処刑場が再び沈黙と化す。
加耶は頭の中が真っ白になっていた。
“幸喰いの悪女”として極刑が下され、この処刑場へとやってきた。
そこにいたのは、処刑執行人の黒領仁。
刀を引き抜く音を背中で感じながら、死を覚悟していたが――。
「あ、あの…。妻になれとは…いったい」
「そのままの意味だ」
仁がぶっきらぼうに言い放つ。
処刑場で求婚など聞いたことがないし、そんなことあるはずがない。
「そうか。わたしはすでに死んで、ここは地獄で――」
「なんだ?お前、俺との結婚が地獄だっていうのか?」
「いえ、決してそういう意味では…!」
仁にギロリと睨まれ、加耶は大量の冷や汗を流した。
「死にたいのなら、今すぐここで首を跳ねるが」
仁は、ごくりと唾を飲み込む加耶の喉に手を添えた。
「け…結構です!しかし、それは…見逃してくださるということでしょうか」
「まあ、そうなるな。ただ、もしかすると死ぬよりも、俺の妻になることのほうが苦しいかもしれないがな。選べ」
闇色の瞳が加耶を捉える。
その吸い込まれそうな瞳には、顔を強張らせる加耶が映っていた。
「…なにが目的ですか。悪女と呼ばれるわたしを好き好んで娶る方などいません」
「さっきも言っただろう。夫となる者を呪うという、お前のその能力を欲している。容姿に惚れたのではない。自惚れるな」
てっきり口もきけないと思っていたが、開けば口は悪く、横柄な態度の仁に、加耶は拍子抜けした。
「さあ、どちらがいい?まあ断るのであれば、命令通り、処刑を即執行するがな」
妻になれと言うわりには、断れば容赦なく切り捨てようとする男の心理がわからない。
本来なら、すでにここで消えていた命。
助かるかもしれないなど、考えたこともなかった。
先のことはわからないが、選べと言われたのなら、加耶の答えはひとつだった。
「…わかりました。わたし、あなたの妻になります」
加耶の返事に、仁はニヤッと笑ってみせる。
握っていた刀を軽く振るうと、あっという間に加耶を縛っていた召縄が真っ二つに切れた。
「ですが、わたしは知りませんよ。本当に呪いで死ぬようなことになっても――」
「望むところだ。俺をうんと不幸にしてみせろ、“幸喰いの悪女”よ」
仁は、荒々しく片手で加耶の顔を両側からつかんで引き寄せた。
頬が潰され、唇を尖らせた加耶を見て、満足そうに微笑むのだった。
「終わったか?」
その後、意気揚々と進が処刑場へと戻ってきた。
「はい。処刑完了です」
仁はチラリと進に視線を向けると、吸っていたタバコの煙を吐いた。
その煙たさに、進は一瞬顔をしかめる。
「それにしても、あの女の首はどこだ?」
「燃やしました」
「は?燃やしただと!?僕はツラを見にくると言っただろ」
「残っていても邪魔だったので。こられるのが少し遅かったですね」
「…チッ。勝手なことを」
進は仁につかみかかりそうになったが、冷静になって手を下ろした。
「ああ、そこですよ。鏑木殿が今立っているところ。そこに、ついさっきまであの女の死体がありまして――」
「…うわあ!先に言えっ」
情けない声を上げて飛び上がった進は、滲み出た朝をハンカチで拭う。
「ところで、どうしてここだけ床が黒いんだ」
「業火で焼き尽くしたので、石の床まで焦げたのです。血も骨も跡形もなく燃やしましたので、どうぞご安心を」
真っ黒焦げになった床を見て、その火力に進はごくりと唾を飲み込む。
「あの女の成れの果てを見てやりたかったところだが、死んだのならまあいい」
「日の当たる表の舞台でご活躍されているようなあなた方が、興味本位で死体など見るものではございませんよ」
不気味な仁の微笑みに、進は息を呑む。
「まあ、これで清々した。ご苦労だったな」
「いえ。これが仕事ですので」
涼しい顔をして語る仁は、とても人を殺した後とは思えない。
その姿に、進は身震いをした。
処刑場から一切の足音が消えると、仁は隅にある拷問器具に視線を移した。
「もういいぞ」
その言葉に、陰から加耶が恐る恐る顔を出す。
仁は加耶の腕を引くと、軽々と抱きかかえた。
「こんな陰気臭い場所、とっとと出るとするか」
突然のことに戸惑った加耶は頬を赤らめながら、こくんとうなずいた。
外に出るとすでに夜で、看守もやじ馬もだれひとりとしていなかった。
すっかり晴れた空を見上げると、月が顔を出していた。
「処刑場から生きて出た者は、お前が初めてだ」
仁の言葉と目の前に広がる夜の風景に、加耶は生きていることを実感した。
その後、闇夜に紛れて連れてこられたのは、帝都の端に位置する森の中。
木々が鬱蒼と茂り、霧が覆い不気味な雰囲気が漂うが、進んだ先に黒を基調とした立派な屋敷が見えてきた。
「ようこそ、我が黒領家へ」
屋敷を背中に、仁が振り返る。
清家家と同じくらいに広々とした屋敷ではあるが、それにしても人の気配を感じなかった。
「あの、ご家族の方は…?」
「いない。父も母もすでに亡くなっている」
仁は微動だにせずに淡々と語る。
「だが、家族みたいなやつはいる」
「え?」
すると、仁の帰りを見計らったかのように、門がひとりでに開いた。
その奥では、顔の上半分を隠す面をつけた髪の長い女が待っていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
そう言うと、丁寧にお辞儀をした。
「今話していた“家族みたいなやつ”というのがこいつだ」
「はじめまして。黒領家で使用人をしております、千鳥と申します」
面で目元は隠れていて見えないが、千鳥の口元がニッと笑った。
その表情に、加耶は表情を緩ませた。
「ところで、旦那様。この見目麗しい女性はどちらさまですか?」
「名前は加耶。俺の妻だ。さっき娶った」
「なんと!花嫁さまでしたか。これはこれは、よくぞお越しくださいました」
千鳥は加耶の手を握ると、うれしさのあまり上下にブンブンと振った。
「…あのっ。わたしに触れたら呪いが――」
「その心配ない。こいつは人間ではないからな。俺が異能でつくった式神だ。呪いは効かない」
戦闘において、盾や分身としての役割を担う式神であるが、話したり、自らの意思で行動する式神をつくりだすのは難しい。
その形を維持させるだけでも相当な力を使うというのに、それを容易くやってのけてしまう仁の能力に加耶は息を呑んだ。
「あの、黒領さま。どうしてわたしを嫁にされたのか、聞きたいことがたくさんありまして…」
「“仁”でいい。妻なのだからな」
「は、はい」
加耶はぎこちなくうなずく。
「千鳥、先に風呂を沸かしてきてくれるか。この娘、臭くてかなわん」
鼻を摘む仕草をした仁に、加耶は慌てて自分自身を匂った。
それを見て、千鳥がクスクスと笑う。
「かしこまりました。それでは、加耶様はこちらへ」
千鳥に加耶を任せると、仁はひとり、足早に屋敷の中へ入っていった。
「どうぞ、中でお寛ぎください」
「わたしはここで結構です…!汚い身なりなので、お屋敷が汚れてしまいます」
泥だらけの素足に、何日も着用していて汚れた着物のまま屋敷に上がるのには躊躇いが生じた。
それに、さっきの仁の言葉も気にしていた。
「しかし、花嫁さまを外でお待たせさへるわけにもいきません」
「でしたら、お風呂の用意をお手伝いしてもいいですか?」
加耶は、千鳥に屋敷の裏にある風呂の焚口へと連れていってもらった。
そこで慣れた手つきで薪を割ると、木をくべていく。
「お上手ですね」
「実家にいるときは毎日していましたから。これくらいしか、わたしにできることはないんです」
そう言って微笑んでみせる加耶の顔はあまりに切なげで、千鳥は胸がじんと痛んだ。
「これまでの婚約者の方々は皆、風呂の沸かし方も知らないとおっしゃっていましたが、教養ある加耶さまを娶られて、ようやくご主人様も見る目を養われたようで私は安心しました」
「わたしより前に、婚約者の方がいらっしゃったのですか?」
「はい。黒領家は異能家系の名家ですから、縁談のお話はそれなりに。しかし、皆さま数日で出ていかれるか、ご主人様が追い出されました」
それを聞いて、加耶はごくりと唾を飲む。
死ぬよりもマシだとわかってはいるが、とんでもないところへ嫁にきてしまったのではないかと今さら後悔した。
その後、いい湯加減になったのを確認すると、加耶は遠慮がちに風呂へと入った。
一番風呂など初めてで、本当にいいのかと落ち着かない。
だが、久々の風呂は芯まで体が温まり、そんな些細なことに幸せを感じた。
上がって用意された着物に着替え、食卓へと案内されると、並べられた豪勢な食事の数々に目を見張った。
囚われている間、必要最低限の食事しか与えられていなかった。
空腹を感じないときもあったため、それらで十分我慢できたが、久々のまともな食事を前にして、加耶は思わずよだれがこぼれそうになった。
しかも、どれも温かくておいしい。
「…おいしいです。すごく、すごく…」
加耶はぽろぽろと涙を流しながら、ひと口ひと口を噛みしめていた。
「失礼します」
「きたか」
その後、加耶は仁の部屋へと向かった。
仁も軍服姿から、紺青色の着物に着替えていた。
ソファに腰掛けるよう促され、加耶の前に仁も座った。
「薄汚いままでも隠しきれていなかったが、身なりを整えると本当に美しいな。恐ろしいくらいに」
感情のこもっていない瞳にじっと見つめられ、加耶は気まずさで視線をそらした。
「“悪女”と呼ばれつつも、お前を娶りたいと申し出る馬鹿な男共の気もわからなくもない。そうして、これまで夫となった人間とその周辺を呪ってきたというわけか」
加耶はきゅっと唇を結んで黙り込む。
「清家家の清らかな異能は、婚姻関係になれば影響するというが、お前の呪いも同じ条件という認識で間違いないな?」
「おそらくですが。しかし、なぜ仁様はわたしの呪いにこだわるのですか」
「そうだな。契約結婚とはいえ、妻となる加耶には知る権利もあるか」
仁は視線を落とすと、静かに語りだした。
「加耶は、トコヤミというあやかしは知っているな?」
「はい。それはもちろん」
“トコヤミ”とはその名の通り、闇を吸い込んだかのような黒い体をした巨大な蛇のあやかしだ。
大昔、怨露山という北の地方にある大岩に封印されたという言い伝えがあるが、それ以降も十数年に一度、突如として姿を現している。
牙の生えた大きな口であらゆるものを噛みちぎって飲み込み、これまでも大勢の人間が餌食にされた。
トコヤミは自然発生し、十日十夜暴れ回ったのち自然消滅する。
だれにも手が付けられないトコヤミの存在に、その間人々は祈ることしかできない。
しかし、今から七年前、そのトコヤミを斬った者がいた。
その者の活躍により、被害は最小限に食い留められ、國を救った英雄として讃えられた。
「わたしも覚えています。幾人もの異能者が犠牲となったトコヤミを、たったひとりで倒した者がいたと。たしか、最年少で軍隊長になられたお方だったとか」
「そのとき加耶は、十二くらいか?」
「そうです。一夜にして、國がお祭り騒ぎになるほどの出来事でしたから」
「そうだったな、懐かしい。ちなみに、そのトコヤミを倒したかつての英雄というのが、この俺だ」
「えっ…!」
トコヤミを倒した異能者は、当時は一世を風靡した有名人だった。
そんな人物が目の前にいるという事実に驚く加耶。
同時に、脚光を浴びたはずの仁がなぜ現在、國の汚れ仕事を担う陰の軍人となっているのかが疑問だった。
「俺は英雄などではない。今や、ただのバケモノだ」
仁はつぶやくと、右腕の袖をまくり上げた。
その瞬間、何匹もの黒い蝶が舞って飛んだ。
突然現れた多くの蝶にも驚いたが、それよりも仁の右腕を見て、加耶は一瞬息が止まった。
花の蜜を求めるかのように蝶が集まる右腕には、まるで蛇がはうように、黒黒とした紋様が渦巻いていた。
「それは…」
「トコヤミの呪いだ」
心技体に優れた仁は、十八という若さで國の軍隊長を任され、十九のときに出現したトコヤミの討伐を命じられた。
のちに仁の一撃でトコヤミは消滅し、その活躍が讃えられるが、実際無傷では済まなかった。
死闘により体中は傷だらけ。
さらに、右腕に噛みつかれた際に深い傷と呪いを負った。
幸い傷は完治したものの、腕にはトコヤミの呪いを表す呪印がつけられた。
「厄介なもので、トコヤミの呪いのせいで、無性に殺人衝動に駆られるときがある。殺戮を繰り返すあやかしだからな。俺の体を使って、視界に入るものすべてを喰らいたいらしい」
そして数年前、仁は部下の隊員を斬ってしまうという不祥事を起こした。
隊員は命を取り留めたが、トコヤミの呪いを持つ仁の危険性が指摘され、除名処分を下される。
仁はトコヤミを斬った英雄から、そのときに受けた呪いにより表舞台から姿を消し、殺しを専業とする國の汚れ仕事を担う陰の軍人へと成り下がったのだった。
「だが、殺しがある今の仕事になってからは呪いの衝動も落ち着いているんだ。皮肉だろう?」
仁からは、自嘲する乾いた笑い声が漏れる。
「わたしを娶られたのは、清家一族としてその呪いを祓うため…ではないのですよね」
「ああ。むしろ、その逆だ。お前の力で、俺を呪い殺してくれ」
「呪い殺すとは…」
「何度、この体を恨んだか。だが、これもトコヤミの呪いか、俺は自身の体に致命傷を与えることができない。何度も試してはみたんだがな…」
仁がはだけさした胸元には、無数の刀傷があった。
「つまり、自分では死ねない。だから、お前の力が必要なんだ」
仁は、加耶の移す呪いならば死ねるのではと考えていたのだ。
「今さら、それはできないなどとぬかすなよ。妻になると決めて、ここへきたのだから役目は果たしてもらうぞ」
加耶にしてみれば、仁は命の恩人のようなもの。
その仁が「死にたい」と言っている。
加耶の移す呪いによって。
できれば、そんな頼みは聞きたくない。
しかし、それが恩人の唯一の願い――。
「これは契約結婚。難しく考えるな。それにお前の呪いは、俺にとっては“救い”なんだ」
――“救い”
その言葉が妙に加耶の心に響いた。
幸喰いの悪女と呼ばれ、ただただ恐れられてきた自分の力を求める人がいるとは思わなかった。
加耶に羽根ペンを握るよう促す仁は、薄っすらと笑みを浮かべていた。
それを見て、この男はこの世に未練がないのだと確信した。
「本当によろしいのですね…?」
「ああ。俺をトコヤミの呪いから解放してくれ」
仁の揺るがない意思に、加耶もようやく決心する。
そして、すでに仁の名前が記された婚姻状にペン先を向けた。
四度目の婚姻状は、もう見飽きているくらいだ。
氏名の欄に【加耶】――そう書こうとしたとき。
「待て」
なぜか、仁が止めた。
「まさか、そこに自分の名前を素直に書くつもりじゃないだろうな」
「え、そのつもりですが…」
「わかっているのか?“清家加耶”はもうこの世にはいない。死んだ人間の名前を書いてどうする」
それを聞いて、加耶ははっとして一度ペンを引っ込めた。
なにも考えてなかったが、たしかに仁の言うとおりだ。
「では、なんと書けば」
「もうお前は清家加耶ではない。これからは別人として、新しい名前を名乗るといい」
「新しい名前…」
加耶は顎に手を当てて考える。
しかし、今言われたところでまったくなにも浮かんでこない。
そのとき、視界の端にあった生け花の椿の花が、床にぽとりと落ちるのが見えた。
打ち首を連想させる椿は、武士から嫌われている花。
それは、加耶にも当てはまっていた。
「まるで、わたしみたい…」
椿に思いを馳せ、ぽつりとつぶやいた。
「…そうだ。わたしの名前、“椿”はいかがでしょうか」
「椿?」
加耶はゆっくりと歩み寄ると、床に転がる椿の花をやさしく拾い上げる。
「はい。本来ならば、わたしも処刑場にて仁様に首を落とされていましたから」
加耶はニッと笑ってみせる。
「変…でしょうか」
「いや、いい名だと思う。椿は冬の寒さにも負けない強い花だ。お前に似合っている」
こうして加耶は、椿と名を改め、黒領仁の妻として新たな人生を歩むことを誓った。
「契約結婚とはいえ、せっかく夫婦になったんだ。形だけでもいいから、今から祝言を挙げようか」
「もう夜も遅いですが、今からですか?」
「陰の軍人と死んだ女の祝言など、真っ昼間に堂々とできるものでもないだろう」
「たしかに、そうですね」
ふたりは顔を見合わせて笑う。
「千鳥、いるか」
「はい、ここに」
仁の影から、千鳥がぬっと姿を現す。
まだそれに慣れない加耶は、体をビクッとさせて驚く。
「これから祝言を挙げる。花嫁の支度を手伝ってくれ」
「かしこまりました。“椿様”のご準備を整えますので、少々お待ちください」
千鳥は、なにかを探しに部屋を出た。
次に戻ってきたときには、美しい白無垢を抱えていた。
「こちら、いかがでしょうか。椿様の白い肌に、とっても似合うかと思って選んできたのですが」
「なかなかいい代物じゃないか」
白無垢の生地感を確かめる仁の後ろで、加耶は小さく震えていた。
『どうせすぐに必要になるだろう。持っておきなさい』
『鏑木家のように、それでも嫁にほしいと言ってくる家はまだあるだろう。お前は顔だけが取り柄だからな』
あのとき、丞之助から託された白無垢を思い出したら気分が悪くなった。
加耶にとって白無垢は、なにひとつめでたいものでも、喜ばしいものでもない。
純白の心に見せかけて相手を騙し陥れる、禍々しい戦闘服に思えてならなかった。
「白無垢姿の椿様、お美しいこと間違いなしでしょうね」
千鳥のはしゃぎ声が聞こえ、加耶の額から冷や汗が流れ落ちた。
「それでは椿様、さっそくお着替えに参りましょ――」
「ちょっと待て、千鳥」
そのとき、仁が割って入った。
「どうされましたでしょうか」
「白無垢もいいが、椿には“あれ”のほうが似合うんと思うのだが」
「“あれ”?」
首を傾げる千鳥。
すると突然、ポンッと手を打った。
「あ〜!“あれ”ですね。かしこまりました」
なにかを悟ってか、千鳥はそそくさと白無垢を片付ける。
「椿様。お部屋を移動いたしますので、私についてきてください」
「は、はい」
加耶は別室に案内され、そこで新しい衣装を見せられる。
「わあ…、きれい」
それを目にした加耶から、思わず感嘆の声が漏れた。
若月がほのかに闇夜を照らす冬夜。
庭の祠の前で、軍服姿の仁が加耶を待つ。
「お待たせいたしました」
そんな声が聞こえて振り返った仁だったが、くわえていたタバコを無意識に落としていた。
「初めて着させていただいたのですが、どうでしょうか」
恥ずかしそうに顔を赤らめながらやってきたのは、黒無垢姿の加耶。
闇に溶け込みそうな衣装だというのに、加耶の美しさも相まって、その存在感を際立たせていた。
しかも驚いたことに、腰まであった長い黒髪は、肩上でまっすぐに切りそろえられていた。
「髪を切ったのか?もはや別人だな」
「はい。長い髪は清家加耶の自慢でもありましたが、わたしは黒領椿に生まれ変わりましたので必要なくなりました」
にこっと微笑む加耶を見て、仁も安堵の表情を浮かべる。
「それにしても、思いきったな」
「こんなに短いのは人生初めてなので、首がスースーして寒いです」
落ち着きなく首元を触る加耶を見て、仁は笑みを浮かべた。
厚い雲が流れ、若月のわずかな明かりさえも隠してしまい、周囲は沈黙の黒い世界へと変わる。
闇夜の中で、闇を背負う男と闇に生きる女は、夫婦となるため誓いを交わす。
「椿」
仁は加耶の手をやさしく握る。
幸喰いの悪女という噂が流れてからは、だれもその手に触れるものなどいなかった。
加耶自身も呪いを移してはいけないと思い、今もとっさに手を引っ込めようとしたが、仁は絶対に離さなかった。
「恐れなくてもいい。これは俺が望んだ結婚だ。夫として、これからは俺がお前を守ってやる。俺が呪いで死ぬ、そのときまで」
そう言って、静かに跪いた仁は加耶の手の甲にそっとキスを落とした。
加耶は、驚いて目を丸くする。
だが、触れられることもやさしく扱われることも久しかった加耶は、人のあたたかさに自然と涙が込み上げた。
こうして、清家加耶が死んだ夜、黒領椿が誕生した。
加耶は頭の中が真っ白になっていた。
“幸喰いの悪女”として極刑が下され、この処刑場へとやってきた。
そこにいたのは、処刑執行人の黒領仁。
刀を引き抜く音を背中で感じながら、死を覚悟していたが――。
「あ、あの…。妻になれとは…いったい」
「そのままの意味だ」
仁がぶっきらぼうに言い放つ。
処刑場で求婚など聞いたことがないし、そんなことあるはずがない。
「そうか。わたしはすでに死んで、ここは地獄で――」
「なんだ?お前、俺との結婚が地獄だっていうのか?」
「いえ、決してそういう意味では…!」
仁にギロリと睨まれ、加耶は大量の冷や汗を流した。
「死にたいのなら、今すぐここで首を跳ねるが」
仁は、ごくりと唾を飲み込む加耶の喉に手を添えた。
「け…結構です!しかし、それは…見逃してくださるということでしょうか」
「まあ、そうなるな。ただ、もしかすると死ぬよりも、俺の妻になることのほうが苦しいかもしれないがな。選べ」
闇色の瞳が加耶を捉える。
その吸い込まれそうな瞳には、顔を強張らせる加耶が映っていた。
「…なにが目的ですか。悪女と呼ばれるわたしを好き好んで娶る方などいません」
「さっきも言っただろう。夫となる者を呪うという、お前のその能力を欲している。容姿に惚れたのではない。自惚れるな」
てっきり口もきけないと思っていたが、開けば口は悪く、横柄な態度の仁に、加耶は拍子抜けした。
「さあ、どちらがいい?まあ断るのであれば、命令通り、処刑を即執行するがな」
妻になれと言うわりには、断れば容赦なく切り捨てようとする男の心理がわからない。
本来なら、すでにここで消えていた命。
助かるかもしれないなど、考えたこともなかった。
先のことはわからないが、選べと言われたのなら、加耶の答えはひとつだった。
「…わかりました。わたし、あなたの妻になります」
加耶の返事に、仁はニヤッと笑ってみせる。
握っていた刀を軽く振るうと、あっという間に加耶を縛っていた召縄が真っ二つに切れた。
「ですが、わたしは知りませんよ。本当に呪いで死ぬようなことになっても――」
「望むところだ。俺をうんと不幸にしてみせろ、“幸喰いの悪女”よ」
仁は、荒々しく片手で加耶の顔を両側からつかんで引き寄せた。
頬が潰され、唇を尖らせた加耶を見て、満足そうに微笑むのだった。
「終わったか?」
その後、意気揚々と進が処刑場へと戻ってきた。
「はい。処刑完了です」
仁はチラリと進に視線を向けると、吸っていたタバコの煙を吐いた。
その煙たさに、進は一瞬顔をしかめる。
「それにしても、あの女の首はどこだ?」
「燃やしました」
「は?燃やしただと!?僕はツラを見にくると言っただろ」
「残っていても邪魔だったので。こられるのが少し遅かったですね」
「…チッ。勝手なことを」
進は仁につかみかかりそうになったが、冷静になって手を下ろした。
「ああ、そこですよ。鏑木殿が今立っているところ。そこに、ついさっきまであの女の死体がありまして――」
「…うわあ!先に言えっ」
情けない声を上げて飛び上がった進は、滲み出た朝をハンカチで拭う。
「ところで、どうしてここだけ床が黒いんだ」
「業火で焼き尽くしたので、石の床まで焦げたのです。血も骨も跡形もなく燃やしましたので、どうぞご安心を」
真っ黒焦げになった床を見て、その火力に進はごくりと唾を飲み込む。
「あの女の成れの果てを見てやりたかったところだが、死んだのならまあいい」
「日の当たる表の舞台でご活躍されているようなあなた方が、興味本位で死体など見るものではございませんよ」
不気味な仁の微笑みに、進は息を呑む。
「まあ、これで清々した。ご苦労だったな」
「いえ。これが仕事ですので」
涼しい顔をして語る仁は、とても人を殺した後とは思えない。
その姿に、進は身震いをした。
処刑場から一切の足音が消えると、仁は隅にある拷問器具に視線を移した。
「もういいぞ」
その言葉に、陰から加耶が恐る恐る顔を出す。
仁は加耶の腕を引くと、軽々と抱きかかえた。
「こんな陰気臭い場所、とっとと出るとするか」
突然のことに戸惑った加耶は頬を赤らめながら、こくんとうなずいた。
外に出るとすでに夜で、看守もやじ馬もだれひとりとしていなかった。
すっかり晴れた空を見上げると、月が顔を出していた。
「処刑場から生きて出た者は、お前が初めてだ」
仁の言葉と目の前に広がる夜の風景に、加耶は生きていることを実感した。
その後、闇夜に紛れて連れてこられたのは、帝都の端に位置する森の中。
木々が鬱蒼と茂り、霧が覆い不気味な雰囲気が漂うが、進んだ先に黒を基調とした立派な屋敷が見えてきた。
「ようこそ、我が黒領家へ」
屋敷を背中に、仁が振り返る。
清家家と同じくらいに広々とした屋敷ではあるが、それにしても人の気配を感じなかった。
「あの、ご家族の方は…?」
「いない。父も母もすでに亡くなっている」
仁は微動だにせずに淡々と語る。
「だが、家族みたいなやつはいる」
「え?」
すると、仁の帰りを見計らったかのように、門がひとりでに開いた。
その奥では、顔の上半分を隠す面をつけた髪の長い女が待っていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
そう言うと、丁寧にお辞儀をした。
「今話していた“家族みたいなやつ”というのがこいつだ」
「はじめまして。黒領家で使用人をしております、千鳥と申します」
面で目元は隠れていて見えないが、千鳥の口元がニッと笑った。
その表情に、加耶は表情を緩ませた。
「ところで、旦那様。この見目麗しい女性はどちらさまですか?」
「名前は加耶。俺の妻だ。さっき娶った」
「なんと!花嫁さまでしたか。これはこれは、よくぞお越しくださいました」
千鳥は加耶の手を握ると、うれしさのあまり上下にブンブンと振った。
「…あのっ。わたしに触れたら呪いが――」
「その心配ない。こいつは人間ではないからな。俺が異能でつくった式神だ。呪いは効かない」
戦闘において、盾や分身としての役割を担う式神であるが、話したり、自らの意思で行動する式神をつくりだすのは難しい。
その形を維持させるだけでも相当な力を使うというのに、それを容易くやってのけてしまう仁の能力に加耶は息を呑んだ。
「あの、黒領さま。どうしてわたしを嫁にされたのか、聞きたいことがたくさんありまして…」
「“仁”でいい。妻なのだからな」
「は、はい」
加耶はぎこちなくうなずく。
「千鳥、先に風呂を沸かしてきてくれるか。この娘、臭くてかなわん」
鼻を摘む仕草をした仁に、加耶は慌てて自分自身を匂った。
それを見て、千鳥がクスクスと笑う。
「かしこまりました。それでは、加耶様はこちらへ」
千鳥に加耶を任せると、仁はひとり、足早に屋敷の中へ入っていった。
「どうぞ、中でお寛ぎください」
「わたしはここで結構です…!汚い身なりなので、お屋敷が汚れてしまいます」
泥だらけの素足に、何日も着用していて汚れた着物のまま屋敷に上がるのには躊躇いが生じた。
それに、さっきの仁の言葉も気にしていた。
「しかし、花嫁さまを外でお待たせさへるわけにもいきません」
「でしたら、お風呂の用意をお手伝いしてもいいですか?」
加耶は、千鳥に屋敷の裏にある風呂の焚口へと連れていってもらった。
そこで慣れた手つきで薪を割ると、木をくべていく。
「お上手ですね」
「実家にいるときは毎日していましたから。これくらいしか、わたしにできることはないんです」
そう言って微笑んでみせる加耶の顔はあまりに切なげで、千鳥は胸がじんと痛んだ。
「これまでの婚約者の方々は皆、風呂の沸かし方も知らないとおっしゃっていましたが、教養ある加耶さまを娶られて、ようやくご主人様も見る目を養われたようで私は安心しました」
「わたしより前に、婚約者の方がいらっしゃったのですか?」
「はい。黒領家は異能家系の名家ですから、縁談のお話はそれなりに。しかし、皆さま数日で出ていかれるか、ご主人様が追い出されました」
それを聞いて、加耶はごくりと唾を飲む。
死ぬよりもマシだとわかってはいるが、とんでもないところへ嫁にきてしまったのではないかと今さら後悔した。
その後、いい湯加減になったのを確認すると、加耶は遠慮がちに風呂へと入った。
一番風呂など初めてで、本当にいいのかと落ち着かない。
だが、久々の風呂は芯まで体が温まり、そんな些細なことに幸せを感じた。
上がって用意された着物に着替え、食卓へと案内されると、並べられた豪勢な食事の数々に目を見張った。
囚われている間、必要最低限の食事しか与えられていなかった。
空腹を感じないときもあったため、それらで十分我慢できたが、久々のまともな食事を前にして、加耶は思わずよだれがこぼれそうになった。
しかも、どれも温かくておいしい。
「…おいしいです。すごく、すごく…」
加耶はぽろぽろと涙を流しながら、ひと口ひと口を噛みしめていた。
「失礼します」
「きたか」
その後、加耶は仁の部屋へと向かった。
仁も軍服姿から、紺青色の着物に着替えていた。
ソファに腰掛けるよう促され、加耶の前に仁も座った。
「薄汚いままでも隠しきれていなかったが、身なりを整えると本当に美しいな。恐ろしいくらいに」
感情のこもっていない瞳にじっと見つめられ、加耶は気まずさで視線をそらした。
「“悪女”と呼ばれつつも、お前を娶りたいと申し出る馬鹿な男共の気もわからなくもない。そうして、これまで夫となった人間とその周辺を呪ってきたというわけか」
加耶はきゅっと唇を結んで黙り込む。
「清家家の清らかな異能は、婚姻関係になれば影響するというが、お前の呪いも同じ条件という認識で間違いないな?」
「おそらくですが。しかし、なぜ仁様はわたしの呪いにこだわるのですか」
「そうだな。契約結婚とはいえ、妻となる加耶には知る権利もあるか」
仁は視線を落とすと、静かに語りだした。
「加耶は、トコヤミというあやかしは知っているな?」
「はい。それはもちろん」
“トコヤミ”とはその名の通り、闇を吸い込んだかのような黒い体をした巨大な蛇のあやかしだ。
大昔、怨露山という北の地方にある大岩に封印されたという言い伝えがあるが、それ以降も十数年に一度、突如として姿を現している。
牙の生えた大きな口であらゆるものを噛みちぎって飲み込み、これまでも大勢の人間が餌食にされた。
トコヤミは自然発生し、十日十夜暴れ回ったのち自然消滅する。
だれにも手が付けられないトコヤミの存在に、その間人々は祈ることしかできない。
しかし、今から七年前、そのトコヤミを斬った者がいた。
その者の活躍により、被害は最小限に食い留められ、國を救った英雄として讃えられた。
「わたしも覚えています。幾人もの異能者が犠牲となったトコヤミを、たったひとりで倒した者がいたと。たしか、最年少で軍隊長になられたお方だったとか」
「そのとき加耶は、十二くらいか?」
「そうです。一夜にして、國がお祭り騒ぎになるほどの出来事でしたから」
「そうだったな、懐かしい。ちなみに、そのトコヤミを倒したかつての英雄というのが、この俺だ」
「えっ…!」
トコヤミを倒した異能者は、当時は一世を風靡した有名人だった。
そんな人物が目の前にいるという事実に驚く加耶。
同時に、脚光を浴びたはずの仁がなぜ現在、國の汚れ仕事を担う陰の軍人となっているのかが疑問だった。
「俺は英雄などではない。今や、ただのバケモノだ」
仁はつぶやくと、右腕の袖をまくり上げた。
その瞬間、何匹もの黒い蝶が舞って飛んだ。
突然現れた多くの蝶にも驚いたが、それよりも仁の右腕を見て、加耶は一瞬息が止まった。
花の蜜を求めるかのように蝶が集まる右腕には、まるで蛇がはうように、黒黒とした紋様が渦巻いていた。
「それは…」
「トコヤミの呪いだ」
心技体に優れた仁は、十八という若さで國の軍隊長を任され、十九のときに出現したトコヤミの討伐を命じられた。
のちに仁の一撃でトコヤミは消滅し、その活躍が讃えられるが、実際無傷では済まなかった。
死闘により体中は傷だらけ。
さらに、右腕に噛みつかれた際に深い傷と呪いを負った。
幸い傷は完治したものの、腕にはトコヤミの呪いを表す呪印がつけられた。
「厄介なもので、トコヤミの呪いのせいで、無性に殺人衝動に駆られるときがある。殺戮を繰り返すあやかしだからな。俺の体を使って、視界に入るものすべてを喰らいたいらしい」
そして数年前、仁は部下の隊員を斬ってしまうという不祥事を起こした。
隊員は命を取り留めたが、トコヤミの呪いを持つ仁の危険性が指摘され、除名処分を下される。
仁はトコヤミを斬った英雄から、そのときに受けた呪いにより表舞台から姿を消し、殺しを専業とする國の汚れ仕事を担う陰の軍人へと成り下がったのだった。
「だが、殺しがある今の仕事になってからは呪いの衝動も落ち着いているんだ。皮肉だろう?」
仁からは、自嘲する乾いた笑い声が漏れる。
「わたしを娶られたのは、清家一族としてその呪いを祓うため…ではないのですよね」
「ああ。むしろ、その逆だ。お前の力で、俺を呪い殺してくれ」
「呪い殺すとは…」
「何度、この体を恨んだか。だが、これもトコヤミの呪いか、俺は自身の体に致命傷を与えることができない。何度も試してはみたんだがな…」
仁がはだけさした胸元には、無数の刀傷があった。
「つまり、自分では死ねない。だから、お前の力が必要なんだ」
仁は、加耶の移す呪いならば死ねるのではと考えていたのだ。
「今さら、それはできないなどとぬかすなよ。妻になると決めて、ここへきたのだから役目は果たしてもらうぞ」
加耶にしてみれば、仁は命の恩人のようなもの。
その仁が「死にたい」と言っている。
加耶の移す呪いによって。
できれば、そんな頼みは聞きたくない。
しかし、それが恩人の唯一の願い――。
「これは契約結婚。難しく考えるな。それにお前の呪いは、俺にとっては“救い”なんだ」
――“救い”
その言葉が妙に加耶の心に響いた。
幸喰いの悪女と呼ばれ、ただただ恐れられてきた自分の力を求める人がいるとは思わなかった。
加耶に羽根ペンを握るよう促す仁は、薄っすらと笑みを浮かべていた。
それを見て、この男はこの世に未練がないのだと確信した。
「本当によろしいのですね…?」
「ああ。俺をトコヤミの呪いから解放してくれ」
仁の揺るがない意思に、加耶もようやく決心する。
そして、すでに仁の名前が記された婚姻状にペン先を向けた。
四度目の婚姻状は、もう見飽きているくらいだ。
氏名の欄に【加耶】――そう書こうとしたとき。
「待て」
なぜか、仁が止めた。
「まさか、そこに自分の名前を素直に書くつもりじゃないだろうな」
「え、そのつもりですが…」
「わかっているのか?“清家加耶”はもうこの世にはいない。死んだ人間の名前を書いてどうする」
それを聞いて、加耶ははっとして一度ペンを引っ込めた。
なにも考えてなかったが、たしかに仁の言うとおりだ。
「では、なんと書けば」
「もうお前は清家加耶ではない。これからは別人として、新しい名前を名乗るといい」
「新しい名前…」
加耶は顎に手を当てて考える。
しかし、今言われたところでまったくなにも浮かんでこない。
そのとき、視界の端にあった生け花の椿の花が、床にぽとりと落ちるのが見えた。
打ち首を連想させる椿は、武士から嫌われている花。
それは、加耶にも当てはまっていた。
「まるで、わたしみたい…」
椿に思いを馳せ、ぽつりとつぶやいた。
「…そうだ。わたしの名前、“椿”はいかがでしょうか」
「椿?」
加耶はゆっくりと歩み寄ると、床に転がる椿の花をやさしく拾い上げる。
「はい。本来ならば、わたしも処刑場にて仁様に首を落とされていましたから」
加耶はニッと笑ってみせる。
「変…でしょうか」
「いや、いい名だと思う。椿は冬の寒さにも負けない強い花だ。お前に似合っている」
こうして加耶は、椿と名を改め、黒領仁の妻として新たな人生を歩むことを誓った。
「契約結婚とはいえ、せっかく夫婦になったんだ。形だけでもいいから、今から祝言を挙げようか」
「もう夜も遅いですが、今からですか?」
「陰の軍人と死んだ女の祝言など、真っ昼間に堂々とできるものでもないだろう」
「たしかに、そうですね」
ふたりは顔を見合わせて笑う。
「千鳥、いるか」
「はい、ここに」
仁の影から、千鳥がぬっと姿を現す。
まだそれに慣れない加耶は、体をビクッとさせて驚く。
「これから祝言を挙げる。花嫁の支度を手伝ってくれ」
「かしこまりました。“椿様”のご準備を整えますので、少々お待ちください」
千鳥は、なにかを探しに部屋を出た。
次に戻ってきたときには、美しい白無垢を抱えていた。
「こちら、いかがでしょうか。椿様の白い肌に、とっても似合うかと思って選んできたのですが」
「なかなかいい代物じゃないか」
白無垢の生地感を確かめる仁の後ろで、加耶は小さく震えていた。
『どうせすぐに必要になるだろう。持っておきなさい』
『鏑木家のように、それでも嫁にほしいと言ってくる家はまだあるだろう。お前は顔だけが取り柄だからな』
あのとき、丞之助から託された白無垢を思い出したら気分が悪くなった。
加耶にとって白無垢は、なにひとつめでたいものでも、喜ばしいものでもない。
純白の心に見せかけて相手を騙し陥れる、禍々しい戦闘服に思えてならなかった。
「白無垢姿の椿様、お美しいこと間違いなしでしょうね」
千鳥のはしゃぎ声が聞こえ、加耶の額から冷や汗が流れ落ちた。
「それでは椿様、さっそくお着替えに参りましょ――」
「ちょっと待て、千鳥」
そのとき、仁が割って入った。
「どうされましたでしょうか」
「白無垢もいいが、椿には“あれ”のほうが似合うんと思うのだが」
「“あれ”?」
首を傾げる千鳥。
すると突然、ポンッと手を打った。
「あ〜!“あれ”ですね。かしこまりました」
なにかを悟ってか、千鳥はそそくさと白無垢を片付ける。
「椿様。お部屋を移動いたしますので、私についてきてください」
「は、はい」
加耶は別室に案内され、そこで新しい衣装を見せられる。
「わあ…、きれい」
それを目にした加耶から、思わず感嘆の声が漏れた。
若月がほのかに闇夜を照らす冬夜。
庭の祠の前で、軍服姿の仁が加耶を待つ。
「お待たせいたしました」
そんな声が聞こえて振り返った仁だったが、くわえていたタバコを無意識に落としていた。
「初めて着させていただいたのですが、どうでしょうか」
恥ずかしそうに顔を赤らめながらやってきたのは、黒無垢姿の加耶。
闇に溶け込みそうな衣装だというのに、加耶の美しさも相まって、その存在感を際立たせていた。
しかも驚いたことに、腰まであった長い黒髪は、肩上でまっすぐに切りそろえられていた。
「髪を切ったのか?もはや別人だな」
「はい。長い髪は清家加耶の自慢でもありましたが、わたしは黒領椿に生まれ変わりましたので必要なくなりました」
にこっと微笑む加耶を見て、仁も安堵の表情を浮かべる。
「それにしても、思いきったな」
「こんなに短いのは人生初めてなので、首がスースーして寒いです」
落ち着きなく首元を触る加耶を見て、仁は笑みを浮かべた。
厚い雲が流れ、若月のわずかな明かりさえも隠してしまい、周囲は沈黙の黒い世界へと変わる。
闇夜の中で、闇を背負う男と闇に生きる女は、夫婦となるため誓いを交わす。
「椿」
仁は加耶の手をやさしく握る。
幸喰いの悪女という噂が流れてからは、だれもその手に触れるものなどいなかった。
加耶自身も呪いを移してはいけないと思い、今もとっさに手を引っ込めようとしたが、仁は絶対に離さなかった。
「恐れなくてもいい。これは俺が望んだ結婚だ。夫として、これからは俺がお前を守ってやる。俺が呪いで死ぬ、そのときまで」
そう言って、静かに跪いた仁は加耶の手の甲にそっとキスを落とした。
加耶は、驚いて目を丸くする。
だが、触れられることもやさしく扱われることも久しかった加耶は、人のあたたかさに自然と涙が込み上げた。
こうして、清家加耶が死んだ夜、黒領椿が誕生した。



