断罪悪女の嫁入り

どうしてこんなことに…。

薄暗い蔵の中で手足を縛られた椿は、一晩中そればかり考えていた。


仁との楽しかった夏祭りのはずが、一気に地獄の底へと突き落されたような感覚だ。


埃臭く、湿っぽいこの場所は、明かりがなくとも目覚めたときにすぐにわかった。

なぜなら、仕置きのときには決まってここに閉じ込められた馴染みの場だからだ。


そう、ここは――。


「久しぶりぶりだな、“加耶”」


蔵の戸が開き、朝日を背にして三人の人影が映った。

その中央にいる人物がニヤリと不敵に微笑む。


その人物とは、清家丞之助。

椿が閉じ込められているのは、清家家の庭の隅にある物置き蔵だった。


「髪も切って、ずいぶんと雰囲気が変わったじゃないか」

「お父さま…」

「ほう。未だに“父”と呼んでくれるとは、良き娘を持ってワシはうれしいぞ」


涙をすする泣き真似をする丞之助に、椿は冷かな視線を向ける。


「それにしても驚いた。花菱家のパーティーで、加耶とよく似た人物を見かけたと芙未から聞かされたときは、すぐには信じられなかったが」

「しかも、今は“椿”と名乗っているそうじゃないか。陰の軍人、黒領仁の妻として」


慶一は前に出てくると、正座して見上げていた椿を足で蹴り倒した。


「処刑されたお姉さまがどうして生きているのかが不思議だったけど、執行人が黒領様だったのね」

「処刑場で命乞いでもしたか?お前は悪女、その美貌でこれまで何人もの男をたぶらかしてきただろうしな」

「なんて、はしたないの!身を売ってまで、生にしがみつくだなんて見苦しいわ」


芙未と慶一は、椿を嘲笑う。


唇をきゅっと噛みしめるが、自分がなんと言われようとどうでもよかった。

しかし――。


「職務を放棄し、悪女をホイホイ買うあやつも、噂どおりまっとうな人間ではなかったな」


仁のことを悪く言われるのだけは耐えられなかった。


相手が実の父親だろうと関係ない。

椿は、反抗的な目で丞之助を睨みつけていた。


「なんだその目は」

「撤回してください…」

「は?」

「彼に対するさっきの言葉を撤回してください!彼はそんな人なんかじゃない。あなたたちより、美しい心を持った人です!」


見たこともない加耶の剣幕に、慶一や芙未だけでなく、丞之助さえも一瞬怯んだ。


清家加耶は無能で、使用人同様、ペコペコと頭を下げてひれ伏すことしかできない役立たず。

こんなふうに、どこからともない自信と楯突くような人間ではない。


「貴様っ…!ワシに向かって、なんだその態度は!」


目を血走らせた丞之助は、椿の頰を平手打ちして突き飛ばした。

むくっと体を起こした椿の口の端からは血が流れる。


「悪いのは加耶、お前だぞ。父上に対して、無礼にもほどがある」

「そうよ、お姉さま。お父さまを怒らせるだなんて」


黒領家へ嫁いだことでしばらく忘れていたが、慶一も芙未も丞之助とよく似た考えの持ち主で、それに染まらぬ加耶は、この家ではいつもひとりぼっちだったことを思い出させられた。


「それにしても父上、加耶が実は生きていたことを早く通報したほうがよろしいのではないでしょうか」

「そうだな。処刑を執行せず、しかも自分の嫁として匿うとはなんてヤツだ」

「もしお父さまが通報したら、黒領様はどうなるの?」

「清家加耶の処刑は、帝が認めたものと同じ。帝の命に背く者は、この國には不要。処刑執行人が処刑されるとは、実に滑稽だ」


丞之助は不気味なくらいにニタリと笑う。

それを見て、椿の額から冷や汗が流れる。


「…そ、それだけはおやめください!彼はなにも悪くありません…!」


椿は、縄が体に食い込むほどにもがいて訴えかける。

そんな椿を見下ろしながら、芙未が丞之助のほうを振り返る。


「お父さま、それに関してはアタシも反対だわ」

「いきなりどうした、芙未」

「だって黒領様ったら、とってもきれいなお顔立ちをされていらっしゃるんですもの。一目見た瞬間、ため息が漏れましたの」


頬に手を添え、顔を赤くさせる芙未は、もはや恋する乙女の顔だ。


「しかも、黒領家は異能家系としても有名でしょう?アタシの嫁ぎ先としても申し分ないと思いますのだけれど」

「まあ、“異能力だけ”で見ればな。だが、あやつはそもそもトコヤミの呪いに冒されたバケモノだ」

「ト…、トコヤミの呪い!?」


真実を聞かされた芙未は顔を引きつらせる。


「世間的には、あまり知られていないから無理もない。過去の功績で陰の軍人として生かされてはいるが、いつかはこの國に脅威を及ぼしかねない危険予備軍だ」

「なーんだ、だったらいらないわ。でもそんな危ない人が、パーティーや祭りに出歩いていたなんて信じられない…!」

「そうだ。だから、大事な芙未を嫁にはやれない。まあ悪女と呼ばれた加耶なら、たしかにお似合いだったかもしれないがな」


丞之助の言葉に、芙未は口元に手を当てほくそ笑む。

バケモノに娶られたかわいそうな嫁とでも言いたげだ。


「お言葉ですが、仁様にはもうトコヤミの呪いはありません」

「なにを言っているんだ。あの呪いは消えない。一生、体を蝕み――」

「消滅させました、わたしが」


それを聞いた三人は、ぽかんとして椿を見下ろす。


「消滅させた?お前が?」

「はい」

「ププッ。お姉さまったら、夢でも見てるんじゃないの?」

「これは呆れた。自分には力があると、ついに妄想に走るようになってしまったか」


当然のことながら、この三人は聞く耳も持たない。


「だが、黒領仁は冷酷無慈悲。気に食わぬ者は嫁でさえも斬り捨てると聞いたが、お前がその妻とは未だに信じがたい」

「父上。しょせんその男も、清家一族の呪い祓いの力にすがりたかったのでしょう。それで加耶が清家の者だと知って、処刑を隠蔽したと」

「どちらにしても、職務怠慢だな」


丞之助はため息をつく。


「お父さま、お姉さまはどうするおつもり?」

「せっかく別人として生きているようだしな。清家の分家の者として、まだ嫁に出す価値は残っている」

「ほんと、お姉さまは結婚がお好きね」


芙未は口元に手をあてがい、クククと笑い声を漏らす。


「残念ながら、わたしはもうあなた方の言うことは聞きません。無理やり嫁がせても、その嫁ぎ先で真実を告げるまでです」

「ほほう。しばらく見ない間に生意気になったものだな。母親殺しのくせに」


その言葉が椿の胸に突き刺さる。

今まではそれに屈し、自分を責め、丞之助の言いつけを受け入れてきた。


だがそれは清家加耶で、黒領椿は違う。


「…そうです。お母さまは命をかけてわたしを守ってくださった。だからこそ、お母さまに恥じない生き方をしたいのです」


椿は、キッと丞之助を見つめ返した。

これまではどんよりとしていた加耶の瞳の奥に、揺るがない意志を感じる光が灯り、別人と化した加耶に丞之助はごくりと唾を飲み込んだ。


「偉そうに、親に口答えをしおって。外に出せないというのはわかった。だったら、ここに閉じ込めておくまでだ」

「しかし、父上。それになんの意味があるのですか」

「ありがたいことに、加耶は黒領仁に好かれているそうじゃないか。加耶を人質に、あやつを揺することができるだろう?」

「なるほど。異能家系としても、軍人としての権力も申し分ないですからね。よかったな加耶、いいところに嫁いで」


ニタリとした慶一の微笑みに、椿は背筋に悪寒が走った。


もう昔のやさしかった兄はどこにもいない。

今はすっかり、丞之助とそっくりな顔つきに変わってしまった。


「さっ、朝食にしようか。行くぞ」

「はい、父上」

「お腹空いちゃった〜」


三人は椿を残して出ていった。

重い戸が閉められて、蔵の中は再び暗闇に包まれる。


悔しいが、こんな状況だというのに椿の腹の虫が虚しく鳴いた。

以前は、他から取り込んだ呪いで満腹になり、しばらく食べずとも平気だったというのに。


温かい食事に、仁や千鳥に囲まれた温かい食卓。

いつの間にかそんな生活が当たり前と思えるようになり、幸せな家庭にすっかり浸ってしまっていた。


『椿』


やさしい仁の顔が頭の中に浮かぶ。


「仁様…、会いたいです」


椿は、きゅっと唇を噛んで耐えるしかなかった。


その後、椿は丞之助たちにより、仁の詳細を代わる代わる尋問された。


仁を揺するにしても、居場所がわからなければならない。

しかし、黒領家の場所を知る者は、直接汚れ仕事を依頼したことのある人物などに限られている。


そういった者たちから聞き出すのが一番楽だが、そうなれば、清廉潔白として敬われる清家家に悪い噂がつきかねない。

外聞を損なわぬためにも、あくまで清家家は清らかでなければならないのだ。


その筋からたどれないとなると、やはり椿から情報を吐かせるしかなかった。


「加耶。黒領仁はどこにいる」

「…………」


椿は絶対に口を割ろうとしない。

仁の迷惑になりたくなかったからだ。


しまいには、仁以外のことにも一切話さなくなった椿に、丞之助と慶一は苛立ちを募らせていた。


「お姉さまって、ほんと強情ね」


呆れ顔を浮かべた芙未が椿の前にしゃがみ込む。


「思っていたのだけれど、頭の“それ”。なかなかいい代物じゃない」


そう言って、芙未が視線を移すのは椿の乱れた髪に刺さった玉簪。

とっさに身を引いた椿だったが、ニヤリと微笑んだ芙未が肩をつかんで引き寄せた。


「悪女のお姉さまに、そんなかわいらしいものは似合わないわ。アタシがもらってあげる」

「…だめ!返して!」


椿は声を張り上げる。

ようやく口を開いた椿に、丞之助たちはやれやれとため息をつく。


「これは、仁様がわたしのために取ってくださったもので――」

「黒領様からの贈り物?それなら、なおさらいただくわね」


芙未はすばやく簪を抜き取ると、自分の髪へと挿した。

手足が縛られている椿は、抵抗さえもできなかった。


「芙未、加耶に不要に触れるのはよせ。呪いが移るかもしれないぞ」

「平気よ、お兄さま。お姉さまと違って、アタシには清家一族の清らかな血が流れているもの」

「そうじゃない、トコヤミの呪いだ。あれは厄介だと聞く。黒領仁とともにいたのなら、加耶に移っていてもおかしくはないだろう」

「た、たしかに。それもそうね」


芙未は顔を引きつらせると、そそくさと椿から離れた。


「あなた方は、ご自分たちがたいそう立派な人間だとお思いのようですね」

「は?お姉さまったら、急になにを言い出すの?当たり前じゃない。アタシたちは清家一族。この國で唯一、呪いが祓える希少な異能者よ」

「そうだ。お前とは、そもそもの才が違うのだ」

「…本当におめでたい人たち。見えていないのは呪いだけだと思っていたけれど、自分たちのことも見えていないんですね」


椿はぼそっとつぶやいたとたん、慶一が思いきりその頬を打った。


「今、なんと言った?」


目玉をひん剥き、凝視する慶一は、男前というには程遠い恐ろしい顔つきをしている。

しかし、椿は怯まない。


「自らの力を信じて疑わず、ふんぞり返っている清家一族は、見ていて滑稽だと言っているんです…!」

「加耶、お前っ…!もう一度言ってみろ!」


侮辱されたのがよほど頭にきたのか、普段は冷静な慶一が椿の襟元を鷲づかみにして殴りかかる。

豹変した兄の姿に、芙未でさえも唖然としていた。


「なにが滑稽だ!力もないくせに、偉そうな口を――」

「ちょっと待て、慶一」


なおも、椿に振り下ろそうとする慶一の握り拳を丞之助がつかんだ。


「加耶。自らの力を信じて疑わずとは、どういう意味だ」

「…呪い祓いとして、清家一族は國中から崇められていますが、それは“祓っているだけ”で根本的な呪いの消滅には至っていません」

「なぜ、そのような確信的なことを言える」

「お父さまも知っているではありませんか。わたしは呪いを可視化できます。花菱家のパーティーで見たお兄さまの祓った呪いは、黒い蝶となって逃げていきました」

「つまり、祓った呪いがまた別のだれかに移ると?」


丞之助の問いに、椿は顔を腫らしながらこくんとうなずく。


清家一族の力は完璧じゃない。

呪いを消滅させるには、呪いを斬れる異能者との協力が必要だとわかってほしかった。


ところが――。


「万が一そうだったとしても、それはそれで好都合。祓った呪いがだれかに取り憑き、またその者から呪い祓いの依頼が入る。無限の連鎖があれば、清家一族は今後もずっと必要とされ続ける存在となる!」


椿は愕然とした。

実の家族が、こんなにも私利私欲にまみれた者たちだとは思っていなかった。


「さあ、加耶。そんなにおしゃべりができるというのなら、黒領仁についても話してもらおうか」


椿は丞之助を睨みつけた。



清家家に連れてこられ、三日目の朝を迎えた。

椿は未だになにも語らないが、その間食事を取っておらず、そもそも話す体力も尽きかけていた。


「なんだかお姉さま、やつれてない?前はもっと、食べなくても平気だったわよね?」

「演技のつもりか。そんなことしたって無意味だというのに」


蔵に入ってきて、明らかに衰弱している椿を見ても芙未と慶一はなんとも思わない。


「どうだ。加耶は吐いたか?」


そこへ、朝食を済ませた丞之助もやってきた。


「なんだ、まだ寝ているのか」

「たぬき寝入りよ、お父さま」

「それにしても加耶のやつ、こんなことで時間稼ぎしようとして――」


三人の声が次第に遠のき、視界もぼやけて揺らめく。


「仁様…。わたし、もうおそばにいられないかもしれません…」


消え入る声で、戸の開いた蔵の外へと語りかけ、ゆっくりとまぶたを閉じようとした――そのとき。


「困ります!勝手に入られては…!」

「止まってください!どこに向かわれるおつもりですか!」


向こうのほうから、慌てふためく使用人たちの声が聞こえてきた。


「どうかしたのか」


三人も蔵の外を覗き込む。

するとそこには、清家家の広大な庭を迷うことなくまっすぐ向かってくるひとりの男の姿があった。


使用人たちは、一切言うことをきかないその男に困り果てている様子。


「いったい何事だ」

「だ、旦那様…!」


蔵から出てきて丞之助に、使用人たちはおずおずと頭を下げる。 


「この方が私たちの静止を聞かず、勝手に中に…」

「旦那様に会わせろの一点張りでして」


丞之助を見つけた男は、ようやくそこで歩みを止めた。


黒い軍服に、背中には人の背丈ほどの長い刀。

黒い髪が風に揺れ、闇に染まった黒い瞳を持つその男は、まるで死者の世界からやってきたように黒い影を落とす。


外へと飛び出してきた芙未は、その人物を目にしてうっとりと表情を溶かした。

そして、隣にいた慶一は顔をこわばらせる。


「父上、こいつが黒領仁です!」


刺すように向ける慶一の人差し指をたどって、丞之助が目を向ける。


「貴様が…」


当の本人を目の前にし、一瞬表情が固まった丞之助だったが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。


「旦那様、申し訳ございません!すぐにお帰りいただくよう――」

「いや、かまわん。それに、その男には近づかないほうがいい。なぜなら、トコヤミの呪いを持っているからな」

「ト…トコヤミの呪い!?」


それを聞いた使用人たちは一斉に仁との距離を取った。


「お初にお目にかかります。黒領仁と申します。妻の椿がお邪魔しているのではと思いまして、迎えに参りました」

「妻の椿?…ふふふ、なにをおっしゃいますか。ここにいるのは我が娘、清家加耶です。決して、椿などという名前では――」


その瞬間、丞之助の真後ろにあった蔵の戸が吹き飛んだ。

その破片が丞之助の頰をかすめる。


「なに、今の…」

「ヤツの異能か」


芙未と慶一もぎょっと目を丸くして驚いている。


破壊された蔵の入り口は大きく口を開け、中で横たわったまま動かない椿の姿が照らし出された。


「椿!」


仁の叫び声に、椿がうっすらと目を開ける。


「仁…様…?」


朧げに視界に映った仁の姿に、椿は目の奥が熱くなって涙が滲んだ。


「俺の妻を攫ったのは、やはり貴様らだったか」


仁がつぶやいたとたん、取り囲むようにして突如として炎の渦が立ち、使用人たちは一目散に逃げていった。


「凄まじい力だ。さすが陰の軍人。それとも、トコヤミの呪いが関係しているのですかな?」

「さっきからおっしゃっている、トコヤミの呪いとはなんのことでしょうか」

「とぼけるつもりか。七年前、右腕に禍々しい呪印をつけられたと聞いたぞ。その姿は、もはや妖怪とな」

「右腕に呪印?それはこれのことだろうか」


そう言って、仁は右の袖をまくり上げた。

ところがそこに呪印の跡はなにひとつとして見られない。


「な、なんだと…!?どのようにして隠した!」


噂で聞いた呪印がなく、丞之助は目を疑う。


「たしかにあなたのおっしゃるとおり、ついこの間までここにトコヤミの呪印がありました。しかし、代わりに請け負ってくれたのです。椿が」

「加耶が…呪いを!?」

「椿には呪いを食う力がある。幸喰いなんかじゃない。人々を脅威から守る、唯一の“呪い喰い”だ」


仁は一歩、また一歩と歩み寄り、ゆっくりと背中の刀を引き抜いた。


「返してもらうぞ、俺の妻を」


鋭い殺気を感じ取った丞之助と慶一は、瞬時に構える。

仁の動きを封じるため、結界術で取り囲んでいく。


軍人として鍛えられた仁とは違い、清家一族は異能攻撃よりも結界術などの防御を得意とするため戦闘向きではない。


しかし、二対一。

丞之助たちは連携して異能を繰り出し、仁の隙を狙っていた。


「仁様っ…」


なにもできない椿は、壊れた蔵から固唾を飲んで見守る。

戦闘の行方が気になるというのに、その視界を遮るように芙未が入ってきた。


「トコヤミの呪いをお姉さまが消滅させたって、本当だったのね。だったら、ますますほしくなったわ」

「…ほしい?」

「ええ、黒領様よ。指折りの異能家系、それに申し分ない容姿。問題の呪いはもうない。それなら、アタシの夫にふさわしいじゃない!」


芙未は、人差し指で椿の顎を持ち上げる。


「お姉さま、黒領様をアタシにちょーだい」


口角がゆっくりと上がり、両目は弧を描き、芙未がニンマリと微笑む。


「ちょうだいって…、そんなことできるわけ――」

「じゃあ、お父さまたちが勝ったらアタシがもらうわね。お姉さまを助けにきたせいで黒領様が負けたなら、それはお姉さまの責任で身を引くのは当然でしょ?」


そのとき、心臓にまで届くような轟音が響いた。

はっとして椿が目を向けると、辺り一面砂煙が立ち込め、その中に異能で体を縛られ動けずにいる仁がいた。


「…仁様!」

「あーあ、捕まっちゃった。黒領様の力を持ってしても、お父さまとお兄さまの術には敵わないみたいね」


仁は力ずくで捕縛の術から逃れようとするが、丞之助がそれを許さない。


「慶一!今のうちに、封印術でヤツの異能力を封じてしまえ」

「はい、父上」


慶一は仁に狙いを定める。


「勝負あったわね。異能者が力を封印されてしまったら、なすすべないものね」

「そんな…、わたしのせいで…」

「気にすることないじゃない、お姉さま。どうせ、命乞いして適当に結んだ婚姻関係でしょ。向こうは妻がだれになろうと、なんとも思わないわよ」


たしかに、仁とは契約結婚を交わした偽物の夫婦。

利害の一致で関係を結び、そこに愛などない――はずだった。


けれど、仁はいつも椿のほしいものを与えてくれた。


新しい名前。

温かい居場所。

椿を想う言葉。


これらはすべて、偽物などではない。

椿はそう信じたい。


「むしろ、力あるアタシが妻のほうが黒領様も喜ばれるに違いないわ。お姉さまとの夫婦ごっこはもうおしまいよ」


屈託のない笑顔を向ける芙未だったが、椿は力なくうつむいたまま。


「お姉さま、ちゃんと聞こえてる?」


返事のない椿に苛立ちを見せる芙未。


「……ない」


すると、椿からぽつりと言葉が漏れてきた。


「へ?なにか言った?」

「……なんかじゃない」


椿はゆっくりと顔を上げると、キッと芙未を睨みつけた。


「夫婦ごっこなんかじゃない。わたしは、仁様を夫として愛してる!」


椿の叫びに、芙未は思わず圧倒されて口をつぐむ。

その瞬間、ガラスが割れるような音が聞こえた。


見ると、仁が丞之助の捕縛の術を破っていた。

その顔は、わずかに口角が上がっている。


一瞬生まれた隙を逃さず、仁は慶一の封印術を避けると、落ちていた刀をすばやく拾い上げる。


そして異能をまとわせると、目にも見えない速さで丞之助と慶一を斬り裂いた。


「…お父さま!お兄さま!」


芙未の悲鳴が響く中、ふたりは膝をついて地面に倒れた。

峰打ちだが、すぐには立ち上がれない状態だ。


「そんな…。お父さまとお兄さまが負けるわけ…」


うわ言のようにつぶやき崩れ落ちる芙未の前へ、仁がやってくる。


「そこをどけ」

「ひぃ…!」


芙未は顔を引きつらせると、尻もちをついておずおずと引き下がる。

そんな芙未に鋭い視線を向け、ゆっくりと歩み寄る。


「な、なによ…!」

「お前には似合わない」


そう言って、仁は芙未の髪から玉簪を奪い取った。


振り返った仁がまっすぐに椿を見下ろすと、手足を縛っていた縄が異能により一瞬にして弾け飛んだ。


「椿、すまない。遅くなった」


そうして仁は、強く強く椿を抱きしめた。

椿も仁の背中に腕を伸ばし、体全体で仁のぬくもりを受け止めた。


「…申し訳ございません、仁様。わたし、ひとりでいなくなって――」


その瞬間、仁が椿の唇を塞いだ。


「仁様っ…」

「謝るな。それに、なにも話さなくていい。とにかく今は、ただこうしていたい」


熱いまなざしで語りかけると、仁は再び椿にキスをした。


仁と口づけを交わすのは、トコヤミの呪いを吸収するための儀式だった。


だが、ただ強烈に苦かっただけの呪いの口づけはもうない。

本当はこんなにも甘くてやさしいものだと、椿はこのとき初めて知った。


唇が離れ、頬を染めた椿が仁を見上げる。


「なにを恥ずかしがっている。“夫として愛してる”、そう言ったのは椿だろう?」

「き、聞こえていたのですか」

「ああ。だから、なんとしてでもこの手で救い出したいと思った。妻として、お前を愛しているから」


愛おしそうに抱きしめてくる仁の言葉に、椿はうれしさで目に涙が滲んだ。


「椿、帰ろう。俺たちの家に」

「はい」


傷だらけの顔のふたりだったが、見つめ合ってにこりと微笑んだ。


仁は軽々と椿を抱きかかると、動けないでいる三人のそばを悠然と通りすぎる。


「待て、黒領!このまま逃がしてたまるものか!」

「無理しないほうがいいですよ。それに何度やっても同じです」

「なにをわかったような口を。今にそのすかしたツラを――」


そのとき、地面が波打つように大きく揺れた。

立っていられないほどの地震に、仁は瞬時に椿を地面に下ろして上から覆いかぶさる。


屋敷からは怯える使用人たちの声が響き、屋根の瓦がパラパラと落ちてくる。


「なんだ、今の地震は…」

「お父さま、怖かった〜…!」


幸い、この場にいた皆は無事で安堵のため息をつく。


「椿、大丈夫だったか」

「わたしは平気です。仁様は?」

「俺も問題ない」


それを聞いて胸をなで下ろす椿だったが、ふと仁の背後を見て目を見開いた。


「仁様…、あれ…」


椿が声を震わせ恐る恐る指さす先を、仁が振り返ると――。

北の空にかかる分厚い暗雲がまるで生き物のように空をはって渦巻き、まだ朝だというのに辺りを暗闇に染めていく。


それと同時に、耳をつんざくようなおどろおどろしい咆哮が轟いた。


「…なんて声だ」

「耳が痛いわ…!」


丞之助たちは両耳を塞いでしゃがみ込む。


「仁様、あちらの方角は…」

「ああ。北の空が続く地にあるのは、怨露山。トコヤミが封印されているという山だ」

「じゃあまさか…、この咆哮は…」


ごくりと唾を飲む椿。

仁は冷や汗を滲ませ、奥歯を噛んだ。


「間違いない。トコヤミが復活したんだ」