翌朝。
台所には、千鳥と共に朝食の支度をする椿の姿があった。
「椿様、なにも朝早く起きられる必要などございませんのに」
「いつもの時間に、勝手に目が覚めてしまっただけです。ご迷惑でなければ、お手伝いさせてください」
椿がにこりと笑うと、千鳥も安心したように口元を緩ませる。
「それよりも、お身体はお疲れではないですか。昨日嫁入りされたばかりで、しかも夜遅くに祝言されて」
「少し驚きはしましたが、夜に行う祝言なんて初めてでしたし、それに黒無垢がとっても素敵でうれしかったです」
「そうですか。椿様が喜ばれているのであれば、よかったです」
その後、すっかり日が昇った頃に仁が起きてきた。
千鳥の話では、普段の仁の職務は夜の間のため、昼夜逆転の生活なのだそう。
寝癖のついた髪に、あくびをしながらまだ眠たそうに席に着いた仁は、周囲から恐れられる陰の軍人とはとても思えない。
「ご主人様。本日は、椿様が朝食をご準備してくださったのです」
千鳥の話を聞いて、チラリと視線を向けた仁の瞳と目が合う。
「わたしはお手伝いしただけで、大したものは作っていないのですが…」
「そうか。だが、よく知らぬ者が作った飯は食べないと決めている」
ぶっきらぼうに言って、椿から新聞紙へ視線を移す仁。
一瞬にて凍りついた食卓に、椿は表情を固くした。
「ご主人様!せっかく作ってくださった椿様になんてこと…!」
「申し訳ございません。呪いを移すわたしの作った料理なんて、気味悪いに決まってますよね…。配慮が足りず失礼いたしま――」
「呪い?ああ、そうだった。お前の料理なら話は別だ」
それまでの険しかった表情から一変、ニッと笑うとすばやく箸を取った。
「すまない。寝起きでまだ頭が働いていなかった。呪いが移るのなら、喜んで食おう」
仁は手を合わせると、味噌汁の器を口へと運んだ。
通常なら、幸喰いの悪女が作った料理など拒まれるはず。
だが呪いを求める仁にとっては、椿の手料理はご馳走だった。
これまでの人間とはずれた反応に、まだ慣れていない椿は戸惑うばかり。
「驚いた。うまいな」
仁から漏れたそのひと言に、加耶は肩の荷が下りた。
「よかったです。お口に合われたのでしたら」
仁はあまりにもおいしそうに頬張るが、それはおいしいからなのか、呪いを摂取したいという気持ちからなのからわからない。
それでも、椿は笑みがこぼれた。
「お前は食べないのか?」
さっきから箸さえも握ろうとしない椿を見て、仁が尋ねた。
「昨日は出された食事はすべて完食したと千鳥から聞いたが、体調でも悪いのか」
「いえ。そういうわけではないのですが、あまりお腹が空いてないのです。おそらく、緊張しているだけなので、あまり気にしないでください」
椿は心配させまいと笑ってみせる。
「ご主人様の顔が威圧的なので、椿様が萎縮してしまっているではありませんか」
「今さらそんなことを言われても、生まれたときからのこの顔をどう変えろというのだ」
千鳥と仁のやり取りがおもしろく、椿は密かに微笑んでいた。
緊張しているというのはただの言い訳だが、空腹でないのは事実だった。
朝起きたときには、どちらかというと満腹感に近かった。
椿にとってはこれまでも度々ある現象だが、これを他人に話しても理解してもらえた試しはなかった。
だから、つい嘘をついてしまったのだ。
鏑木家やその他の嫁ぎ先と違って、それでも無理に食事をすすめてこないのが幸いだ。
「これを見てみろ」
そう言って、仁は椿に読んでいた新聞紙を手渡した。
見るとそこには、大見出しで【幸喰いの悪女、処刑執行】の文字があった。
「これで、幸喰いの悪女と呼ばれた清家加耶は完全にこの世から消えた。正真正銘、お前は俺の妻、黒領椿だ」
ニッと笑ってみせる仁に、椿は大きくうなずいた。
その後、椿と千鳥は台所で朝食の後片付けをしていた。
「すみません。ひと口もつけずに残してしまって」
「気になさらないでください。それよりも体調はいかがですか。お昼は、消化のいいものにいたしましょうか?」
「いえ、本当にお腹が空いていないだけなので大丈夫です。ありがとうございます」
椿はせっせと皿を洗う。
「それにしても椿様が作られるお料理、どれもおいしそうですね〜。呪いのためとか言いつつ、ご主人様もうれしそうでした」
千鳥がじゅるりとよだれをすすりながら、椿の分の朝食を覗き込む。
「よければ、千鳥さんが食べてくださいませんか」
「え!いいのですか」
「はい、捨てるのはもったいないですし。それに千鳥さん、朝食食べられてませんでしたよね?」
「私はご主人様の異能を原動力にする式神なので、食事の必要はありません。でも、食べることは可能ですので、椿様がよろしいと言ってくださるのなら」
「どうぞ。わたしの代わりにお願いします」
椿の言葉を聞くと、待ってましたと言わんばかりに千鳥は箸を握った。
「それでは、いただきます!」
千鳥は朝食を頬張った。
あまりにもおいしそうに食べる千鳥を見て、椿はクスリと笑った。
「それにしても、驚きました」
「なにがですか?」
「仁様です。冷酷無慈悲として恐れられる陰の軍人と聞いていたので、もっとこわいお方かと思っていましたが、子どものような顔をさせるときもあるのですね」
処刑場で出会ったときは、感情が一切わからない冷たい目と表情をしていた。
朝食に一瞬ピリついた空気はあったが、噂で聞いていた印象とは少し違った。
「仕事が仕事ですからね。感情を殺さねば、やってはいけないのでしょう」
國のため、命じられた殺しとはいえ、だれでも請け負える職務ではない。
殺しを好む殺人鬼のように世間からは見られているが、中身は普通の人間と変わらないのかもしれない。
「トコヤミの呪いの話は聞かれましたよね?」
「はい。仁様が、トコヤミをひとりで倒した方だと」
「はい。当時の盛り上がりようは本当にすごいものでした」
トコヤミを斬った英雄かつ、名家・黒領家長男という肩書きで、仁には至るところから縁談話が舞い込んだ。
政略結婚により、異能家系の娘を婚約者として迎え入れた仁だったが、一切自分に寄せ付けず、冷たく接した。
怒った婚約者は黒領家を飛び出し、即破談に。
結局、新たに婚約してはその繰り返しで、人の心がない冷たい人間だと言われるようになったのだとか。
「かつての婚約者の方々は皆、ご主人様を罵倒して出ていかれました。國を救った英雄はやさしい方だと、勝手に思い込まれていたのでしょうね」
しかし、仁の行動には理由があった。
その頃から、トコヤミの呪いに苦しめられていたのだ。
何度も婚約者の女性を手にかけそうになり、最悪の事態になる前にと、冷たく接して自分から遠ざけたのだ。
『皆さま数日で出でいかれるか、ご主人様が追い出されました』
椿は、昨日の千鳥の話を思い出した。
あのときは、とんでもないところに嫁いだかもしれないと思ったが、それらの言動はすべて仁の思いやりによるものだった。
「そんなにおやさしいというのに、仁様は皆から勘違いされているのですね」
「そうですね。ですが、妻の椿様おひとりが理解してくださるのなら、ご主人様はそれだけで救われます」
勘違いにより、孤独になる。
椿は自分と同じだと思った。
「ですが、ご主人様の笑顔、私も久々に見ましたよ」
「え?いつもお屋敷では、ああではないのですか」
「違います、違います。それに、式神とふたりきではしゃいでる大人なんて逆にこわいです」
想像してしまい、椿はプッと笑ってしまった。
「やはりご主人様は、だれかと寄り添いたいのだと感じました。それに椿様は、ご主人様の望みを叶えてくださるお方。それだけで、心強いのではないでしょうか」
「望みを叶えるだなんて、そんなたいそうなことはできません…。それに、もしそのときがきたら、仁様の異能力でつくられた千鳥さんも…」
「私は、これまで何度もトコヤミの呪いに苦しむお姿を見てきました。ご主人様があの呪いから解放されるのなら、私はどうなろうと構いません」
やさしく微笑む千鳥の口元も、昨日の仁の表情と重なった。
「大切な椿様を傷つけるわけにはいきませんので、ご主人様がもし呪いで暴走されかけたときは、私が盾となって斬られますからご安心ください〜」
「斬られる…!?千鳥さんは、平気なのですか」
「はい。式神ですのでご主人様の異能力が尽きない限り、何度でも復活できます。少し時間はかかりますが」
ケラケラと話す千鳥を見ていると、あまり緊張感が感じられないが、そうなったときの仁は視界に入るものを標的にするらしい。
ひとまず、仁の様子がおかしいと思ったときは、まずはその場から逃げるのが先決。
あとは、仁が自力で沈めるまでは絶対に近づかないようにと千鳥から教わった。
「なんだ?俺の悪口か?」
突然耳元でそんな声が聞こえたと思ったら、背中にぬくもりが伝わった。
椿が驚いて顔を向けると、なんと後ろから仁が抱きしめていた。
「じ…仁様、なにをしていらっしゃるのですか…!」
ぎょっとして目を見開く椿は、泡で滑って洗っていた皿を落としてしまった。
「朝飯だけでは呪いが感じられなかったからな。いっそのこと、こうすれば直接移るのではないかと思ってな」
間近に迫るニヤリと口角を上げる仁の横顔は、なぜか色っぽくも見える。
「あらまあ。ご主人様ったら、積極的ですね」
熱いお茶をすする千鳥が艶めかしい声を漏らす。
「千鳥さん、誤解です!これは儀式みたいなものですよね、仁様…!」
「そのつもりだったが、意外と居心地いいものだな」
「と、とにかく離れてください…!」
椿は顔を真っ赤にして、仁を押しのける。
「びっくりするではありませんか…!それに、今は移りませんよ」
「“今は”?いつなら移るというのが自分でわかるのか?」
「はい。なんとなくですけど」
呪いが溢れるときは、決まってお腹が苦しいくらいにいっぱいのときだ。
朝食も食べれないほどに満腹感はあったが、まだ“そのとき”ではない。
「そうか。それなら、待つしかないな」
仁は椿の頭をわしゃわしゃと撫でると台所から出ていった。
これまでは、近づくのでさえも拒まれてきたというのに、仁はお構いなしに椿に触れる。
すべては呪いを移されるための行為だとはわかってはいるが、慣れない椿はそのひとつひとつにドキドキしてしまうのだった。
それから、一ヶ月近くがたった。
黒領家での暮らしもずいぶんと慣れてきた。
初めは千鳥から“椿”と呼ばれても、すぐに反応できないときもあったが、今ではその名を呼ばれるのを気に入っていた。
だが、未だに仁には一度も名前で呼ばれてはいない。
今日は、朝から玄関先で掃き掃除をしていた。
少しずつ春の訪れを感じはじめる二月の中旬だが、まだ北風の冷たさに身を縮める日もある。
椿は、はぁと息を吹きかけて手を温めていると――。
「失礼。黒領仁殿はおられるだろうか」
後ろから声がして振り返った椿だが、そこに立っていた人物を見て顔を引きつらせた。
なんと、それは元結婚相手の鏑木進だった。
どうしてここにと混乱したが、以前鏑木家で陰の軍人に仕事を任せるなどの話をしていたことを思い出した。
どうやら、以前から関わりがあったようだ。
「ん?聞こえなかったのか。黒領仁殿はおられるかと尋ねているのだが」
椿はあまりの驚きで声が出せない。
慌ててお辞儀をすると、逃げるように屋敷の中へと駆け込んだ。
「…仁様」
自室で読書をしていた仁を呼びにいく。
「どうした」
やってきた椿は、酸欠の魚のように口をパクパクとさせていて声が出ていない。
「そ…外に、あのっ…」
「外?」
仁は部屋から出ると、玄関のほうへと向かった。
そこには、顔を覗かせる進の姿があった。
それですべてを悟った仁は、広い背中の後ろに椿を隠す。
「これはこれは鏑木殿、わざわざお越しくださって。本日はいかがされましたか」
「その腕を見込んで、仕事の依頼に。外ではできない話ゆえ、上がらせてもらうぞ」
勝手に上がり込んできた進に仁が小さく舌打ちをする音が聞こえたが、幸い本人には聞こえていないようだった。
「あとのことは千鳥に任せて、お前は部屋で休んでいろ」
「しかし、千鳥さんは今お買い物に出かけられていて…」
「そうか。だが、お前が無理する必要はない」
仁は椿にささやくと、背中を押して自室に隠れているように促す。
そそくさと廊下をすり足で去っていく椿の後ろ姿を見て、進がつぶやく。
「黒領殿は式神を操ると聞いたが、あれがその式神だろうか?あまりの美しさに、一瞬見入ってしまった」
その言葉に、椿は廊下の角を曲がったところで足を止めた。
髪を切って化粧も変えたおかげか、どうやら進には気づかれていなかった。
そもそも、まさか清家加耶が生きているとも思っていないだろうが。
式神と思い込んでいるのなら都合がいい。
このまま、正体を隠してやり過ごせる。
椿がそう思っていたときだった。
「鏑木殿、おもしろいことを言われますね。式神ではありませんよ。彼女は、れっきとした人間です」
聞こえてきた仁の言葉に、椿は目を見開いた。
「え、人間?」
「はい。自慢の妻です」
「…妻!?」
仁が素直に答えるものだから、進は興味津々で椿が曲がっていった廊下の角に目を向ける。
「陰の軍人となっても、嫁ぎたいという変わり者はいるんだな」
進は目を細めてつぶやく。
「いつご結婚をなされたのですか」
「まあまあ。そんな話よりも、仕事のご依頼ですよね。ぜひお聞かせいただきたい」
仁が和室の応接間に進を押し込み、椿は緊張が解けて廊下にへたり込んだ。
式神と伝えておけば、すんなりと流れた話だったというのに、正直に“妻”と答えたのには驚いた。
「どうして、仁様はあんなこと…」
手を添えた胸がドキドキしていることに気づいた。
仁には部屋で休んでいろとは言われたが、椿は台所でお湯を沸かして、お茶の用意をしていた。
妻と紹介されたからには、その務めを果たさせねばと思っていたのだ。
応接間の前へくると、障子の影に映ったのに気づいたのか、慌てて仁が出てきた。
「どうしてきたんだ」
「お茶をお持ちいたしました。黒領家の“妻”として、お客様をおもてなしするのもわたしの役目ですから」
「まったくお前は。そういうつもりで言ったわけではなかったのだがな」
あきれ顔で息をついた仁だったが、お盆を持つ椿の手が震えていることに気がついた。
「本当に大丈夫か。あんなやつの顔など、二度と見たくもなかっただろうに」
「…大丈夫です。わたしにやらせてください」
椿はなんとか笑ってみせた。
「鏑木殿、お待たせして申し訳ない。妻が茶をお出ししたいと」
「おお、これはこれは。ご丁寧にありがとうございます」
仁に付き添われ、椿は応接間へと入った。
「妻は極度の上がり症のため、初対面の方とは口がきけないのです。どうか、ご理解いただきますよう」
「そうでしたか。急な訪問で、先ほどは驚かせてしまって申し訳ない」
進が顔を覗き込もうとするから、椿はうつむいて首をブンブンと横へ振った。
なんとか気づかれずにお茶と茶菓子を出し、そそくさと退室した。
心臓が暴れ、その場でしゃがみ込んで息を整えていると――。
「それにしても、美しい奥さまですね」
「ええ、自慢の妻です」
堂々と語る仁の言葉に、椿は頬を赤くした。
「妻といえば、この前黒領殿が処刑された元妻は、とんだ性悪女でしたよ」
悪態をつく進の声に椿は胸がズキンと痛む。
「あのときは、幸喰いの悪女の呪いで父を呪われ取り乱していました。黒領殿への処刑場での非礼を詫びます」
「いえ。あのような状況でしたら、皆がそうでしょう。お気持ちお察しします」
「清家家だからと迎え入れましたが、とんだハズレくじを引かされました。清家家もあの女の能力を把握できていなかったらしいですからね。気の毒に」
ここにいてても悪い話しか聞こえてこないのはわかっているのに、椿は足に力が入らなかった。
幸喰いの悪女の清家加耶は、死して尚も悪評を言われて続けるのだろうかと、きゅっと唇を噛んだとき――。
「残念ながら、ハズレくじを引いたのは元奥様のほうですね」
障子の向こう側から仁の声が聞こえてきた。
「それはどういった意味だろうか、黒領殿」
進が声を低くする。
「こんな腹黒い男なんかに嫁がされて、哀れで仕方がない。あなたこそハズレくじだ。元奥様が聞いていたら、鏑木殿、今ごろ呪い殺されていますよ」
「そ、そんなことあるわけないだろう。死んだ人間が聞いているなど」
「さあ、どうでしょう?もしかしたら、近くで聞き耳を立てていらっしゃるかもしれませんよ」
仁は、椿がまだそばにいるのをわかっていた。
そして、言い返せずに、部屋の外でじっと我慢していることも。
「元奥様も、あなたとなんて望んで結婚したくなかったと思いますよ。自惚れないほうがよろしいかと」
「黒領殿…、どういうおつもりだろうか」
「どうもこうも、元奥様が生きていらっしゃったら、こう思われているのではないだろうかというのを代弁しているだけです」
それを聞いていた椿は、胸がスッとした。
本当は直接言ってやりたいところだが、これができない以上、仁の言葉で気分も晴れた。
「もういい!不愉快だ!」
進が座卓を叩いて立ち上がったのがわかった。
「もういいのですか?それでは、今お引き受けした仕事も白紙ということで」
「そういう意味じゃない!わかるだろう!?」
「そうですね。こんな仕事、私じゃないと引き受けられないでしょうし、他人に知られるわけにもいきませんからね」
話が終わったようで、進は荒々しく障子を明け放って出てきた。
その後ろを、仁が玄関まで見送りにいく。
「鏑木殿。口は災いのもとと言いますし、くれぐれもお気をつけて」
口元に人差し指を添えた仁の怪しげな笑みに、背筋に悪寒が走った進はそそくさと帰っていった。
「そこにいるか」
「は、はい」
玄関先で仁が声をかけると、廊下の角から椿が顔を出した。
「見たか、あいつの顔。小物のくせに大口だけは叩くから、ついついいじめたくなってしまった」
仁は意地悪い笑みを見せ、進が帰っていった遠くを見つめる。
「ですが、そもそもわたしを式神と言ってくださっていればよかったものの」
「お前は素直で料理もうまく、家での務めを果たし、胸糞悪い相手にも茶を出してやれる、よくできた妻だ。嘘でも、式神なんて言えるか」
ニッと笑う仁に、椿は頬を緩ませた。
世間からは、冷酷無慈悲の陰の軍人として恐れられ、好んで人は寄り付いてこない。
しかし、椿にとっては、こんなにも心強い味方はいなかった。
「ありがとうございます、仁様」
死後も周囲に罵られようと、そんなものはもうどうだっていい。
仁さえいてくれれば、それでいいのだ。
その夜、椿は熱いお茶を入れ、皿に乗せたういろうといっしょに仁の部屋へと運んでいた。
買い物から帰ってきた千鳥がういろうを買ってきていた。
どうやら、仁の好物らしい。
夕食後に食べると話していたので、椿が届けにきたのだ。
「仁様、いらっしゃいますか。椿です」
ノックをし、ドアに向かって呼びかけた。
しかし、返事はなかった。
「おかしいな。先ほどお部屋に戻られたと思ったのだけれど」
せっかくの熱いお茶も冷めてしまうし、出直そうと思ったとき、中から物音がした。
聞き耳を立てていると、かすかに仁の声も聞こえてくる。
その瞬間、なにかが割れるけたたましい音が響いて、椿は驚いてドアから耳を離した。
「仁様、どうされましたか!?」
「…うぅ」
唸り声も漏れてきて、ケガをしたのではないかと思った椿は慌ててドアノブに手を伸ばした。
「仁様、失礼します…!」
断りを入れ、ドアを開け放つと、そこには頭を抱えて壁にもたれかかる仁の姿があった。
辺りには家具が散乱し、壁紙もズタズタに引き裂かれている。
「いったい、どうされたのですか!」
駆け寄る椿だったが、その足元で飛んできた花瓶が割れ、とっさに足をとめた。
仁が投げたものだった。
「…くるな」
苦しそうに肩で息をして、そのまま膝から崩れ落ちる。
そして、仁はおもむろに手を伸ばすと、壁にかけられていた刀を握った。
「仁様、なにを…」
震えてへたり込む椿の前で、仁は鞘から刀を引き抜いた。
椿を見下ろす仁の瞳は瞳孔が縦に伸び、まるで獲物を狙う蛇の目のようだ。
「逃げろっ…」
その言葉とは裏腹に、椿に狙いを定めた仁が刀を構える。
『厄介なもので、トコヤミの呪いのせいで、無性に殺人衝動に駆られるときがある』
ようやく仁の言葉を思い出した椿だったが時すでに遅く、目の前には刀を振りかざそうとする仁が立っていた。
台所には、千鳥と共に朝食の支度をする椿の姿があった。
「椿様、なにも朝早く起きられる必要などございませんのに」
「いつもの時間に、勝手に目が覚めてしまっただけです。ご迷惑でなければ、お手伝いさせてください」
椿がにこりと笑うと、千鳥も安心したように口元を緩ませる。
「それよりも、お身体はお疲れではないですか。昨日嫁入りされたばかりで、しかも夜遅くに祝言されて」
「少し驚きはしましたが、夜に行う祝言なんて初めてでしたし、それに黒無垢がとっても素敵でうれしかったです」
「そうですか。椿様が喜ばれているのであれば、よかったです」
その後、すっかり日が昇った頃に仁が起きてきた。
千鳥の話では、普段の仁の職務は夜の間のため、昼夜逆転の生活なのだそう。
寝癖のついた髪に、あくびをしながらまだ眠たそうに席に着いた仁は、周囲から恐れられる陰の軍人とはとても思えない。
「ご主人様。本日は、椿様が朝食をご準備してくださったのです」
千鳥の話を聞いて、チラリと視線を向けた仁の瞳と目が合う。
「わたしはお手伝いしただけで、大したものは作っていないのですが…」
「そうか。だが、よく知らぬ者が作った飯は食べないと決めている」
ぶっきらぼうに言って、椿から新聞紙へ視線を移す仁。
一瞬にて凍りついた食卓に、椿は表情を固くした。
「ご主人様!せっかく作ってくださった椿様になんてこと…!」
「申し訳ございません。呪いを移すわたしの作った料理なんて、気味悪いに決まってますよね…。配慮が足りず失礼いたしま――」
「呪い?ああ、そうだった。お前の料理なら話は別だ」
それまでの険しかった表情から一変、ニッと笑うとすばやく箸を取った。
「すまない。寝起きでまだ頭が働いていなかった。呪いが移るのなら、喜んで食おう」
仁は手を合わせると、味噌汁の器を口へと運んだ。
通常なら、幸喰いの悪女が作った料理など拒まれるはず。
だが呪いを求める仁にとっては、椿の手料理はご馳走だった。
これまでの人間とはずれた反応に、まだ慣れていない椿は戸惑うばかり。
「驚いた。うまいな」
仁から漏れたそのひと言に、加耶は肩の荷が下りた。
「よかったです。お口に合われたのでしたら」
仁はあまりにもおいしそうに頬張るが、それはおいしいからなのか、呪いを摂取したいという気持ちからなのからわからない。
それでも、椿は笑みがこぼれた。
「お前は食べないのか?」
さっきから箸さえも握ろうとしない椿を見て、仁が尋ねた。
「昨日は出された食事はすべて完食したと千鳥から聞いたが、体調でも悪いのか」
「いえ。そういうわけではないのですが、あまりお腹が空いてないのです。おそらく、緊張しているだけなので、あまり気にしないでください」
椿は心配させまいと笑ってみせる。
「ご主人様の顔が威圧的なので、椿様が萎縮してしまっているではありませんか」
「今さらそんなことを言われても、生まれたときからのこの顔をどう変えろというのだ」
千鳥と仁のやり取りがおもしろく、椿は密かに微笑んでいた。
緊張しているというのはただの言い訳だが、空腹でないのは事実だった。
朝起きたときには、どちらかというと満腹感に近かった。
椿にとってはこれまでも度々ある現象だが、これを他人に話しても理解してもらえた試しはなかった。
だから、つい嘘をついてしまったのだ。
鏑木家やその他の嫁ぎ先と違って、それでも無理に食事をすすめてこないのが幸いだ。
「これを見てみろ」
そう言って、仁は椿に読んでいた新聞紙を手渡した。
見るとそこには、大見出しで【幸喰いの悪女、処刑執行】の文字があった。
「これで、幸喰いの悪女と呼ばれた清家加耶は完全にこの世から消えた。正真正銘、お前は俺の妻、黒領椿だ」
ニッと笑ってみせる仁に、椿は大きくうなずいた。
その後、椿と千鳥は台所で朝食の後片付けをしていた。
「すみません。ひと口もつけずに残してしまって」
「気になさらないでください。それよりも体調はいかがですか。お昼は、消化のいいものにいたしましょうか?」
「いえ、本当にお腹が空いていないだけなので大丈夫です。ありがとうございます」
椿はせっせと皿を洗う。
「それにしても椿様が作られるお料理、どれもおいしそうですね〜。呪いのためとか言いつつ、ご主人様もうれしそうでした」
千鳥がじゅるりとよだれをすすりながら、椿の分の朝食を覗き込む。
「よければ、千鳥さんが食べてくださいませんか」
「え!いいのですか」
「はい、捨てるのはもったいないですし。それに千鳥さん、朝食食べられてませんでしたよね?」
「私はご主人様の異能を原動力にする式神なので、食事の必要はありません。でも、食べることは可能ですので、椿様がよろしいと言ってくださるのなら」
「どうぞ。わたしの代わりにお願いします」
椿の言葉を聞くと、待ってましたと言わんばかりに千鳥は箸を握った。
「それでは、いただきます!」
千鳥は朝食を頬張った。
あまりにもおいしそうに食べる千鳥を見て、椿はクスリと笑った。
「それにしても、驚きました」
「なにがですか?」
「仁様です。冷酷無慈悲として恐れられる陰の軍人と聞いていたので、もっとこわいお方かと思っていましたが、子どものような顔をさせるときもあるのですね」
処刑場で出会ったときは、感情が一切わからない冷たい目と表情をしていた。
朝食に一瞬ピリついた空気はあったが、噂で聞いていた印象とは少し違った。
「仕事が仕事ですからね。感情を殺さねば、やってはいけないのでしょう」
國のため、命じられた殺しとはいえ、だれでも請け負える職務ではない。
殺しを好む殺人鬼のように世間からは見られているが、中身は普通の人間と変わらないのかもしれない。
「トコヤミの呪いの話は聞かれましたよね?」
「はい。仁様が、トコヤミをひとりで倒した方だと」
「はい。当時の盛り上がりようは本当にすごいものでした」
トコヤミを斬った英雄かつ、名家・黒領家長男という肩書きで、仁には至るところから縁談話が舞い込んだ。
政略結婚により、異能家系の娘を婚約者として迎え入れた仁だったが、一切自分に寄せ付けず、冷たく接した。
怒った婚約者は黒領家を飛び出し、即破談に。
結局、新たに婚約してはその繰り返しで、人の心がない冷たい人間だと言われるようになったのだとか。
「かつての婚約者の方々は皆、ご主人様を罵倒して出ていかれました。國を救った英雄はやさしい方だと、勝手に思い込まれていたのでしょうね」
しかし、仁の行動には理由があった。
その頃から、トコヤミの呪いに苦しめられていたのだ。
何度も婚約者の女性を手にかけそうになり、最悪の事態になる前にと、冷たく接して自分から遠ざけたのだ。
『皆さま数日で出でいかれるか、ご主人様が追い出されました』
椿は、昨日の千鳥の話を思い出した。
あのときは、とんでもないところに嫁いだかもしれないと思ったが、それらの言動はすべて仁の思いやりによるものだった。
「そんなにおやさしいというのに、仁様は皆から勘違いされているのですね」
「そうですね。ですが、妻の椿様おひとりが理解してくださるのなら、ご主人様はそれだけで救われます」
勘違いにより、孤独になる。
椿は自分と同じだと思った。
「ですが、ご主人様の笑顔、私も久々に見ましたよ」
「え?いつもお屋敷では、ああではないのですか」
「違います、違います。それに、式神とふたりきではしゃいでる大人なんて逆にこわいです」
想像してしまい、椿はプッと笑ってしまった。
「やはりご主人様は、だれかと寄り添いたいのだと感じました。それに椿様は、ご主人様の望みを叶えてくださるお方。それだけで、心強いのではないでしょうか」
「望みを叶えるだなんて、そんなたいそうなことはできません…。それに、もしそのときがきたら、仁様の異能力でつくられた千鳥さんも…」
「私は、これまで何度もトコヤミの呪いに苦しむお姿を見てきました。ご主人様があの呪いから解放されるのなら、私はどうなろうと構いません」
やさしく微笑む千鳥の口元も、昨日の仁の表情と重なった。
「大切な椿様を傷つけるわけにはいきませんので、ご主人様がもし呪いで暴走されかけたときは、私が盾となって斬られますからご安心ください〜」
「斬られる…!?千鳥さんは、平気なのですか」
「はい。式神ですのでご主人様の異能力が尽きない限り、何度でも復活できます。少し時間はかかりますが」
ケラケラと話す千鳥を見ていると、あまり緊張感が感じられないが、そうなったときの仁は視界に入るものを標的にするらしい。
ひとまず、仁の様子がおかしいと思ったときは、まずはその場から逃げるのが先決。
あとは、仁が自力で沈めるまでは絶対に近づかないようにと千鳥から教わった。
「なんだ?俺の悪口か?」
突然耳元でそんな声が聞こえたと思ったら、背中にぬくもりが伝わった。
椿が驚いて顔を向けると、なんと後ろから仁が抱きしめていた。
「じ…仁様、なにをしていらっしゃるのですか…!」
ぎょっとして目を見開く椿は、泡で滑って洗っていた皿を落としてしまった。
「朝飯だけでは呪いが感じられなかったからな。いっそのこと、こうすれば直接移るのではないかと思ってな」
間近に迫るニヤリと口角を上げる仁の横顔は、なぜか色っぽくも見える。
「あらまあ。ご主人様ったら、積極的ですね」
熱いお茶をすする千鳥が艶めかしい声を漏らす。
「千鳥さん、誤解です!これは儀式みたいなものですよね、仁様…!」
「そのつもりだったが、意外と居心地いいものだな」
「と、とにかく離れてください…!」
椿は顔を真っ赤にして、仁を押しのける。
「びっくりするではありませんか…!それに、今は移りませんよ」
「“今は”?いつなら移るというのが自分でわかるのか?」
「はい。なんとなくですけど」
呪いが溢れるときは、決まってお腹が苦しいくらいにいっぱいのときだ。
朝食も食べれないほどに満腹感はあったが、まだ“そのとき”ではない。
「そうか。それなら、待つしかないな」
仁は椿の頭をわしゃわしゃと撫でると台所から出ていった。
これまでは、近づくのでさえも拒まれてきたというのに、仁はお構いなしに椿に触れる。
すべては呪いを移されるための行為だとはわかってはいるが、慣れない椿はそのひとつひとつにドキドキしてしまうのだった。
それから、一ヶ月近くがたった。
黒領家での暮らしもずいぶんと慣れてきた。
初めは千鳥から“椿”と呼ばれても、すぐに反応できないときもあったが、今ではその名を呼ばれるのを気に入っていた。
だが、未だに仁には一度も名前で呼ばれてはいない。
今日は、朝から玄関先で掃き掃除をしていた。
少しずつ春の訪れを感じはじめる二月の中旬だが、まだ北風の冷たさに身を縮める日もある。
椿は、はぁと息を吹きかけて手を温めていると――。
「失礼。黒領仁殿はおられるだろうか」
後ろから声がして振り返った椿だが、そこに立っていた人物を見て顔を引きつらせた。
なんと、それは元結婚相手の鏑木進だった。
どうしてここにと混乱したが、以前鏑木家で陰の軍人に仕事を任せるなどの話をしていたことを思い出した。
どうやら、以前から関わりがあったようだ。
「ん?聞こえなかったのか。黒領仁殿はおられるかと尋ねているのだが」
椿はあまりの驚きで声が出せない。
慌ててお辞儀をすると、逃げるように屋敷の中へと駆け込んだ。
「…仁様」
自室で読書をしていた仁を呼びにいく。
「どうした」
やってきた椿は、酸欠の魚のように口をパクパクとさせていて声が出ていない。
「そ…外に、あのっ…」
「外?」
仁は部屋から出ると、玄関のほうへと向かった。
そこには、顔を覗かせる進の姿があった。
それですべてを悟った仁は、広い背中の後ろに椿を隠す。
「これはこれは鏑木殿、わざわざお越しくださって。本日はいかがされましたか」
「その腕を見込んで、仕事の依頼に。外ではできない話ゆえ、上がらせてもらうぞ」
勝手に上がり込んできた進に仁が小さく舌打ちをする音が聞こえたが、幸い本人には聞こえていないようだった。
「あとのことは千鳥に任せて、お前は部屋で休んでいろ」
「しかし、千鳥さんは今お買い物に出かけられていて…」
「そうか。だが、お前が無理する必要はない」
仁は椿にささやくと、背中を押して自室に隠れているように促す。
そそくさと廊下をすり足で去っていく椿の後ろ姿を見て、進がつぶやく。
「黒領殿は式神を操ると聞いたが、あれがその式神だろうか?あまりの美しさに、一瞬見入ってしまった」
その言葉に、椿は廊下の角を曲がったところで足を止めた。
髪を切って化粧も変えたおかげか、どうやら進には気づかれていなかった。
そもそも、まさか清家加耶が生きているとも思っていないだろうが。
式神と思い込んでいるのなら都合がいい。
このまま、正体を隠してやり過ごせる。
椿がそう思っていたときだった。
「鏑木殿、おもしろいことを言われますね。式神ではありませんよ。彼女は、れっきとした人間です」
聞こえてきた仁の言葉に、椿は目を見開いた。
「え、人間?」
「はい。自慢の妻です」
「…妻!?」
仁が素直に答えるものだから、進は興味津々で椿が曲がっていった廊下の角に目を向ける。
「陰の軍人となっても、嫁ぎたいという変わり者はいるんだな」
進は目を細めてつぶやく。
「いつご結婚をなされたのですか」
「まあまあ。そんな話よりも、仕事のご依頼ですよね。ぜひお聞かせいただきたい」
仁が和室の応接間に進を押し込み、椿は緊張が解けて廊下にへたり込んだ。
式神と伝えておけば、すんなりと流れた話だったというのに、正直に“妻”と答えたのには驚いた。
「どうして、仁様はあんなこと…」
手を添えた胸がドキドキしていることに気づいた。
仁には部屋で休んでいろとは言われたが、椿は台所でお湯を沸かして、お茶の用意をしていた。
妻と紹介されたからには、その務めを果たさせねばと思っていたのだ。
応接間の前へくると、障子の影に映ったのに気づいたのか、慌てて仁が出てきた。
「どうしてきたんだ」
「お茶をお持ちいたしました。黒領家の“妻”として、お客様をおもてなしするのもわたしの役目ですから」
「まったくお前は。そういうつもりで言ったわけではなかったのだがな」
あきれ顔で息をついた仁だったが、お盆を持つ椿の手が震えていることに気がついた。
「本当に大丈夫か。あんなやつの顔など、二度と見たくもなかっただろうに」
「…大丈夫です。わたしにやらせてください」
椿はなんとか笑ってみせた。
「鏑木殿、お待たせして申し訳ない。妻が茶をお出ししたいと」
「おお、これはこれは。ご丁寧にありがとうございます」
仁に付き添われ、椿は応接間へと入った。
「妻は極度の上がり症のため、初対面の方とは口がきけないのです。どうか、ご理解いただきますよう」
「そうでしたか。急な訪問で、先ほどは驚かせてしまって申し訳ない」
進が顔を覗き込もうとするから、椿はうつむいて首をブンブンと横へ振った。
なんとか気づかれずにお茶と茶菓子を出し、そそくさと退室した。
心臓が暴れ、その場でしゃがみ込んで息を整えていると――。
「それにしても、美しい奥さまですね」
「ええ、自慢の妻です」
堂々と語る仁の言葉に、椿は頬を赤くした。
「妻といえば、この前黒領殿が処刑された元妻は、とんだ性悪女でしたよ」
悪態をつく進の声に椿は胸がズキンと痛む。
「あのときは、幸喰いの悪女の呪いで父を呪われ取り乱していました。黒領殿への処刑場での非礼を詫びます」
「いえ。あのような状況でしたら、皆がそうでしょう。お気持ちお察しします」
「清家家だからと迎え入れましたが、とんだハズレくじを引かされました。清家家もあの女の能力を把握できていなかったらしいですからね。気の毒に」
ここにいてても悪い話しか聞こえてこないのはわかっているのに、椿は足に力が入らなかった。
幸喰いの悪女の清家加耶は、死して尚も悪評を言われて続けるのだろうかと、きゅっと唇を噛んだとき――。
「残念ながら、ハズレくじを引いたのは元奥様のほうですね」
障子の向こう側から仁の声が聞こえてきた。
「それはどういった意味だろうか、黒領殿」
進が声を低くする。
「こんな腹黒い男なんかに嫁がされて、哀れで仕方がない。あなたこそハズレくじだ。元奥様が聞いていたら、鏑木殿、今ごろ呪い殺されていますよ」
「そ、そんなことあるわけないだろう。死んだ人間が聞いているなど」
「さあ、どうでしょう?もしかしたら、近くで聞き耳を立てていらっしゃるかもしれませんよ」
仁は、椿がまだそばにいるのをわかっていた。
そして、言い返せずに、部屋の外でじっと我慢していることも。
「元奥様も、あなたとなんて望んで結婚したくなかったと思いますよ。自惚れないほうがよろしいかと」
「黒領殿…、どういうおつもりだろうか」
「どうもこうも、元奥様が生きていらっしゃったら、こう思われているのではないだろうかというのを代弁しているだけです」
それを聞いていた椿は、胸がスッとした。
本当は直接言ってやりたいところだが、これができない以上、仁の言葉で気分も晴れた。
「もういい!不愉快だ!」
進が座卓を叩いて立ち上がったのがわかった。
「もういいのですか?それでは、今お引き受けした仕事も白紙ということで」
「そういう意味じゃない!わかるだろう!?」
「そうですね。こんな仕事、私じゃないと引き受けられないでしょうし、他人に知られるわけにもいきませんからね」
話が終わったようで、進は荒々しく障子を明け放って出てきた。
その後ろを、仁が玄関まで見送りにいく。
「鏑木殿。口は災いのもとと言いますし、くれぐれもお気をつけて」
口元に人差し指を添えた仁の怪しげな笑みに、背筋に悪寒が走った進はそそくさと帰っていった。
「そこにいるか」
「は、はい」
玄関先で仁が声をかけると、廊下の角から椿が顔を出した。
「見たか、あいつの顔。小物のくせに大口だけは叩くから、ついついいじめたくなってしまった」
仁は意地悪い笑みを見せ、進が帰っていった遠くを見つめる。
「ですが、そもそもわたしを式神と言ってくださっていればよかったものの」
「お前は素直で料理もうまく、家での務めを果たし、胸糞悪い相手にも茶を出してやれる、よくできた妻だ。嘘でも、式神なんて言えるか」
ニッと笑う仁に、椿は頬を緩ませた。
世間からは、冷酷無慈悲の陰の軍人として恐れられ、好んで人は寄り付いてこない。
しかし、椿にとっては、こんなにも心強い味方はいなかった。
「ありがとうございます、仁様」
死後も周囲に罵られようと、そんなものはもうどうだっていい。
仁さえいてくれれば、それでいいのだ。
その夜、椿は熱いお茶を入れ、皿に乗せたういろうといっしょに仁の部屋へと運んでいた。
買い物から帰ってきた千鳥がういろうを買ってきていた。
どうやら、仁の好物らしい。
夕食後に食べると話していたので、椿が届けにきたのだ。
「仁様、いらっしゃいますか。椿です」
ノックをし、ドアに向かって呼びかけた。
しかし、返事はなかった。
「おかしいな。先ほどお部屋に戻られたと思ったのだけれど」
せっかくの熱いお茶も冷めてしまうし、出直そうと思ったとき、中から物音がした。
聞き耳を立てていると、かすかに仁の声も聞こえてくる。
その瞬間、なにかが割れるけたたましい音が響いて、椿は驚いてドアから耳を離した。
「仁様、どうされましたか!?」
「…うぅ」
唸り声も漏れてきて、ケガをしたのではないかと思った椿は慌ててドアノブに手を伸ばした。
「仁様、失礼します…!」
断りを入れ、ドアを開け放つと、そこには頭を抱えて壁にもたれかかる仁の姿があった。
辺りには家具が散乱し、壁紙もズタズタに引き裂かれている。
「いったい、どうされたのですか!」
駆け寄る椿だったが、その足元で飛んできた花瓶が割れ、とっさに足をとめた。
仁が投げたものだった。
「…くるな」
苦しそうに肩で息をして、そのまま膝から崩れ落ちる。
そして、仁はおもむろに手を伸ばすと、壁にかけられていた刀を握った。
「仁様、なにを…」
震えてへたり込む椿の前で、仁は鞘から刀を引き抜いた。
椿を見下ろす仁の瞳は瞳孔が縦に伸び、まるで獲物を狙う蛇の目のようだ。
「逃げろっ…」
その言葉とは裏腹に、椿に狙いを定めた仁が刀を構える。
『厄介なもので、トコヤミの呪いのせいで、無性に殺人衝動に駆られるときがある』
ようやく仁の言葉を思い出した椿だったが時すでに遅く、目の前には刀を振りかざそうとする仁が立っていた。



