黒領家にきて三ヶ月近くがたった。
美しかった桜の木が今では青々とした葉を茂らせている五月。
「いただきます」
夜の食卓には、向かい合せで座って手を合わせる仁と椿の姿があった。
「うん。この鯛の煮付け、うまいな」
「ありがとうございます。旬なのでと、千鳥さんが買ってきてくださったんです」
「そうか。椿も早く食べるといい」
「はい、いただきますね」
椿は品よく煮魚の身を箸でつまむと、小さく開けた口へと運んだ。
そのあとに、白ご飯を頬張る。
「ん〜!おいしいです」
頬に手を添え、幸せそうな椿の顔を見て仁は微笑んだ。
黒領家へきた頃の椿は、知らず知らずにトコヤミの呪いから漏れ出る黒い蝶を吸収し、満腹状態に陥り食事を取ろうとしなかった。
それが今では、毎食楽しみにするほど見違えた。
その理由は、椿が黒い蝶を吸収する代わりに、仁が斬っていたのだ。
仁には呪いが見えないが、椿が指示した場所を狙って呪い斬りの異能により滅することが可能に。
おかげで椿の負担が減り、呪いによる満腹感もなくなり、おいしく食事を楽しめるようになった。
昼夜逆転生活だった仁も、椿との食事のために時間を作るようになっていた。
「食べることに幸せを感じる日がくるとは思ってもみませんでした」
「俺も、椿がうまそうに食う顔は見ていて気持ちがいい」
仁は椿に手を伸ばすと、口元についていた米粒を指先でつまんでペロッと舐め取った。
恥ずかしさと色っぽい仁の仕草に、椿は頬を赤くしてうつむく。
「そうだ、椿。昼飯は外で食べようか」
「外?わたし、外出してもいいのですか?」
「ああ。屋敷に閉じこもってばかりじゃ窮屈だろう」
初めての外出許可に、椿を目を輝かせる。
別人として生きているとはいえ、椿が清家加耶だと周囲に気づかれないために、これまでずっと屋敷の中で過ごしていた。
庭に出て気分転換もしていたが、やはり屋敷を囲む塀の向こう側へ行ってみたい気持ちはあった。
自分自身の身の安全を守るためだと言い聞かせていたが、久しぶりの外出はやはり気持ちが高ぶった。
「それに、俺がだれかを傷つける心配もなくなったしな」
そう言って、仁は右腕に目を移す。
この間までそこにあったトコヤミの呪いによる呪印は、今ではきれいさっぱりなくなっていた。
椿が時間をかけて少しずつ吸収していったのだ。
黒領椿としての生活にも慣れ、仁の殺人衝動もなくなった。
外出は、ふたりにとっては大きな一歩だった。
「朝食の片付けと洗濯が終わりましたら、すぐに準備いたしますね!」
椿は慌てて朝食を済ませると、食器を台所へと運びにいった。
その慌てように、仁は小さくクククと笑う。
腕まくりをして洗濯物を干そうとしたとき、その服を千鳥が取り上げた。
「ご主人様とお出かけのご予定なのですよね?あとは私に任せて、椿様はご準備をなさってください」
「え、ですが…」
「椿様は気軽に外出できない身でありますし、せっかくですから思いきり楽しんできてください」
そう話す千鳥はどこかうれしそうだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いできますか」
「承知いたしました。あ、お土産は忘れないでくださいね。甘いお菓子を希望です!」
ちゃっかりしている千鳥に思わず笑ってしまう椿だった。
椿は桜色の着物に袖を通し、丁寧に化粧を施し、普段は家事の邪魔になってしない髪飾りをつけた。
「仁様、お待たせいたしました」
門で待つ仁のもとへ、玄関からおめかしした椿が小走りでかけてくる。
そのあまりの美しさに、仁は思わず目を奪われていた。
「…あっ」
そのとき、石畳でつまずいた椿があわや転倒――。
そこへ、すかさず駆けつけた仁が体を抱き起こす。
「大丈夫か」
「は、はい」
椿は頬を赤くする。
紺青色の着物姿の仁に見惚れ、そのせいで足元をよく見ずに転びかけたとは恥ずかしくて言えない。
ふたりは手配した黒塗りの車に乗り込み、帝都の中心地へと向かった。
久々の外出に心躍らせていたが、あまりの人の多さに気後れした椿は、車を降りてすぐに仁の後ろに隠れた。
「どうした、椿?」
「思ったよりも人が多くて…」
「いつもと変わらない風景だと思うが。それに、帝都にくるのは初めてではないのだろう?」
仁の問いに、椿はこくんとうなずく。
「ですが、どこでだれに見られているかもわかりませんし…。わたしが清家加耶だと気づかれたら――」
ぽつりと口にした椿の唇に、仁は人差し指を押し当てて塞いだ。
「その名の女はもういない。皆、そう思っている。お前は、俺の妻として堂々として歩けばいい」
「…ですが」
「それに、よく見ろ。皆、自分たちのことしか見えていない」
椿が顔上げると、多くの人々が行き交うが、急いでいるのか足早に通り過ぎる紳士、おしゃべりに夢中な婦人たちなど、他人を気にするような素振りは一切見られない。
「本当ですね。わたしの考えすぎだったのかもしれません」
「そうだろう。ただ、お前が他者の視線を怖がるのも無理ない。気が回らなくてすまなかった」
「いえ、仁様が謝らないでください」
「せっかくの外出なのだから、椿には周囲を気にせず楽しんでもらいたい。ちょっとついてきてくれ」
そう言って、仁は椿をある店へと連れていった。
「いらっしゃいませ」
そこは傘屋。
和傘や流行りの雨傘が並ぶ中で、仁はレースのあしらわれた白い傘を手に取った。
「主人、これをいただこう」
「ありがとうございます」
傘を買う仁を、椿は後ろからきょとんとした表情で見つめていた。
「仁様、どうして傘を?雨が降りそうな空模様には見えませんが」
椿は雲ひとつない真っ青の空を覗き込んでいると、その視界にパッと白い傘が開いた。
レースの隙間から、キラキラとした光がこぼれる。
「わぁ〜、きれいですね」
「そうだろう。これは日傘だ。日除けのために、晴れた日にさす傘だ」
「日傘?」
椿は仁から傘を受け取ると、辺りを見渡してみる。
人混みの中にひとつふたつ、傘の石突きが見え隠れしていた。
「貴婦人の間で人気らしい。それがあれば、顔を見られることもないだろう」
「ありがとうございます」
仁からのプレゼントに、椿は満面の笑みを見せた。
日傘をさすと、周囲は椿の口元辺りしか見えず、椿も他人と顔を合わす心配もなくなる。
ところが――。
「見て、日傘をさしておられるわ。なんて優雅なの〜」
「佇まいも美しくて、どちらのご婦人かしら」
庶民にはなかなか手が出せない日傘をさしていると羨望のまなざしを向けられ、予想に反して目立ってしまっていた。
「仁様、これは逆効果なのでは…」
椿はうつむき、恥ずかしさで赤くなった顔を傘で隠した。
その後、街での買い物を楽しみ、ふたりは昼過ぎに洋食店へとやってきた。
食べることに幸せを感じるようになった椿を連れてきたかったのだ。
「仁様…。メニューも見ても、聞いたことのないお料理名ばかりで、まったく想像できないのですが…」
「ふふふ、そうか。それなら、俺に任せてもらってもいいだろうか」
「はい。お願いします」
仁は店員を呼ぶと、いくつか注文をしていた。
所々料理名は聞こえたが、椿にとっては外国の言葉を話しているように聞こえた。
「お待たせいたしました」
しばらくすると、仁が頼んだ料理が運ばれてきた。
「ライスカレーとオムライスでございます」
見たこともない料理に、椿は目を丸くする。
「椿、どちらがいい?ライスカレーは、野菜や肉を煮込んで、香辛料を加えたとろみのある汁を白飯といっしょに食べる異国の料理だ」
「こちらの黄色いものは?」
「鶏肉や玉ねぎを炒めた飯を卵で包んだものだ。添えられているトマトソースをかけて食べる」
無性に食欲を刺激する香りのライスカレーと、見た目がかわいらしく美しいオムライスとを交互に目を向ける椿。
「わたしが先に選んでもよいのでしょうか」
「ああ、そのために連れてきたんだ」
椿は迷ったすえ、そっとオムライスの皿を引き寄せた。
「すごく迷いましたが、こちらで」
「わかった。冷めないうちに食べるといい」
仁に促され、椿はトマトソースを卵の上にかけるとスプーンでひと口すくった。
「卵がふわふわで、ご飯もお肉やお野菜の味がして、とってもおいしいです〜」
溶けてしまうのではと思うくらいに頬を緩ませる椿を見て、仁は満足そうに微笑んだ。
「仁様は、よくこういうお店にこられるのですか?」
「まさか。俺なんかが似合う店ではない。千鳥を連れてくると、毎回行きたがるのでな」
「千鳥さん、食事をされる必要はないのに、おいしいものには敏感なんですね」
「ああ。食い意地を張る式神なんて聞いたことがない」
千鳥がせがむ姿が想像できて、椿はクスッと笑った。
人生初めてのオムライスは椿にとっては衝撃的だったが、食後、さらにそれをも凌駕するものが現れる。
「お待たせいたしました。プリンです」
椿たちの席に、銀の器に乗せられたプリンが運ばれてきた。
円錐台の形をした黄色いプリンの上には、ホイップクリームとさくらんぼまで添えられている。
「これがプリン…!たしか、甘い卵菓子だとか」
噂に聞くプリンの存在に、椿は恐る恐るスプーンで突ついた。
その弾力に驚く椿を見て、熱い珈琲を飲んでいた仁は思わず吹きそうになってしまった。
「本当に椿はおもしろいな」
「す、すみません。初めて目にするものばかりなので、つい…」
「いや、いい。見ていて飽きない」
椿ははにかみながらプリンを口へと運んだ。
すると、あまりのおいしさに悶絶して言葉が出てこなかった。
大げさすぎるが、素直な椿の反応に、仁は目尻に涙を見せながら笑っていた。
「おいしかったです。ごちそうさまでした」
「他にもたくさんメニューがあるからな、またこよう」
「はい」
店を出て、椿が日傘を広げたときだった。
目の前に、ゆらゆらと体を左右に揺らしながら歩く、ワンピース姿の女性を見つけた。
おぼつかない足取りなのですぐ目に止まったが、椿が注目したのはそこではない。
その女性の周りを三匹の蝶が待っていたのだ。
「あの方…!」
「椿、どこへ行く!」
椿は、仁に説明するよりも先に体が動いていた。
女性は人混みを縫うように進み、車が行き交う道路へと飛び出した。
「…危ない!」
間一髪のところで椿が女性の腕をつかみ、歩道へと引き寄せる。
すぐそばを車が過ぎ去り、女性は驚いて目を見開いた。
「大丈夫ですか」
「え…えっと…。私、今なにしようとして…」
女性は自分の行動を覚えていないのか、動揺して声が震えている。
「椿、無事か」
「はい。ただ、この方に黒い蝶が」
椿は吸収するため、蝶に向かって手を伸ばした。
しかし、椿の身を心配した仁が腕をつかむ。
「俺が斬る。指示してくれ」
ふたりのおかげで、女性にまとわりついていた黒い蝶は消滅した。
その後、女性の顔色が徐々に戻っていった。
安全な場所に移動し、階段に女性を座らせる。
「よく覚えていないのだけれど、私さっき…」
「車の前に飛び出そうとされていました」
「…まさか、そんな。私まで…」
女性は身を震わせ、頭を抱えた。
聞くと、近頃親近者が次々と事故にあい、不幸な出来事が続いていた。
呪いではないかと思い、ちょうど清家家を訪ねるところだったという。
「清家家には文にて何度も相談したのだけれど、うちの屋敷が遠いからか、なかなか都合をつけてもらえず。だから、直接お話しにいこうと思ったの」
そうしたら、次第に意識が朦朧としていき、気づいたら椿に助けられていたそうだ。
「あなたの言うとおり、たしかに呪いにかかっていました。そのせいで、自我が乗っ取られていたのかもしれません」
「やはり…」
「でも安心してください。呪いはすべて消滅しましたから」
「消滅?たしかに、急に体が軽くなった気はするけれど…。でも、どうやって?呪いを祓えるのは、清家一族しかできないはずじゃ」
女性の素朴な疑問に、椿は冷や汗が滲み出た。
うろたえていると、椿の前に仁が割って入る。
「おっしゃるとおり、呪いを祓えるのは清家一族ですが、彼女は呪いを感知する特別な異能の持ち主なのです。それを私が呪い斬りの異能で斬っているだけのこと」
仁に嘘をつかせて申し訳ないと思いつつも、女性は仁の話を興味深そうに聞いていた。
「そうだったのね。異能が扱えるということは、あなた方、ただ者ではないのね」
「黒領仁と申します。彼女は妻の椿です」
仁の紹介に椿は会釈する。
「黒領?もしかして、あの陰の軍人の?」
「はい」
「あなたが。私たち庶民の間では都市伝説みたいに言われているけれど、本当に実在されたのね。噂と違ってやさしそうで、こんなにかわいらしい奥様がいらっしゃるとは思わなかったわ」
女性は怖がるどころか、やさしい笑みを見せた。
椿は照れながら、仁と顔を見合わせる。
「この度は、助けていただきありがとうございました。あなた方は、私の命の恩人よ」
「いえ、ご無事でなによりです」
「ご挨拶が遅れましたが、私、こういう者ですの」
そう言って、女性は仁と椿に名刺を差し出した。
「えっと、花菱屋百貨店取締役…社長!?」
「はい。花菱十和子と申します」
花菱屋百貨店は、知らぬ者はいないとされる老舗呉服店『花菱屋』が営む、この國随一の百貨店だ。
十和子は花菱家の女当主として、一族の百貨店を切り盛りする実業家だった。
「これは、驚いた。あの有名な花菱屋百貨店の社長さまだったとは」
「あら、有名なのは陰の軍人さんも同じよ」
十和子はクスッと笑う。
「今度ぜひ、うちの屋敷にいらしてください。今日のお礼をさせていただきたいわ」
「いいのですか?」
「ええ、もちろん。遠方まで足をお運びいただくのは忍びないけれど」
「構いません。そのときに、ご家族のご様子も見させていただきましょうか」
「よろしいのですか。ありがとうございます」
こうして椿は、思わぬところで新しい出会いを見つけた。
その後、千鳥への手土産の菓子を買って、屋敷へと帰ったのだった。
数週間後。
椿も仁は、先日会った十和子の招待により、花菱邸へとやってきた。
モダンな造りの立派な屋敷に、周囲は手入れされたバラ園が広がる。
十和子の家族たちにも黒い蝶が見られ、仁が一匹残らず斬っていった。
「やはり、これまでのことはすべて呪いのせいだったのね。人に恨まれるような強引な商売はしていないつもりだったけれど…」
「事業に成功されれば、羨望の目も向けられます。無自覚でもそれが嫉妬や妬みとなり、呪いに変化する場合もありますので、あまり気にされないほうがいいかと」
仁の助言に、十和子はうなずく。
「お礼をさせてもらいたくてお呼びしたのに、また助けていただくことになりましたね。花菱一族の代表として、感謝申し上げます」
椿は、十和子の安心したような柔らかい笑みに思わず目の奥が熱くなった。
家では『一族の恥』『母親殺し』と言われ、外に出れば『幸喰いの悪女』と罵られてきたこれまでの日々。
感謝されたことなど一度もなかった。
それが、だれかの役に立つというのはこんなにもうれしいことなのか。
椿は少しずつ、自分の存在価値を認められるようになってきていた。
そのあと、十和子に連れられて奥の部屋へとやってきた。
「これをおふたりにお渡ししたいの。受け取っていただけるかしら」
十和子がドアを開けた部屋には、ふたりを出迎えるようにして二着の洋服が仮縫い台に掛けられていた。
ひとつは仕立てのよいシックな銀鼠色の背広、もうひとつはチュールがさざ波のように広がる濃紺のドレスだった。
「これはまた、上質な生地だな」
「とっても素敵です。裾がヒラヒラしていてかわいい」
「ふたりをイメージして仕立ててみたいの。ぜひ合わせてみてちょうだい」
椿と仁は別室に分かれ、試着する。
「洋服なんて、初めて着るので緊張します」
「そうなの?椿ちゃんの初めてになれて光栄だわ」
椿は、十和子に手伝われながらドレスに袖を通していく。
細身のドレスは華奢な椿の体にフィットし、想像通りのサイズに十和子はにやけが止まらない。
「すごくきれいよ、椿ちゃん」
姿見の前へと誘導された椿は、鏡の中にいる自分の姿を見て息を飲んだ。
いつもは着物だけれど、洋装のドレスを着たらまるで別人みたいだった。
歩くたびにチュールが揺れ、施されたビーズがキラキラと輝く。
その美しさに見惚れてしまう。
「初めて会ったときの淡い色の着物もよかったけど、やっぱり私の思ったとおり、暗めの色もとっても似合うわ」
そう言う十和子は、最後にヴェール付きのトーク帽を被らせた。
「不思議なお帽子ですね。この網のようなものはなんですか?」
「ヴェールよ。この帽子は、異国では冠婚葬祭の際に用いられたりするの。そのドレスともピッタリね」
顔の半分を覆うようなヴェールのついたトーク帽は、どこか妖艶さとミステリアスな雰囲気をかもし出していた。
「素敵。一気に大人な女性になったわね」
「そうでしょうか」
椿は恥ずかしそうに頬をポリポリとかく。
「あなたもそう思うでしょ?黒領様」
十和子が語りかけると、部屋のドアがパッと開き、そこには銀鼠色の背広を華麗に着こなす仁が立っていた。
普段は見ない背広姿の仁に、椿は思わず目を奪われた。
「いつもは黒ばかりで、明るい色はあまり着ないから落ち着かないな」
「でも、とてもお似合いです!」
「椿のほうこそ、雰囲気がガラリと変わるが…よく似合っている」
「あ、ありがとうございます」
互いに見惚れて、照れた顔でうつむくふたりを十和子は微笑ましく眺めていた。
「花菱殿。素敵な洋服を仕立てていただき、ありがとうございます」
「仁様。大切なお洋服ですし、汚さないうちに早く着替えましょう」
「ちょっと待って。こんなところまでお呼びして、せっかくドレスアップしたっていうのに、もう帰られるおつもりかしら?」
十和子の含みのある言い方に、椿は首をかしげる。
十和子はふたりを連れて、屋敷後方にある大きな建物へとやってきた。
「本日お招きしたのは、このためなの」
そして、両開きの大きな木製のドアを開けると、広い会場いっぱいに、仁や椿のように着飾ったたくさんの人がいた。
あまりの人の多さに、椿は圧倒される。
「十和子さん、この方たちは?」
「パーティーの招待客の皆さまよ」
「パーティー?」
「ええ。今日は、花菱屋百貨店創業五十周年を祝う集いのために、皆さまお越しくださったの。だから、おふたりにもぜひご出席してもらいたくて、この日にお呼びしたの」
招待客たちは、普段からご贔屓にしている得意先や株主など。
十和子とはこの前知り合ったばかりの椿は、気後れがして足がすくんだ。
「あの日椿ちゃんが助けてくれなかったら、私はこの日を迎えることもできなかったかもしれない。命の恩人をお招きするのは当然でしょう?」
「十和子さん…」
十和子の思いはうれしいが、椿は仁の顔を覗き込む。
人が多い場に出ても大丈夫だろうかという合図だ。
「ごめんなさい。もしかして、ご都合悪かったかしら」
「いえ、そういうわけではないのですが…」
椿は、招待客たちに顔を見られ、清家加耶に似ていると疑われないかを心配していたのだ。
不安な表情を浮かべる椿の肩に、仁がそっと手を置く。
「花菱殿、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「まあ、よかったわ!立食で、皆さま自由に談笑しているから、かしこまる必要なんてないわ」
十和子は「挨拶回りに行く」と言って、先に会場内に入っていった。
「よろしかったのでしょうか、仁様」
「せっかくのご厚意だ。先日の帝都同様、自ら目立つ行動を取らなければ、気にされることもない。それに…」
仁は、おもむろに椿のトーク帽のヴェールを手を添えた。
「このヴェールが顔を隠すいい役割をしている。洒落ていて、俺はいいと思うぞ」
仁がそう言ってくれるものだから、椿はこくんとうなずいた。
髪をバッサリと切り、見た目を変え、初めて着るドレスで雰囲気もガラリと変わった。
加えて、人々の意識の中に“幸喰いの悪女”清家加耶はもういない。
そっと差し出された仁の手に自分の手を乗せると、エスコートされながら椿はシャンデリアの明かりでまばゆく輝く会場へと踏み出した。
テーブルには様々な料理が並べられ、椿は興味津々でひとつひとつ皿に取っていく。
口に運んではとろけるような顔で微笑む椿を、仁は壁際でひとり静かにワインを飲みながら見守っていた。
料理に夢中になって周りが見えていなかったことに気づいた椿は、ふと辺りを見回して仁を探す。
先ほど仁がいた場所に戻ると、なぜか人だかりができていた。
「そのお召し物、とっても素敵ですね!」
「あまり見かけないお顔ですが、今日はどちらからお越しになられたのですか?」
なんと、招待客のご令嬢たちが仁の周りに集まっていたのだ。
囲まれていても頭ひとつ分以上飛び出た仁は、まったく相手にする様子もなく視線をそらしている。
しかし、整った顔に長身で背広がよく似合っている仁は、この会場では自然と目に留まる存在だった。
「あちらでゆっくりお話しませんか」
ひとりのご令嬢が仁の腕をつかんだのが見えた。
その瞬間、椿は居ても立ってもいられないほどのもどかしい気持ちが沸き起こる。
「その方は、わたしの――」
思わず体が勝手に動いた。
しかしそのとき、さっきの仁の言葉を思い出した。
『自ら目立つ行動を取らなければ、気にされることもない』
ここで自分があの場へ割り込めば、きっと彼女たちの注目を浴びることになるだろう。
それで顔をまじまじと覗き込まれたら厄介だ。
そもそも、本当の夫婦でないもいうに出しゃばってどうする。
椿はぐっとこらえ、出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「失礼。おひとりですか?」
そのとき、後ろから声がして振り返ると、長い前髪を横へ流した爽やかな若い男性が立っていた。
「わたしになにかご用ですか?」
「用といいますか。あまりにも美しい女性がいらっしゃると思い、つい声をかけてしまいました」
そう言って、男性は酌人が携えていたお盆の上から、泡立つ金色の飲み物が入った細いグラスをふたつ手に取った。
「出会いの印に乾杯させてください。あなたの美しさには、透き通るこのシャンパンがよく似合う」
「…シャンパン?」
椿は言われるまま、差し出されたグラスを手に取った。
「乾杯」
男性がカチンとグラスを合わせてひと口飲むのを見て、椿もなんとなく同じ動作を真似ようと思い、口元へグラスを持っていくと――。
突然、手からパッとグラスが消え、驚いて見上げると、さっきまであっちでご令嬢たちに囲まれていた仁が金色の飲み物を飲み干していた。
「仁様。それ、わたしの…」
椿が止める間もなく、仁はあっという間に飲み干してしまった。
「ごちそうさまでした」
そして、男性に飲み干した空のグラスを押しつけ微笑むが、その目は笑っていない。
「椿、行くぞ」
「は、はい」
仁が手首を握って、こっちにこいと言わんばかりに引っ張るため、椿は慌てて男性にお辞儀をした。
「仁様、どうされたのですか」
「…………」
「あの、聞こえておられますか?」
声をかけても反応がなく、どうやら怒っているようだ。
壁際に連れていくと、椿を隠すようにして仁は招待客たちに背を向けて立った。
「椿。知らない男から渡されたものに、疑いものなく口にしようとするな」
「あの、シャンパンという飲み物のことですか?それなら、大丈夫です。直前に酌人の方から受け取られたものでしたし」
「そういう問題じゃない」
きょとんとする椿を見て、仁は呆れたようため息をつく。
「…まったく。俺の知らないところで酔っ払ったらどうするつもりだ。しかも、他の男の前で」
「なにか言われましたか?」
「いや、なんでもない」
ぼそっとつぶやいた仁の声は周囲の雑音にかき消され、椿には聞こえなかった。
だから椿は、なぜ仁が不機嫌なのかがわからず少々困惑した。
「こんなところにいらっしゃったのですね!」
「急にいなくなられるから探しましたわ〜」
そのとき、さっきのご令嬢たちが仁のあとを追ってやってきた。
きらびやかなドレスを着た彼女たちに圧倒され、椿は後退りしかけた。
そのとき、仁が椿を抱き寄せた。
「じ…仁様!?」
戸惑い、顔が赤くなった椿が見上げると、仁はニッと白い歯を見せて笑った。
「だれなの、あれは」
「どこの家の方?」
仁とそばに寄り添う濃紺のドレスを着た椿に、ご令嬢たちは顔をしかめる。
「あの、そちらの女性は?」
「もちろん、俺の妻だ」
「妻!?」
ご令嬢たちは、目をまん丸にして口をあんぐりと開けて驚く。
「見てのとおり、俺は愛しい妻で手一杯だ。これ以上、夫婦の時間を邪魔しないでいただきたい」
甘い言葉をかけられ、これでもかというほどに仁に抱き寄せられる椿を見て、令嬢たちはハンカチを噛んだ。
その後、ひと通りパーティーを楽しんだふたりは、ひと足早く退出するため、十和子のもとへ挨拶に向かった。
「十和子さん、本日はありがとうございました。そろそろ、お暇させていただこうと思いまして」
「あら、そうなの。楽しんでいただけたかしら」
「それもう」
椿は仁と顔を見合わせる。
仁も十和子にお辞儀をする。
「花菱殿、本日はご招待いただきありがとうございました」
「こちらこそ。またよくないことが起こった際は、ご相談させてもらってもいいかしら」
「お任せください」
それを聞いて、十和子は安堵の笑みを浮かべる。
「あっ。そうそう、椿ちゃん」
なにかを思い出したのか、十和子が椿の耳に顔を近づける。
「うちは子ども服も取り扱っているから、ふたりにかわいい赤ちゃんができたら、産着もお任せてね」
「あ…赤ちゃん!?」
椿が小さく声をあげたものだから、それに反応した仁が視線を向けた。
仁と目が合い、椿は顔を真っ赤にさせる。
「どうかしたか?」
「なんでもございません…!」
慌てて否定する椿に、仁は不思議そうに首をかしげた。
そんなふたりのやり取りを見て、十和子はクスクスと肩を揺らしながら笑いを堪えていた。
「外の者に車を手配させますので申しつけてくださいね。お見送りしてあげられなくて申し訳ないのだけれど、お気をつけてお帰りください」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「それでは失礼しま――」
「花菱殿!」
椿たちが背を向けたとき、十和子を呼ぶ声が聞こえた。
それを聞いた瞬間、椿は喉がきゅっと締めつけられる感覚に陥り、呼吸が浅くなった。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
「どうした、椿」
胸を押さえてうずくまる椿を不安げに見つめる仁だったが、振り返った先にいた人物を見て納得した。
「花菱殿、本日はお招きいただきありがとうございます」
「清家家の皆さま。遠いところからお越しいただき、感謝いたします」
十和子に親しげに声をかけたのは清家丞之助、そしてその後ろには慶一の姿もあった。
「椿、大丈夫か」
仁の問いに、椿はこくんこくんと小さくうなずくが肩が小刻みに震えていた。
「落ち着くんだ。髪型も変えて、今は普段とは違う洋服も着ている。いくは元家族とはいえ、後ろ姿から気づけるはずない」
そうとはわかっているが、まるで足が石になってしまったかのように、その場から動くことすらできなくなっていた。
「あれが清家家か」
「このような場で出会えるとはありがたい。うちの呪い祓いをお願いしてみようか」
「いいですな、めったにないチャンスですからな」
周囲はなかなかお目にかかれない清家家に、この機会に繋がりを持とうと画策する。
「文をいただいていたのに、なかなかお会いできずに申し訳ございませんでした。その後、お加減いかがですかな」
「ええ。やはり呪いだったようで、家族全員取り憑かれていましたの」
「それは心中お察しします。では、パーティーが終わりましたら呪い祓いを――」
「その必要はございませんわ」
十和子はにこやかに断る。
「はい?必要ないとはどういう意味でしょうか」
「すでに祓われました。家族全員」
そのひと言に、周囲にいた招待客たちはざわついた。
「清家一族なしで、どうやって呪いを?」
「でもたしかに、花菱社長の顔色が前よりもよくなっている」
丞之助は慶一と顔を見合わせ、間抜けにも口をぽかんと開けている。
「な、なにをおっしゃいますか。この國で、清家の血筋の者以外で呪いを祓える者など――」
「それがいらっしゃいますの。優秀な力を持たれた、とても心優しい方々が」
そう言って、十和子は後方にいた椿にウインクしてみせる。
それを見た椿は、こわばっていた体が徐々に解れていくのがわかった。
「今後はその方たちにお願いいたしますので、清家家とのお付き合いはこれ限りとさせていただきます」
「…なっ」
長年付き合いのあった花菱一族から縁切り宣言をされ、丞之助は愕然とした。
初めこそ、財力ある花菱家との繋がりを深めてはいたが、気のいい者たちだとわかり、徐々にずさんな対応となっていった。
呪いを祓えるのは自分たちしかいない。
そのためなら、少しくらいは我慢をするだろう。
そうしてあぐらをかいた結果、十和子の訴えも後回しにして、信用をなくしてしまったのだった。
「花菱殿は、椿の力を信じてくださっている。清家家よりも」
「はい。うれしいです」
椿は胸に当てた手をぎゅっと握りしめる。
「花菱社長。呪いを祓われたという方々はどなたですか」
「私も興味ありますな。清家一族はお忙しいようですし、他で頼めるならぜひお願いしたい」
周囲にいた招待客たちは、丞之助そっちのけで十和子の話に興味を示した。
その横で、赤っ恥をかかされた丞之助は歯を食いしばった。
どこの場に出向いても注目されてきた清家家が、初めて屈辱というものを味わった。
十和子が言っているのが本当か嘘かはわからないが、パーティー主催者の意見を否定するのはまずい。
しかし、このままでは清家の名が廃れてしまう。
丞之助が必死になって頭を巡らせていると、涼しい顔をした慶一が前に出た。
「皆さん、お待ちください。清家一族は、この國から呪いを祓い続けてきた確固たる地位があります。それはもちろん、今も健在。今日は特別にご希望の方全員、私が呪いを祓ってみせましょう」
普段は、報酬と引き換えに呪い祓いをする清家一族は、無闇矢鱈に他人に見せることはしない。
しかし無償で呪い祓いができると、慶一の提案に歓声が上がった。
「花菱社長、少々この場をお借りしますがよろしいでしょうか」
「構わないわ。私がしていただけなかった分、皆様の呪いを祓ってさしあげて」
慶一は十和子に会釈をすると、体調不良や違和感を訴える者たちを診ていった。
慶一の計らいで、揺らぎかけた信用を繋ぎ止めることができ、丞之助はほっとしつつも冷や汗を流していた。
「滑稽だな。あんな家にいては性根が腐るだけだ。解放されてよかったのでないか?」
「わたしも同じことを思いました」
十和子のおかげで落ち着きを取り戻した椿は、冷ややかな目で丞之助と慶一を見ていた。
「さあ、帰ろう。うちに」
「はい」
仁に寄り添われながら、椿は颯爽と人々の間をすり抜けた。
――そのとき、ある人物の前を横切る。
「なにあの人、かっこいい…!」
その人物は、仁を一目見た瞬間目を奪われた。
しかし、隣にいた濃紺のドレスを着た女性がいるとわかって軽く舌打ちをする。
「あんな地味な格好をした女より、アタシのほうがかわいいのに」
そうつぶやき、遠目から椿の顔を見ていた人物が声を漏らした。
「もしかして…、お姉さま?」
美しかった桜の木が今では青々とした葉を茂らせている五月。
「いただきます」
夜の食卓には、向かい合せで座って手を合わせる仁と椿の姿があった。
「うん。この鯛の煮付け、うまいな」
「ありがとうございます。旬なのでと、千鳥さんが買ってきてくださったんです」
「そうか。椿も早く食べるといい」
「はい、いただきますね」
椿は品よく煮魚の身を箸でつまむと、小さく開けた口へと運んだ。
そのあとに、白ご飯を頬張る。
「ん〜!おいしいです」
頬に手を添え、幸せそうな椿の顔を見て仁は微笑んだ。
黒領家へきた頃の椿は、知らず知らずにトコヤミの呪いから漏れ出る黒い蝶を吸収し、満腹状態に陥り食事を取ろうとしなかった。
それが今では、毎食楽しみにするほど見違えた。
その理由は、椿が黒い蝶を吸収する代わりに、仁が斬っていたのだ。
仁には呪いが見えないが、椿が指示した場所を狙って呪い斬りの異能により滅することが可能に。
おかげで椿の負担が減り、呪いによる満腹感もなくなり、おいしく食事を楽しめるようになった。
昼夜逆転生活だった仁も、椿との食事のために時間を作るようになっていた。
「食べることに幸せを感じる日がくるとは思ってもみませんでした」
「俺も、椿がうまそうに食う顔は見ていて気持ちがいい」
仁は椿に手を伸ばすと、口元についていた米粒を指先でつまんでペロッと舐め取った。
恥ずかしさと色っぽい仁の仕草に、椿は頬を赤くしてうつむく。
「そうだ、椿。昼飯は外で食べようか」
「外?わたし、外出してもいいのですか?」
「ああ。屋敷に閉じこもってばかりじゃ窮屈だろう」
初めての外出許可に、椿を目を輝かせる。
別人として生きているとはいえ、椿が清家加耶だと周囲に気づかれないために、これまでずっと屋敷の中で過ごしていた。
庭に出て気分転換もしていたが、やはり屋敷を囲む塀の向こう側へ行ってみたい気持ちはあった。
自分自身の身の安全を守るためだと言い聞かせていたが、久しぶりの外出はやはり気持ちが高ぶった。
「それに、俺がだれかを傷つける心配もなくなったしな」
そう言って、仁は右腕に目を移す。
この間までそこにあったトコヤミの呪いによる呪印は、今ではきれいさっぱりなくなっていた。
椿が時間をかけて少しずつ吸収していったのだ。
黒領椿としての生活にも慣れ、仁の殺人衝動もなくなった。
外出は、ふたりにとっては大きな一歩だった。
「朝食の片付けと洗濯が終わりましたら、すぐに準備いたしますね!」
椿は慌てて朝食を済ませると、食器を台所へと運びにいった。
その慌てように、仁は小さくクククと笑う。
腕まくりをして洗濯物を干そうとしたとき、その服を千鳥が取り上げた。
「ご主人様とお出かけのご予定なのですよね?あとは私に任せて、椿様はご準備をなさってください」
「え、ですが…」
「椿様は気軽に外出できない身でありますし、せっかくですから思いきり楽しんできてください」
そう話す千鳥はどこかうれしそうだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いできますか」
「承知いたしました。あ、お土産は忘れないでくださいね。甘いお菓子を希望です!」
ちゃっかりしている千鳥に思わず笑ってしまう椿だった。
椿は桜色の着物に袖を通し、丁寧に化粧を施し、普段は家事の邪魔になってしない髪飾りをつけた。
「仁様、お待たせいたしました」
門で待つ仁のもとへ、玄関からおめかしした椿が小走りでかけてくる。
そのあまりの美しさに、仁は思わず目を奪われていた。
「…あっ」
そのとき、石畳でつまずいた椿があわや転倒――。
そこへ、すかさず駆けつけた仁が体を抱き起こす。
「大丈夫か」
「は、はい」
椿は頬を赤くする。
紺青色の着物姿の仁に見惚れ、そのせいで足元をよく見ずに転びかけたとは恥ずかしくて言えない。
ふたりは手配した黒塗りの車に乗り込み、帝都の中心地へと向かった。
久々の外出に心躍らせていたが、あまりの人の多さに気後れした椿は、車を降りてすぐに仁の後ろに隠れた。
「どうした、椿?」
「思ったよりも人が多くて…」
「いつもと変わらない風景だと思うが。それに、帝都にくるのは初めてではないのだろう?」
仁の問いに、椿はこくんとうなずく。
「ですが、どこでだれに見られているかもわかりませんし…。わたしが清家加耶だと気づかれたら――」
ぽつりと口にした椿の唇に、仁は人差し指を押し当てて塞いだ。
「その名の女はもういない。皆、そう思っている。お前は、俺の妻として堂々として歩けばいい」
「…ですが」
「それに、よく見ろ。皆、自分たちのことしか見えていない」
椿が顔上げると、多くの人々が行き交うが、急いでいるのか足早に通り過ぎる紳士、おしゃべりに夢中な婦人たちなど、他人を気にするような素振りは一切見られない。
「本当ですね。わたしの考えすぎだったのかもしれません」
「そうだろう。ただ、お前が他者の視線を怖がるのも無理ない。気が回らなくてすまなかった」
「いえ、仁様が謝らないでください」
「せっかくの外出なのだから、椿には周囲を気にせず楽しんでもらいたい。ちょっとついてきてくれ」
そう言って、仁は椿をある店へと連れていった。
「いらっしゃいませ」
そこは傘屋。
和傘や流行りの雨傘が並ぶ中で、仁はレースのあしらわれた白い傘を手に取った。
「主人、これをいただこう」
「ありがとうございます」
傘を買う仁を、椿は後ろからきょとんとした表情で見つめていた。
「仁様、どうして傘を?雨が降りそうな空模様には見えませんが」
椿は雲ひとつない真っ青の空を覗き込んでいると、その視界にパッと白い傘が開いた。
レースの隙間から、キラキラとした光がこぼれる。
「わぁ〜、きれいですね」
「そうだろう。これは日傘だ。日除けのために、晴れた日にさす傘だ」
「日傘?」
椿は仁から傘を受け取ると、辺りを見渡してみる。
人混みの中にひとつふたつ、傘の石突きが見え隠れしていた。
「貴婦人の間で人気らしい。それがあれば、顔を見られることもないだろう」
「ありがとうございます」
仁からのプレゼントに、椿は満面の笑みを見せた。
日傘をさすと、周囲は椿の口元辺りしか見えず、椿も他人と顔を合わす心配もなくなる。
ところが――。
「見て、日傘をさしておられるわ。なんて優雅なの〜」
「佇まいも美しくて、どちらのご婦人かしら」
庶民にはなかなか手が出せない日傘をさしていると羨望のまなざしを向けられ、予想に反して目立ってしまっていた。
「仁様、これは逆効果なのでは…」
椿はうつむき、恥ずかしさで赤くなった顔を傘で隠した。
その後、街での買い物を楽しみ、ふたりは昼過ぎに洋食店へとやってきた。
食べることに幸せを感じるようになった椿を連れてきたかったのだ。
「仁様…。メニューも見ても、聞いたことのないお料理名ばかりで、まったく想像できないのですが…」
「ふふふ、そうか。それなら、俺に任せてもらってもいいだろうか」
「はい。お願いします」
仁は店員を呼ぶと、いくつか注文をしていた。
所々料理名は聞こえたが、椿にとっては外国の言葉を話しているように聞こえた。
「お待たせいたしました」
しばらくすると、仁が頼んだ料理が運ばれてきた。
「ライスカレーとオムライスでございます」
見たこともない料理に、椿は目を丸くする。
「椿、どちらがいい?ライスカレーは、野菜や肉を煮込んで、香辛料を加えたとろみのある汁を白飯といっしょに食べる異国の料理だ」
「こちらの黄色いものは?」
「鶏肉や玉ねぎを炒めた飯を卵で包んだものだ。添えられているトマトソースをかけて食べる」
無性に食欲を刺激する香りのライスカレーと、見た目がかわいらしく美しいオムライスとを交互に目を向ける椿。
「わたしが先に選んでもよいのでしょうか」
「ああ、そのために連れてきたんだ」
椿は迷ったすえ、そっとオムライスの皿を引き寄せた。
「すごく迷いましたが、こちらで」
「わかった。冷めないうちに食べるといい」
仁に促され、椿はトマトソースを卵の上にかけるとスプーンでひと口すくった。
「卵がふわふわで、ご飯もお肉やお野菜の味がして、とってもおいしいです〜」
溶けてしまうのではと思うくらいに頬を緩ませる椿を見て、仁は満足そうに微笑んだ。
「仁様は、よくこういうお店にこられるのですか?」
「まさか。俺なんかが似合う店ではない。千鳥を連れてくると、毎回行きたがるのでな」
「千鳥さん、食事をされる必要はないのに、おいしいものには敏感なんですね」
「ああ。食い意地を張る式神なんて聞いたことがない」
千鳥がせがむ姿が想像できて、椿はクスッと笑った。
人生初めてのオムライスは椿にとっては衝撃的だったが、食後、さらにそれをも凌駕するものが現れる。
「お待たせいたしました。プリンです」
椿たちの席に、銀の器に乗せられたプリンが運ばれてきた。
円錐台の形をした黄色いプリンの上には、ホイップクリームとさくらんぼまで添えられている。
「これがプリン…!たしか、甘い卵菓子だとか」
噂に聞くプリンの存在に、椿は恐る恐るスプーンで突ついた。
その弾力に驚く椿を見て、熱い珈琲を飲んでいた仁は思わず吹きそうになってしまった。
「本当に椿はおもしろいな」
「す、すみません。初めて目にするものばかりなので、つい…」
「いや、いい。見ていて飽きない」
椿ははにかみながらプリンを口へと運んだ。
すると、あまりのおいしさに悶絶して言葉が出てこなかった。
大げさすぎるが、素直な椿の反応に、仁は目尻に涙を見せながら笑っていた。
「おいしかったです。ごちそうさまでした」
「他にもたくさんメニューがあるからな、またこよう」
「はい」
店を出て、椿が日傘を広げたときだった。
目の前に、ゆらゆらと体を左右に揺らしながら歩く、ワンピース姿の女性を見つけた。
おぼつかない足取りなのですぐ目に止まったが、椿が注目したのはそこではない。
その女性の周りを三匹の蝶が待っていたのだ。
「あの方…!」
「椿、どこへ行く!」
椿は、仁に説明するよりも先に体が動いていた。
女性は人混みを縫うように進み、車が行き交う道路へと飛び出した。
「…危ない!」
間一髪のところで椿が女性の腕をつかみ、歩道へと引き寄せる。
すぐそばを車が過ぎ去り、女性は驚いて目を見開いた。
「大丈夫ですか」
「え…えっと…。私、今なにしようとして…」
女性は自分の行動を覚えていないのか、動揺して声が震えている。
「椿、無事か」
「はい。ただ、この方に黒い蝶が」
椿は吸収するため、蝶に向かって手を伸ばした。
しかし、椿の身を心配した仁が腕をつかむ。
「俺が斬る。指示してくれ」
ふたりのおかげで、女性にまとわりついていた黒い蝶は消滅した。
その後、女性の顔色が徐々に戻っていった。
安全な場所に移動し、階段に女性を座らせる。
「よく覚えていないのだけれど、私さっき…」
「車の前に飛び出そうとされていました」
「…まさか、そんな。私まで…」
女性は身を震わせ、頭を抱えた。
聞くと、近頃親近者が次々と事故にあい、不幸な出来事が続いていた。
呪いではないかと思い、ちょうど清家家を訪ねるところだったという。
「清家家には文にて何度も相談したのだけれど、うちの屋敷が遠いからか、なかなか都合をつけてもらえず。だから、直接お話しにいこうと思ったの」
そうしたら、次第に意識が朦朧としていき、気づいたら椿に助けられていたそうだ。
「あなたの言うとおり、たしかに呪いにかかっていました。そのせいで、自我が乗っ取られていたのかもしれません」
「やはり…」
「でも安心してください。呪いはすべて消滅しましたから」
「消滅?たしかに、急に体が軽くなった気はするけれど…。でも、どうやって?呪いを祓えるのは、清家一族しかできないはずじゃ」
女性の素朴な疑問に、椿は冷や汗が滲み出た。
うろたえていると、椿の前に仁が割って入る。
「おっしゃるとおり、呪いを祓えるのは清家一族ですが、彼女は呪いを感知する特別な異能の持ち主なのです。それを私が呪い斬りの異能で斬っているだけのこと」
仁に嘘をつかせて申し訳ないと思いつつも、女性は仁の話を興味深そうに聞いていた。
「そうだったのね。異能が扱えるということは、あなた方、ただ者ではないのね」
「黒領仁と申します。彼女は妻の椿です」
仁の紹介に椿は会釈する。
「黒領?もしかして、あの陰の軍人の?」
「はい」
「あなたが。私たち庶民の間では都市伝説みたいに言われているけれど、本当に実在されたのね。噂と違ってやさしそうで、こんなにかわいらしい奥様がいらっしゃるとは思わなかったわ」
女性は怖がるどころか、やさしい笑みを見せた。
椿は照れながら、仁と顔を見合わせる。
「この度は、助けていただきありがとうございました。あなた方は、私の命の恩人よ」
「いえ、ご無事でなによりです」
「ご挨拶が遅れましたが、私、こういう者ですの」
そう言って、女性は仁と椿に名刺を差し出した。
「えっと、花菱屋百貨店取締役…社長!?」
「はい。花菱十和子と申します」
花菱屋百貨店は、知らぬ者はいないとされる老舗呉服店『花菱屋』が営む、この國随一の百貨店だ。
十和子は花菱家の女当主として、一族の百貨店を切り盛りする実業家だった。
「これは、驚いた。あの有名な花菱屋百貨店の社長さまだったとは」
「あら、有名なのは陰の軍人さんも同じよ」
十和子はクスッと笑う。
「今度ぜひ、うちの屋敷にいらしてください。今日のお礼をさせていただきたいわ」
「いいのですか?」
「ええ、もちろん。遠方まで足をお運びいただくのは忍びないけれど」
「構いません。そのときに、ご家族のご様子も見させていただきましょうか」
「よろしいのですか。ありがとうございます」
こうして椿は、思わぬところで新しい出会いを見つけた。
その後、千鳥への手土産の菓子を買って、屋敷へと帰ったのだった。
数週間後。
椿も仁は、先日会った十和子の招待により、花菱邸へとやってきた。
モダンな造りの立派な屋敷に、周囲は手入れされたバラ園が広がる。
十和子の家族たちにも黒い蝶が見られ、仁が一匹残らず斬っていった。
「やはり、これまでのことはすべて呪いのせいだったのね。人に恨まれるような強引な商売はしていないつもりだったけれど…」
「事業に成功されれば、羨望の目も向けられます。無自覚でもそれが嫉妬や妬みとなり、呪いに変化する場合もありますので、あまり気にされないほうがいいかと」
仁の助言に、十和子はうなずく。
「お礼をさせてもらいたくてお呼びしたのに、また助けていただくことになりましたね。花菱一族の代表として、感謝申し上げます」
椿は、十和子の安心したような柔らかい笑みに思わず目の奥が熱くなった。
家では『一族の恥』『母親殺し』と言われ、外に出れば『幸喰いの悪女』と罵られてきたこれまでの日々。
感謝されたことなど一度もなかった。
それが、だれかの役に立つというのはこんなにもうれしいことなのか。
椿は少しずつ、自分の存在価値を認められるようになってきていた。
そのあと、十和子に連れられて奥の部屋へとやってきた。
「これをおふたりにお渡ししたいの。受け取っていただけるかしら」
十和子がドアを開けた部屋には、ふたりを出迎えるようにして二着の洋服が仮縫い台に掛けられていた。
ひとつは仕立てのよいシックな銀鼠色の背広、もうひとつはチュールがさざ波のように広がる濃紺のドレスだった。
「これはまた、上質な生地だな」
「とっても素敵です。裾がヒラヒラしていてかわいい」
「ふたりをイメージして仕立ててみたいの。ぜひ合わせてみてちょうだい」
椿と仁は別室に分かれ、試着する。
「洋服なんて、初めて着るので緊張します」
「そうなの?椿ちゃんの初めてになれて光栄だわ」
椿は、十和子に手伝われながらドレスに袖を通していく。
細身のドレスは華奢な椿の体にフィットし、想像通りのサイズに十和子はにやけが止まらない。
「すごくきれいよ、椿ちゃん」
姿見の前へと誘導された椿は、鏡の中にいる自分の姿を見て息を飲んだ。
いつもは着物だけれど、洋装のドレスを着たらまるで別人みたいだった。
歩くたびにチュールが揺れ、施されたビーズがキラキラと輝く。
その美しさに見惚れてしまう。
「初めて会ったときの淡い色の着物もよかったけど、やっぱり私の思ったとおり、暗めの色もとっても似合うわ」
そう言う十和子は、最後にヴェール付きのトーク帽を被らせた。
「不思議なお帽子ですね。この網のようなものはなんですか?」
「ヴェールよ。この帽子は、異国では冠婚葬祭の際に用いられたりするの。そのドレスともピッタリね」
顔の半分を覆うようなヴェールのついたトーク帽は、どこか妖艶さとミステリアスな雰囲気をかもし出していた。
「素敵。一気に大人な女性になったわね」
「そうでしょうか」
椿は恥ずかしそうに頬をポリポリとかく。
「あなたもそう思うでしょ?黒領様」
十和子が語りかけると、部屋のドアがパッと開き、そこには銀鼠色の背広を華麗に着こなす仁が立っていた。
普段は見ない背広姿の仁に、椿は思わず目を奪われた。
「いつもは黒ばかりで、明るい色はあまり着ないから落ち着かないな」
「でも、とてもお似合いです!」
「椿のほうこそ、雰囲気がガラリと変わるが…よく似合っている」
「あ、ありがとうございます」
互いに見惚れて、照れた顔でうつむくふたりを十和子は微笑ましく眺めていた。
「花菱殿。素敵な洋服を仕立てていただき、ありがとうございます」
「仁様。大切なお洋服ですし、汚さないうちに早く着替えましょう」
「ちょっと待って。こんなところまでお呼びして、せっかくドレスアップしたっていうのに、もう帰られるおつもりかしら?」
十和子の含みのある言い方に、椿は首をかしげる。
十和子はふたりを連れて、屋敷後方にある大きな建物へとやってきた。
「本日お招きしたのは、このためなの」
そして、両開きの大きな木製のドアを開けると、広い会場いっぱいに、仁や椿のように着飾ったたくさんの人がいた。
あまりの人の多さに、椿は圧倒される。
「十和子さん、この方たちは?」
「パーティーの招待客の皆さまよ」
「パーティー?」
「ええ。今日は、花菱屋百貨店創業五十周年を祝う集いのために、皆さまお越しくださったの。だから、おふたりにもぜひご出席してもらいたくて、この日にお呼びしたの」
招待客たちは、普段からご贔屓にしている得意先や株主など。
十和子とはこの前知り合ったばかりの椿は、気後れがして足がすくんだ。
「あの日椿ちゃんが助けてくれなかったら、私はこの日を迎えることもできなかったかもしれない。命の恩人をお招きするのは当然でしょう?」
「十和子さん…」
十和子の思いはうれしいが、椿は仁の顔を覗き込む。
人が多い場に出ても大丈夫だろうかという合図だ。
「ごめんなさい。もしかして、ご都合悪かったかしら」
「いえ、そういうわけではないのですが…」
椿は、招待客たちに顔を見られ、清家加耶に似ていると疑われないかを心配していたのだ。
不安な表情を浮かべる椿の肩に、仁がそっと手を置く。
「花菱殿、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「まあ、よかったわ!立食で、皆さま自由に談笑しているから、かしこまる必要なんてないわ」
十和子は「挨拶回りに行く」と言って、先に会場内に入っていった。
「よろしかったのでしょうか、仁様」
「せっかくのご厚意だ。先日の帝都同様、自ら目立つ行動を取らなければ、気にされることもない。それに…」
仁は、おもむろに椿のトーク帽のヴェールを手を添えた。
「このヴェールが顔を隠すいい役割をしている。洒落ていて、俺はいいと思うぞ」
仁がそう言ってくれるものだから、椿はこくんとうなずいた。
髪をバッサリと切り、見た目を変え、初めて着るドレスで雰囲気もガラリと変わった。
加えて、人々の意識の中に“幸喰いの悪女”清家加耶はもういない。
そっと差し出された仁の手に自分の手を乗せると、エスコートされながら椿はシャンデリアの明かりでまばゆく輝く会場へと踏み出した。
テーブルには様々な料理が並べられ、椿は興味津々でひとつひとつ皿に取っていく。
口に運んではとろけるような顔で微笑む椿を、仁は壁際でひとり静かにワインを飲みながら見守っていた。
料理に夢中になって周りが見えていなかったことに気づいた椿は、ふと辺りを見回して仁を探す。
先ほど仁がいた場所に戻ると、なぜか人だかりができていた。
「そのお召し物、とっても素敵ですね!」
「あまり見かけないお顔ですが、今日はどちらからお越しになられたのですか?」
なんと、招待客のご令嬢たちが仁の周りに集まっていたのだ。
囲まれていても頭ひとつ分以上飛び出た仁は、まったく相手にする様子もなく視線をそらしている。
しかし、整った顔に長身で背広がよく似合っている仁は、この会場では自然と目に留まる存在だった。
「あちらでゆっくりお話しませんか」
ひとりのご令嬢が仁の腕をつかんだのが見えた。
その瞬間、椿は居ても立ってもいられないほどのもどかしい気持ちが沸き起こる。
「その方は、わたしの――」
思わず体が勝手に動いた。
しかしそのとき、さっきの仁の言葉を思い出した。
『自ら目立つ行動を取らなければ、気にされることもない』
ここで自分があの場へ割り込めば、きっと彼女たちの注目を浴びることになるだろう。
それで顔をまじまじと覗き込まれたら厄介だ。
そもそも、本当の夫婦でないもいうに出しゃばってどうする。
椿はぐっとこらえ、出かかっていた言葉を飲み込んだ。
「失礼。おひとりですか?」
そのとき、後ろから声がして振り返ると、長い前髪を横へ流した爽やかな若い男性が立っていた。
「わたしになにかご用ですか?」
「用といいますか。あまりにも美しい女性がいらっしゃると思い、つい声をかけてしまいました」
そう言って、男性は酌人が携えていたお盆の上から、泡立つ金色の飲み物が入った細いグラスをふたつ手に取った。
「出会いの印に乾杯させてください。あなたの美しさには、透き通るこのシャンパンがよく似合う」
「…シャンパン?」
椿は言われるまま、差し出されたグラスを手に取った。
「乾杯」
男性がカチンとグラスを合わせてひと口飲むのを見て、椿もなんとなく同じ動作を真似ようと思い、口元へグラスを持っていくと――。
突然、手からパッとグラスが消え、驚いて見上げると、さっきまであっちでご令嬢たちに囲まれていた仁が金色の飲み物を飲み干していた。
「仁様。それ、わたしの…」
椿が止める間もなく、仁はあっという間に飲み干してしまった。
「ごちそうさまでした」
そして、男性に飲み干した空のグラスを押しつけ微笑むが、その目は笑っていない。
「椿、行くぞ」
「は、はい」
仁が手首を握って、こっちにこいと言わんばかりに引っ張るため、椿は慌てて男性にお辞儀をした。
「仁様、どうされたのですか」
「…………」
「あの、聞こえておられますか?」
声をかけても反応がなく、どうやら怒っているようだ。
壁際に連れていくと、椿を隠すようにして仁は招待客たちに背を向けて立った。
「椿。知らない男から渡されたものに、疑いものなく口にしようとするな」
「あの、シャンパンという飲み物のことですか?それなら、大丈夫です。直前に酌人の方から受け取られたものでしたし」
「そういう問題じゃない」
きょとんとする椿を見て、仁は呆れたようため息をつく。
「…まったく。俺の知らないところで酔っ払ったらどうするつもりだ。しかも、他の男の前で」
「なにか言われましたか?」
「いや、なんでもない」
ぼそっとつぶやいた仁の声は周囲の雑音にかき消され、椿には聞こえなかった。
だから椿は、なぜ仁が不機嫌なのかがわからず少々困惑した。
「こんなところにいらっしゃったのですね!」
「急にいなくなられるから探しましたわ〜」
そのとき、さっきのご令嬢たちが仁のあとを追ってやってきた。
きらびやかなドレスを着た彼女たちに圧倒され、椿は後退りしかけた。
そのとき、仁が椿を抱き寄せた。
「じ…仁様!?」
戸惑い、顔が赤くなった椿が見上げると、仁はニッと白い歯を見せて笑った。
「だれなの、あれは」
「どこの家の方?」
仁とそばに寄り添う濃紺のドレスを着た椿に、ご令嬢たちは顔をしかめる。
「あの、そちらの女性は?」
「もちろん、俺の妻だ」
「妻!?」
ご令嬢たちは、目をまん丸にして口をあんぐりと開けて驚く。
「見てのとおり、俺は愛しい妻で手一杯だ。これ以上、夫婦の時間を邪魔しないでいただきたい」
甘い言葉をかけられ、これでもかというほどに仁に抱き寄せられる椿を見て、令嬢たちはハンカチを噛んだ。
その後、ひと通りパーティーを楽しんだふたりは、ひと足早く退出するため、十和子のもとへ挨拶に向かった。
「十和子さん、本日はありがとうございました。そろそろ、お暇させていただこうと思いまして」
「あら、そうなの。楽しんでいただけたかしら」
「それもう」
椿は仁と顔を見合わせる。
仁も十和子にお辞儀をする。
「花菱殿、本日はご招待いただきありがとうございました」
「こちらこそ。またよくないことが起こった際は、ご相談させてもらってもいいかしら」
「お任せください」
それを聞いて、十和子は安堵の笑みを浮かべる。
「あっ。そうそう、椿ちゃん」
なにかを思い出したのか、十和子が椿の耳に顔を近づける。
「うちは子ども服も取り扱っているから、ふたりにかわいい赤ちゃんができたら、産着もお任せてね」
「あ…赤ちゃん!?」
椿が小さく声をあげたものだから、それに反応した仁が視線を向けた。
仁と目が合い、椿は顔を真っ赤にさせる。
「どうかしたか?」
「なんでもございません…!」
慌てて否定する椿に、仁は不思議そうに首をかしげた。
そんなふたりのやり取りを見て、十和子はクスクスと肩を揺らしながら笑いを堪えていた。
「外の者に車を手配させますので申しつけてくださいね。お見送りしてあげられなくて申し訳ないのだけれど、お気をつけてお帰りください」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「それでは失礼しま――」
「花菱殿!」
椿たちが背を向けたとき、十和子を呼ぶ声が聞こえた。
それを聞いた瞬間、椿は喉がきゅっと締めつけられる感覚に陥り、呼吸が浅くなった。
「ハァ…ハァ…ハァ…」
「どうした、椿」
胸を押さえてうずくまる椿を不安げに見つめる仁だったが、振り返った先にいた人物を見て納得した。
「花菱殿、本日はお招きいただきありがとうございます」
「清家家の皆さま。遠いところからお越しいただき、感謝いたします」
十和子に親しげに声をかけたのは清家丞之助、そしてその後ろには慶一の姿もあった。
「椿、大丈夫か」
仁の問いに、椿はこくんこくんと小さくうなずくが肩が小刻みに震えていた。
「落ち着くんだ。髪型も変えて、今は普段とは違う洋服も着ている。いくは元家族とはいえ、後ろ姿から気づけるはずない」
そうとはわかっているが、まるで足が石になってしまったかのように、その場から動くことすらできなくなっていた。
「あれが清家家か」
「このような場で出会えるとはありがたい。うちの呪い祓いをお願いしてみようか」
「いいですな、めったにないチャンスですからな」
周囲はなかなかお目にかかれない清家家に、この機会に繋がりを持とうと画策する。
「文をいただいていたのに、なかなかお会いできずに申し訳ございませんでした。その後、お加減いかがですかな」
「ええ。やはり呪いだったようで、家族全員取り憑かれていましたの」
「それは心中お察しします。では、パーティーが終わりましたら呪い祓いを――」
「その必要はございませんわ」
十和子はにこやかに断る。
「はい?必要ないとはどういう意味でしょうか」
「すでに祓われました。家族全員」
そのひと言に、周囲にいた招待客たちはざわついた。
「清家一族なしで、どうやって呪いを?」
「でもたしかに、花菱社長の顔色が前よりもよくなっている」
丞之助は慶一と顔を見合わせ、間抜けにも口をぽかんと開けている。
「な、なにをおっしゃいますか。この國で、清家の血筋の者以外で呪いを祓える者など――」
「それがいらっしゃいますの。優秀な力を持たれた、とても心優しい方々が」
そう言って、十和子は後方にいた椿にウインクしてみせる。
それを見た椿は、こわばっていた体が徐々に解れていくのがわかった。
「今後はその方たちにお願いいたしますので、清家家とのお付き合いはこれ限りとさせていただきます」
「…なっ」
長年付き合いのあった花菱一族から縁切り宣言をされ、丞之助は愕然とした。
初めこそ、財力ある花菱家との繋がりを深めてはいたが、気のいい者たちだとわかり、徐々にずさんな対応となっていった。
呪いを祓えるのは自分たちしかいない。
そのためなら、少しくらいは我慢をするだろう。
そうしてあぐらをかいた結果、十和子の訴えも後回しにして、信用をなくしてしまったのだった。
「花菱殿は、椿の力を信じてくださっている。清家家よりも」
「はい。うれしいです」
椿は胸に当てた手をぎゅっと握りしめる。
「花菱社長。呪いを祓われたという方々はどなたですか」
「私も興味ありますな。清家一族はお忙しいようですし、他で頼めるならぜひお願いしたい」
周囲にいた招待客たちは、丞之助そっちのけで十和子の話に興味を示した。
その横で、赤っ恥をかかされた丞之助は歯を食いしばった。
どこの場に出向いても注目されてきた清家家が、初めて屈辱というものを味わった。
十和子が言っているのが本当か嘘かはわからないが、パーティー主催者の意見を否定するのはまずい。
しかし、このままでは清家の名が廃れてしまう。
丞之助が必死になって頭を巡らせていると、涼しい顔をした慶一が前に出た。
「皆さん、お待ちください。清家一族は、この國から呪いを祓い続けてきた確固たる地位があります。それはもちろん、今も健在。今日は特別にご希望の方全員、私が呪いを祓ってみせましょう」
普段は、報酬と引き換えに呪い祓いをする清家一族は、無闇矢鱈に他人に見せることはしない。
しかし無償で呪い祓いができると、慶一の提案に歓声が上がった。
「花菱社長、少々この場をお借りしますがよろしいでしょうか」
「構わないわ。私がしていただけなかった分、皆様の呪いを祓ってさしあげて」
慶一は十和子に会釈をすると、体調不良や違和感を訴える者たちを診ていった。
慶一の計らいで、揺らぎかけた信用を繋ぎ止めることができ、丞之助はほっとしつつも冷や汗を流していた。
「滑稽だな。あんな家にいては性根が腐るだけだ。解放されてよかったのでないか?」
「わたしも同じことを思いました」
十和子のおかげで落ち着きを取り戻した椿は、冷ややかな目で丞之助と慶一を見ていた。
「さあ、帰ろう。うちに」
「はい」
仁に寄り添われながら、椿は颯爽と人々の間をすり抜けた。
――そのとき、ある人物の前を横切る。
「なにあの人、かっこいい…!」
その人物は、仁を一目見た瞬間目を奪われた。
しかし、隣にいた濃紺のドレスを着た女性がいるとわかって軽く舌打ちをする。
「あんな地味な格好をした女より、アタシのほうがかわいいのに」
そうつぶやき、遠目から椿の顔を見ていた人物が声を漏らした。
「もしかして…、お姉さま?」



