「…トコヤミが復活しただと!?」
仁の言葉に、丞之助たちは唖然とする。
「さすがに早すぎないか!?前回は、まだ七年前なんだぞ」
「だからなんだというんです。正確な周期なんてありません。それが今日だったとしても、なにも不思議ではないはずです」
「しかし…」
未だに半信半疑の丞之助だったが、北の空に大きな蛇な影が映って顔を青ざめさせた。
遠くからでもわかる、肌にささるようなビリビリとした妖気。
仁は、肩をすくめて震える椿を抱き寄せた。
黒い蛇の影と渦巻く妖気は、左のほうへと流れていった。
「仁様、あちらには帝都が…!」
「ああ。あんなところで暴れられたら、多くの死傷者が出る」
「都民はもとより、帝都には帝もいらっしゃるのだぞ!なんとかせんか、黒領!」
「言われなくてもわかっています」
仁は丞之助に向かって舌打ちをする。
「ここで、あなた方と争っている場合ではない。俺は帝都へ向かいます」
「仁様!それでしたら、わたしも連れていってください」
「椿を?だめだ、危険すぎる。それに、こんな傷だらけのお前は連れていけない」
痩せこけた頬に、口元には痛々しいくらいに慶一に殴られてできたアザが浮かぶ。
だが、それでも椿は真剣な表情で仁を見つめた。
「もし、どなたかがトコヤミの呪いにかかったら、わたしが役に立つかもしれません」
「たしかにそうだが…」
「それに、もう仁様と離れたくないのです!」
椿のまっすぐなまなざしが仁の瞳を捉える。
その揺るがない信念に、仁は眉尻を下げた。
「わかった。もう、守られるだけのお前じゃないんだな」
柔らかく微笑むと、椿の体を抱きかかえた。
「俺たちは行きますが、あなた方も向かわれなくてよろしいのですか」
仁に視線を向けられ、丞之助たちはぽかんとした間抜け顔を見せた。
「な、なぜ我々が…。トコヤミの討伐は、貴様ら軍人の仕事だろう」
「そちらは任せくてくださって結構。ただ、あらゆる呪いから帝をお守りするのがこの國唯一の呪い祓い、清家一族の役目では?」
仁の正論に、丞之助はぐっと言葉を飲み込む。
これまで帝をお守りするため、帝自身や住まいの御所周辺の呪いを祓い、結界を張ってきた。
それが清家一族が代々引き継ぐ、誇り高き職務だった。
だから、帝に呪いの危機が迫るというのなら、清家家が出ないわけにはいかない。
しかし、先ほど目にしたトコヤミの姿が恐ろしく、足がすくんで動けないのだった。
「お父さま、アタシは絶対に嫌よ!あんな恐ろしいバケモノのところへ、わざわざこちらから行かないといけないなんて!」
「そうです、父上。我ら清家一族になにかあれば、これから國に振りかかる呪いをだれが祓うというのです!」
出向きたくない芙未と慶一は、必死になって丞之助を説得する。
丞之助だって行くつもりなどなかったし、今でも行きたいとは思わない。
「もし帝がトコヤミの呪いに冒されたら、どう責任を取るおつもりですか」
だが仁の追い討ちに、なにも言い返せない丞之助は歯ぎしりをするばかり。
「御所の者には、すぐに清家一族が帝をお守りにくるから安心しろとお伝えしておきます」
「…貴様!なに勝手なことを――」
「それでは、帝都でお会いしましょう」
仁はニヤリと口角を上げると、椿を抱えたまま颯爽と駆け抜け、帝都へと急いだ。
仁たちが駆けつけると、すでにトコヤミは帝都の玄関となる大門を破壊して、ゆっくりと突き進んでいた。
「迎え撃てー!」
「決して、これ以上の侵入を許すな!なんとしてでも食い止めるんだ!」
巨大な蛇のあやかし――トコヤミを相手に、異能者の精鋭たちを揃えた軍隊が出動し、応戦していた。
しかし圧倒的なトコヤミの姿に、恐怖で精神が乱れ錯乱状態の者も多く、まったく連携が取れていない。
「だれか助けて!主人が瓦礫の下敷きに…!」
「うわぁ〜…ん。お母ちゃん、どこにいるの…」
さらには、先ほどの地震と侵攻するトコヤミにより家屋が倒壊し、すでに人的被害が多数出ていた。
帝都へとたどりついた椿は、首が痛くなるほどに見上げる禍々しい巨体に、ごくりと息を呑む。
重苦しくまとわりつく妖気は、それだけで体に負荷がかかりそうだ。
混乱する軍、逃げ惑う人々。
帝都は地獄絵図と化していた。
なんとか正気を保って佇んでいた椿だったが、ふとあることに気がつく。
「仁様。トコヤミは、あやかし…なのですよね?」
「ああ。それがどうした」
椿には見えていた。
巨大なトコヤミの体から溢れる、おびただしい数の小さな黒い蝶たちが。
「もしかしたら…トコヤミの正体は、呪いの集合体ではないでしょうか」
「呪い?なにか見えるのか」
「はい。トコヤミの周りには呪いの黒い蝶がたくさん舞っています」
「しかし、呪いであれば、俺たちの目にも見えるはずがないのだが…」
仁はひとり言をつぶやき、顎に手を当てる。
「隊長、異能が効きません…!」
「そんなはずないだろう!?ヤツはあやかしだぞ!」
軍からそんな叫び声も聞こえ、仁ははっとして顔を上げる。
「長年にわたり凝縮した呪いがあやかしになったとすれば、椿のような特別な力がなくとも、見える可能性はあるのかもしれない」
「呪いがあやかしに?」
「ああ。それなら、対あやかしの異能が効かないのにも納得がいく」
そうして仁は、ゆっくりと背中の刀を引き抜いた。
「あのときは無我夢中でよく覚えていなかったが、たしかに呪い斬りの異能でヤツを斬ったかもしれないな」
仁が目を向けた刀からは、黒い炎がまとわりだした。
仁ならきっとトコヤミを斬ってくれる。
しかし、無傷で帰ってこれる保証はない。
「仁様…」
椿は一度仁の背中に手を伸ばすも、そっとその手をを引いた。
今からかけようとする言葉が、仁の妨げになってはいけないと思ったからだ。
ぎゅっと手を握りしめ、うつむいた――そのとき。
「椿。この戦いが終わった暁には、本当の夫婦になろう」
悲鳴や爆音が鳴り響く中でも、その言葉だけはたしかに椿のもとへ届いた。
見上げると、椿を背にしてニッと笑う仁の横顔が見えた。
「だから、安心して見守っていろ」
「はい!」
椿は満面の笑みで応える。
仁を見送った椿は、傷病人の手当ての手伝いへと向かった。
「隊長、応援を…!過去に、トコヤミを斬ったという英雄を呼んでください!」
「そんな昔話を今してどうする!それに、ヤツは…」
「オレ、その人に憧れて入隊したのに、こんなところで死にたくねぇよ…」
とくに若い者は精神もまだ未熟で、次々に戦意を喪失していく。
そんな軍人たちに、トコヤミがギラリと鈍く光る瞳で狙いを定める。
「も…もうだめだ」
「殺される…!」
死を覚悟した軍人たちだったが、目の前で振り下ろされようとしていたトコヤミの尾が突然弾け飛んだ。
「なにが起こったんだ…?」
呆然とする彼らの前に、刀を構えた仁が降り立つ。
自分たちが着用している群青色の軍服とは違い、見たこともない真っ黒な軍服姿の仁の登場に目を丸くする。
「あ、あなたは…」
「俺の名前は、黒領仁」
それを聞いて、周囲はどよめく。
「…黒領仁だと!?その軍服の色…、お前が噂に聞く陰の軍人か」
「汚れ仕事を請け負うこの國の影であるお前が、なぜ堂々とこんなところに――」
「馬鹿か!今はそんなことを言っている場合か」
仁の一喝に、若い軍人たちは慌てて口をつぐむ。
「若僧ども、よく覚えておけ。俺は、お前たちのいう陰の軍人。そして、トコヤミを斬った唯一の男だ」
トコヤミを前に、ひとりで立ちはだかる仁の背中は、後ろに佇む隊員たちからは勇ましく見えた。
「トコヤミを斬ったかつての英雄が…、陰の軍人だと?」
「それは本当ですか、隊長!」
若い隊員たちは、こぞって三十も年上の軍隊長に詰め寄る。
トコヤミを斬った功績と、それゆえに呪いを刻まれ部下を斬りつけた仁の過失は、今の軍ではすでに抹消され、知っている者は一部の権力者しかいない。
仁の名前を出すのも禁句とされてきたため、齢五十の軍隊長も躊躇ってはいたが、ついに重い口を開いた。
「そうだ。あいつこそが七年前、トコヤミを斬った英雄だ」
口を割ってしまったことに負い目を感じた軍隊長だったが、周りにいた隊員たちの反応は予想外のものだった。
「うおおおおお!!英雄がきてくれたのなら百人力だ!」
「やれる!必ずトコヤミを倒すぞ!」
疲弊していた軍は再び息を吹き返し、仁の存在に士気が上がった。
「援護します!指示をください!」
軍隊長をその場に残して、隊員たちは仁の背中についていく。
「フッ。単純なやつらだ」
仁は呆れ顔だが、どこかうれしそうだ。
遠くのほうから見守っていた椿にはそう見えた。
「いいか、お前ら。あいつはあやかしとはいえ、正体は呪いの塊だ。通常の異能は効かない。やるなら、呪い斬りの異能で応戦しろ」
「はい!」
隊員たちを引き連れトコヤミに斬りかかる仁の姿は、こんな極限状態だというのに、これまでにないほどに生き生きとしていた。
呪い斬りの異能により、トコヤミを確実に追い詰めていく。
しかし、完全に消滅させるには、一太刀で首を斬り落とす必要があった。
その巨体からでは想像もできないくらいに動きが速く、何度首を狙っても避けられ、傷つけたとしても刃がかすめる程度だった。
「ハァ…、ハァ…。七年前、こんなバケモノの首をひとりで斬っただなんて」
隊員たちからは焦りと疲労の色が浮かぶ。
そんな中、仁はトコヤミの首をただひたすら集中的に狙っていた。
仁の的確な攻撃に、それまで侵攻を続けていたトコヤミがようやく歩みを止めた。
だが、様子がおかしい。
「…なんだ、あれは!」
驚く隊員の目の前には、とぐろを巻いて丸くなったトコヤミの巨体が立ちはだかる。
しかも、首を中に入れてすぼめており、とても斬り落とせる状態ではない。
「このままじゃまずいと思って、防御に入ったか?」
「…いや。それにしては、なにか変じゃないか」
隊員たちは、ごくりと唾の飲み込んで見上げる。
さっきから動かなくなったトコヤミだが、まるで体全体で脈打つように、ドクンドクンと規則的に膨張しはじめた。
なにかを察知した仁は、一目散に救助活動を行う椿のもとへと駆けつけ、包み込むように強く抱きしめた。
「お前らも伏せろ!」
仁が叫んだ瞬間、まるで風船が割れるようにして、トコヤミの体が弾け飛んだ。
とてつもない爆風と風圧が辺り一面を吹き飛ばす。
なんとかやり過ごし、ゆっくりとまぶたを開けた椿は仁と目が合う。
「椿、大丈夫か」
「はい。仁様が守ってくださったので」
「それはよかった……うっ」
小さなうめき声を漏らした仁が力なく椿にもたれかかる。
「仁様…!?」
慌てて体を支えた椿だったが、その仁の背中には無数の瓦礫の破片が突き刺さっていて、思わず小さな悲鳴を上げた。
「なぜこのような無茶を…!わたしのことなど、放っておいてくださればよかったのにっ…」
すると、浅い息を繰り返す仁が椿の頬にそっと手を添えた。
「愛しい妻に、傷をつけるわけにはいかないからな。お前は絶対に失いたくない。一生かけて俺が守ると決めたんだ」
その瞬間、仁への想いが込み上げ、涙となって溢れ出す。
「それに、本当の夫婦になろうと誓ったんだ。こんなところで死んでたまるか」
そう言って微笑んでみせる仁に、椿は涙を拭いながらうなずいた。
「うわぁぁぁぁあああ…!!」
そのとき、恐れおののく隊員たちの声が聞こえ、ふたりはっとして目を向ける。
皆は同じように顔を上げ、震える手で空を指さしていた。
椿も恐る恐る見上げると、飛び込んできた光景に思わず目を疑った。
そこには、空一面を覆い尽くすほどに、おびただしい黒い蝶が舞っていた。
見たこともない数の蝶に震え上がる椿を仁が抱きしめる。
「…椿、見えるぞ。俺にも黒い蝶が」
周りの反応からしてまさかとは思ったが、本来は椿にしか見えない黒い蝶が、異能力を持つ者たちならその姿を確認できるようになっていた。
「お前がいう呪いの蝶とは、こいつらのことだったのか」
初めて目にする謎の黒い蝶に、仁や隊員たちや愕然としていた。
「でも、どうしてわたし以外の人にも見えるように…」
そのとき、大量の黒い蝶といっしょにキラキラと光る黒い粉が降り注ぐのが見えた。
「あれは…、鱗粉?」
「もしかしたら、黒い蝶の鱗粉でその姿が見えるようになったのかもしれないな。これだけ大量に蝶が舞っているんだ、嫌でも鱗粉を浴びているはずだ」
蝶の大群は優雅に羽ばたきながら、北のほうへと向かっている。
「…しまった!トコヤミのやつ、無数の蝶に姿を変えて逃げるつもりか」
「もし、ここで逃げられれば…」
「ああ。近いうち、再び同じことが起こる」
そうならないようにするためには、ここでこれらの蝶を滅するしかない。
「お前ら、ぼけっとしている暇はないぞ!蝶を斬れ!」
「は、はい…!」
仁の指示に、隊員たちは蝶を斬っていく。
しかし、ヒラリヒラリと舞ってかわし、散り散りになって逃げていく。
「だめだ…!せめて、蝶が一箇所に集まってくれさえすれば…」
ひとりの隊員がそうつぶやいた瞬間だった。
蝶の大群が、突然現れた透明で四角い大きな箱の中に封じ込まれた。
「な、なんだ、あれは…!」
驚く隊員たちだったが、その前に颯爽とあの人物たちが現れる。
「驚いた。あれがお姉さまが言っていた黒い蝶?まあ、捕まえるのなんて簡単だったけれど」
「みなさん、安心してください。蝶は結界の中に閉じ込めました」
「そう。我ら、清家一族によって」
自信たっぷりに民衆の前にやってきたのは、芙未、慶一、丞之助の三人。
渋々駆けつけたとはだれも思っておらず、清家一族の名と、華麗な結界術により周囲からは歓声が起こった。
「清家家が加われば、もう安心だ」
「呪いの蝶なんてすぐに滅してくれるさ」
周囲は固唾を飲んで三人を見守る。
「それにしても、呪いが見えるなんて未だに信じられないな」
「見えようと見えまいと、やることは同じだ」
「そうね、お父さま。どれだけ多かろうと、清家家には問題ないわ」
目をつむった三人が術を唱えはじめると、どこからともなく白い霧が立ちこめた。
その清らかで幻想的な光景に人々は目を奪われる。
そうして、蝶を閉じ込めていた四角い結界が青白い炎に包まれ燃え盛る。
「呪いは、浄化の炎により焼き尽くしました。これが、清家一族の呪い祓いの力です」
めったにお目にかかれない呪い祓いの光景に、周囲からは拍手がわき起こった。
軍の働きと清家一族の協力により、これでようやくトコヤミは消滅する。
見届けていた人々はそう信じて揺るがなかった。
あらかた焼き尽くすと青白い炎は消え、結界術が解かれて雪のように舞い落ちる。
美しい光景に見とれていた周囲だったが、その瞬間顔を引きつらせた。
なんと、祓ったとされる黒い蝶がまた元気に飛び回りはじめたのだ。
「どうして…!いつも通りにやったのに」
「うろたえるな、芙未。清家家が取り乱してどうする」
「そうだ。ワシたちには珍しく、たまたま三人の息が合わなかっただけだ。もう一度やるぞ」
丞之助は涼しい顔で、芙未に術を発動するよう促す。
「彼らでも失敗することがあるんだな」
「ああ。だが、清家家に祓えない呪いはないんだから、これでもう大丈夫だろう」
人々も安堵した面持ちで再び見守る。
得意げに術を見せつける丞之助たちだったが、驚いたことに、何度やっても黒い蝶は消滅しない。
「…は?なぜだ、なぜなんだ!」
苛立った丞之助は術を連発。
それらをかわしながら、蝶たちは蛇のような塊となって清家家の三人に襲いかかってきた。
「きゃ…、きゃー!!こないで、気持ち悪い!」
「芙未、あれらはただの呪いだ!呪い祓いの術を!」
慶一の助言にはっとした芙未は、いつも呪い祓いで使う術を自らにかけた。
清家家の三人の体は清らかな白い靄がかかる異能に包まれ、突進してきた蝶たちは次々と弾け飛んでいく。
「さすが清家家!呪いの蝶など、ものともしない」
そんな声が聞こえ、芙未はこれ見よがしに振る舞って高らかに笑う。
ところが――。
「うわぁぁぁ…!!こっちにきた!」
三人が祓った蝶たちは、その近くにいた人々に取り憑きはじめた。
「ど、どういうことなんだ。清家家は、すべての呪いを祓う力があるんじゃなかったのか…?」
「まさか、ただ本当に呪いを祓っているだけで、実は滅する力なんてないんじゃ…」
「そんなはずないだろう!?あの清家一族だぞ!」
「だって、さっきから一匹たりとも滅していないじゃないか…!それで、祓った蝶たちが周囲に被害を出しているのは見てわかるだろう!?」
一連の清家家の行動を見守っていた軍の隊員たちから不安の声が漏れ始める。
それを聞いて、丞之助は椿に言われた言葉を思い出した。
『…呪い祓いとして、清家一族は國中から崇められていますが、それは“祓っているだけ”で根本的な呪いの消滅には至っていません』
あのときは戯言だと思って相手にしなかったが、ずっと誇りに思ってきたこの力は本当にただ呪いを祓っていただけなのかと。
「清家家じゃ意味がない!オレたちがやるしかないんだ…!」
「むしろ、あの三人が祓った呪いが飛んでくるから、近づかないほうがいい!」
その声に、周囲の人々は清家家を恐れるようにして後退りをする。
「貴様ら、なにを言い出す!我ら清家一族を侮辱するつもりか!」
「そうよ!まるでアタシたちが呪いみたいな言い方をして!」
わらわらと逃げていく人々に噛みつくように芙未たちは吐き捨てる。
そこへ、ひとりだけ歩み寄る者がいた。
それは椿だった。
「お父さま、これでおわかりいただけたでしょうか」
「な、なんだ、偉そうにっ。これから挽回してみせ――」
そう言いかけた丞之助を椿は鋭い目つきで睨みつけた。
「実際、清家家がきてから状況が悪化しています。お願いですから、引っ込んでおいてください」
臆することなく凛々しく佇む椿に、丞之助たちは息を呑んだ。
「お前っ…!」
ギリッと奥歯を噛み締めた丞之助が、目を見開いてズカズカと椿に歩み寄る。
力が込められた手を伸ばす先は、椿の首。
それに気づいた仁が駆けつけるが、椿はすました顔でその丞之助の手を振り払った。
「わたしの言葉が理解できませんか?この場において、あなた方は不要と言っているのです」
その言葉は予想以上に丞之助の胸の大きくえぐった。
これまでその存在を必要とされ続け、崇められていた清家一族が――“不要”。
「そういうことです。なにもできないのに、出しゃばるのはやめていただきたい」
仁は椿のそばへ立つと、冷たい瞳で愕然として膝をつく丞之助を見下ろした。
「失礼。先ほどの“不要”といった言葉は訂正します。清家一族は、呪いを“滅すること”はできませんが、“祓えること”はできますので、それで周囲の方々をお守りください」
「弾いた呪いは、我々が呪い斬りの異能で滅しますのでご安心を」
そう告げて、椿と仁は三人に背を向けて立ち去った。
「なんと生意気な物言いだ。俺が知る椿とは大違いだな」
「お忘れですか?わたしは“悪女”と呼ばれた女ですよ」
椿はにこりと笑ってみせた。
「そういえば、そうだったな」
自信に満ちた椿を見て、仁もニッと口角を上げた。
椿と仁は、空を埋め尽くす黒い蝶を見上げる。
「仁様、わたしが蝶たちを吸収します」
「…なっ。さすがにこの量は無理だ!」
「仁様も軍の皆さまも、体力が限界に近いというのに無理されているのは同じです」
椿の言うとおり、トコヤミとの戦闘による負傷と、黒い蝶への呪い斬りの攻撃で、体力も異能力も尽きかけていた。
今は、なんとか気力だけで立っているというのが正直なところ。
「わたしなら大丈夫です。幸い、数日食事を与えられていなかったおかげで、お腹はペコペコなので」
そう言って、背中とくっつきそうなほどの平たいお腹をさすってみせる椿。
しかし、仁の表情は複雑だ。
「椿…。それで、もしお前になにかあったら――」
そう言いかけた仁の唇に、椿がそっと人差し指を押し当てる。
「この戦いが終わったら、本当の夫婦になってくださるのですよね。そのためなら、わたしは絶対に死にません」
満面の笑みを見せる椿。
本当は無茶はさせたくなかったが、仁は椿の言葉を信じることに決めた。
「わかった。取りこぼれた蝶たちは俺たちが滅する。だから椿は、自分に集中しろ」
「はい、よろしくお願いします」
こうして、最後の決戦へと向かった。
椿は空に向かって大きく両手を掲げると、瞬時に胸の前で手を握った。
その瞬時、螺旋状の渦となった蝶の大群が椿の体の中へと吸収されていく。
異能で斬るよりも比にならない多くの蝶たちを椿がひとりで消化していく。
「あれが、加耶の力…」
その圧倒的な光景に周囲の者たちはもちろん、丞之助たちも呆然として息を呑んでいた。
「なにをぼさっと見ているんだ。俺たちは、散り散りになって逃げていく蝶の始末だ!」
「「はい!」」
仁も隊員たちも最後の力を振り絞り、蝶を滅していく。
そして、椿が最後の蝶を吸収したとき、空を黒く覆っていた雲に一筋の光が差し込んだ。
徐々に雲が晴れ、人々は久しぶりに目にする太陽に涙を流した。
「悪夢が終わったぞー!!」
民衆からは歓喜の声がわき起こり、ともに抱き合い、トコヤミの脅威から解放された喜びに浸る。
その光景を椿は目を細めて見ていた。
「椿!」
「仁様」
刀を収めた仁が、晴れ晴れしい表情で佇んでいた椿のもとへ駆け寄る。
「わたし、やったのですね」
「ああ。お前のおかげで、この國は救われた」
ふたりは見つめ合うと、互いの無事を確かめるように強く抱きしめた。
新たな英雄の誕生とふたりの戦士の美しい愛に、周囲の人々は拍手で称えた。
大勢の人に囲まれたのは、石を投げられたあの日以来。
しかし、今目の前に映る光景は、その日とはまったく違うものだった。
だが、そのとき――。
「あーあー、みっともない。こんなところでイチャついちゃって」
「こんな嘘にまみれたふたりが國の英雄だなんて、僕は絶対認めないがな」
そう言いながら、横柄な態度で群衆を蹴散らし椿と仁のところへやってきたのは芙未と慶一。
そしてその後ろから、なにやら不敵な笑みを浮かべた丞之助も現れた。
「皆さん、このふたりを信用しないほうがいいですぞ。とんでもない嘘つきですから」
「…嘘つき?」
「なに言ってるんだ、清家家は」
人々は首をかしげてヒソヒソ話す。
そこへ、目尻をピクリと動かした仁が前へと出る。
「嘘つきは、あなた方のほうでしょう。呪いを移すかもしれないと椿が打ち明けたにもかかわらず、そんなものは知らないの一点張りで、最悪処刑台送りまでして――」
「そう!まさしくそれだ!」
丞之助は、待ってましたと言わんばかりに仁に向かって指をさす。
「皆さん、驚かないでください。あそこにいるのは我が娘、清家加耶。“幸喰いの悪女”として処刑されたはずの女なのです!」
「…幸喰いの悪女だと!?」
「そんな馬鹿な。だって、あいつは死んだはずじゃ――」
「なぜ、死んだはずの人間が生きているか。それは簡単なこと…」
思っていたとおりの群衆の反応に、ニヤリと丞之助の頬が上がる。
「夫と名乗る黒領仁は、幸喰いの悪女の処刑を任された陰の軍人。ヤツは処刑直前でほだされ、自らの職務を放棄して悪女を娶った愚か者なのだ!」
丞之助は高らかに笑った。
國を救った英雄として美談で終わらせるか。
そう思って、自分たちしか知らない、椿と仁の秘密であり弱みを群衆の前で晒したが――。
「まさか、幸喰いの悪女に助けられるなんて」
「処刑されなくて、本当によかった…!陰の軍人のおかげだ」
「あのとき石を投げた自分を殴ってやりてぇ」
人々はふたりを非難するどころか、清家加耶が生きていたことに感謝し、当時の非礼を詫びた。
一度は身構えようとしていた椿と仁だったが、拍子抜けして肩の力が抜ける。
だが、当然丞之助たちはおもしろくない。
「なぜだ…。なぜ、お前らだけが賞賛されるというのだ」
「父上の言うとおりだ。民衆の注目はいつだって清家一族だった。お前らハエが出しゃばるな!」
「そうよ!死んだはずの人間は、日の光の当たらないところで一生みすぼらしく暮らしていればいいのよ!」
声を荒げて暴言を吐く丞之助、慶一、芙未。
すると、三人の体から黒いもやのようなものが溢れ出した。
そして徐々に凝縮していき、黒い蝶へと姿を変えた。
その光景に、椿は息を呑んだ。
「あれは…、呪い!?」
「ああ、呪いが見える今ならはっきりとわかる。体から溢れでていたもやは、呪いのもととなる嫉妬や妬み」
呪いが見える異能者たちは、初めて人の感情が呪いに変わるのを目にした。
「まさか、清家家があのような物言いをされるとは信じがたい」
これまでの清らかな印象とは程遠い丞之助たちの言動に、民衆は呆れ果てる。
仁も同じように重いため息をつくと、背中の刀を引き抜いた。
そして、呪いに冒され我を忘れて椿を襲いにくる丞之助たちに斬りかかった。
まとわりついていた蝶たちはそれぞれ真っ二つに割れ、意識を失った三人はその場に倒れた。
「呪い祓いの清家一族が、呪いの根源に支配されるとは実に哀れだ」
気絶している三人に吐き捨て、静かに刀を収めた。
「椿。これで、本当の意味で戦いが終わっ――」
そう言って仁が振り返った瞬間、椿が吐血して膝から崩れ落ちた。
「…椿!!」
仁はすぐに駆けつけ名前を叫ぶが、椿が目を覚ますことはなかった。
気づいたら、椿は真っ白な花が咲き誇る川辺にいた。
『ここはどこ…?』
見たこともない場所に、辺りをきょろきょろと見渡す。
『椿』
すると、椿を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、端の真ん中で長い黒髪が風でなびく女性が立っていた。
その人物を見て、椿は目に涙が滲む。
『…お母さま!』
椿は走って向かうと、大好きな母の胸に飛び込んだ。
『すっかり素敵な女性になっちゃって』
母は椿の頭をやさしくなでる。
『お母さま、会いたかったです…!』
『私もよ』
『ずっとこうしていたいです』
椿は甘えるように、母にぎゅっとしがみつく。
しかし、母はその手を振り払った。
『いけないわ』
『…なぜですか!』
『あなたはまだ、こちら側にくるべき人間ではないからよ』
『それは、どういう――』
『だってあなたには、帰りを待ってくれている人がいるじゃない』
そう言って、母はにこりと微笑んだ。
『私は、いつでもあなたを見ているわ。だから、幸せになって。それが母の願いです』
椿の手を包む母の手が徐々に透けていき、はっとしたときには細かい光の粒となって消えていった。
「お母さま…!」
椿は、はっとして飛び起きた。
その瞬間、脳内に揺れるような感覚と額に鈍い痛みが広がった。
「い…ったい」
額を抑えてうずくまっていると、同じような格好をして痛がる黒髪短髪が横目に見えた。
「俺としたことが…、かわせなかった。椿は大丈夫か」
片目をつむったまま顔を覗き込んできたのは仁。
『あなたには、帰りを待ってくれている人がいるじゃない』
母の言葉を思い出した瞬間、椿は涙が溢れた。
「仁様!」
そうして、手を伸ばしてきた椿を仁はぎゅっと抱きしめた。
あとから話を聞くと、椿は大量の呪いを吸収したせいで、なんと一ヶ月もの間、帝都の病院で眠り続けていた。
トコヤミとの戦いでは、多数の負傷が出たが、七年前の被害よりは格段に少なく、奇跡的に死者は出なかった。
また、倒壊した建物の瓦礫の撤去は済み、帝都は元の状態に戻りつつあった。
その後、北の地方にある怨露山の調査にいくと、トコヤミが封印されているという伝説が残る大岩には、おびただしい数の黒い蝶が待っていることがわかった。
蝶となった呪いがここに集まり形となって、トコヤミに変化するのではないかという仮説が導かれた。
今後は、この大岩に群がる蝶の監視、及び定期的に滅する職務が軍に課せられることとなった。
わたしが眠っていた間に、國がよりよい方向に動きつつあった。
――そして、清家一族。
呪いを祓っているだけで滅してはいないという事実が明るみとなり、その権力や信頼は驚くほどに一瞬にして失ったという。
これまで呪い祓いを清家一族に依頼していた者たちは、呪い斬りができる異能者を雇うようになり、ますます清家家が存在が霞んでいった。
またトコヤミの戦闘で、暴言や本来の横暴な態度が世に知られることになった丞之助、慶一、芙未は、偽りの仮面で人々と騙していたと非難され、石を流れらる始末。
逃げるようにして僻地へ移り住んだと、仁も噂で聞いたそうだ。
椿は数日間休養を取り、体力が回復すると、仁とともに御所へと呼ばれた。
椿が緊張した面持ちで待っていると、かすかな物音がしたのち、簾の向こう側に人影が現れた。
顔は見えないが、この國の中心に君臨し、神として崇められる存在――帝だ。
「面を上げよ」
簾越しとはいえ、お目にかかることですら恐れ多い帝を前にして、椿はガチガチに身を固くしながら頭を上げた。
「黒領仁とその妻、椿じゃな。そして、真の名は、清家加耶」
「は、はい。そうでございます」
椿は声が震えた。
今日ここへ呼ばれたのは、命を無視して処刑を執行しなかった仁と、処刑を免れ別人として偽った椿の処遇についてだった。
場合によっては、再処刑。
それならまだしも、仁にも同等の処分が下される可能性は十分に考えられた。
固唾を飲んで、帝からの言葉を待っていると――。
「真実に目を向けず、冤罪を負わせてしまい申し訳なかった。心よりお詫び申し上げる」
人の上に立つ帝が椿に謝罪の言葉を述べ、周囲からはどよめきが起こった。
「黒領仁。理由はどうあれ、椿を処刑しなかったことに感謝する。大事な民をひとり、失うところであった」
「もったいなきお言葉」
トコヤミから國を救ったとはいえ、人々を欺いていたのは事実。
重い処分も覚悟していたが、椿は“幸喰い”ではなく“呪い喰い”で、國に危険を及ぼす人間ではないと判断され、椿と仁にお咎めはなかった。
「椿様ぁ〜!!おかえりなさいませ!」
黒領家の屋敷に戻ってくると、千鳥が泣きながら飛びついてきた。
再び訪れた、騒がしくも穏やかで温かい家庭に、椿はうれし涙を滲ませた。
仁はトコヤミの戦いにおいて、高い指揮能力が改めて評価され、さらに隊員たちからのたっての願いもあり、再び表舞台に戻って軍隊長の任に就くこととなった。
それにより、慌ただしい日々を過ごしていた仁だが、椿に告げたあの言葉は決して忘れてはいなかった。
――『椿。この戦いが終わった暁には、本当の夫婦になろう』
赤い椿が咲き乱れる、ある寒い冬の日。
この日、黒領家には、数え切れないほどに多くの人々がやってきた。
トコヤミから國を救った英雄ふたりの結婚を祝いに集まったのだ。
黒い紋付袴の仁の隣には、黒無垢を着た椿が寄り添い、仲睦まじい姿に招待客たちからは拍手がわき起こる。
「やはり黒無垢か」
「はい。わたしに合うのは、白よりも黒です」
二度目の祝言を迎える仁と椿だが、もう以前とは違う。
椿の黒無垢は、十和子がこの日のために仕立てた特注品。
そして、人目を忍び、闇夜に紛れてふたりだけで執り行った前回だが、今は冬晴れの昼下がり、多くの人々に見守られながら祝福を受ける。
「ここにいる皆に宣言する。彼女の名は、黒領椿。一生かけて愛すると誓った、我が妻だ」
椿の手を取り、民衆の前で誇らしげに語る仁の横顔は凛々しく、この人の妻になれたことに椿は改めてうれしさを噛みしめていた。
「椿、愛している」
「はい。わたしもです、仁様」
見つめ合うふたりは口づけを交わした。
幸喰いの悪女として恐れられ、忌み嫌われた女――清家加耶。
トコヤミを斬った英雄でありながら、呪いに苦しみ影の世界に落ちた男――黒領仁。
新たな名を手にした女と、新たに生きる希望を見いだした男は、この日、真の夫婦となった。
【完】
仁の言葉に、丞之助たちは唖然とする。
「さすがに早すぎないか!?前回は、まだ七年前なんだぞ」
「だからなんだというんです。正確な周期なんてありません。それが今日だったとしても、なにも不思議ではないはずです」
「しかし…」
未だに半信半疑の丞之助だったが、北の空に大きな蛇な影が映って顔を青ざめさせた。
遠くからでもわかる、肌にささるようなビリビリとした妖気。
仁は、肩をすくめて震える椿を抱き寄せた。
黒い蛇の影と渦巻く妖気は、左のほうへと流れていった。
「仁様、あちらには帝都が…!」
「ああ。あんなところで暴れられたら、多くの死傷者が出る」
「都民はもとより、帝都には帝もいらっしゃるのだぞ!なんとかせんか、黒領!」
「言われなくてもわかっています」
仁は丞之助に向かって舌打ちをする。
「ここで、あなた方と争っている場合ではない。俺は帝都へ向かいます」
「仁様!それでしたら、わたしも連れていってください」
「椿を?だめだ、危険すぎる。それに、こんな傷だらけのお前は連れていけない」
痩せこけた頬に、口元には痛々しいくらいに慶一に殴られてできたアザが浮かぶ。
だが、それでも椿は真剣な表情で仁を見つめた。
「もし、どなたかがトコヤミの呪いにかかったら、わたしが役に立つかもしれません」
「たしかにそうだが…」
「それに、もう仁様と離れたくないのです!」
椿のまっすぐなまなざしが仁の瞳を捉える。
その揺るがない信念に、仁は眉尻を下げた。
「わかった。もう、守られるだけのお前じゃないんだな」
柔らかく微笑むと、椿の体を抱きかかえた。
「俺たちは行きますが、あなた方も向かわれなくてよろしいのですか」
仁に視線を向けられ、丞之助たちはぽかんとした間抜け顔を見せた。
「な、なぜ我々が…。トコヤミの討伐は、貴様ら軍人の仕事だろう」
「そちらは任せくてくださって結構。ただ、あらゆる呪いから帝をお守りするのがこの國唯一の呪い祓い、清家一族の役目では?」
仁の正論に、丞之助はぐっと言葉を飲み込む。
これまで帝をお守りするため、帝自身や住まいの御所周辺の呪いを祓い、結界を張ってきた。
それが清家一族が代々引き継ぐ、誇り高き職務だった。
だから、帝に呪いの危機が迫るというのなら、清家家が出ないわけにはいかない。
しかし、先ほど目にしたトコヤミの姿が恐ろしく、足がすくんで動けないのだった。
「お父さま、アタシは絶対に嫌よ!あんな恐ろしいバケモノのところへ、わざわざこちらから行かないといけないなんて!」
「そうです、父上。我ら清家一族になにかあれば、これから國に振りかかる呪いをだれが祓うというのです!」
出向きたくない芙未と慶一は、必死になって丞之助を説得する。
丞之助だって行くつもりなどなかったし、今でも行きたいとは思わない。
「もし帝がトコヤミの呪いに冒されたら、どう責任を取るおつもりですか」
だが仁の追い討ちに、なにも言い返せない丞之助は歯ぎしりをするばかり。
「御所の者には、すぐに清家一族が帝をお守りにくるから安心しろとお伝えしておきます」
「…貴様!なに勝手なことを――」
「それでは、帝都でお会いしましょう」
仁はニヤリと口角を上げると、椿を抱えたまま颯爽と駆け抜け、帝都へと急いだ。
仁たちが駆けつけると、すでにトコヤミは帝都の玄関となる大門を破壊して、ゆっくりと突き進んでいた。
「迎え撃てー!」
「決して、これ以上の侵入を許すな!なんとしてでも食い止めるんだ!」
巨大な蛇のあやかし――トコヤミを相手に、異能者の精鋭たちを揃えた軍隊が出動し、応戦していた。
しかし圧倒的なトコヤミの姿に、恐怖で精神が乱れ錯乱状態の者も多く、まったく連携が取れていない。
「だれか助けて!主人が瓦礫の下敷きに…!」
「うわぁ〜…ん。お母ちゃん、どこにいるの…」
さらには、先ほどの地震と侵攻するトコヤミにより家屋が倒壊し、すでに人的被害が多数出ていた。
帝都へとたどりついた椿は、首が痛くなるほどに見上げる禍々しい巨体に、ごくりと息を呑む。
重苦しくまとわりつく妖気は、それだけで体に負荷がかかりそうだ。
混乱する軍、逃げ惑う人々。
帝都は地獄絵図と化していた。
なんとか正気を保って佇んでいた椿だったが、ふとあることに気がつく。
「仁様。トコヤミは、あやかし…なのですよね?」
「ああ。それがどうした」
椿には見えていた。
巨大なトコヤミの体から溢れる、おびただしい数の小さな黒い蝶たちが。
「もしかしたら…トコヤミの正体は、呪いの集合体ではないでしょうか」
「呪い?なにか見えるのか」
「はい。トコヤミの周りには呪いの黒い蝶がたくさん舞っています」
「しかし、呪いであれば、俺たちの目にも見えるはずがないのだが…」
仁はひとり言をつぶやき、顎に手を当てる。
「隊長、異能が効きません…!」
「そんなはずないだろう!?ヤツはあやかしだぞ!」
軍からそんな叫び声も聞こえ、仁ははっとして顔を上げる。
「長年にわたり凝縮した呪いがあやかしになったとすれば、椿のような特別な力がなくとも、見える可能性はあるのかもしれない」
「呪いがあやかしに?」
「ああ。それなら、対あやかしの異能が効かないのにも納得がいく」
そうして仁は、ゆっくりと背中の刀を引き抜いた。
「あのときは無我夢中でよく覚えていなかったが、たしかに呪い斬りの異能でヤツを斬ったかもしれないな」
仁が目を向けた刀からは、黒い炎がまとわりだした。
仁ならきっとトコヤミを斬ってくれる。
しかし、無傷で帰ってこれる保証はない。
「仁様…」
椿は一度仁の背中に手を伸ばすも、そっとその手をを引いた。
今からかけようとする言葉が、仁の妨げになってはいけないと思ったからだ。
ぎゅっと手を握りしめ、うつむいた――そのとき。
「椿。この戦いが終わった暁には、本当の夫婦になろう」
悲鳴や爆音が鳴り響く中でも、その言葉だけはたしかに椿のもとへ届いた。
見上げると、椿を背にしてニッと笑う仁の横顔が見えた。
「だから、安心して見守っていろ」
「はい!」
椿は満面の笑みで応える。
仁を見送った椿は、傷病人の手当ての手伝いへと向かった。
「隊長、応援を…!過去に、トコヤミを斬ったという英雄を呼んでください!」
「そんな昔話を今してどうする!それに、ヤツは…」
「オレ、その人に憧れて入隊したのに、こんなところで死にたくねぇよ…」
とくに若い者は精神もまだ未熟で、次々に戦意を喪失していく。
そんな軍人たちに、トコヤミがギラリと鈍く光る瞳で狙いを定める。
「も…もうだめだ」
「殺される…!」
死を覚悟した軍人たちだったが、目の前で振り下ろされようとしていたトコヤミの尾が突然弾け飛んだ。
「なにが起こったんだ…?」
呆然とする彼らの前に、刀を構えた仁が降り立つ。
自分たちが着用している群青色の軍服とは違い、見たこともない真っ黒な軍服姿の仁の登場に目を丸くする。
「あ、あなたは…」
「俺の名前は、黒領仁」
それを聞いて、周囲はどよめく。
「…黒領仁だと!?その軍服の色…、お前が噂に聞く陰の軍人か」
「汚れ仕事を請け負うこの國の影であるお前が、なぜ堂々とこんなところに――」
「馬鹿か!今はそんなことを言っている場合か」
仁の一喝に、若い軍人たちは慌てて口をつぐむ。
「若僧ども、よく覚えておけ。俺は、お前たちのいう陰の軍人。そして、トコヤミを斬った唯一の男だ」
トコヤミを前に、ひとりで立ちはだかる仁の背中は、後ろに佇む隊員たちからは勇ましく見えた。
「トコヤミを斬ったかつての英雄が…、陰の軍人だと?」
「それは本当ですか、隊長!」
若い隊員たちは、こぞって三十も年上の軍隊長に詰め寄る。
トコヤミを斬った功績と、それゆえに呪いを刻まれ部下を斬りつけた仁の過失は、今の軍ではすでに抹消され、知っている者は一部の権力者しかいない。
仁の名前を出すのも禁句とされてきたため、齢五十の軍隊長も躊躇ってはいたが、ついに重い口を開いた。
「そうだ。あいつこそが七年前、トコヤミを斬った英雄だ」
口を割ってしまったことに負い目を感じた軍隊長だったが、周りにいた隊員たちの反応は予想外のものだった。
「うおおおおお!!英雄がきてくれたのなら百人力だ!」
「やれる!必ずトコヤミを倒すぞ!」
疲弊していた軍は再び息を吹き返し、仁の存在に士気が上がった。
「援護します!指示をください!」
軍隊長をその場に残して、隊員たちは仁の背中についていく。
「フッ。単純なやつらだ」
仁は呆れ顔だが、どこかうれしそうだ。
遠くのほうから見守っていた椿にはそう見えた。
「いいか、お前ら。あいつはあやかしとはいえ、正体は呪いの塊だ。通常の異能は効かない。やるなら、呪い斬りの異能で応戦しろ」
「はい!」
隊員たちを引き連れトコヤミに斬りかかる仁の姿は、こんな極限状態だというのに、これまでにないほどに生き生きとしていた。
呪い斬りの異能により、トコヤミを確実に追い詰めていく。
しかし、完全に消滅させるには、一太刀で首を斬り落とす必要があった。
その巨体からでは想像もできないくらいに動きが速く、何度首を狙っても避けられ、傷つけたとしても刃がかすめる程度だった。
「ハァ…、ハァ…。七年前、こんなバケモノの首をひとりで斬っただなんて」
隊員たちからは焦りと疲労の色が浮かぶ。
そんな中、仁はトコヤミの首をただひたすら集中的に狙っていた。
仁の的確な攻撃に、それまで侵攻を続けていたトコヤミがようやく歩みを止めた。
だが、様子がおかしい。
「…なんだ、あれは!」
驚く隊員の目の前には、とぐろを巻いて丸くなったトコヤミの巨体が立ちはだかる。
しかも、首を中に入れてすぼめており、とても斬り落とせる状態ではない。
「このままじゃまずいと思って、防御に入ったか?」
「…いや。それにしては、なにか変じゃないか」
隊員たちは、ごくりと唾の飲み込んで見上げる。
さっきから動かなくなったトコヤミだが、まるで体全体で脈打つように、ドクンドクンと規則的に膨張しはじめた。
なにかを察知した仁は、一目散に救助活動を行う椿のもとへと駆けつけ、包み込むように強く抱きしめた。
「お前らも伏せろ!」
仁が叫んだ瞬間、まるで風船が割れるようにして、トコヤミの体が弾け飛んだ。
とてつもない爆風と風圧が辺り一面を吹き飛ばす。
なんとかやり過ごし、ゆっくりとまぶたを開けた椿は仁と目が合う。
「椿、大丈夫か」
「はい。仁様が守ってくださったので」
「それはよかった……うっ」
小さなうめき声を漏らした仁が力なく椿にもたれかかる。
「仁様…!?」
慌てて体を支えた椿だったが、その仁の背中には無数の瓦礫の破片が突き刺さっていて、思わず小さな悲鳴を上げた。
「なぜこのような無茶を…!わたしのことなど、放っておいてくださればよかったのにっ…」
すると、浅い息を繰り返す仁が椿の頬にそっと手を添えた。
「愛しい妻に、傷をつけるわけにはいかないからな。お前は絶対に失いたくない。一生かけて俺が守ると決めたんだ」
その瞬間、仁への想いが込み上げ、涙となって溢れ出す。
「それに、本当の夫婦になろうと誓ったんだ。こんなところで死んでたまるか」
そう言って微笑んでみせる仁に、椿は涙を拭いながらうなずいた。
「うわぁぁぁぁあああ…!!」
そのとき、恐れおののく隊員たちの声が聞こえ、ふたりはっとして目を向ける。
皆は同じように顔を上げ、震える手で空を指さしていた。
椿も恐る恐る見上げると、飛び込んできた光景に思わず目を疑った。
そこには、空一面を覆い尽くすほどに、おびただしい黒い蝶が舞っていた。
見たこともない数の蝶に震え上がる椿を仁が抱きしめる。
「…椿、見えるぞ。俺にも黒い蝶が」
周りの反応からしてまさかとは思ったが、本来は椿にしか見えない黒い蝶が、異能力を持つ者たちならその姿を確認できるようになっていた。
「お前がいう呪いの蝶とは、こいつらのことだったのか」
初めて目にする謎の黒い蝶に、仁や隊員たちや愕然としていた。
「でも、どうしてわたし以外の人にも見えるように…」
そのとき、大量の黒い蝶といっしょにキラキラと光る黒い粉が降り注ぐのが見えた。
「あれは…、鱗粉?」
「もしかしたら、黒い蝶の鱗粉でその姿が見えるようになったのかもしれないな。これだけ大量に蝶が舞っているんだ、嫌でも鱗粉を浴びているはずだ」
蝶の大群は優雅に羽ばたきながら、北のほうへと向かっている。
「…しまった!トコヤミのやつ、無数の蝶に姿を変えて逃げるつもりか」
「もし、ここで逃げられれば…」
「ああ。近いうち、再び同じことが起こる」
そうならないようにするためには、ここでこれらの蝶を滅するしかない。
「お前ら、ぼけっとしている暇はないぞ!蝶を斬れ!」
「は、はい…!」
仁の指示に、隊員たちは蝶を斬っていく。
しかし、ヒラリヒラリと舞ってかわし、散り散りになって逃げていく。
「だめだ…!せめて、蝶が一箇所に集まってくれさえすれば…」
ひとりの隊員がそうつぶやいた瞬間だった。
蝶の大群が、突然現れた透明で四角い大きな箱の中に封じ込まれた。
「な、なんだ、あれは…!」
驚く隊員たちだったが、その前に颯爽とあの人物たちが現れる。
「驚いた。あれがお姉さまが言っていた黒い蝶?まあ、捕まえるのなんて簡単だったけれど」
「みなさん、安心してください。蝶は結界の中に閉じ込めました」
「そう。我ら、清家一族によって」
自信たっぷりに民衆の前にやってきたのは、芙未、慶一、丞之助の三人。
渋々駆けつけたとはだれも思っておらず、清家一族の名と、華麗な結界術により周囲からは歓声が起こった。
「清家家が加われば、もう安心だ」
「呪いの蝶なんてすぐに滅してくれるさ」
周囲は固唾を飲んで三人を見守る。
「それにしても、呪いが見えるなんて未だに信じられないな」
「見えようと見えまいと、やることは同じだ」
「そうね、お父さま。どれだけ多かろうと、清家家には問題ないわ」
目をつむった三人が術を唱えはじめると、どこからともなく白い霧が立ちこめた。
その清らかで幻想的な光景に人々は目を奪われる。
そうして、蝶を閉じ込めていた四角い結界が青白い炎に包まれ燃え盛る。
「呪いは、浄化の炎により焼き尽くしました。これが、清家一族の呪い祓いの力です」
めったにお目にかかれない呪い祓いの光景に、周囲からは拍手がわき起こった。
軍の働きと清家一族の協力により、これでようやくトコヤミは消滅する。
見届けていた人々はそう信じて揺るがなかった。
あらかた焼き尽くすと青白い炎は消え、結界術が解かれて雪のように舞い落ちる。
美しい光景に見とれていた周囲だったが、その瞬間顔を引きつらせた。
なんと、祓ったとされる黒い蝶がまた元気に飛び回りはじめたのだ。
「どうして…!いつも通りにやったのに」
「うろたえるな、芙未。清家家が取り乱してどうする」
「そうだ。ワシたちには珍しく、たまたま三人の息が合わなかっただけだ。もう一度やるぞ」
丞之助は涼しい顔で、芙未に術を発動するよう促す。
「彼らでも失敗することがあるんだな」
「ああ。だが、清家家に祓えない呪いはないんだから、これでもう大丈夫だろう」
人々も安堵した面持ちで再び見守る。
得意げに術を見せつける丞之助たちだったが、驚いたことに、何度やっても黒い蝶は消滅しない。
「…は?なぜだ、なぜなんだ!」
苛立った丞之助は術を連発。
それらをかわしながら、蝶たちは蛇のような塊となって清家家の三人に襲いかかってきた。
「きゃ…、きゃー!!こないで、気持ち悪い!」
「芙未、あれらはただの呪いだ!呪い祓いの術を!」
慶一の助言にはっとした芙未は、いつも呪い祓いで使う術を自らにかけた。
清家家の三人の体は清らかな白い靄がかかる異能に包まれ、突進してきた蝶たちは次々と弾け飛んでいく。
「さすが清家家!呪いの蝶など、ものともしない」
そんな声が聞こえ、芙未はこれ見よがしに振る舞って高らかに笑う。
ところが――。
「うわぁぁぁ…!!こっちにきた!」
三人が祓った蝶たちは、その近くにいた人々に取り憑きはじめた。
「ど、どういうことなんだ。清家家は、すべての呪いを祓う力があるんじゃなかったのか…?」
「まさか、ただ本当に呪いを祓っているだけで、実は滅する力なんてないんじゃ…」
「そんなはずないだろう!?あの清家一族だぞ!」
「だって、さっきから一匹たりとも滅していないじゃないか…!それで、祓った蝶たちが周囲に被害を出しているのは見てわかるだろう!?」
一連の清家家の行動を見守っていた軍の隊員たちから不安の声が漏れ始める。
それを聞いて、丞之助は椿に言われた言葉を思い出した。
『…呪い祓いとして、清家一族は國中から崇められていますが、それは“祓っているだけ”で根本的な呪いの消滅には至っていません』
あのときは戯言だと思って相手にしなかったが、ずっと誇りに思ってきたこの力は本当にただ呪いを祓っていただけなのかと。
「清家家じゃ意味がない!オレたちがやるしかないんだ…!」
「むしろ、あの三人が祓った呪いが飛んでくるから、近づかないほうがいい!」
その声に、周囲の人々は清家家を恐れるようにして後退りをする。
「貴様ら、なにを言い出す!我ら清家一族を侮辱するつもりか!」
「そうよ!まるでアタシたちが呪いみたいな言い方をして!」
わらわらと逃げていく人々に噛みつくように芙未たちは吐き捨てる。
そこへ、ひとりだけ歩み寄る者がいた。
それは椿だった。
「お父さま、これでおわかりいただけたでしょうか」
「な、なんだ、偉そうにっ。これから挽回してみせ――」
そう言いかけた丞之助を椿は鋭い目つきで睨みつけた。
「実際、清家家がきてから状況が悪化しています。お願いですから、引っ込んでおいてください」
臆することなく凛々しく佇む椿に、丞之助たちは息を呑んだ。
「お前っ…!」
ギリッと奥歯を噛み締めた丞之助が、目を見開いてズカズカと椿に歩み寄る。
力が込められた手を伸ばす先は、椿の首。
それに気づいた仁が駆けつけるが、椿はすました顔でその丞之助の手を振り払った。
「わたしの言葉が理解できませんか?この場において、あなた方は不要と言っているのです」
その言葉は予想以上に丞之助の胸の大きくえぐった。
これまでその存在を必要とされ続け、崇められていた清家一族が――“不要”。
「そういうことです。なにもできないのに、出しゃばるのはやめていただきたい」
仁は椿のそばへ立つと、冷たい瞳で愕然として膝をつく丞之助を見下ろした。
「失礼。先ほどの“不要”といった言葉は訂正します。清家一族は、呪いを“滅すること”はできませんが、“祓えること”はできますので、それで周囲の方々をお守りください」
「弾いた呪いは、我々が呪い斬りの異能で滅しますのでご安心を」
そう告げて、椿と仁は三人に背を向けて立ち去った。
「なんと生意気な物言いだ。俺が知る椿とは大違いだな」
「お忘れですか?わたしは“悪女”と呼ばれた女ですよ」
椿はにこりと笑ってみせた。
「そういえば、そうだったな」
自信に満ちた椿を見て、仁もニッと口角を上げた。
椿と仁は、空を埋め尽くす黒い蝶を見上げる。
「仁様、わたしが蝶たちを吸収します」
「…なっ。さすがにこの量は無理だ!」
「仁様も軍の皆さまも、体力が限界に近いというのに無理されているのは同じです」
椿の言うとおり、トコヤミとの戦闘による負傷と、黒い蝶への呪い斬りの攻撃で、体力も異能力も尽きかけていた。
今は、なんとか気力だけで立っているというのが正直なところ。
「わたしなら大丈夫です。幸い、数日食事を与えられていなかったおかげで、お腹はペコペコなので」
そう言って、背中とくっつきそうなほどの平たいお腹をさすってみせる椿。
しかし、仁の表情は複雑だ。
「椿…。それで、もしお前になにかあったら――」
そう言いかけた仁の唇に、椿がそっと人差し指を押し当てる。
「この戦いが終わったら、本当の夫婦になってくださるのですよね。そのためなら、わたしは絶対に死にません」
満面の笑みを見せる椿。
本当は無茶はさせたくなかったが、仁は椿の言葉を信じることに決めた。
「わかった。取りこぼれた蝶たちは俺たちが滅する。だから椿は、自分に集中しろ」
「はい、よろしくお願いします」
こうして、最後の決戦へと向かった。
椿は空に向かって大きく両手を掲げると、瞬時に胸の前で手を握った。
その瞬時、螺旋状の渦となった蝶の大群が椿の体の中へと吸収されていく。
異能で斬るよりも比にならない多くの蝶たちを椿がひとりで消化していく。
「あれが、加耶の力…」
その圧倒的な光景に周囲の者たちはもちろん、丞之助たちも呆然として息を呑んでいた。
「なにをぼさっと見ているんだ。俺たちは、散り散りになって逃げていく蝶の始末だ!」
「「はい!」」
仁も隊員たちも最後の力を振り絞り、蝶を滅していく。
そして、椿が最後の蝶を吸収したとき、空を黒く覆っていた雲に一筋の光が差し込んだ。
徐々に雲が晴れ、人々は久しぶりに目にする太陽に涙を流した。
「悪夢が終わったぞー!!」
民衆からは歓喜の声がわき起こり、ともに抱き合い、トコヤミの脅威から解放された喜びに浸る。
その光景を椿は目を細めて見ていた。
「椿!」
「仁様」
刀を収めた仁が、晴れ晴れしい表情で佇んでいた椿のもとへ駆け寄る。
「わたし、やったのですね」
「ああ。お前のおかげで、この國は救われた」
ふたりは見つめ合うと、互いの無事を確かめるように強く抱きしめた。
新たな英雄の誕生とふたりの戦士の美しい愛に、周囲の人々は拍手で称えた。
大勢の人に囲まれたのは、石を投げられたあの日以来。
しかし、今目の前に映る光景は、その日とはまったく違うものだった。
だが、そのとき――。
「あーあー、みっともない。こんなところでイチャついちゃって」
「こんな嘘にまみれたふたりが國の英雄だなんて、僕は絶対認めないがな」
そう言いながら、横柄な態度で群衆を蹴散らし椿と仁のところへやってきたのは芙未と慶一。
そしてその後ろから、なにやら不敵な笑みを浮かべた丞之助も現れた。
「皆さん、このふたりを信用しないほうがいいですぞ。とんでもない嘘つきですから」
「…嘘つき?」
「なに言ってるんだ、清家家は」
人々は首をかしげてヒソヒソ話す。
そこへ、目尻をピクリと動かした仁が前へと出る。
「嘘つきは、あなた方のほうでしょう。呪いを移すかもしれないと椿が打ち明けたにもかかわらず、そんなものは知らないの一点張りで、最悪処刑台送りまでして――」
「そう!まさしくそれだ!」
丞之助は、待ってましたと言わんばかりに仁に向かって指をさす。
「皆さん、驚かないでください。あそこにいるのは我が娘、清家加耶。“幸喰いの悪女”として処刑されたはずの女なのです!」
「…幸喰いの悪女だと!?」
「そんな馬鹿な。だって、あいつは死んだはずじゃ――」
「なぜ、死んだはずの人間が生きているか。それは簡単なこと…」
思っていたとおりの群衆の反応に、ニヤリと丞之助の頬が上がる。
「夫と名乗る黒領仁は、幸喰いの悪女の処刑を任された陰の軍人。ヤツは処刑直前でほだされ、自らの職務を放棄して悪女を娶った愚か者なのだ!」
丞之助は高らかに笑った。
國を救った英雄として美談で終わらせるか。
そう思って、自分たちしか知らない、椿と仁の秘密であり弱みを群衆の前で晒したが――。
「まさか、幸喰いの悪女に助けられるなんて」
「処刑されなくて、本当によかった…!陰の軍人のおかげだ」
「あのとき石を投げた自分を殴ってやりてぇ」
人々はふたりを非難するどころか、清家加耶が生きていたことに感謝し、当時の非礼を詫びた。
一度は身構えようとしていた椿と仁だったが、拍子抜けして肩の力が抜ける。
だが、当然丞之助たちはおもしろくない。
「なぜだ…。なぜ、お前らだけが賞賛されるというのだ」
「父上の言うとおりだ。民衆の注目はいつだって清家一族だった。お前らハエが出しゃばるな!」
「そうよ!死んだはずの人間は、日の光の当たらないところで一生みすぼらしく暮らしていればいいのよ!」
声を荒げて暴言を吐く丞之助、慶一、芙未。
すると、三人の体から黒いもやのようなものが溢れ出した。
そして徐々に凝縮していき、黒い蝶へと姿を変えた。
その光景に、椿は息を呑んだ。
「あれは…、呪い!?」
「ああ、呪いが見える今ならはっきりとわかる。体から溢れでていたもやは、呪いのもととなる嫉妬や妬み」
呪いが見える異能者たちは、初めて人の感情が呪いに変わるのを目にした。
「まさか、清家家があのような物言いをされるとは信じがたい」
これまでの清らかな印象とは程遠い丞之助たちの言動に、民衆は呆れ果てる。
仁も同じように重いため息をつくと、背中の刀を引き抜いた。
そして、呪いに冒され我を忘れて椿を襲いにくる丞之助たちに斬りかかった。
まとわりついていた蝶たちはそれぞれ真っ二つに割れ、意識を失った三人はその場に倒れた。
「呪い祓いの清家一族が、呪いの根源に支配されるとは実に哀れだ」
気絶している三人に吐き捨て、静かに刀を収めた。
「椿。これで、本当の意味で戦いが終わっ――」
そう言って仁が振り返った瞬間、椿が吐血して膝から崩れ落ちた。
「…椿!!」
仁はすぐに駆けつけ名前を叫ぶが、椿が目を覚ますことはなかった。
気づいたら、椿は真っ白な花が咲き誇る川辺にいた。
『ここはどこ…?』
見たこともない場所に、辺りをきょろきょろと見渡す。
『椿』
すると、椿を呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、端の真ん中で長い黒髪が風でなびく女性が立っていた。
その人物を見て、椿は目に涙が滲む。
『…お母さま!』
椿は走って向かうと、大好きな母の胸に飛び込んだ。
『すっかり素敵な女性になっちゃって』
母は椿の頭をやさしくなでる。
『お母さま、会いたかったです…!』
『私もよ』
『ずっとこうしていたいです』
椿は甘えるように、母にぎゅっとしがみつく。
しかし、母はその手を振り払った。
『いけないわ』
『…なぜですか!』
『あなたはまだ、こちら側にくるべき人間ではないからよ』
『それは、どういう――』
『だってあなたには、帰りを待ってくれている人がいるじゃない』
そう言って、母はにこりと微笑んだ。
『私は、いつでもあなたを見ているわ。だから、幸せになって。それが母の願いです』
椿の手を包む母の手が徐々に透けていき、はっとしたときには細かい光の粒となって消えていった。
「お母さま…!」
椿は、はっとして飛び起きた。
その瞬間、脳内に揺れるような感覚と額に鈍い痛みが広がった。
「い…ったい」
額を抑えてうずくまっていると、同じような格好をして痛がる黒髪短髪が横目に見えた。
「俺としたことが…、かわせなかった。椿は大丈夫か」
片目をつむったまま顔を覗き込んできたのは仁。
『あなたには、帰りを待ってくれている人がいるじゃない』
母の言葉を思い出した瞬間、椿は涙が溢れた。
「仁様!」
そうして、手を伸ばしてきた椿を仁はぎゅっと抱きしめた。
あとから話を聞くと、椿は大量の呪いを吸収したせいで、なんと一ヶ月もの間、帝都の病院で眠り続けていた。
トコヤミとの戦いでは、多数の負傷が出たが、七年前の被害よりは格段に少なく、奇跡的に死者は出なかった。
また、倒壊した建物の瓦礫の撤去は済み、帝都は元の状態に戻りつつあった。
その後、北の地方にある怨露山の調査にいくと、トコヤミが封印されているという伝説が残る大岩には、おびただしい数の黒い蝶が待っていることがわかった。
蝶となった呪いがここに集まり形となって、トコヤミに変化するのではないかという仮説が導かれた。
今後は、この大岩に群がる蝶の監視、及び定期的に滅する職務が軍に課せられることとなった。
わたしが眠っていた間に、國がよりよい方向に動きつつあった。
――そして、清家一族。
呪いを祓っているだけで滅してはいないという事実が明るみとなり、その権力や信頼は驚くほどに一瞬にして失ったという。
これまで呪い祓いを清家一族に依頼していた者たちは、呪い斬りができる異能者を雇うようになり、ますます清家家が存在が霞んでいった。
またトコヤミの戦闘で、暴言や本来の横暴な態度が世に知られることになった丞之助、慶一、芙未は、偽りの仮面で人々と騙していたと非難され、石を流れらる始末。
逃げるようにして僻地へ移り住んだと、仁も噂で聞いたそうだ。
椿は数日間休養を取り、体力が回復すると、仁とともに御所へと呼ばれた。
椿が緊張した面持ちで待っていると、かすかな物音がしたのち、簾の向こう側に人影が現れた。
顔は見えないが、この國の中心に君臨し、神として崇められる存在――帝だ。
「面を上げよ」
簾越しとはいえ、お目にかかることですら恐れ多い帝を前にして、椿はガチガチに身を固くしながら頭を上げた。
「黒領仁とその妻、椿じゃな。そして、真の名は、清家加耶」
「は、はい。そうでございます」
椿は声が震えた。
今日ここへ呼ばれたのは、命を無視して処刑を執行しなかった仁と、処刑を免れ別人として偽った椿の処遇についてだった。
場合によっては、再処刑。
それならまだしも、仁にも同等の処分が下される可能性は十分に考えられた。
固唾を飲んで、帝からの言葉を待っていると――。
「真実に目を向けず、冤罪を負わせてしまい申し訳なかった。心よりお詫び申し上げる」
人の上に立つ帝が椿に謝罪の言葉を述べ、周囲からはどよめきが起こった。
「黒領仁。理由はどうあれ、椿を処刑しなかったことに感謝する。大事な民をひとり、失うところであった」
「もったいなきお言葉」
トコヤミから國を救ったとはいえ、人々を欺いていたのは事実。
重い処分も覚悟していたが、椿は“幸喰い”ではなく“呪い喰い”で、國に危険を及ぼす人間ではないと判断され、椿と仁にお咎めはなかった。
「椿様ぁ〜!!おかえりなさいませ!」
黒領家の屋敷に戻ってくると、千鳥が泣きながら飛びついてきた。
再び訪れた、騒がしくも穏やかで温かい家庭に、椿はうれし涙を滲ませた。
仁はトコヤミの戦いにおいて、高い指揮能力が改めて評価され、さらに隊員たちからのたっての願いもあり、再び表舞台に戻って軍隊長の任に就くこととなった。
それにより、慌ただしい日々を過ごしていた仁だが、椿に告げたあの言葉は決して忘れてはいなかった。
――『椿。この戦いが終わった暁には、本当の夫婦になろう』
赤い椿が咲き乱れる、ある寒い冬の日。
この日、黒領家には、数え切れないほどに多くの人々がやってきた。
トコヤミから國を救った英雄ふたりの結婚を祝いに集まったのだ。
黒い紋付袴の仁の隣には、黒無垢を着た椿が寄り添い、仲睦まじい姿に招待客たちからは拍手がわき起こる。
「やはり黒無垢か」
「はい。わたしに合うのは、白よりも黒です」
二度目の祝言を迎える仁と椿だが、もう以前とは違う。
椿の黒無垢は、十和子がこの日のために仕立てた特注品。
そして、人目を忍び、闇夜に紛れてふたりだけで執り行った前回だが、今は冬晴れの昼下がり、多くの人々に見守られながら祝福を受ける。
「ここにいる皆に宣言する。彼女の名は、黒領椿。一生かけて愛すると誓った、我が妻だ」
椿の手を取り、民衆の前で誇らしげに語る仁の横顔は凛々しく、この人の妻になれたことに椿は改めてうれしさを噛みしめていた。
「椿、愛している」
「はい。わたしもです、仁様」
見つめ合うふたりは口づけを交わした。
幸喰いの悪女として恐れられ、忌み嫌われた女――清家加耶。
トコヤミを斬った英雄でありながら、呪いに苦しみ影の世界に落ちた男――黒領仁。
新たな名を手にした女と、新たに生きる希望を見いだした男は、この日、真の夫婦となった。
【完】



