。
「っ……俺も跳ぶ!」
ごまかしたくて大声を出した。顔を背けながら早足で助走のスタート地点へと向かう。
気もそぞろのまま一歩目を踏み出す。リズムを刻みながらスピードを上げていく。何百回も繰り返してきたはずの助走がふいに乱れた。あっと思ったときにはもう止まることができず、踏み切れないままバーに突っ込んでしまう。こんなミス、いつ以来だろう。
「いって……」
ぶつけた肩をさする。甘田が心配そうな顔で近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
伸びてくる手をやんわりと払った。
「大丈夫……もっかい跳ぶわ」
「バー、上げます?」
「うん、15㎝上げて」
甘田に合わせて低くしていたバーを、いつも跳んでいる高さへと戻す。慣れない高さを跳ぼうとすると助走の感覚が変わる。踏み切れずに突っ込んでしまったのはきっとそのためだ。
もう一度、今度は集中して助走を刻む。いつも通りのリズムだ。大丈夫、跳べる。地面を蹴って跳び上がる。
「あ――」
越えたと思った背中がバーを掠めた。カラカラと乾いた音を立てて地面に落ちる。嘘だろ、さっきまでは跳べてたのに。
俺は何度か同じ高さを跳ぼうとした。でも駄目だった。耳元で聞いた甘田の声と、触れ合った肩の感触に、どうしようもなく心を乱されていた。
跳べないことを他人のせいにするなんて情けない。そう思ってはみても、突如として俺の世界に入り込んできた甘田の存在をどう処理していいかがわからなかった。
「お疲れー」
「お先ーっす」
「また明日ねぇ」
思い思いの挨拶をして部員たちは帰路につく。時刻は18時を少し回ったところ。沈み始めた太陽が練習後のグラウンドを寂しく照らしていた。
俺がシューズやタオルを鞄にしまっていると、少し離れたところから秋保と甘田の会話が聞こえてきた。
「あ、甘田くん……途中まで一緒に帰らない? 同じ方向だよね」
「や、本屋に行きたいから別方向」
「そ、そっか。それじゃ仕方ないね……」
「また明日」
「うん、また明日……」
おいおいおい、何さらっと断っちゃってんの。すごい勇気出してたじゃん、秋保。
いつもなら甘田に体当たりをして文句の一つでも言うところだ。しかし俺は何も言わず、何も聞かなかったふりをしてそそくさとその場を離れた。甘田に限らず、今は誰かと話をする気にはなれなかった。
バスターミナルの駐輪場に自転車を止めた。急いで競技場を出てきたせいで、バスまではまだ30分以上も時間があった。近くには商業ビルもあるが見て回る気にもなれず、植え込み近くのベンチに座る。残っていたスポーツドリンクを喉に流し込むと、少しだけ気分が晴れた。
「あー……」
今日あった色々な出来事を思い出した。渋澤先輩にそう言われると嬉しいなぁ――ふにゃりと笑った顔だとか。ほら、危ないですよ。こういう距離――そう言ったときの真剣な顔だとか。誰かの表情一つに、こんなに心を掻き乱されることが今までにあっただろうか。
――これじゃ、まるで俺が甘田のことを好きみたいだ。
「……いやいやいやいや! それはさすがに勘違い! あるわけないってそんなこと!」
大声を出すと、ベンチの前を通りかかったサラリーマンが跳び上がった。すみません。
いや、でも叫びたくもなるんだよ。だって好きって言われてその気になっちゃうとか、俺、流されすぎじゃん? いくら恋愛経験がないからといって。
そもそも甘田が本気かどうかもわからないのに。深い意味もなく好きって言える奴で、俺のいないところでは長谷部とか筒美に同じこと言ってるのかも。そうだとしたら、本気にしてる俺が馬鹿みたいだ。
「よし、全部気のせいだ! 後輩に懐かれんのが初めてだから脳味噌が誤作動してるだけ!」
俺はすぱんと膝を叩いた。声に出すとようやく割り切れる気がした。甘田はただの人懐こい後輩、ドキドキしてんのは誤作動、以上!
「――俺が何ですか?」
キィッと甲高い自転車のブレーキ音と一緒に、聞きなれた声がした。甘田だ。黒いスポーツリュックをしょってスポーツバイクにまたがる甘田は、CMから飛び出してきたような爽やかさ。幻を見た気持ちになり、空のペットボトルを落としそうになった。
「甘田……何でここに?」
「本屋に寄りたくて。ほら、そこの」
甘田はバスターミナルに併設する商業ビルを指さした。そういえば大きめの本屋が入っていたっけ。
「漫画?」
「ルーズリーフです。なくなっちゃって」
「ああ……」
俺としては、それで会話を終わらせたつもりだった。しかし甘田は違ったようだ。自転車をベンチの横に止め、俺の横にちょんと腰を下ろした。
「……何?」
「ちょっと喋ってこうかなって」
「俺、バスあるけど」
「18時28分発ですよね? まだ時間ありますよ」
……何で俺のバスの時間を知ってんの?
胸のざわめきに気づかないフリをして話題を変えた。
「甘田って家どこ?」
「高校の近くですよ。徒歩10分くらい」
「え、いいな。ギリギリまで寝れるじゃん」
「渋澤先輩は朝日町ですよね?」
「言ったことあったっけ」
「ないですね」
ないのか。何で知ってるんだよ、ほんと。
せっかく話題を変えたのに同じところに行きついてしまった。胸のざわざわが止まない、気にしないと決めたばかりなのに。甘田が俺のことを知っているから何だというんだ。長谷部か誰かが話しているのを聞いて、たまたま覚えていただけに決まってる。深い意味なんてない。ほんの少しだけでも嬉しいなんて思っちゃいけない。
思い通りにならない心が煩わしくて、さっきよりも強引に話題を変えた。
「甘田ってさ、秋保とどうなの」
甘田はきょとんとした。
「どうなのって?」
「秋保のこと、どう思ってんのってこと。さっきも一緒に帰ろうって誘われてたけど」
「誘われましたっけ?」
正気か? さすがに秋保が不憫すぎる。
「もう少し向き合ってやれよ……頑張ってんじゃん、秋保」
「気を持たせるようなことする方が可哀想でしょ。可能性もないのに」
はっきりと言われて言葉に詰まった。
これ、俺が聞いちゃいけなかったやつだな。秋保の恋の結末を、部外者の俺が先に知ってしまうことになるなんて。
「……でもさ、そんなのわかんねーじゃん。頑張ってる姿を見てたら応えてやろうって思うかもよ」
「……なりますか?」
「ないとは言いきれないだろ。毎日あんな感じでこられたら、気がなくても意識くらいするんじゃねぇの」
俺には恋愛経験がないからあくまで想像だけど、間違ってはいないと思う。
甘田は「そっかぁ」とつぶやいた。心なしか浮かれた様子なのは、秋保の恋心を前向きに捉えてくれたからだろうか。それなら良かった。甘田が秋保を好きになってくれれば、俺はもう胸のざわめきを気にしないで済むから。
「渋澤先輩、一口ちょーだい?」
「……へ?」
甘田がいつもの言葉を言ったのは、本当に突然だった。
何で今、このタイミングで。俺は握りしめたままのペットボトルを見る。ベンチに座った直後に全部飲んでしまったから、一口やれる物はなにもなかった。
「これ、空だけど」
甘田の目の前にペットボトルを掲げた。甘田の手がペットボトルの真横をすり抜けた。指先が俺の頬に触れる。その指先に気を取られた一瞬のことだった。
「んっ」
顔に影が落ち、唇に柔らかいものが触れた。俺の周りだけ時間が止まる。離れていく甘田の顔をみて、ようやくキスされたのだと気付いた。
「へっ……え?」
「ごちそうさまです! じゃあ俺、本屋行くのでこれで!」
甘田は笑顔で自転車にまたがった。大したスピードも出さないまま駐輪場の方へと消えていく。
いやいやいやご馳走様じゃなくて。そんな菓子パンでも貰ったみたいな言い方。
おそるおそる唇に触れた。ほんの一秒足らずのことだったのに、甘田の唇の感触がありありと残っていた。自覚すると途端に身体が熱くなる。心臓がありえないくらいに鳴っている。空のペットボトルが手のひらから滑り落ちて地面を跳ねた。
「……はぁぁっ!?」
甘田の懐っこさに深い意味はないと結論付けたばかりだ。胸のときめきはただの誤作動だと言い聞かせたばかりだ。
でも今回ばかりはどんな言い訳も通用しそうにない。キスされたことに驚き、でも嫌ではなくて、超えたことのない高さのバーを越えたときのような高揚感に包まれている。破裂しそうな心臓をどうやって落ち着かせればいいのだろう。
「どうすんだよ、もうこれぇ……」
泣いているような情けない声は、夕暮れに吸い込まれて消えていった。



