甘田くんは渋澤先輩のが一口ほしい!

 今日も今日とてうだるような暑さだった。
 時刻は午後4時回っているというのに暑さはちっとも和らがず、じっとりと湿気を帯びた風が頬を撫でていく。青空を割く雷管の音、スパイクシューズがトラックを踏みしめる音、ストップウォッチの数字を読み上げる筒美の声。聞き慣れたいつもの音だ。
「あっちー……」
 俺は高跳び用の大型マットに寝転んで、聞き慣れた音に耳を澄ませながら空を眺めていた。わたあめのような雲が青い空を横切っていく。こんなに暑かったら溶けねぇのかな。溶けねぇか、雲だもんな。
「気持ちよさそうですね」
 ふいに視界が翳った。真上から羨むような声が降らせてきたのは甘田だった。逆光のせいで輪郭が曖昧になり、三日月型の唇に目が吸い寄せられた。まじまじと見つめてしまったことに気づき、慌てて視線を伏せる。……どこ見てんだよ、俺。
「……珍しいな、フィールド(こっち)にくるなんて」
「コーチが、せっかくマット出してるから試しに跳んでこいって」
「ふーん」
 陸上初心者の甘田はまだメイン種目を決めていない。焦る必要もないが、秋の新人戦を見据えればそろそろ大まかな種目くらいは決めなければならない。短距離にするのか、跳躍や投擲にするのか。それによって練習内容もかなり変わってくるから。
 俺は勢いをつけて起き上がった。
「じゃあ適当に跳んでみる? 今日は他校の奴らもいないしさ」
「渋澤先輩はもういいんですか?」
「だいぶ跳んだからな。ちょっと休憩」
 言いながら、地面に落ちていたバーを支柱にのせた。
「あまり高くしない方がいいか。助走のつけかたとかわかる?」
「ぐるっと走って左足で踏み切ればいいんですよね?」
「そうそう。違和感あったら途中で変えてみな」
 アドバイスを挟みながら、無理をさせない程度にバーを越えさせた。意外にも甘田の跳躍は様になっていた。高さは跳べないがセンスを感じるというか。イケメンで社交的で運動のセンスもあるなんて、天は甘田に色々なものを与えすぎじゃないか?
「はー……楽しかった!」
 首筋の汗をタオルで拭いながら、甘田は満足そうだ。
「楽しかったなら良かったわ」
「ふくらはぎがパンパンです。思ってたよりハードですね?」
「ハードだよ。インハイに出るような選手でも、万全のコンディションで跳べるのは1日に10本くらいだって」
「そうなんですか?」
 驚いた表情の甘田を見上げながら、俺は生ぬるくなったスポーツドリンクを喉に流し込んだ。蓋を閉める直前でさりげなく甘田の方を見る。今日は言わねぇのか。まぁ真面目に話してるとこだしな。
「俺、どうでした? 選手になれそう?」
 少し興奮した甘田の声を聞きながら、ペットボトルの蓋をしめた。
「おー、なれるなれる。センスありすぎてビビったわ」
「お世辞じゃなくて?」
「ねぇよ。初心者はそもそも踏み切れないことが多いんだよ。どんなに低いバーでも、いざ跳ぶとなると怖いみたいでさ。甘田は初めてなのに怖がってなかったから、普通にすごいと思った」
「渋澤先輩にそう言われると嬉しいなぁ」
 甘田はふにゃりと表情を緩めた。そんなに嬉しいのかよ。プロでも何でもない俺のつたない誉め言葉がさ。
 マットに腰かけ、広いグラウンドを一望した。高跳び用のフィールドはトラックの内側にある。だからまるで自分が世界の中心にいるような気持ちになる。俺は、俺にしか見えないこの風景が好きだ。
「甘田さ、高跳びやらない?」
 するっと言葉が出た。
「3年生が引退しちゃってから、メインでやってんの俺だけなんだよね。仲間がいるとすげぇ嬉しいんだけど」
 言ってから甘田の表情をうかがった。思いがけず真面目な表情を浮かべていた。
「できないです」
 まさか二つ返事で断られるとは思わなかったので、俺は唇を尖らせた。
「何でだよ。楽しかったんだろ」
「だって危ないじゃないですか」
「いや、高跳びは別に危なくねーよ? ハードルとかの方がよっぽど怪我するわ」
「んー……そういう危ないじゃなくて」
 甘田は困ったように笑い、俺の隣に座った。マットが沈み、体重差のせいで俺は甘田の方へと引き寄せられる。抗うこともできずに肩がぶつかり、一瞬、呼吸が止まった。
「わり……」
 反射的に謝罪する。至近距離から甘田の声が降り注いだ。
「ほらね。こういう距離、危ないでしょ」
「は?」
 肩をぶつけたまま甘田の顔を見上げた。すごく近い。汗で張りつく前髪とか、日焼けのせいで少しかさついた唇とか、そういうものがいつもよりずっと近い場所にあった。何かを間違えたら触れてしまう距離。鼓動が跳ねる、全力で助走した後みたいに。動揺を悟られてしまう気がして、わざと大声を出して立ち上がった。
「俺も跳ぶ!」
 甘田の顔を見ず、速足でスタート地点へと向かう。汗はとっくにひいているはずなのに背中がじんわりと暑い。両手と両足が自分のものではなくなってしまったみたいに嚙み合わない。あれ、歩くってどうやるんだっけ。俺、いつもこんな風に歩いてたっけ?
 気もそぞろのままスタート位置に立ち、一歩目を踏み出した。リズムを刻みながらスピードを上げていく。何百回も繰り返してきたはずの助走が、ふいに乱れた。あっと思ったときにはもう止まることができない。踏み切れないままバーに突っ込んでしまう。こんなミス、いつ以来だろう。
「いって……」
 ぶつけた肩をさする。甘田が心配そうな顔で近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
 伸びてくる手をやんわりと払った。
「大丈夫……もっかい跳ぶわ」
「バー、上げます?」
「うん、15㎝上げて」
 甘田に合わせて低くしていたバーを、いつも跳んでいる高さへと戻す。慣れない高さを跳ぼうとすると助走の感覚が変わる。踏み切れずに突っ込んでしまったのはきっとそのためだ。そう自分に言い聞かせた。
 もう一度、今度は集中して助走を刻む。いつも通りのリズムだ。大丈夫、跳べる。地面を蹴って跳び上がる。
「あ――」
 越えたと思った背中がバーを掠めた。カラカラと乾いた音を立てて地面に落ちる。聞きなれているはずのその音が、今日はやけに冷たく聞こえた。……どうして、さっきまでは跳べてたのに。
 俺は、何度か同じ高さを跳ぼうとした。でも駄目だった。甘田に見られていると思うと、跳躍とは関係ないことばかりが気になってしまう。耳元で聞いた声だとか、触れ合った肩の感触だとか。跳べないことを誰かのせいにはしたくなかった。そんなのただの八つ当たりだ。わかってはいても、突如として俺の世界(フィールド)に入り込んできた甘田の存在に、どうしようもなく心を乱されていた。

「お疲れー」
「お先ーっす」
「また明日ねぇ」
 思い思いの挨拶をして部員たちは帰路につく。時刻は18時を少し回ったところ、沈み始めた太陽が練習後のグラウンドを寂しく照らしている。どこからともなく漂ってくる夕食の匂いと、遠くで鳴くカラスの声が、一日の終わりを感じさせた。
「あ、甘田くん……途中まで一緒に帰らない? 同じ方向だよね」
 俺がシューズとタオルを鞄にしまっていると、少し離れたところから秋保の声が聞こえた。片付けの手は止めずに耳をそばだてる。
「や、本屋に行きたいから別方向」
「そ、そっか。それじゃ仕方ないね……」
「また明日」
「うん、また明日……」
 おいおいおい、何さらっと断っちゃってんの。すごい勇気出してたじゃん、秋保。
 いつもなら甘田に体当たりをして文句の一つでも言うところだ。しかし俺は何も言わず、何も聞かなかったふりをしてそそくさとその場を離れた。甘田に限らず、今は誰かと話をする気にはなれなかったから。
 全速力で自転車を漕ぎ、バスターミナルについたときにはバスまで30分以上も時間があった。自転車を駐輪場に停めたあとはすることもなく、植え込み近くのベンチに座る。いつもなら商業ビルをぶらぶらして時間を潰すのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。ペットボトルを開け、少しだけ残っていたスポーツドリンクを喉に流し込んでも、やっぱり気分は晴れない。
「あー……」
 何かをする気にもなれなかったが、かといって手持ち無沙汰になると色々なことを思い出してしまった。渋澤先輩にそう言われると嬉しいなぁ――ふにゃりと笑った顔だとか。危ないでしょ――そう言ったときの真剣な顔だとか。頭に焼きついて離れない。映画のワンシーンみたいに。
 そのとき、キィッと甲高い自転車のブレーキ音と一緒に、聞きなれた声がした。
「あ、見つけた」
 顔を見なくても誰かわかった。思わず空のペットボトルを落としそうになる。
「甘田……何でここに?」
「本屋に寄りたくて。ほら、そこの」
 甘田はバスターミナルに併設する商業ビルを指さした。そういえば大きめの本屋が入っていたっけ。
「漫画?」
「ルーズリーフです。なくなっちゃって」
「ああ……」
 視線を逸らすことで会話を終わらせたつもりだった。しかし甘田は違ったようだ。自転車をベンチの横に止め、俺の横にちょんと腰を下ろした。
「……何?」
「ちょっと喋ってこうかなって」
「俺、バスあるけど」
「18時28分発ですよね? まだ時間ありますよ」
 ……何で俺のバスの時間、知ってんの? 尋ねられずに話題を変える。
「……甘田って家どこ?」
「高校の近くですよ。徒歩10分くらい」
「へー、いいな。ギリギリまで寝れるじゃん」
「渋澤先輩は朝日町ですよね?」
「言ったことあったっけ」
「ないですね」
 ないのか。何で知ってるんだよ、ほんと。
 今度はどうやって話題を変えればいいのかわからなかった。何を話しても会話の内容にちっとも集中できない。甘田の手がどこにあるかとか、何を見ながら話しているのかとか、そんなことばかりが気になってしまう。変だ、俺。
 いつもの自分に戻りたくて、ようやく思いついた話題をあまり吟味することなく口にする。
「甘田ってさ、秋保とどうなの」
「どうなのって?」
 甘田はきょとんとした。
「秋保のこと、どう思ってんのってこと。さっきも一緒に帰ろうって誘われてたけど」
「誘われましたっけ?」
 ……本気で言ってんのか? その場のしのぎの話題だということを忘れて、少しだけ本気になってしまった。
「もう少し向き合ってやれよ。頑張ってんじゃん、秋保」
 甘田は俺の方を見ずに答えた。
「だって気を持たせるようなことする方が可哀想でしょ」
 はっきりと言われて言葉に詰まった。
 これ、俺が聞いちゃいけなかったやつだな。秋保の恋の結末を、部外者の俺が先に知ってしまうことになるなんて。
「……でもさ、そんなのわかんねーじゃん。頑張ってる姿を見てたら応えてやろうって思うかもよ」
「なりますか?」
「ないとは言いきれないだろ。毎日あんな感じでこられたら、気がなくても意識くらいするんじゃねぇの」
 俺には恋愛経験がないからあくまで想像だけど、間違ってはいないと思う。
「……意識、されるかなぁ」
 甘田のつぶやきが耳に引っかかった。意識される? 意識するじゃなくて? 単なる言い間違いだろうか、と仰ぎ見た甘田の顔は見慣れたいつもの笑顔だった。
「渋澤先輩、一口ちょーだい?」
「……へ?」
 何で、今? 俺は握りしめたままのペットボトルを見た。ベンチに座った直後に全部飲んでしまったから、一口やれる物はなにもなかった。
「これ、空だけど」
 甘田の目の前にペットボトルを掲げた。甘田の手がペットボトルの真横をすり抜けた。指先が俺の頬に触れる。その指先に気を取られた一瞬のことだった。
「んっ」
 顔に影が落ち、唇に柔らかいものが触れた。俺の周りだけ時間が止まる。離れていく甘田の顔がスローモーションで見えた。……今、何が起きた?
「へっ……え?」
「ごちそうさまです! じゃあ俺、本屋行くのでこれで!」
 甘田は笑顔で自転車にまたがった。大したスピードも出さないまま駐輪場の方へと消えていく。
 いやいやいやご馳走様じゃなくて。そんな菓子パンでも貰ったみたいな言い方。
 おそるおそる唇に触れた。ほんの一秒足らずのことだったのに、甘田の唇の感触がありありと残っていた。自覚すると途端に身体が熱くなる。心臓がありえないくらいに鳴っている。空のペットボトルが手のひらから滑り落ちて地面を跳ねた。
「……はぁぁっ!?」
 自分でもびっくりするくらい大声がでた。たまたま近くを通りかかったサラリーマンが、俺の声に驚いて跳び上がった。すみません、でも俺の方が驚いてるんだよ。だってあんなこと、いきなり、甘田のやつ。心臓が破裂しそうだった。叫びたいのか走りたいのか、自分でもよくわからない。名前をつけられないこの気持ちをどうやって落ち着かせればいいのだろう。
「どうすんだよ、もうこれぇ……」
 唇が熱い。何度、舌で湿らせてみても消えることはない。
 泣いているような情けない声は、夕暮れに吸い込まれて消えていった。