殺し屋くんの『普通』の恋。

眩しいほどの太陽がキャンパスの並木道を照らしている
来夢(らいむ)は着慣れないチェックのシャツにチノパンという格好で教科書を抱えて歩いていた
五つ目の任務――それはある政治家の子息が通う大学に潜入し、組織に不利益をもたらす情報を盗み出すことだった
「尼風くん、今日の講義のノート、あとで写させてもらってもいいかな?」
「あ、うん いいよ、瀬川くん」
クラスメイトに声をかけられ、来夢は「普通」の大学生らしい笑顔で応える
この数週間、来夢は偽りの名前を使い、偽りの日常を演じていた
朝起きて満員電車に揺られ、講義を受け、昼休みには学食で騒がしい友人たちとカレーを食べる
かつて朔夜(さくや)が言った「退屈な日々」がここには溢れていた
(……これが『普通』なんだ)
銃の重みも血の匂いもない
誰かの命を狙う必要もなく、誰かに狙われる恐怖もない
そんな世界に身を置くたび、来夢の胸には形容しがたい切なさが込み上げた
この幸せは今の自分にとっては借り物でしかない
けれど任務をすべて終えた後に待っている朔夜との未来はきっとこれと同じくらい、あるいはもっと輝いているはずだ
その日の夕方
潜入調査の合間の自由時間、来夢は大学の正門前で心臓を高鳴らせながら待っていた
連絡を取り合い、今日はこの場所で朔夜と待ち合わせをすることになっていたのだ
人混みの中にひときわ目を引く長身の影を見つけた
いつもの黒いロングコートではなく濃紺のシンプルなジャケットを羽織った朔夜が立っている
無機質な表情は相変わらずだがその存在感はこの場にそぐわないほど美しかった
「朔夜さん!」
来夢が駆け寄ると朔夜は少しだけ目を細めて来夢の姿を上から下まで眺めた
「…随分と様になっているな、その格好」
「あはは、変ですか? でも潜入用ですから」
「いや、悪くない …行くぞ」
二人は並んで街を歩き出した
いつもの「任務の離脱」ではなくただの「散歩」として
来夢は勇気を出してポケットの中で握りしめていた手を伸ばした
そして隣を歩く朔夜の大きな手にそっと指先を絡める
朔夜の体が一瞬だけ硬直した
殺し屋にとって手を塞ぐことは死に直結する
けれど朔夜はその手を振り払うことなく逆に来夢の手を壊れやすいものを扱うような力加減で握り返した
「……外でこんなことをして狙われたらどうする」
「いいんです 今はただ、朔夜さんの隣を歩く『普通の恋人』になりたいんです 今日だけは許してください」
「まだ恋人になんざなった覚えはないけどな、」
朔夜は小さく溜息をついたが繋いだ手は離さなかった
二人は賑やかな商店街を抜け、小さな公園のベンチに座ってクレープを分け合った
甘すぎる生クリームの味に朔夜が眉をひそめるのを見て来夢は声を上げて笑った
なんてことのない世界中に溢れているはずの光景
けれど来夢にとってはどんな宝石よりも価値のある時間だった
「朔夜さん 僕今日一日、大学生をやってみて思いました …僕、本当はすごく怖かったんです 自分が人を殺すことに慣れすぎてもう二度と『こちら側』には戻ってこれないんじゃないかって」
来夢は繋いだままの手を見つめながら静かに告白した
「でも今日こうして朔夜さんと手を繋いでいたら確信できました 僕を人間に戻してくれるのは場所じゃなくて朔夜さんなんだって」
朔夜はしばらく黙っていたが繋いだ手に力を込めて来夢を自分の方へ引き寄せた
街灯が灯り始めた夕闇の中、朔夜の低い声が来夢の耳元で響く
「…来夢 お前が望むなら俺が何度でもお前を連れ戻す 地獄の底だろうとどこまででもだ」
「朔夜さん…」
「五つ目の任務は今夜で終わらせろ …お前の帰りを家で待っている」
『家』
その言葉の響きに来夢の視界が少しだけ滲んだ
隠れ家ではない、二人のための居場所
そこへ帰るためのチケットはあと二つの任務だ
別れ際、朔夜は来夢の額に一度だけ羽が触れるような優しいキスを落とした
それは殺し屋としての決別であり、最愛の伴侶への誓いでもあった
五つ目の任務、完了間近
偽りの日常の中で来夢は「本物」の愛を心に深く刻み込んだ