殺し屋くんの『普通』の恋。

深夜の街を一台の黒いセダンが猛烈な速度で駆け抜けていた
ハンドルを握る朔夜の表情はこれまでの人生で一度も見せたことのないほど焦燥に歪んでいる
臨海地区の任務が自分を来夢から遠ざけるための偽情報だと気づいた瞬間、血の気が引いた
スマートフォンの画面は相変わらず圏外のままで最悪の予感だけが胸の中で黒く膨れ上がっていく
「頼む、間に合ってくれ…!」
普段の冷徹な彼からは想像もつかない悲痛な祈りが無人の車内に虚しく響く
ボスを暗殺するという任務の異常さ、そして自分を排除しようとした上層部の動き
すべてが来夢を確実に殺すために仕組まれた残酷な舞台装置だった
来夢は従順で純粋でそしてあまりにも愚かだった
朔夜が課した「七つの任務」という無理難題をただ「普通の恋がしたい」という一念だけですべて生き延びてみせたのだ
その最後の最後で組織の最高戦力であるボスをぶつけられ、退路を断たれている
車が本拠地であるビルの前に急停車する
朔夜はドアを蹴破るようにして外へ飛び出した
降りしきる雨の中、エントランスから奥へと続く廊下には息を呑むような惨状が広がっていた
組織の精鋭たちが文字通り全滅していたのだ
壁には無数の弾痕とどす黒い血痕がこびりつき、硝煙の匂いが濃密に立ち込めている
それを一人で成し遂げた少年の凄まじい執念、朔夜は戦慄した
そしてその骸の山を辿った最奥――ボスの執務室の重い扉が開いているのを見つけた
「来夢…!」
叫びながら部屋へ飛び込んだ朔夜の視界にその姿が飛び込んできた
部屋の中央で倒れているボスのさらに数メートル先
壁に背を預け、ずるずると床に座り込んでいる小柄な人影があった
「あ……朔夜、さん……」
掠れた、今にも消え入りそうな声
来夢だった
その身体はもはや生きて動いているのが奇跡と言えるほどに破壊されていた
白いジャケットは完全に緋色に染まり、胸や脇腹の傷口からは止めどなく鮮血が溢れ出して床に大きな水たまりを作っている
「来夢!!」
朔夜はなりふり構わず駆け寄り、来夢の身体を強く抱きとめた
腕の中に収まった少年は驚くほど軽かった
そして信じられないほどに冷たくなり始めていた
「馬鹿野郎…なぜ待たなかった! 俺が罠だと言ったはずだ!」
「ふふ…だって待っていたらボスの警備がもっと厳しくなっちゃいますから… それに早く終わらせてあなたのところへ帰りたかった…」
来夢は血に濡れた唇を微かに震わせ、満足そうに微笑んだ
その瞳は濁り、すでに焦点が合っていない
それでも必死に朔夜の顔を探すように彷徨っている
「もう喋るな 今すぐ医者を呼ぶ 俺の知り合いの闇医者なら、お前を――」
「ダメ、ですよ……」
来夢は残された最後の力を振り絞り、冷え切った手を伸ばした
血塗れの指先が朔夜の頬にそっと触れる
その温もりはもうほとんど残っていなかった
「僕、ちゃんと…約束、守りましたよ…? 七つ目、終わらせました ボスも死にました… これで僕たちの邪魔をするものは誰もいません…」
「あぁ、お前の勝ちだ! お前がすべてを終わらせたんだ、だから…!」
朔夜の目から一筋の涙がこぼれ落ち、来夢の頬の血を洗う
冷徹な暗殺者として生きてきた朔夜が他人のために涙を流すなど、裏社会の人間が見れば誰もが耳を疑うだろう
今の朔夜には目の前で命の灯火を消そうとしているこの少年しか見えていなかった
「ねえ、朔夜さん… 僕、がんばったから…ご褒美、ください…」
「何だ、何でも言ってくれ お前の望むものなら俺は何だって――」
「名前……呼んで、ください……」
来夢の呼吸が一段と浅くなる
心臓の鼓動が終わりの秒針を刻むようにゆっくりと間隔をあけていく
「お前じゃなくて……僕の、名前……」
「来夢」
朔夜は来夢の手を強く握り締め、その名前を叫んだ
「来夢、来夢…! しっかりしろ! 俺はお前を愛している! これからだろ、二人で普通の恋をするのは……! 普通の恋人みたいに買い物に行って、映画を観て、同じベッドで眠るんだろ…! だから…だから目を開けろ!」
最初で最後の狂おしいほどの愛の告白
それを聞いた瞬間、来夢の瞳にほんの一瞬だけ、世界で一番美しい光が灯った
「あぁ…嬉しいな… やっと、呼んで、くれた…」
来夢は本当に幸せそうに子供のような純粋な笑顔を浮かべた
「僕、ずっと…あなたの『普通』に、なりたかった… 愛してくれて、ありがとう… 朔夜…さん…」
それが来夢の最後の言葉だった
頬に触れていた手が力が抜けたようにすっと床へ落ちる
深く夜を湛えていた瞳から光が完全に消え去り、少年の身体は動かなくなった
「来夢? 嘘だろ…来夢、おい!!」
朔夜は来夢の身体を何度も揺さぶったが二度とあの愛らしい声が彼の名前を呼ぶことはなかった
静まり返った執務室に窓の外から激しい雨音が響くだけだ
七つの死地を越え、命を全て削り落として少年はようやく男の愛を手に入れた
しかし、その愛を受け止めるための命はもう残されていなかった
裏社会にしか居場所のなかった二人がその血塗られた両手で掴み取ろうとした「普通の恋」
それは死という絶対的な破滅を迎えることで初めて完成したのだ
朔夜は冷たくなっていく恋人を強く、強く抱き締め、嵐のような雨の音に紛れさせるようにただ静かに哭き続けた
二人のあまりにも切なく、残酷な『普通』の恋は永遠の闇の中へと溶けていった