殺し屋くんの『普通』の恋。

深い森の奥、地図にも載っていないような廃村
ボロボロに朽ちた一軒の古民家に来夢(らいむ)と朔夜(さくや)は身を寄せていた
六つ目の任務で負った傷と組織からの脱走劇による疲労は二人の体力を確実に削っていた
「…少しは眠れたか、来夢」
月明かりだけが頼りの室内で朔夜が低い声で尋ねた
来夢は朔夜の膝を枕にして横たわっていた
暖炉も電気もない暗闇の中、唯一の熱源は互いの肌から伝わる体温だけだ
「…はい 朔夜さんの匂いがするのでよく眠れました」
来夢はそう言って微かに笑った
六つ目の任務を終えた直後、二人は組織を実質的に「裏切った」形になった
自分たちを縛り付けていた鎖を強引に引きちぎったのだ
その代償として組織は最強の刺客たちを放った
今は一時的に撒いているが7つ目の最終任務を果たさない限り、本当の意味での自由はない
朔夜の手が来夢の髪をゆっくりと梳く
その指先は以前のような冷徹な「師」のものではなく一人の愛する者を慈しむ「男」のものだった
「ここは俺が組織に拾われる前にいた場所だ …何もないが追手もすぐには来ない」
「朔夜さんにも、こういう『普通』の場所があったんですね」
来夢は部屋を見渡した
埃を被った古い家具や破れた障子
けれどそこにはかつて誰かがここで「生きていた」という確かな生活の跡があった
殺しの道具としてではなく誰かの息子として、あるいは誰かの隣人として
「朔夜さん …もし僕たちが普通の大学生や社会人として出会っていたらどんな恋をしていたと思いますか?」
唐突な問いに朔夜の手が止まった
彼は少しの間、天井を見つめて思考を巡らせる
「…想像がつかないな お前のような向こう見ずな子供、相手にしないだろう」
「ひどいなぁ 僕はきっと学校で一番かっこいい朔夜さんに憧れて毎日ラブレターを書いてますよ」
冗談めかして言う来夢だったがその瞳には真剣な色が混じっていた
七つ目の任務
それは組織の「首領」暗殺
それを成し遂げれば二人の記録は抹消され、自由になれるという約束だ
だがそれがどれほど困難なことか来夢にも分かっていた
「ねぇ朔夜さん 明日からはここを僕たちの『家』だと思って過ごしませんか? 七つ目の任務に行くまでの短い間だけでいいんです」
来夢は体を起こし、朔夜の首に腕を回した
この数年間、二人の間にあるのは「任務」と「訓練」だけだった
けれどこの廃村にいる間だけはそれを忘れたかった
「…いいだろう 今日からここは俺たちの家だ」
朔夜が来夢の腰を引き寄せ、唇を重ねた
これまでのキスとは違う、深く、溺れるような口づけ
血の味も硝煙の匂いもしない、ただ純粋に相手を欲するだけの切ない熱
翌朝 来夢は眩しい朝日の光で目を覚ました
驚いたことに朔夜が台所で古い鍋を火にかけていた
「…朔夜さん?」
「起きたか …まともな食材はないが昨夜見つけた備蓄の米で粥を作った 食え」
エプロンはないが慣れない手つきで食事を用意する朔夜の姿に来夢は胸が熱くなった
これが僕の求めていた『普通』だ
朝、好きな人の気配で目を覚まし、一緒に朝食を摂る
武器の手入れをする代わりに誰かのために手を動かす
「美味しい…すごく美味しいです、朔夜さん」
ただの塩味の粥だったが来夢にはどんな高級料理よりも滋味深く感じられた
二人はその日、廃村の周りを散策した
枯れ果てた井戸を覗き込み、名もなき野花を摘み、縁側に座って何時間も将来の話をした
どんな家を建てるか、どんな犬を飼うか、朝は何時に起きるか
それは殺し屋としての自分たちを切り離した、儚い白昼夢のようだった
けれど来夢はその夢を現実にするために自分の命を賭ける価値があると確信していた
「朔夜さん、僕、絶対に生きてここに戻ってきます そして今度は本物の指輪をお互いの指にはめるんです」
「…約束だ 俺がお前を必ず生かす だからお前も俺のそばから離れるな」
夕暮れ時、空が緋色に染まり始めた
朔夜が来夢の肩を抱き、静かに告げた
「来夢 …明日、ここを出る」
「…はい、分かっています」
束の間の休息、最初の『新婚生活』が終わる
来夢は朔夜の胸に顔を埋め、止まらない涙を隠した
この幸福が最後の任務への最強の武器になると信じて