殺し屋くんの『普通』の恋。

廃村を出る前夜、静寂が古民家を包み込んでいた
明日には組織の最高権力者である「首領」の暗殺という生還の保証がない最終任務へと進む
二人は寄り添うように床に座り、ただ静かに互いの体温を確かめ合っていた
「朔夜さん …僕がどうしてこんなにも『普通』の生活にこだわっていたのかまだ話していませんでしたね」
来夢は膝を抱え、暗闇を見つめながらぽつりぽつりと語り始めた
「僕の本当の両親は僕が物心つく前に借金まみれで蒸発しました その後、引き取られた親戚の家はお世辞にも温かい場所じゃなかった 毎日浴びせられる罵声と暴力、学校にも行かせてもらえず、小さな物置小屋に閉じ込められてただ息をしているだけの毎日でした 僕にとっての日常は飢えと痛みといつ終わるとも知れない絶望だけだったんです」
来夢の細い肩が微かに震える
「だからテレビの画面越しに見る『普通の家族』や『普通の恋人たち』がまるで別の世界の神話みたいに見えました 朝起きて学校へ行き、友達と笑い合って、夜は温かいご飯を食べて眠る そんな当たり前のことが僕にとっては手に入らない奇跡だった だから組織に拾われて殺し屋になってもその憧れだけは捨てられなかったんです でも自分の手が血で汚れるたびにその綺麗で退屈な世界からどんどん遠ざかっていく気がして本当は怖くてたまらなかった…」
そこまで一気に吐き出すと来夢の目から涙が溢れ落ちた
その瞬間、朔夜の大きな腕が来夢の体を壊れ物を扱うように優しくけれど強く抱き締めた
「もういい、来夢 もう喋るな」
朔夜の低い声が来夢の耳元で震えていた
これほどまでに感情を露わにする朔夜を来夢は知らない
「お前は十分に耐えた …俺の過去もお前と似たようなものだ 物心ついた時には組織の育成施設にいて生き残るために周囲の子供たちを蹴落とし、命を奪うことだけを教え込まれた 感情など生きる上で邪魔なゴミだと捨て去ってきた」
朔夜は来夢の涙を大きな親指でそっと拭った
「だがな、来夢 お前を組織の路地裏で見つけたあの日、凍えそうな瞳で俺を見上げてきたお前を見た時、俺の中で何かが壊れた …いや、初めて何かが生まれたんだ お前が『普通になりたい』と言って俺にプロポーズした時、俺は初めて自分の血塗られた人生を呪った お前のその真っ直ぐな瞳を組織の闇で濁らせたくないと心から思った」
朔夜は来夢の額に自分の額を押し当て、至近距離でその瞳を見つめる
「お前の手がどれほど汚れようと俺がそのすべてを背負う お前が望む『普通』の世界を俺がこの手で切り開いてみせる …だから絶対に明日を生き抜くぞ 俺の隣でお前が笑う未来だけが今の俺の生きる意味だ」
初めて明かされた氷の男の歪みのない、命がけの愛
来夢は朔夜の背中に腕を回し、その広い胸に顔を埋めた
「はい… 朔夜さんと一緒に必ず生きて『普通』の朝を迎えます」
二人は暗闇の中で何度も、何度も唇を重ねた。
それはこれまでのどんな口づけよりも深く、互いの魂を繋ぎ止めるための必死で切ない誓いだった
最後の夜が静かに更けていく
明日の地獄の先に待つ、眩しいほどの光を信じて二人は強く抱き合い続けた