私の帰る場所

 ペガサスは十二年前、河埜家にいちばん最初にやってきた雌猫で、遙さんがとても可愛がっているそうだ。
 その三ヶ月後に拾われてきた雄犬のシリウスとは大の仲良しで、いつも一緒にいると。

 ペガサス以外の猫は基本的に室内飼いなのだが、ペガサスだけはシリウスがいつも側で護衛の役割をしているので、一緒に散歩に出掛けることが許されているという。

 そこまで話したとき、遙さんの表情が又、翳った。
 何かペガサスには他の特別な理由があるのだと私は直感した。それを裏付けるかのように彼が不安げに言葉を続けた。

「あいつ、心臓にちょっとした疾患があってね。稀に発作とか起こすときがあるんだ。外で倒れているかも知れないって考えると心配でね」

 ふぅ、と彼は重い溜息を吐いた。しかし、不安そうに立ち尽くして話を聞く私に気付くと、慌てて微笑んで見せた。

「あ、ごめん。あかりさんにまで心配掛けさせるつもりじゃなかったんだ。ペガサスはきっと大丈夫だよ。すぐに見つかるか、何食わぬ顔して帰って来るから」

 彼は指先をそっと私の肩に触れるようにして、切り株の椅子に座らせてくれた。遙さんも腰を下ろすと、気持ちを落ち着かせるようにミネラルウォーターのペットボトルを傾けていた。

 もしかすると、先程の声はペガサスが私に助けを求めてきた声なのだろうか。

 しかし、『思い出して』と云う言葉を考えると、少しニュアンスが違う。いくら考えてもペガサスという猫と私に接点は無い。何か他の記憶と混乱したのだと私は思うようにした。

 でも、胸には得体が知れないしこりが残ったままだった。
 それが何なのかを考えても、今はまだ答えが出ることはない。もう少し時間が経てばそれを思い出すことは必ず出来るはず。それでいいことなのだと私は考えることにした。



 結局、裏山の丘でペガサスは見つからなかった。
 遙さん、犬たちと一緒に林の中や岩陰などを捜してはみたが、何の手掛かりらしきものを見つけることは出来なかった。
 役に立ちたいと思っていた私が、意気消沈して持参していたお弁当を食べているとき、彼は私を元気付けるようにペガサスのことを又、色々と教えてくれた。

 生後三ヶ月くらいで河埜家にやって来たペガサスは悪戯は勿論のこと、壁、家具などで爪を研ぐことなども一切せず、とても利口で手の掛からない仔猫だったという。
 気持も優しく、シリウスや後輩の犬、猫たちがやって来ても、威嚇などせず率先して傍に行き、毛繕いをしたりして、新しい子たちが早く馴染めるような行動をしていたそうだ。
 ペガサスが幾度か発作を起こしたときはシリウスが大きな声で吠え、遙さんや大地さんに危険を教えてくれていたという、二匹の愛情にも似た絆も教えてくれた。

 そんな話を聞いていた私の側でシリウスが寂しげな声でクゥンと鳴く。
 この子もペガサスを心配しているのだと思った私が頭を何度も撫でてやると、シリウスは小首を傾げ上目遣いに私を見る。
 それはまるで私をペガサスの代わりとでも思い、甘えているような仕草だった。


 午後を少し過ぎた頃、私たちは裏山を後にした。
 遙さんとシリウスは何度も何度も丘を振り返りながら山道を降りていく。私はこんなにも愛され、心配されているペガサスが正直羨ましかった。
 猫に嫉妬するつもりはないのだが、遙さんには私だけを見ていて欲しい。私をペガサスのように愛して欲しいという思いが何処かにあった。私のそんな思いは、思考ではなく間違いなく心にあるはっきりとした感情だった。


 家に戻った私達が裏庭にあるシンクで犬達の足を洗っていると、大地さんが街から帰ってきた。
 警察で何かしらの手掛かりがあったのかどうかが気になっていた私は、すぐに車庫のある玄関先へと走り出していた。気が付くと遙さんも追いかけるようにして後ろを走っている。

 息せき切って玄関へ走り着いた私達を見た大地さんはすぐに事の次第を把握したようで、車の運転席から降りてすぐに開口した。

「あかりさんの捜索届は出されていなかったよ。知人が家出や不明者のリストも調べてくれたのだが、あかりさんらしき人は見当たらなかった。力になれずに申し訳ない」

 大地さんの表情が曇っていた。
 彼なりに何かしらの手掛かりが見つかると踏んでいたのだろう。しかし、手掛かりも何もないことが分かると私を不安にさせてしまう。そう思っていたに違いない。

 だが手掛かりがない以上、私はもうしばらくここに居られる。そう思うと嬉しい反面、責任を感じているような大地さんの俯いている顔を見るのが辛く感じられた。

「そんなに気を落とさないで下さい。私は大丈夫です」

 胸の前でぐっと両手で握りこぶしを作り、元気さをアピールして見せた。
 すると、後ろでその話を聞いていた遙さんが私の肩にそっと手を置いて大地さんに言った。

「あかりさんを見つけたのは昨夜。まだ何も分からないのは仕方ないよ。二、三日経てば家族から何かしらの連絡が来るかも知れない。前向きな気持ちでいようよ」

 遙さんの言葉に私は何度も頷き、大地さんに微笑んだ。

「そうだな。友人の家にでも泊まったと思えば、すぐには捜索届を出したりはしないものだ。焦っても仕方がないか……。いや、参った。その通りだ。二人に教えられたようだ」

 大地さんはうなだれていた顔を上げると、頭を掻きながら照れたような笑顔を見せた。

「それじゃあ二人に荷物を運ぶのを手伝ってもらおうかな。あかりさんの身の回り品や食料を買い込んできたんだよ」

 彼が車のテールゲートを開けると、そこにはスーパーの袋が大量に山積みされていた。まるで海外の大家族が一週間分の買出しに行ってきたような量だ。遙さんも驚いた様子であんぐりと口を開けたままだった。

「あかりさんの作った朝食が美味かったからね。つい、たくさん買ってしまったんだ。あかりさんに今晩の食事のリクエストをしても構わないかね?」

 大地さんは嬉しそうな笑みを浮かべ、小さなウインクをして見せた。
 少しでもこの家の役に立っていると感じた私は嬉しくなり、大きな声で返事をしていた。

「はい、任せてください。これだけの材料があればフルコースでも何でもどんとこいって感じです」

 大地さんが大きな手で私の頭をぐりぐりと撫でて笑う。遙さんも笑い声を上げながら私の肩をポンポンと叩く。
 それはまるで、私をこの家の娘のように扱ってくれているかのような振舞いだった。二人は私をほんとうに優しく包み込んでくれる。

 荷物を運び始めた彼等に向かい、私は心の中で何度も「ありがとう」と呟いていた。