「ときちゃん、行こう」
放課後、散歩に行くのを待ちきれない犬みたいに瞳をキラキラと輝かせた崎本が声をかけてくる。準備万端、いつでも行けますという顔をしているが、その行き先に心当たりがない。
「行くって、どこに?」
俺は今から美術室に行って、そこの窓からサッカーをする崎本のことを眺めようと思っていたんだけど。
「俺のこと、描くんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、近くで見ればいいじゃん」
「いや、練習の邪魔したくないし……」
「誰もときちゃんのことをそんな風に思わないから」
それは俺の影が薄いということか……と言いたいのをぐっと堪える。まっすぐ芯が通った崎本に、これ以上卑屈なところを見せたくない。
「上からでも十分見えるよ」
「なに、近くで見たら俺の魅力が半減するって言いたいの?」
「そうとは言ってない……」
「じゃあ、試しに今日だけでも。ね?」
「はぁ……強引な奴め」
「ふふ、俺の勝ち」
渋々というのが顔に書いているはずなのに、崎本は嬉しそうに笑う。変なのと思いながら、リュックを手に持った。入っているものは普段と変わりないはずなのに、少し重たく感じた。
◇◇
練習着に着替えた崎本の後ろを縮こまりながら歩く。こいつ、やばい。通り過ぎる全ての視線が崎本を向いている。こんなに注目されて、居心地悪くないのか。いや、昔からこうだからきっともう慣れたのだろう。変に注目を浴びたくなくて、自分は関係ないですよというオーラを放ちながら下を向いて歩いていれば、不意に声をかけられる。
「あれ、時田くんだ」
「仮入部?」
「そう、新入部員」
「おい、嘘つくな」
俺に気づいたのは、ベンチの横で怠そうに話していた田畠と関だった。真面目くさった顔で崎本が嘘を宣うものだから、すかさず訂正する。そんな俺たちをニヤニヤしながらふたりが見つめる。
「いつの間にそんなに仲良くなっちゃったんだよ」
「大雅ったら、手が早いんだから」
くねくねしながらふざけて崎本をからかうふたり。いつもこんな調子なのだろう、崎本はあっさりスルーしてこちらを向いた。
「あそこが日陰になってていいかも」
「じゃあ、そこで見てる」
崎本が指差したのは、グラウンドの隅に植えられた木陰。ほんの少しの距離だから一人で行けるのに、わざわざ俺についてくる。
「ときちゃん」
「ん?」
画材を並べていると、崎本が声をかけてきた。手を止めて顔を上げれば、いつになく真剣な瞳と目が合う。
「俺だけ見てて」
そう希う崎本はどこか不安そうで、だけどハッと息を飲むほどの美しさに思わず見とれてしまう。そんな顔をした奴に言われなくたって、俺の瞳には崎本しか映っていないのに。
「見てるよ」
「っ、」
これを描き終えるまではずっと。
言葉にしようとしたタイムリミットは、結局喉奥に詰まって声に出せなかった。
陽の光がよく似合う崎本と、誰かの影に隠れることしかできない俺。交わらないはずだった俺たちの二週間はあっという間に過ぎ去った。
◇◇
「……できた」
ふぅと長く息を吐き出して、完成した絵を見つめる。絵の具で汚れた手は勲章だ。唯一無二の美しい男が俺のキャンバスで躍動している。誇らしいはずなのに、達成感と同時に湧き上がるのは寂寥感。
『ときちゃん、コンビニ寄ってこうよ』
『アイス、どっちが好き?』
『お金はいいよ、スポドリくれたお返しだから』
『英語って、何で毎回小テストやるんだろうね』
『問題出し合いっこしながら帰ろうよ』
『今日の体育、頑張ってたね』
『えー、バスケするときちゃん、可愛かったけどなぁ』
『そっか、もうあとちょっとで完成しちゃうんだ』
『楽しかったなぁ』
この二週間は今までの学生生活の中で一番充実していた。思い出のすべてに崎本がいるのに、あの時自分がどんな表情をしていたのかは思い出せない。
随分、贅沢をしたと思う。たったの二週間とはいえ、みんなが好意を向ける人を独り占めしたんだ。もう十分だと言い聞かせるのに、離れたくないと心の奥底で訴えている。
キャンバスがぐちゃぐちゃになればいいのに。そうすれば、また一から崎本を描ける。
……なんて、絵描きとして絶対に思ってはいけないことを思いついてしまった自分に嫌気がさす。作品のクオリティとしては申し分ないのに、私利私欲のためだけにぶち壊すなんてありえない。
美しいものをキャンバスの中に閉じ込めることには成功したはずなのに、そこに閉じ込めきれなかった感情が涙になって溢れてくる。ぽろぽろとこぼれ落ちる大粒の雫が地面を濡らしていく。
真剣にサッカーをする姿。隣の席で悪戯っぽく笑いながらメッセージを見せてくるところ。唯一のあだ名で俺を呼ぶ甘い声。ふたりで歩く帰り道。少しずつ崎本を知って、知る度に思いが募っていった。
もう、誤魔化しようがないのは分かっている。
俺は崎本が好きだ。
最後の最後で、そう、自覚するなんて。
こんな顔、崎本には見せられない。タイムリミットはもうやってきたのだから、部外者はさっさと立ち去るべきだ。そそくさと散らばった画材を集めていく。最後に完成したキャンバスを持とうとしたときだった。
「ときちゃん、完成した?」
「…………」
背後からそう声をかけられて、固まってしまう。近づいてくる足音は聞こえているのに、後ろは振り向けない。いっそ無視してしまおうかと足を動かすけれど、崎本の方が早かった。
「ときちゃん?」
「っ、」
返事をしない俺の名前を不思議そうに呼ぶ崎本が視界に入る。しかし俺の目から流れ落ちる涙を目にした途端、その表情は剣呑なものに変わった。
「何があった? 誰かに嫌なこと言われた?」
がっと肩を掴まれて、その勢いに驚いて一歩後ずさる。何も答えなかったらそのまま存在しない犯人を探しに行ってしまいそうで、ふるふると首を横に振ると表情が少し柔らかくなった。
「俺に話せる?」
再び首を振ると困ったように眉が下がった。ああ、そんな顔させたくなかったのに。またひとつ、ぽろりと雫がこぼれ落ちる。
きっと、一目惚れだったんだ。あの日、自然と目が吸い寄せられたのも、ずっと崎本が気になっていたからだって今なら分かる。
こんな姿を見られて悔しくて、恥ずかしくて、感情がぐちゃぐちゃでどうしようもない。涙を隠したくて濡れた頬を手の甲で拭おうとすると、その手を掴まれた。そして、崎本の手が代わりに優しく頬を撫でる。触れた指先から熱が伝わって、血が沸騰しそう。
「あ、ごめん」
「…………」
「絵の具が付いてたから、顔についちゃうと思って」
崎本の優しさが傷だらけの心に染みて、更に涙が溢れてくる。
「俺にもう関わらないで」
「……嫌だ」
「っ、でももう終わりじゃん」
「どうして?」
「だって、絵は完成したから」
ただのクラスメイトから、ほんの少しだけ昇格した関係。それからまた元に戻るんだ。震える声で終わりを告げれば、自分で言ったことに自分で一番ダメージを食らっている。
「ときちゃんはこの二週間楽しくなかった?」
「…………」
「俺はすっごく楽しかったよ。ときちゃんのこともたくさん知れて、意外と表情豊かなところとか、実はちょっと子どもっぽいところとか、新しい一面を知る度にかわいい人だなって思ってた。どんどん欲深くなっていくし、これからもっとときちゃんのことを知りたいなって思ってるから」
「…………」
「だから、もう関わらないなんて無理だよ」
はっきりとそう言い切った崎本から送られてくる熱視線にくらくらする。その目で見つめないで。ダメなんだ、全てを見透かされているみたいで、俺の心が裸にされてしまう。
「ときちゃんには誰よりも優しくしたいし、甘やかして、俺しか頼れないようにしたいと思ってるから」
「っ、」
「こんなことを思うの、ときちゃんにだけだよ。その意味が分かる?」
「……わ、かんない」
吐き出された本音に耳を疑う。心臓が今までにないほど忙しなく動いていて、鼓動の音が尋常じゃなくうるさい。掠れた声で答えれば、崎本は甘く微笑む。
「ときちゃんに恋人になってほしい」
「っ、」
「好きだよ」
ズキュンと、矢がハートに突き刺さるみたいな衝撃。嘘をついているようには見えないけれど、崎本に好かれる要素なんて持ち合わせていなくてただただパニック。驚きのあまり涙も止まって、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「ふふ、目がまん丸になってる」
「な、なんで……」
ようやく絞り出せた言葉を聞いて、崎本は照れくさそうにしながらもぽつぽつと話し始めた。
「昔の話をするのは恥ずかしいんだけど、言わないとときちゃんは信じてくれなさそうだし、一回しか言わないからね」
「……ん」
「去年、たまたま通った廊下で目に入ったのがひまわりと少女の絵で。色鮮やかで明るい雰囲気なのに、どこか繊細で仄暗さみたいなのを感じて。こんなに素敵な絵を描く人がいるんだって感動した」
「…………」
「その前を通る度に『俺も描いてほしいなぁ』って思うようになって、小さく書かれていた名前を反芻してたら、今度はその人に会いたいって欲が出てきて。美術部らしいって聞いたから、部活が休みの日に覗きに行ったんだ」
「うそ……」
「引くよね、そりゃ。でもね、そこで見たときちゃんの瞳がすごくまっすぐで、真剣で、めっちゃかっこよくて。あ、こんなに綺麗な人が描いてたんだって知ったら、俺もその世界に入れてほしくなった」
美術室で絵を描いているときは自分の世界に浸って、他のものが目に入らなくなっているから、崎本がそんな俺を観察していたなんて全然知らなかった。
「同じクラスになってからは舞い上がっちゃって、どうやって距離をつめたらいいんだろうって悩んだくせに小学生みたいなノリでしか絡みにいけなくて。もっとスマートに見せたかったのに、早々に絵は下手だってバレるし、空回りしてばっかりだったんだけど」
「…………」
「ときちゃんに言ったよね、『覚悟しておいて』って」
「っ、」
「待ってほしいって言うなら、いくらでも待つよ。だから、」
「……待たなくて、いいから」
「……でも、もう少し頑張らせてよ。こんな成り行きみたいな告白じゃなくて、もっとちゃんとアピールさせて。これで終わりにはしないで」
いつもとは違う、余裕のない顔。違うんだよ、崎本。そんなに必死にならなくていいんだ。そう言いたいのに、矢継ぎ早に言葉を紡がれて口を挟む隙がない。ようやく止まった懇願。「崎本」と名前を呼べば、捨てられた子犬のような瞳で見つめてくる。
「俺の話、聞いてよ」
「今からフるっていうなら聞かない」
「ふふ、ほんと意外だよなぁ。第一印象に惑わされすぎたわ」
「ときちゃん……?」
「俺の気持ちも聞いてくれないの?」
「それって……」
「この絵が完成したら崎本との繋がりもなくなるんだって思ったら、終わってほしくないなって思いが強くなって」
「……勝手に終わらせないでよ」
「うん、そうだね。キャンバスの中だけじゃ全然足りない。ねぇ、ワガママ言ってもいい?」
「いいよ」
自分の思いを伝えるのはすごく勇気のいることで、羞恥心はピークに達しているけれど、真正面からぶつかってきた崎本に俺もちゃんと思いを伝えないとフェアじゃない。
今までの俺だったらきっと言えなかった。だけど、あの日、崎本が輪に入れてくれたから。この人ならちゃんと受け止めてくれるから大丈夫って信じられる。これから先も続いていく関係にしたい。それを叶えるには自分の気持ちを素直に伝えるしかない。
「……崎本の特別にならせてください」
「っ、うん」
「俺も、好きです」
そう言うと、一瞬固まった崎本がぐいっと腕を引っ張った。気づけば俺は彼の腕の中。爽やかな夏の匂いがする。優しい温もりの中で、崎本は「大事にする」と囁いた。
構ってちゃんには理由がある。
大好きなあの子のハートを射止めるために、今日もまた構ってアピールを欠かさないのである。
【完】



