断罪悪女の嫁入り

「椿様。朝食の準備ができましたが、お加減いかがでしょうか」

「…ごめんなさい。今日も体調が優れないので、部屋で休ませてもらいます」


千鳥は椿の返事を聞くと、そっと部屋のドアを閉めた。

そこへ、仁がやってくる。


「椿はなんて?」

「食欲がわかないそうなので、部屋にこもられるそうです」

「そうか…」


仁は心配そうに、椿の部屋のドアを見つめた。


花菱家のパーティーから帰ったあと、椿は具合が悪くなった。

いつもの満腹感に満たされてお腹が苦しく、体がだるいのだ。


パーティーの招待客たちは皆、富や名声のある家々の者ばかり。

もちろん嫉妬や妬みを買いやすく、知らず知らずに呪いもついて回る。


そんな者たちが、あの会場に何百人と集まっていれば、薄くとも呪いであふれ、椿は無自覚でそれらを吸収していたのだった。


「こんなことなら、早くに退出しておけばよかったな。俺のせいだ」

「なにをおっしゃいますか。パーティーから戻られた椿様、本当にうれしそうでしたよ。ご主人様は、ご自分を責めないでください」


千鳥に励まされ、仁は眉尻を下げて少しだけ微笑む。


椿にとってはいつものことで、荒々しい性格になってしまうため、仁や千鳥を寄せつけないように部屋にこもっていた。

しかし、もう三日もまともな食事を取っていなかった。


「本人はしばらく食べなくとも平気と言っているが、やはり気にはなるな」

「私も心配です。なにか少しでも、栄養があるものを口にできればいいのですが」


それを聞いた仁は、顎に手を当てて考える。

そしてなにかひらめいたのか、千鳥のほうを向き直った。


「千鳥、頼み事があるのだが」


その頃、椿はただひたすら布団の中でうずくまっていた。

苦しくて起き上がるのもつらいが、まだ少しだけ余裕はあった。


しばらくこうしてひとりで休んでいれば、そのうち溜め込んだ呪いも消化できる。

そのために、椿はひとりで耐えていた。


西の山に日が沈んでも、椿は部屋から出てはこなかった。

そこへ、千鳥がやってきて部屋のドアをノックする。


「椿様、起きていらっしゃいますか」

「は、はい。どうされましたか」

「少しよろしいでしょうか」


千鳥は断りを入れると、椿の部屋へと入った。

椿はむくっとベッドから体を起こす。


「まだ食事をする気分ではございませんか」

「…はい。すみません」

「いえ、お謝りする必要などございません。ただ、いつものこととはおっしゃられましても、ご主人様が椿様のお体を心配なさっていて」


椿自身は満腹感で食べる必要はないと思っているが、呪いが栄養になるわけでもなく、その間体は痩せこけていた。

頬はこけ、腹部は背中とくっつきそうなほどに横から見たら薄っぺらい。


「好物であれば少しは食欲もわくのではと、こちらをお持ちいたしました」


そう言って、千鳥が差し出してきたのは皿に乗った卵焼きだった。


「もしかして、だし巻き卵ですか?」


うなずく千鳥から、筋張った手で皿を受け取る。

所々に焦げがあり、卵も破けてボロボロの見た目で、とてもだし巻き卵とは言うには程遠いものだった。


「花菱家のパーティーで、だし巻き卵が好物とご主人様にお話されたのですよね?」

「は、はい」


立食用にたくさんの料理が並べられていた中で、椿は一番にだし巻き卵を取っていた。

そのときに仁に聞かれ、好物だという話をしたのだ。


「卵は栄養価も高いですし、なんとか食べていただきたく、ご主人様がお作りになられました」

「仁様がお料理を?」

「そうなんです。考えられないですよね」


千鳥はにこりと笑ってみせる。


「作り方を教えてほしいと、朝からお願いされました。それで、何度も何度も挑戦されて」


料理の素人が、いきなりだし巻き卵を作るのは難しい。

差し出されたものも、見た目は卵焼きだ。


しかし、料理をしたことのない仁が一生懸命作る姿を想像したら、椿は目の奥が熱くなった。


「たくさん卵を使われるので、三度も買い物に出かけました。私もご主人様も、昼食は失敗作のだし巻き卵しか食べてないんです〜。まだ余ってるので、夕食にも食べますけどね」


千鳥はケラケラと笑ってみせる。

そんなたくさんの失敗作を生みながら、椿に届けたものも不格好ではあるが、仁が作った中で一番上手に作れたものだという。


「でも、無理して食べる必要はございませんよ。ご主人様もそれはわかっていらっしゃるので――」

「…おいしいです」


千鳥が目を向けると、椿が箸を口へと運んでいた。

そして、うれし涙を浮かべながら微笑む。


その表情を見た千鳥も胸の中が熱くなった。


「お礼を言いたいのですが、仁様はどちらに」

「先ほど、職務に出られました。特別な任務だそうで、いつお戻りになられるかはわからないとのことです」

「…そうですか」


椿は肩を落とす。


「わたしの勝手な想像ですけど、お料理上手な椿様に、不慣れなだし巻き卵を自らお届けするのが恥ずかしかったのではないでしょうか」


それが理由なのか、仁は千鳥に任せて早々に出ていったそうだ。


「見た目なんて関係ないのに」


つぶやきながら、椿はまたひと口つまんだ。


『幸喰いの悪女』と呼ばれた加耶と、『陰の軍人』と恐れられた仁。

見た目だけで判断され、だれも中身まで知ろうとしなかった。


だし巻きも見た目は悪いが、食べたらやさしい味をしていた。


「どんなだし巻き卵よりも、仁様が作っただし巻き卵が一番好きです」


微笑む椿を千鳥はやさしいまなざしで見つめていた。


その後、椿は数日かけて回復していった。

ただ病み上がりのため、家事をしていたら度々千鳥に怒られる。


「椿様。屋敷のことは私に任せて、お部屋でお休みください!」

「ですが、お掃除くらいなら…」

「だめです!ご主人様が不在のときに、もし椿様になにかあったら怒られるのは私なんですからっ」


そう言われ、千鳥によって部屋に連れ戻されてしまった。


「椿様、また勝手に出てきてはいけませんよ」

「はい、以後気をつけます」


過保護な千鳥に、ドアの前に立っていた椿はクスッと笑った。


その夜は、大きな満月が空に浮かんでいた。

日中は部屋で寛いでいてそれほど疲れていないからか、普段であれば眠っている時間だというのに今日は目が冴えていた。


せっかくだから窓際のイスに座り、窓から月を見上げていた。


すると、部屋の外から物音がした。

目を向けるとゆっくりとドアノブが上下に動き、開いたドアの隙間から仁が顔を出した。


「仁様!」

「なんだ、椿。起きていたのか」


てっきり寝ていると思っていた椿が起きていて、仁は目を丸くする。


「今日はなかなか寝つけなかったので、月を見ようと思いまして。仁様はお帰りになられたのですね」

「ああ。しばらく家を空けてすまなかった」

「いえ。ご無事でなによりです。おかえりなさい」

「ただいま」


久しぶりに顔を合わせ、ふたりは微笑み合う。


「具合はどうだ?」

「はい、おかげさまで。仁様が作ってくださっただし巻き卵のおかげです」


それを聞いて、仁は頬を赤く染めて顔をそらした。

しかし、月明かりしかない暗がりの部屋では椿には気づかれなかった。


「仁様。お話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

「なんだ?」

「先日の、花菱家のパーティーのときなのですが――」


ふたりが退室するとき、名誉挽回のため、慶一が招待客たちの呪いを祓っていた。

不調を訴える人々の体から黒い蝶が舞って飛んでいったため、慶一の力は確かなものだった。


「ですが、蝶たちは北の窓から逃げていったのです」


その場では呪いが祓われたと招待客たちは喜び、慶一も注目を浴びたが、呪いの黒い蝶たちが外へ飛んでいく様子は可視化できる椿にしかわからない。


「つまり慶一…いや、清家家の力は、本当にただ“祓っている”だけで、呪いそのものは消滅できていないと?」

「わたしも初めて目の前で見たので、今までもそうだったのかはわかりませんが…」


椿の話に、仁は口元に手を当てて考え込む。


「黒い蝶は、北のほうへ飛んでいったのだな」

「はい。そういえば、これまでの見かけて蝶も皆、吸い寄せられるように北向きに飛んでいたような気がします」

「それなら、一度調べてみる必要はありそうだな」


仁は椿にうなずいた。


「それにしても、思ったよりも元気そうで安心した。だが、もう遅い。明日のためにも、そろそろ寝るんだ」

「そうですね。明日は、仁様の朝食のご用意もしたいですし。でも、こうしてお話できたので、仁様が帰ってくるまで夜更かししていてよかったです」


にこりと微笑む椿の笑顔は、長期の任務の疲れを忘れさせてくれるほどに、仁にとっては癒しに感じた。


「朝食の支度もうれしいが、まだ万全ではないのだろう?無理はするな」


仁が付き添い、ベッドへと向かわせる。


「ありがとうございます。わたしなら平気で――あっ」


そのとき、絨毯の端に足を引っかけた椿が小さな声を漏らした。


「危ない…!」


前のめりに倒れようとする椿に気づいた仁が慌てて手を伸ばす。


体が柔らかい布団に沈むのがわかり、椿はベッドの上に倒れたのだと理解した。

しかし目を開けると、覆い被さって見下ろしてくる仁の顔が間近にあった。


仁の闇を吸い込んだ瞳の中には、突然の状況に瞬きを繰り返す椿の顔が映っていた。


「仁様…?」


無意識に呼びかけるが、じっと見つめたままの仁からの返事はない。

半分を月明かりに照らされるその美しい顔立ちに、椿はごくりと唾を飲み込んだ。


『ふたりにかわいい赤ちゃんができたら、産着もお任せてね』

『あ…赤ちゃん!?』


なぜかこんなときに、先日の十和子との会話を思い出してしまった。


契約結婚とはいえ、夫婦だったのだと改めて自覚する。

であるならば、そのときを迎えてもなにもおかしくはなかった。


「椿…」


名前を呼ぶ仁の声が、今日は妙に色っぽく感じる。

指を絡めるようにして手を握られ、椿は今までにないくらいに胸がドキドキしているのがわかった。


もう片方の手でやさしく髪を滑らせ、熱っぽくて潤んだ目をぎゅっと閉じて覚悟を決めた。


――すると。


「三度も嫁いだというのなら、こういうことにも慣れているのだと思っていたが…。こんな初心な反応をされると、手を出すわけにはいかないな」


そう言って、仁はベッドから体を起こした。

椿を驚いて見上げる。


「あの…仁様。わたしがなにか不手際でも…」

「そうじゃない。お前の気持ちが追いついていないのに、俺のほうが先走ってしまった」


申し訳なさそうに眉尻を下げ、仁が椿の手を包み込む。

そこで椿は、初めて自分の手が震えていることに気づいた。


「椿のことは大事にしたいと思っていたのに。焦らすようなことをして悪かった」


仁は額を突き合わせると、自身と椿に言い聞かせるように語る。


「明日の朝食、楽しみにしていてもいいか。任務でまともな食事が取れていないんだ」

「それなら、ぜひお任せください」


椿の返事に、仁は柔らかく頬を緩める。


「ちゃんと布団をかけて寝るんだぞ。おやすみ」

「おやすみさない」


そうして、仁は部屋から出ていった。


目をつむると、さっきの色香が滲む仁の表情が思い出されて、うるさいくらいに胸が暴れているのがわかった。

外まで聞こえてしまうのではないかと思う鼓動に、結局椿はなかなか眠れなかった。



それから数日後。

千鳥と買い物に出かけていた椿は、掲示板に張られていた夏祭りのビラを目にした。


「この近くの神社でお祭りがあるのですか?」

「はい。毎年、これくらいの時期ですね。しかも、よく見たら今日の夜ではありませんか!」


ビラをまじまじと眺めていた千鳥が、急に体をクネクネと左右に動かしはじめた。

この動きは、千鳥が物欲しいときによく見かける。


「いいですね〜、お祭り。かき氷にりんご飴、綿菓子もおいしいと聞きますし、一度食べてみたいものです」

「仁様とは行かれたことはないのですか?」

「ありません。ご主人様は、職務以外では夜に出かけられませんから」

「そうですか。わたしも行ったことはないんですけどね」

「でしたら!」


そう言って、千鳥はガチッと椿の手を握りしめた。


「ご主人様をお誘いして、今夜ごいっしょに行かれてはどうですか!」

「ええ…!?でも、職務があるでしょうし」

「そんなもの、どうとでもなりますよ!きっと。椿様の頼みであれば、ご主人様も断れませんよ」

「そ、そうでしょうか」

「はい!そして、私にりんご飴か綿菓子を買って帰ってきてくださいませ〜。かき氷は溶けてしまうので、悔しいですが諦めます」


よほど食べてみたいのか、千鳥は終始クネクネしている。

そんなふうにお願いされたら、断るに断れない。


「わかりました。仁様に聞いてみますが、あまり期待しないでくださいね」


きっと職務で夜には出かけるだろうから、当日に言われても厳しいだろうと思っていた。

ところが――。


「夏祭り?椿が行きたいのならば行こうか」


なんとあっさり許可が下りた。


「よろしいのですか。今夜も職務に向かわれるのでは」

「それくらいなんとかなる。今日を逃すと、次は一年後だぞ?せっかく椿の体調もよくなったことだし、出かけようか」


仁の提案に、椿は目を輝かせた。


初めての夏祭りに胸を躍らせながら支度をする。

仁が職務で不在の夜はいつもどこか寂しかったが、こんなにも日が落ちるのを楽しみにしたのは初めてだった。


白地に紺色の朝顔模様の涼しげな浴衣に袖を通し、肩上で切りそろえられている髪を頭の後ろでひとつにまとめた。


屋敷の門のところで待っていると、背後から心地よい下駄の音が聞こえた。

振り返ると、長身によく映える縦縞模様の黒の浴衣を着た仁が現れた。


普段の軍服とはまったく違う雰囲気に、椿は見惚れて息を呑んだ。


「待たせたな」

「いえ、全然…!」


椿は赤くなった頬を悟られないようにうつむきながら、仁の隣を歩いた。


「仁様は、何度か夏祭りは行かれたことはあるのですか?」

「ああ。幼い頃は、毎年両親が連れていってくれたものだ。だが、軍に入隊してからさっぱりだ」

「お忙しかったのですね」

「そうだな。それもあるが、トコヤミの呪いにかかってからは、いつの夜に暴走するかもわからないから、人が多く集まる場所には出歩けなかった」


仁はおもむろに右腕に視線を移す。

本当に呪いがあったのかと今となっては不思議に思うほど、浴衣の袖から見える腕にはアザひとつ存在しない。


「まさか、こうしてだれかと夜に出歩ける日がくるとは思わなかった」


そう言って、仁は椿に手を差し出した。

なにかを促されているようだが、それがなにかは椿にはわからない。


「えっと…」


すると、戸惑う椿の手を仁が握りしめた。

そうして引き寄せられ、椿はぽっと顔が熱くなる。


「祭りは人が多いからな。こうしていないと、はぐれたら困るだろう」

「ま、まだお屋敷を出たところですが…」

「予行練習だ。神社に着いてすぐ、手を繋げと言われたらできるか?」

「いえ、それは…」

「だったら、このままでいいだろう」


強引に椿の手を引く仁だが、その頬は赤かった。


「いい感じのところ恐れ入りますが、りんご飴と綿菓子をお願いしますね〜」


千鳥は、そんなふたりの後ろ姿を見守っていた。


神社に近づくにつれて、浴衣姿の人がちらほら見えはじめ、石段を上った先にある境内は多くの人々でごった返していた。

思わず圧倒されてしまった椿だったが、祭囃子が鳴り響き、連なって浮かぶ提灯の灯りが幻想的で、日常を忘れさせる雰囲気に胸が高鳴った。


「行こうか」

「はい!」


椿は仁の手をぎゅっと握りしめ、人の波の中へと入っていった。


醤油のいい匂いに誘われて向かってみると、焼きとうもろこしが売られていた。

二本買って、ふたりでそれぞれかぶりついた。


食欲をそそる醤油の香りと、口いっぱいに広がるシャキシャキとした食感に椿は笑みをこぼした。


そのあと、団子を食べながら歩き、猿回しを見つけて足を止めて見入った。


「そうだ。千鳥さんへのお土産も買わなければ」

「たしか、りんご飴と綿菓子だったか?ほんとにあいつは食い意地を張る」

「ふふふ、いいじゃないですか。おいしいものを食べる幸せは、わたしもよくわかりますから」


うれしそうに語る椿を見て、仁は笑みをこぼした。


「お祭りは、食べ物以外のお店もあるのですね」

「そうだな。金魚すくいやくじ引きなど、子どもが喜ぶ出店も多い」


その中で一際賑わう出店を見つけた。


「ざんね〜ん!またのお越しをお待ちしております〜」

「次は、おれだ!」

「あたしも!」


見ると、参加者が銃のようなものを構えて的を狙う射的の出店だった。

大きさの異なる木札でつくられた的がいくつも並べられ、その的をコルクできた弾の銃で打って倒せば景品がもらえるというものだ。


大きな的は比較的簡単なようだが、最も小さな的は最上段の中央に置かれた一寸ほどの木札で、目一杯に【一等賞】の文字が書かれている。

射的屋が客寄せのために置いただけで、まともに当てた者などひとりもいないという。


その豆粒ほどの的を倒した暁に手に入れられる景品は、花を模した銀細工が揺れ、琥珀色のべっ甲が輝く玉簪(たまかんざし)

どこぞの令嬢が挿していてもおかしくない品で、庶民の娘が気軽に買える値ではない。


自分の娘や恋人にと鼻息を荒くする男たちや、なんのしてでも手に入れたい町娘たちがこぞって挑戦していた。


しかし、当の射的屋は取られる心配などしていないのだろう。

必死に狙い打ちする客たちを余裕の表情で見届けていた。


「きれいな簪ですね。皆さんみたいに、わたしも取れるものならやってみたいですが、難しそうですね」


悔しがる客たちを見て、椿は苦笑する。

すると、その手を仁が握った。


仁はやじ馬たちをかき分けずんずんと進み、射的台のところまでやってきた。


「店主、挑戦させてもらおう」

「毎度あり!一回につき、弾は三発まで。的に当たっただけじゃだめだ。倒せたら景品があるよ」

「承知した」


仁は、射的屋に一回分の金を支払う。


「…仁様!わたし、たしかに取れるものならやってみたいと言いましたが、射的なんて経験がなく――」

「任せろ。俺がやる」


そう言って、仁はコルク銃を握った。


軍人ということもあるからだろうか。

おもちゃの銃とは思えない本格的な構えで、一等賞の最も小さな的を狙っていた。


一瞬にして空気が変わり、ひとりだけ雰囲気の違う仁にやじ馬たちは息を呑んだ。


注目の一発目。


パンッ!


飛んでいった弾は上へと大きく外れ、周囲からは落胆と笑い声が漏れた。


「銃に慣れていそうだったから期待したが、ただの見かけ倒しか」

「そりゃ無理さ。あんな小せぇ的なんて」

「兄ちゃん、オレよりも下手くそじゃん!」


隣の子どもにまで馬鹿にされ、仁はコホンと咳払いをする。


「言ってくれるな、小僧。すぐにあっと言わせてやるから覚悟しろ」


仁は不敵に笑ってみせると、握っていたコルク銃に今一度目を向けた。


「お客さん、なにも細工なんてしてませんぜ。今外れたのは、あんさんの腕の問題さ」

「いや、そうじゃない。…なるほど。本物の銃弾より遥かに軽いから、同じ感覚で打っては当たらないに決まっているか」


ぶつぶつとひとり言をつぶやいたのち、仁が再び銃を構えた。

片目をつむり、的に狙いを定める。


パンッ!


放たれた二発目は、なんと一等賞の的の端に当たった。

倒れはしなかったが、周囲からはどよめきが起こる。


まさか当てられるとは思っていなかった射的屋の店主は、驚いて口がぽかんと開き、つけたばかりのタバコをぽとりと落とした。


「すげー!当たったぞ!」

「でも、さすがに倒せねぇよ。しかも、そんな偶然二度も起こるかよ」


やじ馬たちは、仁の最後の一発を食い入るように見つめる。

それは、店主も同じだった。


「フッ、偶然などではない。ちゃんと計算して導いた結果。それに、もう捉えた」


そうして放った三発目は見事中央を捉え、小さな的がコトンと静かに倒れた。


「うぉぉおおおお!倒しやがった!」

「信じられない!人間業か!?」

「構えもそうだったけど、なんてかっこいいの!」


歓声が上がる中、仁はコルク銃を店主へと返す。

店主は目を見開きながら、仁から受け取った銃をあちこちと確かめた。


「俺はなにも細工なんてしていない。的を倒したのは、俺の腕がいいから。それだけだ」


店主は悔しそうに歯を食いしばり、泣く泣く仁に景品の簪を手渡した。


「見たか、小僧」


簪を掲げ、隣の子どもに視線を向ける。


「すげー…。兄ちゃん、かっけーじゃん!」

「射的訓練は何十回、何百回としてきたからな。うまくなりたいなら、お前も練習するといい」


仁のいう射的訓練と、子どもが想像するものはまったく違うだろうに、熱く語る仁の姿に椿はクスリと笑った。


「椿、やる」


そう言って、仁は椿の髪に取ったばかりの簪を挿した。


「ありがとうございます。いかがでしょうか」

「とっても似合っている」


仁に褒められ、椿は頬をほんのり赤くした。


そのとき、はっとして椿が振り返る。

それに合わせ、簪の花の銀細工もゆらゆらと揺れる。


「どうかしたか?」

「…いえ。今、だれかに見られていたような」


不安げに胸に手を当てる。


「見られていても仕方ないだろうな。皆が狙っていた簪をつけているのだから」


胸騒ぎがする椿は辺りを窺うが、たしかにうらやましそうにこちらを目を向ける町娘たちは何人かいた。


「大丈夫。無理やり奪いにくる者は、さすがにいないだろう」

「そ、そうですね」


仁の手を握り、気にしないようにした。


その後、千鳥のために綿菓子とりんご飴を買った。



「千鳥さん、喜ばれますね」

「そうだな。そろそろ帰るか」

「はい」


すっかり祭りを楽しんだふたりは、初めに上ってきた石段へと向かう。

しかしその途中、椿は足に違和感を覚え、危うく転びそうになった。


「…あっ」

「大丈夫か」


仁に体を支えられながらゆっくりと足元に目をやると、下駄の鼻緒が切れてしまった。


「もうあと帰るだけというのに…」

「仕方ないな。おぶうか」

「け、結構です…!自分で歩けます!」

「しかし、それじゃあ満足に歩けないだろう」


仁に諭され、椿は口を尖らせる。


「そういえば、たしか向こうのほうに下駄を売っている出店があったな。そこで新しいものと履き替えるか」

「よろしいのですか」

「ああ。買ってくるから、椿はどこかで休んでいろ」


椿は仁に寄り添われながら、ケンケンをして近くの池のほとりへとやってきた。

両脇に出店が並ぶ参道からは外れたところにあり、さっきまでの喧騒が嘘のように静かで別世界のような場所だった。


椿は石の腰掛けに座り、千鳥のお土産の綿菓子とりんご飴を預かる。


「ひとりで待っていられるか」

「ふふ、子どもじゃないので大丈夫ですよ」


笑ってみせるが、仁は心配そうに振り返る。


「すぐに戻ってくるから」

「はい。お待ちしております」


椿は手を振り、仁を見送った。


「お祭り、とっても楽しかったな」


ぽつりとつぶやき、空に浮かぶ月を見上げた。

池には蛍も飛んでいて、仁を待っている間も飽きはなかった。


「ごめんなさい、お待たせしたわね」

「ううん。行こうか」


ここは待ち合わせや休憩に使う人も多く、暗がりではっきりとはわからないが、所々に人影がいるのは見えた。


「仁様、そろそろかしら」


椿は、仁の帰りを待っていた。

そのとき――。


「待たせたな、加耶」


名前を呼ばれ、仁が戻ってきたのを確信した椿は振り返った。


「おかえりなさいませ、仁様――」


と言いかけて、はっとして口をつぐんだ。


おかしい。

仁のはずがない。


なぜなら今呼ばれた名前は――“加耶”。


両手で口を覆っていた椿が恐る恐る顔を上げると、そこにはゆっくりと歩み寄るふたりの姿があった。


「ほら、やっぱり!髪が短くなっているけど、間違いなくお姉さまよ」

「にわかには信じがたいが、名前に反応したのがなによりの証拠。…お前、なぜ生きているんだ」


そこに現れたのは、ニンマリと微笑む芙未と、表情を引きつらせた慶一だった――。


「椿、すまない。遅くなった」


新しい下駄を抱えた仁が戻ってくるが、椿がいたはずの石の腰掛けにはだれもいなかった。


「……椿?」


そこには、綿菓子の袋とりんご飴、鼻緒の切れた片方の下駄だけが残されていた。