「何度言ったらわかるの!?わたしに関わらないでっ!」
朝、静寂な鏑木家の屋敷に、女の苛立つ声が響く。
その声の主は、加耶。
十日前に鏑木家に嫁いだばかりの花嫁だが、しかめっ面で自室にやってきた使用人たちを突き返す。
「ですが、これまで一度も皆様とお食事をご一緒されていませんし――」
「体調がよくないって言ってるでしょ!わたしのことは放っておいて!」
加耶は使用人に吐き捨てると、ドアをピシャリと閉めた。
そのドアに向かって、使用人たちは睨みつける。
「…なんなの、あの態度」
「嫁入りしたてのときは、しおらしい方かと思っていたけど、これが本性ね」
「ほんとに。いいのは顔だけで、中身は噂どおりの傲慢」
そんな会話がドア越しから聞こえるが、加耶はきゅっと唇を噛んでたえた。
「これでいい…」
ぽつりとつぶやき、ため息をつくと、力なくベッドに倒れ込んだ。
鏑木家は、毎食家族が顔を合わせて食事をすることが決まりとなっているようだが、加耶はいつも拒否している。
気分が優れない、体調がよくないなどとなにかと理由をつけ、呼びにきた使用人をさっきのようにして追い返すのだ。
夫の進含め、鏑木家の家族や使用人からも、自分勝手なとんでもない娘だと思われているのはわかっている。
だが、無性に他人と関わりたくないときがある。
そういうときは、顔つきや口調がまるで別人のように変わっているという自覚はあるのだが、どうしても治せない。
それに、いっしょに朝食をと言われても、今の加耶は空腹を感じない。
むしろ苦しいくらいだ。
しかし、それがなぜなのかは自分でもわからない。
しかも、そういうときにはいつも加耶の目にはあるものが見える。
それは――、“黒い蝶”。
今も、お腹が苦しくてベッドの上でうずくまっている加耶の前を、黒い蝶がヒラヒラと羽ばたいていた。
蝶は優雅に舞いながら、部屋の外へと向かおうとしていた。
…いけない!
加耶は慌てて起き上がると、ドアのわずかな隙間から逃げていこうとする蝶を追った。
蝶といっても、ただの蝶ではない。
幼い頃より加耶の目には見えているが、他人には一切見えないのだ。
それにより、これまで黒い蝶を信じてもらえた試しはないが、加耶はその蝶が“よくないもの”だと感じている。
だから加耶は、黒い蝶を見つければ、なんとかそれを捕まえようと試みるのだった。
「待って…!」
加耶は、ドアを開けて手を伸ばす。
…しかし、そこに蝶の姿はなかった。
代わりに、使用人を後ろに引き連れた藤色の着物を着た小柄な女性が立っていた。
「お義母さまっ…」
加耶は思わず目を見開いた。
まさか、進の母――つまり姑がわざわざ加耶の部屋を訪ねにくるとは思っていなかったのだ。
「あら、加耶さん。体調が優れないと聞いたけれど、走りわれるほどにお元気そうじゃない」
義母は、不敵な笑みを浮かべる。
「あ…。いえ、これは…」
「そんなに調子がよろしいのなら、ぜひ今日はいっしょに朝食をいただきましょうね」
そう言うと、義母は加耶の手を取った。
「…いけません、お義母さま!わたしに触れてはっ――」
「黙らっしゃい!あなたは鏑木家の嫁よ?これまでの家では甘やかされたかもしれないけれど、うちではそうはいきませんからね」
義母は嫌がる加耶の腕を捕まえると、居間へと無理やり連れていった。
夫と呼ぶにはまだ親しくもない進は、加耶にチラリと目を移すと、箸先でつまんだご飯を口へと運ぶ。
その隣にいる鏑木家前当主の進の父は、まるで加耶の存在など見えていないかのように、微動だにせず黙々と食事をする。
「そういえば父さん、例の件はヤツに任せたらいいのかい?」
「そうだな、ワシらが手を下すことではない。陰の軍人の役割だ。だが、扱いには気をつけろ。恐ろしい男だからな」
加耶は尻目に、進と義父は淡々と話をする。
義父の口から出た“陰の軍人”とは、この國の汚れ仕事を請け負う男の異名だ。
異能の才に優れており腕は確かだが、あやかし、人間問わず、斬り殺すことに躊躇いがない冷酷無慈悲の恐ろしい人間だと。
しかし、その存在は詳しくは明かされておらず、國民の間ではまことしやかにささやかれているだけに留まっている。
気まずい空気が流れるこの場に座らされると、加耶の目の前にはすぐさま使用人が朝食を整えた。
煮物、焼き魚、ひじき、ほうれん草のお浸し、味噌汁、白ご飯。
どれも十分すぎるくらいに盛られているが、満腹感に満たされている加耶には見るのもつらい。
「さあ、加耶さん。いただきましょう」
「は…はい。いただきます…」
加耶は震える声で手を合わせる。
しかし、なかなか箸を持つ気にはなれない。
「加耶様、ぜひお味噌汁からどうぞ」
熱いお茶の入った湯飲みを持ってきた使用人に味噌汁を勧められる。
「…お味噌汁?」
「はい。朝食は毎朝、大奥様自らがお作りになられていますが、お味噌汁は朝早くから出汁を丁寧に取っておられるんです」
使用人の説明に、加耶はチラリと義母に目を移す。
「加耶さん、ぜひ召し上がってちょうだい。あなたにも受け継いでもらうべき、鏑木家の味噌汁の味よ」
にこりと微笑んでみせる義母だが、早く口をつけるようにとの圧が込められているように感じた。
加耶はごくりと唾を飲み込む。
食べる気にはなれないが、味噌汁だけなら飲めるかもしれない。
「で…では、お味噌汁から…」
加耶はそっと器に手を伸ばすと、ゆっくりと唇を近づけた。
その瞬間、さっき舞っていたものと同じ黒い蝶が口元へとやってきた。
お椀を支えるのに手が塞がっていた加耶は、蝶を捕まえることができない。
しかし、このまま黙って見過ごすわけにもいかない。
意を決した加耶は、蝶にかじりついた。
加耶の口元でわずかに羽を動かした蝶は力をなくし、煙のようになって消えていった。
ところがそれと同時に、加耶の口内にとてつもない苦味が広がった。
「…ゔっ……!!」
途端に加耶は顔をしかめ、慌てて味噌汁の入ったお椀を置いた。
そのせいで、膳の上に味噌汁が飛び散る。
「もしかして、…今吐き出した?」
「よりにもよって、味噌汁を…!?」
訳を知らない周囲の使用人たちは、加耶の言動に唖然とし、口元に手を添えて声を忍ばせる。
使用人の話し声にはっとした加耶が恐る恐る義母に視線を移すと、目尻をピクピクとさせながら鋭い眼光で睨みつけていた。
「加耶、それはあまりにも母さんに失礼だろ!」
進の怒鳴り声に、加耶はビクッと肩を震わせた。
声量もそうだが、進とはこれまでまともに会話したこともなかったからだ。
「今日だって、加耶といっしょに食事がしたいからって、せっかく部屋まで呼びにいってくれたっていうのに!」
「進さま、弁解させてください。決して、そういうわけでは…」
「いくら口に合わなくたって、さすがにその態度はないだろう」
進は、重いため息を漏らす。
「とにかく加耶さん、座りなさい。出された食事はすべて食べるものよ」
義母はいかにも冷静に振る舞い、低く冷たい声で加耶を制する。
進はあきれ顔で食事を続け、義父は無関心。
疎外感から黙り込むしかない加耶だったが、そのとき食卓の周りを複数の黒い蝶が飛んでいるのが目に入った。
「…だめ」
小さくつぶやく加耶。
しかし、蝶たちは加耶を嘲笑うように、鏑木家の三人の目の前を飛んでまわる。
このまま見て見ぬふりすればいいのだが、加耶にはそれがてきなかった。
なぜなら、黒い蝶に取り憑かれた人々の成れの果てを知っているからだ。
居ても立ってもいられない加耶は、進の前にある食器に止まりそうになった蝶に向かって、目一杯手を伸ばした。
ところが蝶はふわりと舞い上がり、その手をやすやすとかわす。
加耶の腕に振り払われたおかずが食卓の上に飛び散り、食器はけたたましい音を立てて床に落ちて割れた。
「な、何事!?」
「加耶、いったいどうしたというんだ…!」
突然の加耶の奇行に、鏑木家の三人は驚いて席を立つ。
加耶は必死になって蝶を捕まえようとするが、蝶たちが見えない者にとっては理解しがたい行動。
食べるよう強要された加耶が癇癪を起こして、義母の作った朝食を薙ぎ払っているというふうにしか見えないのだ。
一匹、また一匹と、加耶は食事まみれになりながらも蝶を握り潰した。
そのたびに、触覚とは関係のない味覚が苦味で侵される。
そのとき、加耶に感心のなかった義父がとうとう口を開いた。
「いい加減にせんか!!」
義父は後ろから加耶をつかみにかかると、片腕を捕らえて食卓の上に押し倒した。
触れられた瞬間、加耶は自分から漏れ出た黒い蝶が義父に舞っていくのが見えた。
「お義父さま、いけません…!」
加耶は慌てて駆け寄るが、黒い蝶は義父の体の中へと吸収されていった。
「貴様に“父”などと呼ばれとうないわ!出戻りとは聞いてはいたが清家一族ということもあって、しばらくの間は目をつむっていたというのに!だが、こんなことなら――うっ…!」
すると突然、義父が胸を押さえて苦しみだした。
「…父さん!?」
「あなたっ、どうしたの!」
進たちは、呆然と立つ加耶を突き飛ばしていく。
「すぐにお医者さまを呼んで…!」
「父さん、しっかりして!」
義母は泣き叫び、進は気が動転していて、使用人たちは慌てふためく。
加耶さえいなければ、いつもと同じ静かな朝食の時間だったはずが、途端に混沌と化す。
その後、連れてこられた医者の処置により、義父は一命を取り留めた。
加耶は医者の診察が終わるまで、部屋の外で待っていた。
しばらくすると、部屋から進に寄り添われながら、ふらふらとした足取りで義母が出てきた。
そして加耶を見つけるなり、眉間に何本ものシワを寄せた般若の形相に変わる。
「あんたのせいよ!」
ズンズンと歩み寄ってきた義母が、加耶の胸ぐらをつかんで大きく揺さぶり発狂する。
「あんた、なにかしたんでしょ!?これまで健康だったあの人が、急に病気だなんて!」
「…わたしはなにもしていません」
「あー…、その顔が忌々しい!それだけじゃないわ!あんたが嫁にきてからのこの十日の間に、専属運転手が事故にあい、愛犬は急死。どう考えてもおかしいじゃない!」
鏑木家は加耶を嫁に迎えてから、不幸が立て続けに起こっていた。
「あんた、本当に清家一族の娘!?呪いを祓うどころか、まき散らしてるんじゃないの!?」
罵声を浴びせられるが、加耶はぐっと我慢する。
あらゆる呪いを祓う清き異能家系・清家一族本家の長女でありながら、むしろ自分が呪いの根源ではないかと思うことはこれまでに多々あったからだ。
加耶には、返す言葉も見つからない。
「ちょっと母さん、落ち着いてっ」
喚き散らす義母とそれをなだめる進に震えながら頭を下げると、加耶は逃げるように自室へとこもった。
その夜。
静まり返った加耶の部屋に、ドアをノックする音が聞こえた。
「加耶、ちょっといいか」
やってきたのは進だった。
嫁入り直後から部屋にこもりっきりだった加耶は、会話はおろか、顔すらまともに合わせたこともない。
そのため、進とは夫婦でありながら、自室に他人が入ってきたという感覚だ。
「あの…、お義父さまのご容体は…」
「ああ、ひとまず安定した。それよりも、今朝、母さんがひどいことを言ってすまなかった」
「いえ…」
「清家家の君に対して、呪いをまき散らしてるんじゃないかなんて。そんなこと、あるはずないのに」
そう言ってみせる進の背後に、黒い蝶が舞っているのが見えた加耶は顔を青ざめさせた。
「進さま…、今すぐこの部屋から出ていってください」
「は?どうして?僕は君を慰めにきてやったというのに」
「…お願いですから。でないと、お義父さまのように蝶がっ…」
「蝶?」
進はぽかんとして首を傾げる。
このままでは、進もあの蝶によって義父のようになってしまう。
そう思い忠告したが、進が理解できるはずもない。
「そんな冷たいことを言うな。そうして加耶をひとりにして、寂しい思いをさせてしまったと反省しているんだから」
進はそっと加耶に近づくと、背中に手を伸ばし、もう片方の手でそっと顎を持ち上げた。
思いもよらない展開に、まだ幼い加耶は一瞬思考が停止して固まった。
だが、ゆっくりと近づく進の顔の真横で羽ばたく黒い蝶の姿に目を見開いた。
「…だめっ!!」
加耶が力いっぱい突き飛ばしたおかげで、進は黒い蝶から逃れた。
しかし、バランスを崩し、棚の角に頭を打ちつけてしまった。
「ぐあっ…」
一瞬うめき声を上げた進は後頭部に手を添え、床の上でうずくまって苦しむ。
「…進さま!」
加耶は慌てて駆け寄るが、進の頭からは血が流れていた。
思わず息を呑み、体が硬直した。
床にポタポタと滴る血を見て、ようやく気づいた進が血走った目で加耶を睨みつける。
「お前ぇぇえ!!今、僕を殺そうとしたな!?」
「ちっ…、違います!」
加耶は否定するも、進につかみかかられる。
その直後、物音に気づいて駆けつけた使用人たちによって引き離され、進は病院へ――。
「あんた、進にまで危害を加えようとしたの!?なんの恨みがあるっていうのよ!まさか、この鏑木家を乗っ取ろうと…」
「そんなはずありません…!」
「とにかく、今すぐ出ていきなさい!…このっ、悪女め!!二度とうちに近づくな!」
義母は罵声を浴びせると、思いきり加耶を引っ叩いた。
加耶は夜更けにもかかわらず、赤く腫らした頬のまま、鏑木家を追い出されたのだった。
行くところなどない加耶は実家に戻るしかなく、休み休みで一晩中歩き続けた。
そして、東の山から朝日がすべて顔を出した頃、なんとか清家家へとたどり着いた。
加耶は屋敷の前までやってくると、門の手前で足を止める。
結婚相手の家を追い出されたのは、これで三度目。
しかも今回は、嫁ぎにいってまだ十日しかたっていない。
果たして、足を踏み入れてよいのかどうかと葛藤していた。
「あれ〜?あそこにいるのって、もしかしてお姉さま?」
そんな声が聞こえて加耶が顔を上げると、柔らかい栗色の髪をなびかせた小柄な少女が縁側から顔を覗かせているのが見えた。
加耶の三つ下の妹・芙未だ。
「お父さま〜、お兄さま〜!なんかお姉さまが帰ってきたわよ〜」
芙未が屋敷の中へと消えていってしばらくしたあと、玄関の戸が開いた。
黒の紋付袴姿で現れたのは、この清家一族の当主で加耶たちの父・丞之助だ。
「お父さま…」
合わせる顔がない加耶は表情を強張らせ、とっさに目をそらした。
「事情は知っている。すでに、離縁状も届いているぞ」
どうやら、異能により鏑木家から離縁状が同封された文が先に届いていたようだ。
低く重くのしかかる声に、加耶は肩をすくめた。
「ひとまず、ワシの部屋にきなさい」
それだけ言うと、丞之助は背を向けた。
加耶はごくりと唾を飲み込み、門かぶり松をくぐって久しぶりに実家の敷居を跨いだのだった。
高い塀で囲まれた清家家の敷地内には、庭師により手入れが行き届いた広々とした庭が続いている。
鹿威しの音が規則的に響く池では、色とりどりの錦鯉が悠然と泳ぐ。
その自慢の庭の中央に、清家一族の本家のみが代々住まう屋敷が構えている。
清家一族は結界術の異能を得意とし、またこの國で唯一、“呪い”を祓える異能家系として知られている。
異能――それは、國にはびこるあやかしを滅することができる特別な力で、あやかしから人々を守る異能者たちは、庶民の憧れの的だ。
その異能の血を絶やさぬように、異能家系同士で婚姻を結ぶのが慣わしであり、そうしてこの國は、長きにわたりあやかしと渡り合ってきた。
しかし、人々が真に恐れるものは、あやかしではない。
“呪い”だ。
呪いとは、人の負の感情が澱のように滲み出たものだといわれている。
取り憑かれれば、災いをもたらすとされ、最悪の場合、原因不明の病や不慮の事故に見舞われ死に至る。
さらに呪いが厄介なのは、あやかしと違って目に見えないという点だ。
呪いも異能により滅することは可能だが、可視できない以上、どこにいるのか、どこからやってくるのかもわからない。
そのため人々は、不吉な出来事が起これば「呪いのせいだ」と怯え、見えぬ恐怖に脅かされながら暮らしていた。
そんな呪いを祓える異能を持つのが、清家一族である。
清家の者にも呪いそのものは見えないのだが、その血筋に宿る清らかな異能は呪いを寄せつけず、現にこれまで清家一族に災いが起こった試しは一度もない。
ゆえに、清家の人間がひとりでも嫁げば、その家は呪い知らずで将来安泰だといわれ、本家分家を問わず、清家一族には数多の縁談が寄せられた。
とりわけ、人々の恨みや妬みを招きやすい富や名声がある家ほど、呪い除けとして清家の娘を欲し、多額の結納金を積んだ。
そうして清家一族は、諸家との繋がりと莫大な財を得ることで、この國でも指折りの名家へと成り上がり、今に至る。
もちろん、加耶も年頃にもなれば縁談が舞い込み、十七歳で嫁入りした。
清家一族――しかも本家の娘が嫁にきたと、当初はたいそう歓迎された。
しかし、加耶が嫁入りしてから徐々に不吉なことが起こりはじめる。
世話役たちが次々と体調を崩し、順調だった家の事業も失敗。
さらには結婚相手が事故にあい、一時は生死をさまようなど、明らかに呪いを疑わざるをえない出来事が続いた。
また、加耶の素行があまりにも悪く、わずか半年で離縁されたのだった。
出戻りの身とはいえ、加耶の美しさは群を抜いており、離縁の噂を知らぬ家々からは、早々に嫁に望む声が上がった。
ところが、次の嫁ぎ先でも同様の理由で三ヶ月たらずで離縁。
三度目の結婚となる鏑木家では、十日という早さで追い出されたのだ。
帰ってきてすぐ部屋に呼ばれた加耶は、緊張の面持ちで丞之助の前に正座する。
加耶の後ろでは、兄の慶一が退屈そうな顔を浮かべ、妹の芙未はのんきにあくびをしている。
「十日で出戻りだなんて、最短記録更新ね」
「本当に。せっかく嫁入りしたのだから、もう少しうまく立ち回れないものなのか」
「アタシは、お姉さまみたいにならないように気をつけないと」
「芙未は加耶と違って、能力も愛嬌もあるから大丈夫だよ」
芙未と慶一は血の繋がった本当の兄妹だというのに、加耶を嘲笑い罵る。
三つ上の兄・慶一は、男にしては白く美しい顔立ちをしていて母親似ではあるが、考え方は一族第一主義の父親にどっぷりと染まっていた。
初めこそ分け隔てなくふたりの妹をかわいがっていたが、自身が優秀な異能者であるがゆえ、加耶が清家一族として最低限の結界術も扱えないとわかった途端、態度が一変した。
芙未も異能力に恵まれていて、慶一は自分が教える異能を次々と習得する芙未がかわいくて仕方がなかった。
十六歳の芙未にも、すでに多くの縁談が持ちかけられており、その異能力も認められ、だれもが羨む有名な異能家系からもぜひうちの嫁にとの申し出があった。
一方、加耶を欲する嫁ぎ先は、清家一族特有の漏れ出る清らかな異能を必要としているだけで、加耶自身の異能力の高さまでは求めていない。
しかし、異能家系で異能が使えないという話は聞いたことがなく、それだけで加耶は、清家一族の中では“恥”と虐げられてきた。
幼少期から「いいのは顔だけ」と言われ、芙未と能力を比較されて育ってきたが、三度も出戻りしたということもあり、実家とはいえ、さらに肩身が狭い思いに苛まれていた。
そうして、丞之助の第一声を怯えながら待っていると――。
「疲れただろう。今日はゆっくりするといい」
思ってもみなかった言葉に、加耶はきょとんとして顔を上げた。
同時に、あたたかい言葉に涙がこみ上げた。
「お父さま…、ありがとうございます」
「構わん、構わん。お前は大事な娘だからな」
丞之助は励ますように、加耶の肩をたたく。
そして、おもむろに部屋の隅にある棚に向かったかと思えば、なにかを取り出して戻ってきた。
「先にこれを預けておこう」
丞之助から、大きく平たい箱を押し付けられる。
「これは?」
「見たらわかる」
そう言われ確認してみた加耶だったが、中にあったものを見た瞬間、体が硬直した。
それは、真新しい白無垢だった。
「どうせすぐに必要になるだろう。持っておきなさい」
「で…ですが、次はもう難しいのでは。三度も出戻りともなれば、さすがにもらい手なんて――」
「鏑木家のように、それでも嫁にほしいと言ってくる家はまだあるだろう。お前は顔だけが取り柄だからな。それに加えて、呪い祓いの清家一族の血もあるんだ」
「あの、お父さま。そのことなのですが…」
そこで加耶は、清家一族の娘でありながら、嫁いだ先で不吉な出来事が連続していることを伝えた。
今の自分が嫁に行ったところで、またその家で迷惑をかけてしまうのではないかと危惧していた。
そうして不安がる加耶に、丞之助は衝撃的なひと言を放った。
「不吉なこと?そんなもの、とうにわかっておる」
「え…」
「だから、お前を嫁がせているのであろう」
加耶は一瞬、丞之助の言っていることが理解できなかった。
自分は呪い祓いのために必要とされ、縁談を受け入れていると思っていた。
それが、不吉なことが起こるとわかっていて、あえて嫁がせるとはいったい――。
「加耶、さすがに自身でもわかっているだろう。お前は呪いを祓える存在ではない。夫となった者とその周辺に呪いを移す存在なんだ」
その瞬間、加耶は心臓をひと突きにされたような衝撃が走った。
視界がぐにゃりと歪み、めまいもする。
「お前の役目は嫁ぎ先で呪いを移し、内部から徐々に衰退させること」
丞之助の不敵な笑みは、背筋に悪寒が走るほどに不気味なものだった。
「これまで嫁いだ三軒は、清家一族にとって利にもなるが、場合によっては障りになりうる家々を選んできた」
初めて聞かされた嫁入りの本当の目的。
清家一族のひとりとして、呪いから家々を救いたい。
その思いで十七で嫁ぎ、離婚歴がついてからも、出戻り娘を受け入れてくれる新たな嫁ぎ先にありがたみを感じ、毎回その家に骨を埋める覚悟でいた加耶だったが――。
「例えば鏑木家なら、前当主は若い頃“鬼人”と呼ばれた軍人だ。少しでも國に害あると見なせば、問答無用で斬り捨てる頭の固い男だ」
それを聞いて、加耶は鏑木家での出来事を思い出す。
今は代議士として名の知れた進の父だが、昔は厳格な軍人だったと使用人たちが話していたのだ。
「政界の重鎮のため発言力は大きく、縁を結べば利となることも多い。だがその分、万が一にでも敵に回せば厄介な存在だ」
だから、清家一族の娘として嫁がせ、うわべ上は良縁を築きつつ、裏では鏑木が衰えるならそれもまた良しと考えていた。
「結果として、お前はよくやってくれた。どうやら、前当主が急な病で倒れたようだな。あの歳で呪いに取り憑かれたのなら、死ぬのも時間の問題か」
「お父さま、なんてことを…。仮にも、結納を交わした間柄だというのに」
加耶は小さく震えた。
『互いの一族繁栄のため、末永くよろしくお願いいたします』
結納時、丞之助は進の父と固い握手を交わしていた。
しかし、それらはすべて演技で、腹の底では鏑木家の衰亡を望んでいたのだった。
「幼いお前が『黒い蝶が見える』と言い出したときは、なにを言っているんだかと相手にはしなかったが。それは、今でも見えるのか?」
「は、はい…」
「だったら、嫁ぎ先でも見えたのではないか?」
「そうですが…」
「決まりだな。お前がいう“黒い蝶”は、おそらくは呪いが具現化したものだ。信じがたいが、お前は呪いを可視できる力がある」
黒い蝶が“呪い”。
そう言わると、これまでの不吉なことが起こる前兆として、黒い蝶が見えたことにも説明がいく。
進の父も、黒い蝶が体に吸収されたとたん苦しみだしたのだから。
「ですが、わたしが呪いを移す存在であれば、身近にいたお父さまやお兄さま、芙未たちはすでに呪いに――」
「なにを言っている。我らは、呪い祓いの清家家。この國で唯一、呪いとは無縁の清らかな一族だ。お前の呪いなど、効くはずないだろう」
加耶は愕然とした。
自分たちは呪いにかからないのをいいことに、加耶の異変に気づきながらもこれまで隠し通していた。
「もうおやめください、お父さま。無関係な他の家に危害を加えるだなんて」
「それは、お前の嫁ぎ先のみだ。他とは、固い良縁を結んでいる」
「…わたしはもう嫁ぎません。清家家にいれば、わたしの呪いは意味をなしません。ですから、これからはずっとここに――」
「なにをバカなことを言っておる!この屋敷に住みつくのなら、もらい手が完全になくなってからにしろ!まだ若いお前を使わんでどうする!」
――“使う”。
加耶は、自分が物扱いをされていたことを知った。
「それに、ワシに対する恩を忘れたか!?“母親殺し”のお前をこの家に置き、今までずっと育ててやったというのに」
加耶は、えぐられたように胸がズキンと痛んだ。
「お前、世間から密かになんと呼ばれているか知っているか?」
丞之助の問いに、加耶は力なく顔を上げる。
「“幸喰いの悪女”だそうだ」
それを聞いた芙未と慶一は冷笑する。
「プププッ。お姉さまにピッタリの名前ね」
「現に、呪いを移し幸せを喰らっているから間違いではないな」
加耶はきゅっと唇を噛む。
『とにかく、今すぐ出ていきなさい!…このっ、悪女め!!二度とうちに近づくな!』
鏑木家を追い出されたときにも、“悪女”と言われたのを思い出す。
「幼い頃に、実の母を殺しているんだ。今に始まったことではない。そのときから、お前は“悪女”だ」
突き放すような丞之助の言葉に、加耶は目の前が真っ暗になった。
結界術が使えない代わりに、加耶なりに異能の勉強をしたり、使用人の手伝いもして家族の助けとなってきたつもりだった。
母親を殺した罪は消えるものではなく、その償いとして父親の言いつけを守り、兄妹の虐げにも耐えてきた。
それでなんとか家族と認めてもらおうと励んでいたが、そもそも丞之助たちは、加耶をずっと昔から“悪女”としてしか見ていなかったのだった。
「次の嫁ぎ先が決まったら報告する」
丞之助はそれだけ言うと、加耶を部屋から追い出した。
白無垢が入った箱を持たせて。
それから数日後、事態は一変する。
「お待ちください!何事ですか!」
朝早く、使用人たちの騒ぎ声が聞こえた。
朝の身支度をしていた加耶が部屋から出ると、玄関先に大勢の軍人がなだれ込んできたのが見えた。
「清家家当主、丞之助殿はどちらにいらっしゃるだろうか」
「旦那様でしたら、自室にいらっしゃいますが」
どうやら、丞之助を探しているようだ。
使用人により、玄関先で足止めはされてはいるが、軍人たちが屋敷に直接やってくるとはただ事ではない。
「軍人の皆さまが、我が屋敷になんのご用でしょうか」
使用人に呼ばれて丞之助が現れ、その後ろに慶一と芙未もついていく。
それを見て、加耶も慌てて芙未のあとに続いた。
「清家丞之助殿。お話をお伺いしたいため、我々と共に同行していただきたい」
「同行?なぜでしょうか」
隊長と思しき男性に、丞之助は毅然とした態度で応対する。
「あなた方一族は、この國に危機を及ぼす存在なのではという判断を帝が下されました。その取り調べのため、連行するよう命が下ったのです」
「帝が?なにかの間違いだろう」
驚く丞之助に、軍隊長が説明をする。
数日前、重体だった鏑木家前当主・進の父が意識を取り戻した。
そして、自らに起こったことから、清家家が一族ぐるみでなにか絡んでいるのでは告発したのだ。
進の父は代議士としても有名ではあるが、同時にかつては帝の命もお守りしてきた名高い元軍人として、この國に与える影響力も大きい。
軍を動かすことも容易く、加耶がこれまでに嫁いだ家も調べさせたところ、同様の事案が発生していたこともわかった。
「その結果、清家加耶は呪いを移す異能を持っているではないかという結論に至りました」
――ついに知られてしまった。
いや、これだけ被害が出ていたら当たり前か。
加耶は観念してごくりと唾を飲む。
「この國を呪いから祓い救ってきた清家一族が、実は呪いを移すなどあってはならないこと。事実が確認できるまでは、一族全員――」
「…なんてことだ」
そのとき、突然丞之助が膝から崩れ落ちた。
直後、血走らせた目で加耶をキッと睨みつけた。
「加耶、お前!!父親であるワシを騙していたのか!」
そうして、慶一と芙未の後ろに佇んでいた加耶の胸ぐらを荒々しくつかんで壁に叩きつけた。
「お…お父さま、苦しっ…」
絞め殺しそうな勢いに、さすがの軍人たちも慌てて止めに入る。
加耶から引き離された丞之助は力なくうつむく。
「…申し訳ございません。今の話を聞いて確信が持てました」
そして、目元を潤ませながら、ゆっくりと加耶を指さす。
「我が娘…加耶は、呪いを移す力を持っています」
その瞬間、周りにいた使用人たちは一斉に加耶から距離を取った。
「丞之助殿、確信が持てたとはどういうことだろうか」
「加耶は清家一族でありながら、結界術も使えない他とは違う子でした。なにかあるのではと加耶には問い続けていましたが、『なにもない』との一点張りで。それが…、まさか呪いを移していただなんて…初耳です」
丞之助は力なくへたり込み、涙ながらに語る。
「つまり、清家加耶は呪いを移す自覚がありながら、あなた方家族にも隠していたと?」
「…そうです。我々清家一族は呪い知らず。自身が加耶の呪いにかかることはないですから…気づくことができず本当に情けない」
ぽつりぽつりと語る丞之助の姿を見て、加耶は胸の奥から黒い感情が込み上げてくるのがわかった。
「嘘よ…」
小さくつぶやく。
『お前は呪いを祓える存在ではない。夫となった者とその周辺に呪いを移す存在なんだ』
『お前の役目は嫁ぎ先で呪いを移し、内部から徐々に衰退させること』
丞之助は、ずっと前から知っていたというのに。
「父が言っていることはすべて嘘です!!わたしは正直に話しました…!そうしたら、父は――」
そのとき、慶一によって後ろから手で口を封じられた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございません。加耶は、昔から虚言が多い妹だとは思っていましたが、まさかそんな重要な事実を隠していただなんて…」
「お姉さま、これ以上嘘をつくのはやめて…!軍の皆さま、父は無実です。アタシたち清家一族は、お姉さまに騙されていたんです…!」
慶一は淡々と話しながら加耶の口を縛る異能をかけ、芙未は軍人たちに泣いてすがりつく。
「まさか、一族全員を欺いていたとは…。清家加耶、なんという悪女だ」
そうして家族から裏切られた加耶は、軍によってひとり連行されたのだった。
その後、【清き一族、清家家から生まれた呪いの悪女】という見出しの新聞で、加耶の名前は大々的に國中に知れ渡ることとなった。
これまでの嫁ぎ先や関わった人々からの被害報告で、加耶は呪いを移し滅びを招く存在として危険視されるように。
清家一族は、幸喰いの悪女の呪いでさえも効かないと改めてその力が認められ、以前よりも繋がりを持とうとする家々が増えた。
さらに繁栄した清家家とは反対に、加耶は絶望の底にいた。
なぜなら、加耶はこの國をも衰退させうる存在として、極刑が下されたのだ。
加耶の処刑当日。
処刑場付近には、大雨にもかかわらず多くのやじ馬が集まっていた。
「幸喰いの悪女め!」
「とっとと消えろー!」
召縄で腕を縛られ、抵抗できない加耶に向かって民衆たちは次々と石を投げる。
石の雨を注がれる加耶が連れてこられたのは、有刺鉄線に囲まれた地面にぽっかりと口を開けた四角い穴。
恐る恐る覗き込むと、まるで地獄へと繋がっているかのように、先も見えない地下へと続く階段が伸びていた。
「この下が処刑場だ。お前は、もう二度と地上に上がってくることない。最期に外の景色を目に焼き付けておけ」
冷たく看守が語りかけ、加耶はチラリと振り返る。
皆が皆、加耶を親の仇のごとく睨みつけている。
これが最期に見る景色かと、加耶は力なく息をついた。
「おーおー、これはいい眺めだな」
そんな声が聞こえて加耶が顔を上げると、そこにいたのは軍に付き添われた進だった。
「進さま…、どうしてここへ」
「悪女の最期を見にきたんだ」
「…そうですか。頭のケガ、治ったんですね。よかったです」
「今さら気遣うフリなどいらぬ。命乞いのつもりか」
進は加耶の背中を蹴り飛ばし、階段へと追いやる。
繋がれたまま階段を下りていくと、徐々にむわっとした湿気がまとわりつき、妙な生臭さが鼻をついた。
死刑囚が処刑される場であるから、血や死臭がこべりついているのだろうか。
この世とは思えぬ地下処刑場には、小さなオレンジ色のランプの下に、人の丈ほどある長い刀を背中に斜めがけした男が佇んでいた。
「あいつが処刑執行人だ」
ゆっくりと振り返った男と目が合った。
感情が見られない闇に染まった無の瞳に、加耶はじわじわと恐怖に絡め取られた。
時間が止まったように男から目を離せずにいた。
「…陰の軍人、黒領仁。相変わらず、不気味な男だ」
進がつぶやいた言葉を聞いて、加耶ははっとして目を見開いた。
陰の軍人が本当に実在したことへの驚きと、一瞬息を呑むほどに美しい顔立ちは、とても人を殺すようは人間には見えない。
加耶は仁の前へと連れていかれ、その場で跪かされる。
「早く、そいつの首を落としてくれ。我が父と僕を殺そうとしたとんでもない悪女だ」
「言われなくともそうします。しかし、鏑木殿のその素敵なお召し物がこの女の血しぶきで汚れますが、よろしいでしょうか」
「…なっ。こんな汚らわしい女の血がかかってたまるか!終わったら、そいつのツラを見にくる。あとは頼んだぞ」
そう言って、進は看守と共に外へと出ていった。
ふたりだけになると、仁は静かに背中から刀を引き抜いた。
極刑が下されてから今日に至るまで、数週間の時間はあった。
生きることを諦め、死への心づもりはしていたつもりだが、いざ死を目の前にすると恐怖で体が意に反して震えた。
「お前が、“幸喰いの悪女”だな。命により、斬首刑に処す」
処刑場に響く仁の冷え切った声。
加耶は涙こぼしながら、ぎゅっと目をつむった。
その瞬間、これまでの日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
やさしかった母に、たくさん遊んでもらった幼少期時代。
しかし、徐々に家族に虐げられ、裏切られたあの日――。
「お母さま、わたしもそちらへ行ってもいいですか…?」
最期に小さくつぶやいた。
仁はゆっくりと刀を掲げると、加耶の首に狙いを定めた。
死というものは、想像していたよりもあっという間に訪れた。
痛みを感じる暇もないほどに。
――ふと加耶は目を開けた。
ところが、最期に目をつむったときと同じ、冷たい石の床のままの視界に驚いて顔を上げた。
死を覚悟したというのに、一向に仁の刀が降ってこない。
「お前、結婚相手に呪いを移すらしいな」
すると、目の前に跪いた仁が加耶の顎をそっと持ち上げた。
「その力、おもしろい。こんなところで死ぬなんてもったいない。お前、俺の妻になれ」
朝、静寂な鏑木家の屋敷に、女の苛立つ声が響く。
その声の主は、加耶。
十日前に鏑木家に嫁いだばかりの花嫁だが、しかめっ面で自室にやってきた使用人たちを突き返す。
「ですが、これまで一度も皆様とお食事をご一緒されていませんし――」
「体調がよくないって言ってるでしょ!わたしのことは放っておいて!」
加耶は使用人に吐き捨てると、ドアをピシャリと閉めた。
そのドアに向かって、使用人たちは睨みつける。
「…なんなの、あの態度」
「嫁入りしたてのときは、しおらしい方かと思っていたけど、これが本性ね」
「ほんとに。いいのは顔だけで、中身は噂どおりの傲慢」
そんな会話がドア越しから聞こえるが、加耶はきゅっと唇を噛んでたえた。
「これでいい…」
ぽつりとつぶやき、ため息をつくと、力なくベッドに倒れ込んだ。
鏑木家は、毎食家族が顔を合わせて食事をすることが決まりとなっているようだが、加耶はいつも拒否している。
気分が優れない、体調がよくないなどとなにかと理由をつけ、呼びにきた使用人をさっきのようにして追い返すのだ。
夫の進含め、鏑木家の家族や使用人からも、自分勝手なとんでもない娘だと思われているのはわかっている。
だが、無性に他人と関わりたくないときがある。
そういうときは、顔つきや口調がまるで別人のように変わっているという自覚はあるのだが、どうしても治せない。
それに、いっしょに朝食をと言われても、今の加耶は空腹を感じない。
むしろ苦しいくらいだ。
しかし、それがなぜなのかは自分でもわからない。
しかも、そういうときにはいつも加耶の目にはあるものが見える。
それは――、“黒い蝶”。
今も、お腹が苦しくてベッドの上でうずくまっている加耶の前を、黒い蝶がヒラヒラと羽ばたいていた。
蝶は優雅に舞いながら、部屋の外へと向かおうとしていた。
…いけない!
加耶は慌てて起き上がると、ドアのわずかな隙間から逃げていこうとする蝶を追った。
蝶といっても、ただの蝶ではない。
幼い頃より加耶の目には見えているが、他人には一切見えないのだ。
それにより、これまで黒い蝶を信じてもらえた試しはないが、加耶はその蝶が“よくないもの”だと感じている。
だから加耶は、黒い蝶を見つければ、なんとかそれを捕まえようと試みるのだった。
「待って…!」
加耶は、ドアを開けて手を伸ばす。
…しかし、そこに蝶の姿はなかった。
代わりに、使用人を後ろに引き連れた藤色の着物を着た小柄な女性が立っていた。
「お義母さまっ…」
加耶は思わず目を見開いた。
まさか、進の母――つまり姑がわざわざ加耶の部屋を訪ねにくるとは思っていなかったのだ。
「あら、加耶さん。体調が優れないと聞いたけれど、走りわれるほどにお元気そうじゃない」
義母は、不敵な笑みを浮かべる。
「あ…。いえ、これは…」
「そんなに調子がよろしいのなら、ぜひ今日はいっしょに朝食をいただきましょうね」
そう言うと、義母は加耶の手を取った。
「…いけません、お義母さま!わたしに触れてはっ――」
「黙らっしゃい!あなたは鏑木家の嫁よ?これまでの家では甘やかされたかもしれないけれど、うちではそうはいきませんからね」
義母は嫌がる加耶の腕を捕まえると、居間へと無理やり連れていった。
夫と呼ぶにはまだ親しくもない進は、加耶にチラリと目を移すと、箸先でつまんだご飯を口へと運ぶ。
その隣にいる鏑木家前当主の進の父は、まるで加耶の存在など見えていないかのように、微動だにせず黙々と食事をする。
「そういえば父さん、例の件はヤツに任せたらいいのかい?」
「そうだな、ワシらが手を下すことではない。陰の軍人の役割だ。だが、扱いには気をつけろ。恐ろしい男だからな」
加耶は尻目に、進と義父は淡々と話をする。
義父の口から出た“陰の軍人”とは、この國の汚れ仕事を請け負う男の異名だ。
異能の才に優れており腕は確かだが、あやかし、人間問わず、斬り殺すことに躊躇いがない冷酷無慈悲の恐ろしい人間だと。
しかし、その存在は詳しくは明かされておらず、國民の間ではまことしやかにささやかれているだけに留まっている。
気まずい空気が流れるこの場に座らされると、加耶の目の前にはすぐさま使用人が朝食を整えた。
煮物、焼き魚、ひじき、ほうれん草のお浸し、味噌汁、白ご飯。
どれも十分すぎるくらいに盛られているが、満腹感に満たされている加耶には見るのもつらい。
「さあ、加耶さん。いただきましょう」
「は…はい。いただきます…」
加耶は震える声で手を合わせる。
しかし、なかなか箸を持つ気にはなれない。
「加耶様、ぜひお味噌汁からどうぞ」
熱いお茶の入った湯飲みを持ってきた使用人に味噌汁を勧められる。
「…お味噌汁?」
「はい。朝食は毎朝、大奥様自らがお作りになられていますが、お味噌汁は朝早くから出汁を丁寧に取っておられるんです」
使用人の説明に、加耶はチラリと義母に目を移す。
「加耶さん、ぜひ召し上がってちょうだい。あなたにも受け継いでもらうべき、鏑木家の味噌汁の味よ」
にこりと微笑んでみせる義母だが、早く口をつけるようにとの圧が込められているように感じた。
加耶はごくりと唾を飲み込む。
食べる気にはなれないが、味噌汁だけなら飲めるかもしれない。
「で…では、お味噌汁から…」
加耶はそっと器に手を伸ばすと、ゆっくりと唇を近づけた。
その瞬間、さっき舞っていたものと同じ黒い蝶が口元へとやってきた。
お椀を支えるのに手が塞がっていた加耶は、蝶を捕まえることができない。
しかし、このまま黙って見過ごすわけにもいかない。
意を決した加耶は、蝶にかじりついた。
加耶の口元でわずかに羽を動かした蝶は力をなくし、煙のようになって消えていった。
ところがそれと同時に、加耶の口内にとてつもない苦味が広がった。
「…ゔっ……!!」
途端に加耶は顔をしかめ、慌てて味噌汁の入ったお椀を置いた。
そのせいで、膳の上に味噌汁が飛び散る。
「もしかして、…今吐き出した?」
「よりにもよって、味噌汁を…!?」
訳を知らない周囲の使用人たちは、加耶の言動に唖然とし、口元に手を添えて声を忍ばせる。
使用人の話し声にはっとした加耶が恐る恐る義母に視線を移すと、目尻をピクピクとさせながら鋭い眼光で睨みつけていた。
「加耶、それはあまりにも母さんに失礼だろ!」
進の怒鳴り声に、加耶はビクッと肩を震わせた。
声量もそうだが、進とはこれまでまともに会話したこともなかったからだ。
「今日だって、加耶といっしょに食事がしたいからって、せっかく部屋まで呼びにいってくれたっていうのに!」
「進さま、弁解させてください。決して、そういうわけでは…」
「いくら口に合わなくたって、さすがにその態度はないだろう」
進は、重いため息を漏らす。
「とにかく加耶さん、座りなさい。出された食事はすべて食べるものよ」
義母はいかにも冷静に振る舞い、低く冷たい声で加耶を制する。
進はあきれ顔で食事を続け、義父は無関心。
疎外感から黙り込むしかない加耶だったが、そのとき食卓の周りを複数の黒い蝶が飛んでいるのが目に入った。
「…だめ」
小さくつぶやく加耶。
しかし、蝶たちは加耶を嘲笑うように、鏑木家の三人の目の前を飛んでまわる。
このまま見て見ぬふりすればいいのだが、加耶にはそれがてきなかった。
なぜなら、黒い蝶に取り憑かれた人々の成れの果てを知っているからだ。
居ても立ってもいられない加耶は、進の前にある食器に止まりそうになった蝶に向かって、目一杯手を伸ばした。
ところが蝶はふわりと舞い上がり、その手をやすやすとかわす。
加耶の腕に振り払われたおかずが食卓の上に飛び散り、食器はけたたましい音を立てて床に落ちて割れた。
「な、何事!?」
「加耶、いったいどうしたというんだ…!」
突然の加耶の奇行に、鏑木家の三人は驚いて席を立つ。
加耶は必死になって蝶を捕まえようとするが、蝶たちが見えない者にとっては理解しがたい行動。
食べるよう強要された加耶が癇癪を起こして、義母の作った朝食を薙ぎ払っているというふうにしか見えないのだ。
一匹、また一匹と、加耶は食事まみれになりながらも蝶を握り潰した。
そのたびに、触覚とは関係のない味覚が苦味で侵される。
そのとき、加耶に感心のなかった義父がとうとう口を開いた。
「いい加減にせんか!!」
義父は後ろから加耶をつかみにかかると、片腕を捕らえて食卓の上に押し倒した。
触れられた瞬間、加耶は自分から漏れ出た黒い蝶が義父に舞っていくのが見えた。
「お義父さま、いけません…!」
加耶は慌てて駆け寄るが、黒い蝶は義父の体の中へと吸収されていった。
「貴様に“父”などと呼ばれとうないわ!出戻りとは聞いてはいたが清家一族ということもあって、しばらくの間は目をつむっていたというのに!だが、こんなことなら――うっ…!」
すると突然、義父が胸を押さえて苦しみだした。
「…父さん!?」
「あなたっ、どうしたの!」
進たちは、呆然と立つ加耶を突き飛ばしていく。
「すぐにお医者さまを呼んで…!」
「父さん、しっかりして!」
義母は泣き叫び、進は気が動転していて、使用人たちは慌てふためく。
加耶さえいなければ、いつもと同じ静かな朝食の時間だったはずが、途端に混沌と化す。
その後、連れてこられた医者の処置により、義父は一命を取り留めた。
加耶は医者の診察が終わるまで、部屋の外で待っていた。
しばらくすると、部屋から進に寄り添われながら、ふらふらとした足取りで義母が出てきた。
そして加耶を見つけるなり、眉間に何本ものシワを寄せた般若の形相に変わる。
「あんたのせいよ!」
ズンズンと歩み寄ってきた義母が、加耶の胸ぐらをつかんで大きく揺さぶり発狂する。
「あんた、なにかしたんでしょ!?これまで健康だったあの人が、急に病気だなんて!」
「…わたしはなにもしていません」
「あー…、その顔が忌々しい!それだけじゃないわ!あんたが嫁にきてからのこの十日の間に、専属運転手が事故にあい、愛犬は急死。どう考えてもおかしいじゃない!」
鏑木家は加耶を嫁に迎えてから、不幸が立て続けに起こっていた。
「あんた、本当に清家一族の娘!?呪いを祓うどころか、まき散らしてるんじゃないの!?」
罵声を浴びせられるが、加耶はぐっと我慢する。
あらゆる呪いを祓う清き異能家系・清家一族本家の長女でありながら、むしろ自分が呪いの根源ではないかと思うことはこれまでに多々あったからだ。
加耶には、返す言葉も見つからない。
「ちょっと母さん、落ち着いてっ」
喚き散らす義母とそれをなだめる進に震えながら頭を下げると、加耶は逃げるように自室へとこもった。
その夜。
静まり返った加耶の部屋に、ドアをノックする音が聞こえた。
「加耶、ちょっといいか」
やってきたのは進だった。
嫁入り直後から部屋にこもりっきりだった加耶は、会話はおろか、顔すらまともに合わせたこともない。
そのため、進とは夫婦でありながら、自室に他人が入ってきたという感覚だ。
「あの…、お義父さまのご容体は…」
「ああ、ひとまず安定した。それよりも、今朝、母さんがひどいことを言ってすまなかった」
「いえ…」
「清家家の君に対して、呪いをまき散らしてるんじゃないかなんて。そんなこと、あるはずないのに」
そう言ってみせる進の背後に、黒い蝶が舞っているのが見えた加耶は顔を青ざめさせた。
「進さま…、今すぐこの部屋から出ていってください」
「は?どうして?僕は君を慰めにきてやったというのに」
「…お願いですから。でないと、お義父さまのように蝶がっ…」
「蝶?」
進はぽかんとして首を傾げる。
このままでは、進もあの蝶によって義父のようになってしまう。
そう思い忠告したが、進が理解できるはずもない。
「そんな冷たいことを言うな。そうして加耶をひとりにして、寂しい思いをさせてしまったと反省しているんだから」
進はそっと加耶に近づくと、背中に手を伸ばし、もう片方の手でそっと顎を持ち上げた。
思いもよらない展開に、まだ幼い加耶は一瞬思考が停止して固まった。
だが、ゆっくりと近づく進の顔の真横で羽ばたく黒い蝶の姿に目を見開いた。
「…だめっ!!」
加耶が力いっぱい突き飛ばしたおかげで、進は黒い蝶から逃れた。
しかし、バランスを崩し、棚の角に頭を打ちつけてしまった。
「ぐあっ…」
一瞬うめき声を上げた進は後頭部に手を添え、床の上でうずくまって苦しむ。
「…進さま!」
加耶は慌てて駆け寄るが、進の頭からは血が流れていた。
思わず息を呑み、体が硬直した。
床にポタポタと滴る血を見て、ようやく気づいた進が血走った目で加耶を睨みつける。
「お前ぇぇえ!!今、僕を殺そうとしたな!?」
「ちっ…、違います!」
加耶は否定するも、進につかみかかられる。
その直後、物音に気づいて駆けつけた使用人たちによって引き離され、進は病院へ――。
「あんた、進にまで危害を加えようとしたの!?なんの恨みがあるっていうのよ!まさか、この鏑木家を乗っ取ろうと…」
「そんなはずありません…!」
「とにかく、今すぐ出ていきなさい!…このっ、悪女め!!二度とうちに近づくな!」
義母は罵声を浴びせると、思いきり加耶を引っ叩いた。
加耶は夜更けにもかかわらず、赤く腫らした頬のまま、鏑木家を追い出されたのだった。
行くところなどない加耶は実家に戻るしかなく、休み休みで一晩中歩き続けた。
そして、東の山から朝日がすべて顔を出した頃、なんとか清家家へとたどり着いた。
加耶は屋敷の前までやってくると、門の手前で足を止める。
結婚相手の家を追い出されたのは、これで三度目。
しかも今回は、嫁ぎにいってまだ十日しかたっていない。
果たして、足を踏み入れてよいのかどうかと葛藤していた。
「あれ〜?あそこにいるのって、もしかしてお姉さま?」
そんな声が聞こえて加耶が顔を上げると、柔らかい栗色の髪をなびかせた小柄な少女が縁側から顔を覗かせているのが見えた。
加耶の三つ下の妹・芙未だ。
「お父さま〜、お兄さま〜!なんかお姉さまが帰ってきたわよ〜」
芙未が屋敷の中へと消えていってしばらくしたあと、玄関の戸が開いた。
黒の紋付袴姿で現れたのは、この清家一族の当主で加耶たちの父・丞之助だ。
「お父さま…」
合わせる顔がない加耶は表情を強張らせ、とっさに目をそらした。
「事情は知っている。すでに、離縁状も届いているぞ」
どうやら、異能により鏑木家から離縁状が同封された文が先に届いていたようだ。
低く重くのしかかる声に、加耶は肩をすくめた。
「ひとまず、ワシの部屋にきなさい」
それだけ言うと、丞之助は背を向けた。
加耶はごくりと唾を飲み込み、門かぶり松をくぐって久しぶりに実家の敷居を跨いだのだった。
高い塀で囲まれた清家家の敷地内には、庭師により手入れが行き届いた広々とした庭が続いている。
鹿威しの音が規則的に響く池では、色とりどりの錦鯉が悠然と泳ぐ。
その自慢の庭の中央に、清家一族の本家のみが代々住まう屋敷が構えている。
清家一族は結界術の異能を得意とし、またこの國で唯一、“呪い”を祓える異能家系として知られている。
異能――それは、國にはびこるあやかしを滅することができる特別な力で、あやかしから人々を守る異能者たちは、庶民の憧れの的だ。
その異能の血を絶やさぬように、異能家系同士で婚姻を結ぶのが慣わしであり、そうしてこの國は、長きにわたりあやかしと渡り合ってきた。
しかし、人々が真に恐れるものは、あやかしではない。
“呪い”だ。
呪いとは、人の負の感情が澱のように滲み出たものだといわれている。
取り憑かれれば、災いをもたらすとされ、最悪の場合、原因不明の病や不慮の事故に見舞われ死に至る。
さらに呪いが厄介なのは、あやかしと違って目に見えないという点だ。
呪いも異能により滅することは可能だが、可視できない以上、どこにいるのか、どこからやってくるのかもわからない。
そのため人々は、不吉な出来事が起これば「呪いのせいだ」と怯え、見えぬ恐怖に脅かされながら暮らしていた。
そんな呪いを祓える異能を持つのが、清家一族である。
清家の者にも呪いそのものは見えないのだが、その血筋に宿る清らかな異能は呪いを寄せつけず、現にこれまで清家一族に災いが起こった試しは一度もない。
ゆえに、清家の人間がひとりでも嫁げば、その家は呪い知らずで将来安泰だといわれ、本家分家を問わず、清家一族には数多の縁談が寄せられた。
とりわけ、人々の恨みや妬みを招きやすい富や名声がある家ほど、呪い除けとして清家の娘を欲し、多額の結納金を積んだ。
そうして清家一族は、諸家との繋がりと莫大な財を得ることで、この國でも指折りの名家へと成り上がり、今に至る。
もちろん、加耶も年頃にもなれば縁談が舞い込み、十七歳で嫁入りした。
清家一族――しかも本家の娘が嫁にきたと、当初はたいそう歓迎された。
しかし、加耶が嫁入りしてから徐々に不吉なことが起こりはじめる。
世話役たちが次々と体調を崩し、順調だった家の事業も失敗。
さらには結婚相手が事故にあい、一時は生死をさまようなど、明らかに呪いを疑わざるをえない出来事が続いた。
また、加耶の素行があまりにも悪く、わずか半年で離縁されたのだった。
出戻りの身とはいえ、加耶の美しさは群を抜いており、離縁の噂を知らぬ家々からは、早々に嫁に望む声が上がった。
ところが、次の嫁ぎ先でも同様の理由で三ヶ月たらずで離縁。
三度目の結婚となる鏑木家では、十日という早さで追い出されたのだ。
帰ってきてすぐ部屋に呼ばれた加耶は、緊張の面持ちで丞之助の前に正座する。
加耶の後ろでは、兄の慶一が退屈そうな顔を浮かべ、妹の芙未はのんきにあくびをしている。
「十日で出戻りだなんて、最短記録更新ね」
「本当に。せっかく嫁入りしたのだから、もう少しうまく立ち回れないものなのか」
「アタシは、お姉さまみたいにならないように気をつけないと」
「芙未は加耶と違って、能力も愛嬌もあるから大丈夫だよ」
芙未と慶一は血の繋がった本当の兄妹だというのに、加耶を嘲笑い罵る。
三つ上の兄・慶一は、男にしては白く美しい顔立ちをしていて母親似ではあるが、考え方は一族第一主義の父親にどっぷりと染まっていた。
初めこそ分け隔てなくふたりの妹をかわいがっていたが、自身が優秀な異能者であるがゆえ、加耶が清家一族として最低限の結界術も扱えないとわかった途端、態度が一変した。
芙未も異能力に恵まれていて、慶一は自分が教える異能を次々と習得する芙未がかわいくて仕方がなかった。
十六歳の芙未にも、すでに多くの縁談が持ちかけられており、その異能力も認められ、だれもが羨む有名な異能家系からもぜひうちの嫁にとの申し出があった。
一方、加耶を欲する嫁ぎ先は、清家一族特有の漏れ出る清らかな異能を必要としているだけで、加耶自身の異能力の高さまでは求めていない。
しかし、異能家系で異能が使えないという話は聞いたことがなく、それだけで加耶は、清家一族の中では“恥”と虐げられてきた。
幼少期から「いいのは顔だけ」と言われ、芙未と能力を比較されて育ってきたが、三度も出戻りしたということもあり、実家とはいえ、さらに肩身が狭い思いに苛まれていた。
そうして、丞之助の第一声を怯えながら待っていると――。
「疲れただろう。今日はゆっくりするといい」
思ってもみなかった言葉に、加耶はきょとんとして顔を上げた。
同時に、あたたかい言葉に涙がこみ上げた。
「お父さま…、ありがとうございます」
「構わん、構わん。お前は大事な娘だからな」
丞之助は励ますように、加耶の肩をたたく。
そして、おもむろに部屋の隅にある棚に向かったかと思えば、なにかを取り出して戻ってきた。
「先にこれを預けておこう」
丞之助から、大きく平たい箱を押し付けられる。
「これは?」
「見たらわかる」
そう言われ確認してみた加耶だったが、中にあったものを見た瞬間、体が硬直した。
それは、真新しい白無垢だった。
「どうせすぐに必要になるだろう。持っておきなさい」
「で…ですが、次はもう難しいのでは。三度も出戻りともなれば、さすがにもらい手なんて――」
「鏑木家のように、それでも嫁にほしいと言ってくる家はまだあるだろう。お前は顔だけが取り柄だからな。それに加えて、呪い祓いの清家一族の血もあるんだ」
「あの、お父さま。そのことなのですが…」
そこで加耶は、清家一族の娘でありながら、嫁いだ先で不吉な出来事が連続していることを伝えた。
今の自分が嫁に行ったところで、またその家で迷惑をかけてしまうのではないかと危惧していた。
そうして不安がる加耶に、丞之助は衝撃的なひと言を放った。
「不吉なこと?そんなもの、とうにわかっておる」
「え…」
「だから、お前を嫁がせているのであろう」
加耶は一瞬、丞之助の言っていることが理解できなかった。
自分は呪い祓いのために必要とされ、縁談を受け入れていると思っていた。
それが、不吉なことが起こるとわかっていて、あえて嫁がせるとはいったい――。
「加耶、さすがに自身でもわかっているだろう。お前は呪いを祓える存在ではない。夫となった者とその周辺に呪いを移す存在なんだ」
その瞬間、加耶は心臓をひと突きにされたような衝撃が走った。
視界がぐにゃりと歪み、めまいもする。
「お前の役目は嫁ぎ先で呪いを移し、内部から徐々に衰退させること」
丞之助の不敵な笑みは、背筋に悪寒が走るほどに不気味なものだった。
「これまで嫁いだ三軒は、清家一族にとって利にもなるが、場合によっては障りになりうる家々を選んできた」
初めて聞かされた嫁入りの本当の目的。
清家一族のひとりとして、呪いから家々を救いたい。
その思いで十七で嫁ぎ、離婚歴がついてからも、出戻り娘を受け入れてくれる新たな嫁ぎ先にありがたみを感じ、毎回その家に骨を埋める覚悟でいた加耶だったが――。
「例えば鏑木家なら、前当主は若い頃“鬼人”と呼ばれた軍人だ。少しでも國に害あると見なせば、問答無用で斬り捨てる頭の固い男だ」
それを聞いて、加耶は鏑木家での出来事を思い出す。
今は代議士として名の知れた進の父だが、昔は厳格な軍人だったと使用人たちが話していたのだ。
「政界の重鎮のため発言力は大きく、縁を結べば利となることも多い。だがその分、万が一にでも敵に回せば厄介な存在だ」
だから、清家一族の娘として嫁がせ、うわべ上は良縁を築きつつ、裏では鏑木が衰えるならそれもまた良しと考えていた。
「結果として、お前はよくやってくれた。どうやら、前当主が急な病で倒れたようだな。あの歳で呪いに取り憑かれたのなら、死ぬのも時間の問題か」
「お父さま、なんてことを…。仮にも、結納を交わした間柄だというのに」
加耶は小さく震えた。
『互いの一族繁栄のため、末永くよろしくお願いいたします』
結納時、丞之助は進の父と固い握手を交わしていた。
しかし、それらはすべて演技で、腹の底では鏑木家の衰亡を望んでいたのだった。
「幼いお前が『黒い蝶が見える』と言い出したときは、なにを言っているんだかと相手にはしなかったが。それは、今でも見えるのか?」
「は、はい…」
「だったら、嫁ぎ先でも見えたのではないか?」
「そうですが…」
「決まりだな。お前がいう“黒い蝶”は、おそらくは呪いが具現化したものだ。信じがたいが、お前は呪いを可視できる力がある」
黒い蝶が“呪い”。
そう言わると、これまでの不吉なことが起こる前兆として、黒い蝶が見えたことにも説明がいく。
進の父も、黒い蝶が体に吸収されたとたん苦しみだしたのだから。
「ですが、わたしが呪いを移す存在であれば、身近にいたお父さまやお兄さま、芙未たちはすでに呪いに――」
「なにを言っている。我らは、呪い祓いの清家家。この國で唯一、呪いとは無縁の清らかな一族だ。お前の呪いなど、効くはずないだろう」
加耶は愕然とした。
自分たちは呪いにかからないのをいいことに、加耶の異変に気づきながらもこれまで隠し通していた。
「もうおやめください、お父さま。無関係な他の家に危害を加えるだなんて」
「それは、お前の嫁ぎ先のみだ。他とは、固い良縁を結んでいる」
「…わたしはもう嫁ぎません。清家家にいれば、わたしの呪いは意味をなしません。ですから、これからはずっとここに――」
「なにをバカなことを言っておる!この屋敷に住みつくのなら、もらい手が完全になくなってからにしろ!まだ若いお前を使わんでどうする!」
――“使う”。
加耶は、自分が物扱いをされていたことを知った。
「それに、ワシに対する恩を忘れたか!?“母親殺し”のお前をこの家に置き、今までずっと育ててやったというのに」
加耶は、えぐられたように胸がズキンと痛んだ。
「お前、世間から密かになんと呼ばれているか知っているか?」
丞之助の問いに、加耶は力なく顔を上げる。
「“幸喰いの悪女”だそうだ」
それを聞いた芙未と慶一は冷笑する。
「プププッ。お姉さまにピッタリの名前ね」
「現に、呪いを移し幸せを喰らっているから間違いではないな」
加耶はきゅっと唇を噛む。
『とにかく、今すぐ出ていきなさい!…このっ、悪女め!!二度とうちに近づくな!』
鏑木家を追い出されたときにも、“悪女”と言われたのを思い出す。
「幼い頃に、実の母を殺しているんだ。今に始まったことではない。そのときから、お前は“悪女”だ」
突き放すような丞之助の言葉に、加耶は目の前が真っ暗になった。
結界術が使えない代わりに、加耶なりに異能の勉強をしたり、使用人の手伝いもして家族の助けとなってきたつもりだった。
母親を殺した罪は消えるものではなく、その償いとして父親の言いつけを守り、兄妹の虐げにも耐えてきた。
それでなんとか家族と認めてもらおうと励んでいたが、そもそも丞之助たちは、加耶をずっと昔から“悪女”としてしか見ていなかったのだった。
「次の嫁ぎ先が決まったら報告する」
丞之助はそれだけ言うと、加耶を部屋から追い出した。
白無垢が入った箱を持たせて。
それから数日後、事態は一変する。
「お待ちください!何事ですか!」
朝早く、使用人たちの騒ぎ声が聞こえた。
朝の身支度をしていた加耶が部屋から出ると、玄関先に大勢の軍人がなだれ込んできたのが見えた。
「清家家当主、丞之助殿はどちらにいらっしゃるだろうか」
「旦那様でしたら、自室にいらっしゃいますが」
どうやら、丞之助を探しているようだ。
使用人により、玄関先で足止めはされてはいるが、軍人たちが屋敷に直接やってくるとはただ事ではない。
「軍人の皆さまが、我が屋敷になんのご用でしょうか」
使用人に呼ばれて丞之助が現れ、その後ろに慶一と芙未もついていく。
それを見て、加耶も慌てて芙未のあとに続いた。
「清家丞之助殿。お話をお伺いしたいため、我々と共に同行していただきたい」
「同行?なぜでしょうか」
隊長と思しき男性に、丞之助は毅然とした態度で応対する。
「あなた方一族は、この國に危機を及ぼす存在なのではという判断を帝が下されました。その取り調べのため、連行するよう命が下ったのです」
「帝が?なにかの間違いだろう」
驚く丞之助に、軍隊長が説明をする。
数日前、重体だった鏑木家前当主・進の父が意識を取り戻した。
そして、自らに起こったことから、清家家が一族ぐるみでなにか絡んでいるのでは告発したのだ。
進の父は代議士としても有名ではあるが、同時にかつては帝の命もお守りしてきた名高い元軍人として、この國に与える影響力も大きい。
軍を動かすことも容易く、加耶がこれまでに嫁いだ家も調べさせたところ、同様の事案が発生していたこともわかった。
「その結果、清家加耶は呪いを移す異能を持っているではないかという結論に至りました」
――ついに知られてしまった。
いや、これだけ被害が出ていたら当たり前か。
加耶は観念してごくりと唾を飲む。
「この國を呪いから祓い救ってきた清家一族が、実は呪いを移すなどあってはならないこと。事実が確認できるまでは、一族全員――」
「…なんてことだ」
そのとき、突然丞之助が膝から崩れ落ちた。
直後、血走らせた目で加耶をキッと睨みつけた。
「加耶、お前!!父親であるワシを騙していたのか!」
そうして、慶一と芙未の後ろに佇んでいた加耶の胸ぐらを荒々しくつかんで壁に叩きつけた。
「お…お父さま、苦しっ…」
絞め殺しそうな勢いに、さすがの軍人たちも慌てて止めに入る。
加耶から引き離された丞之助は力なくうつむく。
「…申し訳ございません。今の話を聞いて確信が持てました」
そして、目元を潤ませながら、ゆっくりと加耶を指さす。
「我が娘…加耶は、呪いを移す力を持っています」
その瞬間、周りにいた使用人たちは一斉に加耶から距離を取った。
「丞之助殿、確信が持てたとはどういうことだろうか」
「加耶は清家一族でありながら、結界術も使えない他とは違う子でした。なにかあるのではと加耶には問い続けていましたが、『なにもない』との一点張りで。それが…、まさか呪いを移していただなんて…初耳です」
丞之助は力なくへたり込み、涙ながらに語る。
「つまり、清家加耶は呪いを移す自覚がありながら、あなた方家族にも隠していたと?」
「…そうです。我々清家一族は呪い知らず。自身が加耶の呪いにかかることはないですから…気づくことができず本当に情けない」
ぽつりぽつりと語る丞之助の姿を見て、加耶は胸の奥から黒い感情が込み上げてくるのがわかった。
「嘘よ…」
小さくつぶやく。
『お前は呪いを祓える存在ではない。夫となった者とその周辺に呪いを移す存在なんだ』
『お前の役目は嫁ぎ先で呪いを移し、内部から徐々に衰退させること』
丞之助は、ずっと前から知っていたというのに。
「父が言っていることはすべて嘘です!!わたしは正直に話しました…!そうしたら、父は――」
そのとき、慶一によって後ろから手で口を封じられた。
「お騒がせしてしまい、申し訳ございません。加耶は、昔から虚言が多い妹だとは思っていましたが、まさかそんな重要な事実を隠していただなんて…」
「お姉さま、これ以上嘘をつくのはやめて…!軍の皆さま、父は無実です。アタシたち清家一族は、お姉さまに騙されていたんです…!」
慶一は淡々と話しながら加耶の口を縛る異能をかけ、芙未は軍人たちに泣いてすがりつく。
「まさか、一族全員を欺いていたとは…。清家加耶、なんという悪女だ」
そうして家族から裏切られた加耶は、軍によってひとり連行されたのだった。
その後、【清き一族、清家家から生まれた呪いの悪女】という見出しの新聞で、加耶の名前は大々的に國中に知れ渡ることとなった。
これまでの嫁ぎ先や関わった人々からの被害報告で、加耶は呪いを移し滅びを招く存在として危険視されるように。
清家一族は、幸喰いの悪女の呪いでさえも効かないと改めてその力が認められ、以前よりも繋がりを持とうとする家々が増えた。
さらに繁栄した清家家とは反対に、加耶は絶望の底にいた。
なぜなら、加耶はこの國をも衰退させうる存在として、極刑が下されたのだ。
加耶の処刑当日。
処刑場付近には、大雨にもかかわらず多くのやじ馬が集まっていた。
「幸喰いの悪女め!」
「とっとと消えろー!」
召縄で腕を縛られ、抵抗できない加耶に向かって民衆たちは次々と石を投げる。
石の雨を注がれる加耶が連れてこられたのは、有刺鉄線に囲まれた地面にぽっかりと口を開けた四角い穴。
恐る恐る覗き込むと、まるで地獄へと繋がっているかのように、先も見えない地下へと続く階段が伸びていた。
「この下が処刑場だ。お前は、もう二度と地上に上がってくることない。最期に外の景色を目に焼き付けておけ」
冷たく看守が語りかけ、加耶はチラリと振り返る。
皆が皆、加耶を親の仇のごとく睨みつけている。
これが最期に見る景色かと、加耶は力なく息をついた。
「おーおー、これはいい眺めだな」
そんな声が聞こえて加耶が顔を上げると、そこにいたのは軍に付き添われた進だった。
「進さま…、どうしてここへ」
「悪女の最期を見にきたんだ」
「…そうですか。頭のケガ、治ったんですね。よかったです」
「今さら気遣うフリなどいらぬ。命乞いのつもりか」
進は加耶の背中を蹴り飛ばし、階段へと追いやる。
繋がれたまま階段を下りていくと、徐々にむわっとした湿気がまとわりつき、妙な生臭さが鼻をついた。
死刑囚が処刑される場であるから、血や死臭がこべりついているのだろうか。
この世とは思えぬ地下処刑場には、小さなオレンジ色のランプの下に、人の丈ほどある長い刀を背中に斜めがけした男が佇んでいた。
「あいつが処刑執行人だ」
ゆっくりと振り返った男と目が合った。
感情が見られない闇に染まった無の瞳に、加耶はじわじわと恐怖に絡め取られた。
時間が止まったように男から目を離せずにいた。
「…陰の軍人、黒領仁。相変わらず、不気味な男だ」
進がつぶやいた言葉を聞いて、加耶ははっとして目を見開いた。
陰の軍人が本当に実在したことへの驚きと、一瞬息を呑むほどに美しい顔立ちは、とても人を殺すようは人間には見えない。
加耶は仁の前へと連れていかれ、その場で跪かされる。
「早く、そいつの首を落としてくれ。我が父と僕を殺そうとしたとんでもない悪女だ」
「言われなくともそうします。しかし、鏑木殿のその素敵なお召し物がこの女の血しぶきで汚れますが、よろしいでしょうか」
「…なっ。こんな汚らわしい女の血がかかってたまるか!終わったら、そいつのツラを見にくる。あとは頼んだぞ」
そう言って、進は看守と共に外へと出ていった。
ふたりだけになると、仁は静かに背中から刀を引き抜いた。
極刑が下されてから今日に至るまで、数週間の時間はあった。
生きることを諦め、死への心づもりはしていたつもりだが、いざ死を目の前にすると恐怖で体が意に反して震えた。
「お前が、“幸喰いの悪女”だな。命により、斬首刑に処す」
処刑場に響く仁の冷え切った声。
加耶は涙こぼしながら、ぎゅっと目をつむった。
その瞬間、これまでの日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
やさしかった母に、たくさん遊んでもらった幼少期時代。
しかし、徐々に家族に虐げられ、裏切られたあの日――。
「お母さま、わたしもそちらへ行ってもいいですか…?」
最期に小さくつぶやいた。
仁はゆっくりと刀を掲げると、加耶の首に狙いを定めた。
死というものは、想像していたよりもあっという間に訪れた。
痛みを感じる暇もないほどに。
――ふと加耶は目を開けた。
ところが、最期に目をつむったときと同じ、冷たい石の床のままの視界に驚いて顔を上げた。
死を覚悟したというのに、一向に仁の刀が降ってこない。
「お前、結婚相手に呪いを移すらしいな」
すると、目の前に跪いた仁が加耶の顎をそっと持ち上げた。
「その力、おもしろい。こんなところで死ぬなんてもったいない。お前、俺の妻になれ」



