構ってちゃんには理由がある


「ときちゃん、おはよ」
「お、おはよう」

 あれから崎本は至って普通で、あの一文は俺の見間違いだったのではないかと自分を疑うほど。俺ばかりが乱されて、崎本のことで頭がいっぱいになっている状況から抜け出したいのに、話しかけられるとつい身構えてしまって、なかなかうまくいかない。今だって朝の挨拶を交わしただけなのに、心臓がドキドキとうるさくて、自分が自分じゃないみたい。

「はぁ……」

 教科書の隅でぐるぐるとシャーペンが意味もなく踊る。歪なダンスをしたって、答えは見つからない。崎本で頭をいっぱいにしている場合じゃないのに。俺にはもっと向き合わないといけないことがある。

 現実は残酷だ。次のコンクールの締切が来月末に迫っている。時間は止まってくれないし、どうしようという焦りばかりがどんどん大きくなっていって空回りの日々。去年から描き貯めているものはいくつかあるし、顧問からの評判も良かったけれど、自分自身で正直納得できていない。

 去年は入選できたんだ、今年はその上をいかなくちゃ。そんなプレッシャーに負けて絶賛スランプ中だなんて、本末転倒だ。そう冷静に分析できているのに、これだという題材が未だに見つからない。

 いっそのこと、明確なテーマがあったらいいのに。『自由』なんてテーマ、一番難しいだろ。なんて、長年続いているコンクールに文句を言ったってしょうがない。

 何か適当に描いていたら答えが見つかるだろうか。そんなことを考えながら筆を持って何日経っただろう。部室に向かいながら、肩を落としてとぼとぼと渡り廊下を歩く。グラウンドでは既に運動部が体を動かしているようで、太陽に負けないほどの元気な声が聞こえてくる。

「あっつ……」

 こっちはジリジリと照りつける日差しに負けそうだっていうのに。八つ当たりをするみたいに、睨みつけるようにしてグラウンドに視線を送ったときだった。

 一人の男がサッカーボールを蹴りながら、コートの中を縦横無尽に駆け回っている姿が視界に入る。ボールの扱いがかなり上手いということは素人目でも分かる。きっと、自分なら三歩目で足が絡まって転けている。ゴール前まで華麗にボールを運んだ彼は、その勢いのままシュートを決める。まるでそこだけスポットライトが当たっているかのように、目が離せなかった。

 こんなに自由に体を動かして、思いのままにボールを操る人を初めて見た。目が奪われるって、こういうことをいうんだ。その一瞬のきらめきにとらわれた。キャンバスの中に閉じ込めて、ずっと眺めていたい。追い求めていた『美』がそこにある気がした。今まで生きてきた中で、こんなに美しいと思った人に出会ったのは初めてだった。

「崎本……」

 ただの顔のいいクラスメイトだと思っていた。人気者で、人当たりはいいけれど、全員から一定の距離でバリアを張っているような闇深さも感じる奴。構ってちゃんなところは鬱陶しいし、俺ばかりが心を乱されているのも気に食わない。

 だけど、こんなに近くにいたなんて。俺が追い求めていたミューズ。目の前に靄がかかっていたはずなのに、思考が途端にクリアになった。全身が震えて「これだ」と訴えている。抱えていた悩みは全て消え去った。俺はまだ上にいける。そう確信して「早く描きたい」という欲が湧いてくる。

 モデルになってほしい。明日になったら、崎本にそう言おう。俺なんかの依頼を受けてくれるかは分からないけれど、自分から行動しなくちゃ何も始まらない。

 ◇◇

 予鈴が鳴って、教室がザワザワと騒がしくなる。関と田畠が自分の席に戻っていくのをじいっと見送って、ターゲットがひとりになったところを虎視眈々と狙っていた。早く頼みたいと気は急いているのに、断られたらと思うと何て切り出せばいいのか分からない。

「あの……」
「ん? ときちゃんから話しかけてくるなんて珍しいね。あ、絵しりとりしたいとか?」

 だけど、早くしないとSHRが始まってしまう。言葉がまとまっていないのに話しかけると、目を丸くしながらも、崎本は嬉しそうにこちらを向いた。その眩しさに目を背けたくなりながら、蚊の鳴くような声で返事をする。

「それは……また今度」
「ふふ、一緒にやってくれるんだ」
「……崎本の絵、味があるから俺は好き」

 視線を逸らしながらぽつりとそう言うけど、崎本から言葉が返ってこない。顔を上げれば、彼は逆さまになった数学の教科書で自分の顔を隠していた。えっ……と困惑する。その行動の意味が分からない。何かやってしまったかと分析するけれど、正解は導き出せない。

「崎本?」
「……ハイ」
「ごめん、俺、嫌なこと言ったかな」
「っ、ちがう!」

 慌てた様子の崎本が大きな声で否定しながら立ち上がりかける。その拍子に、机に叩きつけられた可哀想な教科書が悲鳴を上げた。崎本の顔は赤く染まっていて、それを隠したかったのかと察する。けど、どうして? そうなった原因が分からなくて首を傾げていれば、咳払いして平静を装った崎本が「ごめん」と謝る。

「ときちゃんに『好き』って言われたのが嬉しくて……。あー、恥ずかしい」

 そう言いながら、パタパタと手で顔を仰ぐ。スカした奴だって思っていたけど、意外と素直なところがあるということは最近知った新たな一面。

「『好き』なんて、言われ慣れているだろ……」
「何か言った?」
「ううん、なんでもない」
「で、何の用だった?」
「嫌なら全然断ってもらっていいんだけど……」
「ときちゃんの頼みなら何でも協力するよ?」

 内容を聞いていないくせに、そう言って甘く微笑む。厄介だ、この顔面。ドキッとして一瞬怯んでしまう。

 白状すると、俺は美しいものが好きだ。面食いだと言われて否定できないほどに、顔の整った人が好きだ。キャンバスという自分ひとりで作り上げる小さな世界。その中に、自分の手で描いた美しいものを永遠に閉じ込めていたいと常々思っているほどに。そして崎本という存在の真の美しさを知ってしまった今、俺はこの男の一挙一動から目が離せない。

「今度、コンクールがあるんだ」

 そうたどたどしく切り出すと、崎本は興味津々に「へぇ」とこぼす。

「それの、モデルになってほしくて……」
「え、俺が?」
「あ、嫌ならいいんだ。他の人を探すから。ただ、ずっと何を描こうか悩んでる時に崎本が目に入って、今一番描きたいって思ったから」
「ちょっと、ストップ」

 急にモデルになってほしいなんて、さすがの崎本も引いたかな。断られる気配しかなくて、キリキリと胃が痛む。俺の中では、崎本を描く気になってしまっている。でも、崎本本人が「嫌だ」と言うならそれを尊重しなくちゃいけない。

 俺の真意を確かめるように、真剣な眼差しが俺を射抜く。美形の真顔は恐ろしい。怯みそうになりながらも、黙ってビー玉のように涼やかな瞳を見つめ返した。

「つまりそれってさ、ときちゃんが今一番興味を持っている対象が俺ってこと?」
「うん」
「はぁ……」

 迷いなく頷けば、遠慮のない特大のため息を吐き出す。そして、崎本は覚悟を決めたように頷いた。

「いいよ、ときちゃんのためなら一肌脱いでやる」
「ほんとに?」
「他の奴にそのポジションを渡したくないしね」

 ぽつりと溢された言葉は耳に入ってこなかった。了承してもらえたことが嬉しくて、ふわりと笑みがこぼれる。なんだか、久しぶりに表情筋が仕事した気がする。

「ありがとう、俺のキャンバスに閉じ込めさせてもらうね」

 遠慮なくそう言うと、また崎本は真っ赤になって「っ、言い方……」とぶつぶつ呟いていた。だけどもう気にならない。だって、言質は取った。この美しい男を俺の手でどう描こうか。そのワクワクで満たされている。