殺し屋くんの『普通』の恋。

「これが七つ目だ」
アジトの薄暗い白熱灯の下、朔夜が差し出してきた茶封筒
それを手にする来夢の指先はわずかに震えていた
武者震いではない
ついにここまで辿り着いたという狂おしいほどの歓喜の震えだった
二十歳になったばかりのあの日、来夢は朔夜に命がけのプロポーズをした
「もし僕がその七つすべてを終わらせて生きて戻ってくることができたら僕と結婚してください」と
裏社会しか知らない自分たちが普通の恋人同士のように寄り添い、愛し合うこと
それがどれほど贅沢で身の程知らずな願いであるかは分かっていた
先輩であり、この世界の絶対的な強者である朔夜は来夢の告白に冷酷な試練を課した
「七つの任務を完遂し、俺の前に生きて戻ってこい。そうすればお前の願いを聞き入れよう」と
それから幾度となく死線を潜り抜けてきた
硝煙に燻され、返り血に染まり、何度も自分の命が指の隙間から溢れ落ちそうになる感覚を味わった
それでも来夢が引き金を引き続けられたのはただ一つ、戻るべき場所にあの人が待っていると信じていたからだ
だが封筒を開き、ターゲットの顔写真を見た瞬間、来夢の息が止まった
写真に写っていたのは他でもない――自分たちが属するこの暗殺組織の『首領(ボス)』の姿だった
「……ボス、ですか」
来夢の掠れた声に朔夜は深い夜のような瞳を重苦しく伏せた
「あぁ、上層部の派閥争いに端を発した極秘の抹殺指令だ これが首領の座を狙う幹部連中からのお前への『最終試験』であり、最後の任務だ」
身内のトップを暗殺する
それが成功したとしても組織が来夢を五体満足で生かすはずがない
最初から生還率などゼロの体よく仕組まれた死刑宣告だった
しかし、来夢の唇からは自然と笑みがこぼれた
「いいですよ これを終わらせれば僕は組織の呪縛からも解放される 真っ白になってあなたに愛してもらえる」
「来夢、お前は…!」
朔夜が何かを言いかけたその時、彼のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた
画面を見た朔夜の眉が不快そうに跳ね上がる
通話に出た彼の声は一瞬で冷徹な暗殺者のそれへと切り替わった
「…あぁ、朔夜だ 何? 臨海地区の取引現場でトラブル? 今すぐ俺が行けだと?」
電話の向こうからの命令を聞く朔夜の顔が見る見るうちに険しくなっていく
「待て、その件は別の班が担当しているはずだ なぜ俺が――」
一方的に切られた通話
スマートフォンを睨みつける朔夜の横顔を見て来夢はすべてを察した
(あぁ、仕組まれているんだ)
幹部連中は来夢がボスの首を狙うその瞬間、最強の盾である朔夜を現場から遠ざけようとしている
二人を確実に引き離し、来夢を孤立無援の戦場へ送り込むための罠だった
「朔夜さん、行ってください」
来夢は静かに微笑み、朔夜のチェスターコートの袖をそっと引いた
「俺は行かない これは罠だ 上層部はお前を一人にして殺す気だ 俺が上に掛け合う、だから――」
「ダメです」
来夢は毅然とした声で朔夜の言葉を遮った
「ここで拒否したら僕たちの約束は破綻します 逃げ出したらそれは『普通』じゃない 僕たちは裏社会の人間だからケジメをつけなきゃいけないんです …ねえ、朔夜さん、僕が戻ってきたらちゃんと名前を呼んでくれますか? 『お前』じゃなくて僕の名前を」
朔夜は言葉を失ったようにただ来夢を見つめ返した
その瞳の奥にある、狂おしいほどの情念とどこまでも純粋な愛の光に圧倒されているようだった
「…あぁ、生きて戻ったら何度でも呼んでやる だから絶対に死ぬな」
「約束ですよ」
それが二人の運命を分ける最後の会話となった
朔夜は後ろ髪を引かれる思いでアジトを飛び出し、臨海地区へと車を走らせた
しかし、現場に着いた彼を待っていたのはトラブルなど存在しない、静まり返った無人の倉庫街だった
「…しまっ、た……!」
騙されたと気づいた時にはすでに遅かった
スマートフォンの電波は妨害され、アジトや来夢との連絡は完全に遮断されている
朔夜は激しい焦燥感に駆られながらアクセルを限界まで踏み込み、ボスの潜む本拠地へと引き返した
その頃、ボスが乗る高級車の前に来夢は一人で立ちはだかっていた
降りしきる冷たい雨の中、ヘッドライトの光に照らされた来夢の影が長く伸びている
「来夢… お前が私を裏切るとはな」
車内から現れたボスの周囲を大勢の護衛たちが一斉に囲む
その数は数十人
最初から来夢をここで狂い死にさせるための包囲網だった
「裏切りじゃないですよ これは僕の恋の邪魔者を取り除く、ただの作業です」
来夢は愛用の自動拳銃を構え、迷いなく引き金を引いた
硝煙の匂いが一瞬で雨の匂いを塗り替える
激しい銃撃戦の幕が切って落とされた
来夢は容赦なく襲いかかる弾雨の中をまるでダンスを踊るかのような軽やかさで駆け抜けていく
一発、また一発と確実に敵の命を奪っていくが多勢に無勢
来夢の身体にも確実に弾丸がかすり、肉を抉っていく
(まだだ…まだ引き金を引ける 朔夜さんの元へ帰るんだ…!)
血の混じった雨が頬を伝う
どれほどの時間が経っただろうか
周囲には無数の骸が転がり、残るはボスただ一人となっていた
だが来夢の身体も限界を迎えていた
脇腹と胸から止めどなく鮮血が溢れ出し、視界が白く霞んでいく
「狂犬め…ここで死ね!」
ボスが銃口を来夢に向ける
だが来夢の執念が勝った
ボスの引き金が引かれるよりも一瞬早く、来夢の放った最後の弾丸がボスの眉間を正確に撃ち抜いた
ドサリ、とボスの巨体が地面に倒れ込む
任務は完遂された
来夢はガタガタと震える足で一歩、また一歩と歩き出す
愛する人が待つアジトへ
心臓の鼓動がまるで時計の秒針のように規則正しく、しかし確実に終わりへと向かって時を刻んでいた