私の帰る場所

 和気あいあいとした夕食を終え、入浴を済ませた私がリビングに戻ると遙さんの姿が見えなかった。大地さんは猫に囲まれてテレビのドキュメンタリー番組を見ている。

「遙さんはご自分の部屋に戻られたんですか?」

 私の問い掛けに彼は天井を指差しながら答えてくれた。

「久しぶりに晴れたから屋上で観測でもしているんじゃないかな。遙の部屋から屋上に出られるようになっている。あかりさんも行って御覧なさい。美しい星空が見えるよ」

 ここに来る途中、車の中でキレイな星空が瞼に浮かび、誰かが星座を教えてくれている記憶があったことを私は思い出していた。

ー あれは遙さんなの? でも、どうして? 

 私は行ってみますと、ペコリと頭を下げてリビングを後にした。
 何かのきっかけさえあればひとつひとつ記憶を取り戻せることが出来るはず。きっと星空も何かしらのヒントを与えてくれるだろうと感じた私は、軽快な足取りで階段を登っていった。

 二階の一番奥にある彼の部屋の前で深呼吸し、少しだけ高鳴っていた胸の鼓動を静めた私は、扉を軽く三度ノックした。が、部屋の中は静まり返っていて何の返事もない。

 幾度かのノックをした後、私はそっとドアノブに手を掛けて「遙さん?」と、声を掛けながら扉をそっと開いた。

 初めて見る彼の部屋。治まっていた胸の鼓動が又、どきどきと高鳴り始めていた。
 整理整頓された十畳ほどのフローリングの隅にはベッドと大きな観葉植物。小さな木製のテーブルと二人掛けのソファが中央に配置され、デスクの上にはラップトップパソコン。サイドテーブルにはミニコンポや本が無造作に置かれていた。
 壁には彼が撮影したと思われる星や月のパネルが貼られ、大きな出窓には犬や猫達の写真と小さな観葉植物がいくつも飾られていた。


 私はそっと部屋の中に入ると、無意識のうちに出窓の前に立っていた。
 フォトスタンドに飾られてある幾つかの写真を覗き込むように見ると、ひとつは小さな仔犬が芝生の上で寝転んでいる写真だった。
 よく見るとシリウスの仔犬の頃だ。私は微笑みながら隣にあるもうひとつの写真を見た。

 その瞬間、胸が大きな鼓動を立てて頭の中が真っ白になった。
 私の瞳に映っていたのは、眩しいほどの笑顔をした遙さんが抱きかかえている黒い仔猫の写真だった。

『早く伝えて……』

 真っ白な頭の中に聞こえてきた声と同時に胸の鼓動は激しさを増し、瞼の裏側にその仔猫の映像が次々と浮かんできた。

 それはまるで早回しの映画を見ているようだった。

 いきなりの出来事に目眩を起こした私はその場に倒れ込むように崩れ落ちた。
 その拍子に手が幾つかのフォトスタンドに当たり、大きな音を立ててフローリングの床に落ちる。
 動悸は治まらず、息さえ出来ないほどだった。冷や汗が噴き出し、顔から血の気が徐々に失せていくのが自分でも分かった。

ー 何、これ? すごく苦しい。遙さん、助けて……。
 
 朦朧とし始めた意識の中で私は彼の名を呼んでいた。
 そのときベランダから犬の吠える声と、ばたばたとした足音が聞こえてきた。私が助けを求めるように必死で顔を上げると、遙さんとシリウスが窓を開け部屋の中に飛び込んで来たところだった。

「あかり!!」

 彼は血相を変えて私の名を呼んだ。

「真っ青じゃないか。どうしたんだ、大丈夫なのか?」

 遙さんは私を軽々と抱き上げベッドに横たわらせてくれた。
 彼がそっと私の頬に手を当てる。すると息苦しさは消え、あれほど激しかった動悸も少しずつ治まってきた。
 冷たくなりかけていた手足にも少しだけ暖かさが戻っている。

 ほっとした私は大きな溜息を何度か吐き、静かに目を開いた。目の前にはベッドの端に腰掛けた遙さんとシリウスが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

ー そんな顔しないで……。笑っていて。

 私は思わず両腕を彼に廻して抱きついていた。
 それは私の中の誰かが、そうさせているような気もしていた。

「今、あかりって呼んでくれたわ」
「あ、ごめん。つい」

 彼の声が耳元に触れた。次の瞬間、私は想いの丈を口にしていた。

「私、遙さんが好き」
「え……?」

 彼は驚いたように体をびくりと震わせた。
 私は腕に力を込め、彼の胸に顔を埋める。私自身、どうしてこんなに大胆なことをしているのか分からなかった。

「えっと、そう言ってくれるのは嬉しいけど。何か、他の記憶と混乱しているの?」

 遙さんはそう言いながらも、私の身体を躊躇いながらそっと抱き寄せてくれた。

「ううん、そんなことない。私、ここに来たときからあなたのことが気になっていたの。私、遙さんのことが好き」

 私は顔を上げて遙さんの顔を見つめた。彼は一瞬目を伏せたが、意を決したようにもう一度私を見つめて囁いた。

「ありがとう。俺も昨夜、キミが来たときから気になっていたんだ。何だか初めて会ったような気がしなくて……。まだ好きだとか、そういう気持ちは自分自身で分からないけど」

 遙さんが照れ臭そうに笑う。
 私は幸せな気持ちで胸がいっぱいになっていた。こうして彼の腕に抱かれたかった。それが私の夢だったような気もする。

 私は彼の頬に軽くキスをした。耳朶まで赤く染めた彼はどうしていいのか分からないようだった。
 そのとき、彼の胸に抱き寄せられていた私の目に、床に落ちたままになっているフォトスタンドが映った。

「仔猫の写真を見ていたの。そうしたら急に立ちくらみがして」

 私の言葉に遙さんは軽く頷くと、ベッドから降りて幾つかのフォトスタンドを拾い上げる。その中から黒猫の写真を私に見せ、柔らかく微笑んだ。

「これがペガサスだよ。昨夜のような冷たい雨の夜、我が家に来たんだ。母と入れ替わりに。道端で必死に助けを求めているように鳴いていてさ。毛並みがすごくキレイな黒猫なんだ」

 彼はその頃のことを懐かしむような、悲しそうにも見える表情で語ると、写真に向かって呟いた。

「早く帰って来いよ。おまえにあかりを紹介したいんだ」

ー この()がペガサス……。