甘田くんは渋澤先輩のが一口ほしい!

「渋澤先輩、一口ちょーだい!」
 それが陸上部の後輩、甘田(あまた)瑠衣(るい)の口癖だ。
 
 真夏の太陽が乾いたグラウンドを照らしていた。スパイクシューズで踏みしめるたびに、からからに乾いた土埃が舞い上がる。汗ばんだ肌に張りついて気持ち悪い。カシュ、カシュ、と音を立てる芝生用のスプリンクラーに突っ込んでいったらどれだけ気持ちいだろう。
 俺――渋澤巧美はペットボトルの蓋を開けながら、おねだりポーズの甘田に向かって、もう何度口にしたかわからない言葉を投げつけた。
「やらねーよ、自分の飲め」
 甘田はきゅ、と形のいい眉を下げた。
「さっき全部、飲んじゃったんです」
「俺だってそんなに残ってねーっつの。水飲め、水」
 甘田に背中を向けてペットボトルに口をつけようとする。しかしこれも恒例、俺が口をつけるより早く、手のひらからシュッとペットボトルが抜き取られた。あ、こら。抗議の声をあげたときには、甘田はまるで自分の物のようにペットボトルに口をつけていた。
「ん、美味し!」
 ぬるいスポドリが美味いわけあるかよ。俺は目いっぱい手を伸ばしてペットボトルを奪い返した。
「甘田ぁ! いい加減しろよ毎日毎日!」
「はい、毎日ごちそうさまです!」
 甘田は、土臭いグラウンドに不釣り合いな爽やかさで笑った。湿気を孕んだ生ぬるい風が、俺と甘田のあいだを通り抜けていく。猫のように人懐こい瞳が思ったよりも近くにあり、俺は甘田に気付かれよう半歩だけ後ろに下がった。憎めない顔で笑いやがって、ちくしょう。
 甘田はこの春、陸上部に入ったばかり一年生だ。俺の方が一年先輩なのに、いつもこうして甘田にしてやられている。練習の最中に飲み物を奪われるのは日常茶飯事で、帰り際に菓子パンをかじっていたら横から掠め取られることもある。俺から貴重なカロリーを奪って楽しいのか? 少しでも背を伸ばたいのに。
 甘田がいなくなると、同級生の長谷部(はせべ)(ゆう)が面白がるように話しかけてきた。
「渋澤、またやられてやんの」
「うるせー」
 肩を組まれそうになったので振り払う。熱いっつの。
「なぁ、渋澤ってあんな甘田に懐かれてんの?」
「……わかんね」
「中学は別なんだよな」
「うん、別」
「昔、どこかで会ってるとか?」
「や、どーだろ……甘田が陸上やってたんなら会ってる可能性もあるけど……」
 何で甘田が俺に懐いてるのかって、そんなの俺が聞きたい。入部当初からあの調子だから、もしかして知り合いだっただろうかと思いそれとなく尋ねてみたこともあるが、どうやらそういうことでもないらしい。中学は別だし、陸上は初心者ですと言って笑っていた。
「じゃあ一目惚れされたとか?」
 長谷部がからかうような笑みを浮かべたので、俺は「止めろ」と長谷部の胸を小突いた。そういう冗談は好きじゃない。変な噂が流れでもしたら競技に集中できなくなってしまう。ただでさえ甘田は入部当初から女子部員の人気が高いんだから。……人気の理由? イケメンだからだよ!
「あんなの、ただの気まぐれに決まってるだろ」
 つぶやきながら甘田の方を見た。気まぐれ以外にありえない。好かれる理由もないし、懐かれるようなことをした覚えもないから。甘田は同級生の輪に交じり軽いストレッチをしていたが、俺の視線に気づくとかすかな微笑みを浮かべた。一瞬、目を奪われる。誤魔化すように視線を逸らした。
「本気で困ってるなら注意してやろうか?」
 長谷部の声で会話に引き戻される。幸いにも長谷部は、俺と甘田の無言のやりとりに気づいていないようだった。
「別に……大事にしなくていーよ」
「そう?」
「そのうち飽きるだろ。変に注意して辞められても困るし」
「まーな。コーチにも期待されてるからな、甘田は」
 それな。甘田は俺よりもずっと背が高く、運動のセンスにも恵まれている。未経験者でありながら、他の部員たちに交じって一人前にメニューをこなすのだから大したものだ。俺なんてメイン種目の高跳び以外はからっきしなのにさ。
「レスト、残り一分!」
 マネージャーの筒美(つつみ)あかねが、ストップウォッチを見ながら大きな声を出した。
 ゴール地点にたむろしていた部員たちに混じりスタート地点へと向かう。あと何本だっけ。三本、いや四本か。100mも離れていないはずのスタート地点が遠い。砂埃の向こうに霞んで見える。
 重たい足を動かしながらまた甘田の方を見た。今度は目が合わなかった。真っ白なTシャツに太陽の光を反射させた甘田は、同級生と話しながらスタート地点へと向かっていく。
 ……困ってるわけではないんだよな。
 冷たい態度をとってはいるが、俺は甘田のことが嫌いなわけじゃない。飲み物を奪われるのだって、口では「やめろ」と言うけれど本気で迷惑だと思ってるわけじゃない。多分、甘田もそのことをわかってる。人が本気で嫌がることをするような奴じゃないから。
「はー……」
 甘田に絡まれるのは嫌じゃない。ただ絡まれる理由がわからないから落ち着かないだけ。
 ……今度、スポドリに塩でも入れといてやろうかな。そんなことを考えながら、俺はまた意味もなく甘田の背中を見つめてしまった。

 ◇◇◇

「渋澤先輩、一口ちょーだい!」
「やらねーよ」
「一口だけでいいから……えいっ」
「あ……こら、甘田ぁ!」
 今日もそんなやり取りをして一日の練習が終わった。
 夏休みも近づいてきた土曜日の正午どきだった。練習中は賑やかだったグラウンドも、今はひっそりと静まり返っている。何人かの部員がトラックにブラシをかける音だけが静かに響いていた。
「渋澤。このあと飯、どう?」
 俺が練習で使ったスパイクを靴袋にしまっていると、長谷部が話しかけてきた。飯、と聞くと途端に腹が減ってくる。
「いーよ、どこ?」
「キングバーグ行こうぜ。誘いたい奴、いる?」
 キングバーグは、駅前にあるハンバーグ&ステーキのチェーン店だ。学生無料のドリンクバーが嬉しい陸上部の御用達。
 さて、誰を誘おうか。帰り支度をする部員たちを眺めていると、横顔に突き刺さるような視線を感じた。甘田だ。荷物を鞄に詰める手を止め、瞬きもせずに俺のことを見つめている。怖ぇよ。
「甘田さ、このあと」
「行きます!」
 早い早い、まだ途中までしか言ってない。そんなに行きたかったのか。
 俺と甘田、長谷部を含めて8人のメンバーが集まった。自転車に乗って駅前まで移動する。
 キングバーグの店内は、昼時ということもありかなり混みあっていた。大人数用のボックス席は空いていなかったので、四人ずつに分かれて座ることにする。俺がテーブルの奥側の席に腰を下ろすと、すかさず甘田が隣に滑り込んできた。
「お隣、失礼します!」
「素早いなお前」
「渋澤先輩のお隣は誰にも渡しません」
「……そうかよ」
 恥ずかしい台詞を惜しげもなくいいやがって。
 行儀よく席についた甘田の腕が、俺のニの腕に触れた。Tシャツ越しに伝わってくる体温が妙に気になり、さりげなく距離をとる。すると甘田は離れた距離を埋めるようにまた近づいてくる。……犬か。
「渋澤、ここいい?」
 甘田に続いてテーブルにやってきたのは、マネージャーの筒美あかねだった。俺が返事をするよりも早く席につき、マネージャー仲間の秋保(あきほ)凜々(りり)に向かって手招きをする。
「凜々、こっち。一緒に座ろう」
「あ、はい……!」
 小柄で人形のような顔立ちをした秋保は部内の妹的な存在だ。他意はないのに、駆けてくる秋保を何となく目で追ってしまう。
「渋澤先輩、何、食べます?」
 視界を遮るようにメニュー表が広げられた。ありがとう甘田、でも近すぎて逆に見えない。
「えーと……普通にランチセット。チーズハンバーグで」
「じゃあ俺もランチセットにします。デミグラスハンバーグ」
 15分も経つと、テーブルには4人分の料理が運ばれてきた。俺と甘田はランチセット、秋保と筒美はレディースセット。焼きたてのハンバーグを口に入れると、じゅわっと肉汁が溢れ出してくる。
「はー……うま」
 俺がハンバーグを噛み締めていると、甘田が物欲しそうに覗き込んできた。
「渋澤先輩のチーズハンバーグ、美味しそうですね。一口ちょーだい?」
 これだよ。
「やらねーよ。自分の食え」
「一口交換しましょうよ。俺のも美味しいですよ、ほら」
 甘田はフォークに刺したハンバーグを俺の口元に押しつけてきた。
「いらねーっつぅの」
 顔を背けてみても甘田はお構いなしだ。ぐいぐいと無遠慮にハンバーグを押しつけてくる。正気か?
「ちょ……ソース垂れる、止め……むぐっ」
 ついには強引に口の中にハンバーグを突っ込まれてしまった。口いっぱいに広がるデミグラスソースのまろやかな味。……確かに美味いな、でも美味けりゃ許される話じゃないと思うんだ。
 甘田は胡桃型の目を細くして俺の顔を見つめていた。
「……もう一口いります?」
「いらねぇよ……」
 ハンバーグを飲み込んでから筒美と秋帆の方を見た。目の前で男同士の「あーん」を見せられて反応に困っているかと思いきや、筒美に至ってはまるで気にかけた様子がなく、秋帆だけが羨むような目を向けていた。
「甘田くんって……渋澤先輩と仲良しだよね」
「うん、大好きだからね」
 いや、誤解を生む言い方すんな。俺は慌てて訂正した。
「甘田の好きは師弟愛的なやつだから。変な意味じゃないから」
「そ、そっか。そうですよね……」
「うん、ははは……」
 そのとき、筒美がポテトをかじりながら会話に口を挟んできた。
「甘田って、付き合ってる人とかいるの?」
「いないです」
「じゃあ好きな人は?」
「渋澤先輩ですね!」
「おい!」
 思わず大きな声が出てしまった。そして華麗にスルーされた。
「渋澤を除いて答えるなら?」
「んー……それなら特にいないですね」
「じゃあ好みのタイプは?」
 筒美は無遠慮に質問を重ねる。筒美の隣では、秋保が緊張した表情で口元を押さえていた。
 ……そういえば秋保は甘田が好きなんだっけ。誰かに聞いたな、そんなこと。筒美の質問の思惑に気づいているのか、いないのか。甘田は腕を組んで「うーん」と唸る。
「好みのタイプ……渋澤先輩は除かないといけないんですよね」
「何でそこ再確認すんだよ」
 箸を片手に突っ込んでみるが、甘田は動じない。
「それなら尊敬できる人がタイプですね」
 すかさず筒美が食いついた。
「尊敬って、具体的にはどういう面で尊敬できる人?」
「どんなでもいいですけど……相手を尊敬できるって恋愛において重要じゃないですか?」
「まぁ、確かにね」
 俺って甘田にとって尊敬できる先輩なのかなぁ。そう考えた瞬間、みおぞちの辺りがそわついた。いや、別に俺には関係ない話じゃん。誤魔化すように席を立ち、空のグラスを片手にドリンクサーバーへ向かう。人の気配を感じて振り返ると、後ろから甘田がくっついてきていた。……お前もくんのかい。
「先輩、次、何飲みます?」
「……コーラ」
「好きですもんね」
「何で知ってんの?」
「たまに練習終わりに飲んでるじゃないですか」
「あー……うん。確かに」
 ドリンクサーバーにグラスを置き、コーラのボタンを押す。
「渋澤先輩の好みは?」
「ん、コーラの話?」
「人間の話です。どんな人が好みのタイプ?」
 一瞬、答えに詰まった。
「……どうだろ。あんま考えたことない」
「年上とか年下とか、同い年がいいとか」
「んー……話題がずれない範囲ならどうでも」
「そうですか」
 甘田はありきたりな相槌を打ったあと、空のグラスに氷を入れ、少し悩んでメロンソーダのボタンを押した。鮮やかな緑色の液体がグラスを満たしていく。俺はコーラを片手にその光景を眺めていた。先に一人で席に戻ろうかとも思ったけど、くるときは一緒にきたんだし。
「まぁ、俺は年上が好きですけどね」
 メロンソーダを注ぐ音に交じり甘田の声が聞こえた。何の話だ? ああ、好みのタイプの……
 俺が甘田の顔を見上げたときには、甘田はもう俺に背中を向けていた。メロンソーダのグラスを片手に席へと戻っていく。おい待てよ、先に戻んなよ。俺は待ってたじゃん。口に出そうとしたが言葉にならず、追おうとしても足が動かなかった。甘田の背中は遠ざかり、ボックス席の角を曲がって見えなくなってしまう。
「何なんだよ、もー……」
 つぶやく声はざわめきに飲み込まれた。甘田は年上が好き。それほど珍しい好みでもないのに、なぜか聞き流すことができなかった。首の周りが太陽にあてられたように熱を持っている。店内はクーラーが利いて涼しいはずなのに。
 席に戻るまで待ちきれず、冷えたコーラに口をつけた。炭酸がのどに染みる。小さい頃からコーラが好きだ。どんなつらい練習のあとでも、コーラを飲むとすっきり気分が切り替わった。でも今日はちっともだった。グラスの底から次々と湧いてくる気泡みたいに、うまく名前のつけられない感情が湧き上がってくる。
 結局、筒美がドリンクを注ぎにくるまで、俺は席に戻ることができなかった。