私の帰る場所

 私はキッチンを借りて彼にコーヒーを出すと、あてがわれた二階の部屋へと着替えに向かった。

 パジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、下着姿の全身を備え付けの鏡に映した。細くしなやかな身体に、まだ誰にも触れられたことがないようなきめ細かな白い肌。
 鏡を見ながら渡された服に袖を通しはじめたとき、私は腰の辺りにある黒子に気が付いた。

「あれ、こんなところに黒子がある」

 注意しなければ見落としそうなくらい小さな黒子が腰周りにいくつかあった。白い肌だけに黒子が気になったのだが、生まれついてのものだから仕方ない。
 私は気を取り直し、遙さんが用意してくれた生成り色の長袖Tシャツと洗い晒しのオーバーオールに着替え、長い黒髪を一つに束ねて三つ編みにした。

「うん、何だかこの家の娘みたい。遙さんも気に入ってくれるかな」

 鏡を覗き込み、満足気に呟いた私はリビングへと降りていった。
 リビングに戻ると、大地さんが起きて来ていた。彼はパジャマ姿のままソファで新聞を読んでいたのだが、私に気が付くと彼は慌てたように言った。

「おっと、そうだった。ちょっと着替えてくる」

 親子で同じことをしたことが可笑しくて私は声を出して笑っていた。




 遙さんのエプロンを借り、朝食の仕度をしていた私の耳に二人の会話が聞こえてきた。

「じゃあ私は朝食の後、警察署に話を聞きに行ってくる。遙はその間に掃除や洗濯を終わらせておいてくれ。帰りに食料の買出しは私が済ませてくる」
「了解。犬たちの散歩にも行っておくよ。休診日の午後はのんびり過ごしたいからね」

 私は出来る限りの恩返しをしたいと思っていた。せめてここにいる間は炊事に洗濯、掃除は勿論、彼らの役に立つことは何でもやりたかった。

「お洗濯とかお掃除は私がやります。家事全般は任せて下さい」

 カウンター越しに大きく二人に声を掛けた。
 彼等は私の元気の良い声に驚いたのか、お互いの顔を見たあとこちらを振り向いた。

「ありがとう。じゃあ、俺と手分けしてやろう」

 遙さんが頷きながら微笑んだ。
 どきりとした私は恥じらうように目を伏せ、朝食の仕度をするために休めていた手を動かしはじめる。
 名前を思い出せたことが気持ちを前向きにさせてくれていた。はつらつとしている私を目で追っていた大地さんが不思議そうな顔をして尋ねてきた。

「何か思い出せたのかね? 昨夜と較べると別人のように明るく、生き生きとしているが」

 彼は顎鬚を擦りながら私を見つめた。

 名前を思い出せたことを話したほうがいいのか私は迷っていた。
 彼が警察に行くのなら名前だけでも何かの手掛かりにはなるだろう。

 でも手掛かりが見つかり、本来の場所に連れ戻されたりするよりはもう少しだけこの家に居たい。この家で大地さん、遙さんと一緒に過ごしたいと私は思っていた。
 それは亡くなったお母様にそっくりだということも関係している。
 誤魔化したりするより今は、せめて後、二、三日はまだここに居たいと言うべきなのだ。それがとても図々しい思いだとは分かっていても。

 気持ちを固めた私は大地さんに向かってこくりと頷いてみせた。

「今朝、名前を思い出しました。私の名は『あかり』です。間違い無いと思います」

 私の言葉を聞いた二人が、昨夜のように息を呑んだのが分かった。少しの間を置いて、大地さんが絞り出すような声で呟いた。

「妻と……同じ名前?」
「えっ?」

 私も息を呑んだ。

 まさか、こんなことがあるのかと。
 容姿も似ていて、名前までもが同じ。
 偶然なのか、必然なのか。
 それとも私は神様の導きで生まれ変わり、ここに来たというのか? 
 だから大地さんに郷愁や暖かさを覚えたり、遙さんには慈愛に似たときめきを感じるのだろうか。
 色んなことが頭の中を駆け巡り、心が整理出来ない状況になった私は眩暈を起こしたのか、その場に崩れるように座り込んだ。途端、遙さんがキッチンのカウンター内に駆け寄ってくれたのを感じた。

「大丈夫かい?」
「ええ、ちょっと眩暈がして……。ごめんなさい」

 心配そうに片膝を突いて、私の顔色を気遣ってくれる気持が嬉しかった。

「誰だって戸惑うと思う。でも、キミには何の責任もないことだから、気にしないで」
「ええ、でも……」

 私は縋るように遙さんを見つめた。
 そのとき、大地さんが驚くほど優し気な表情をしてキッチンに現れた。大地さんは跪くと、しとやかな笑みを浮かべた。

「とても良い名前だね。妻は星と書いてあかりと読んだ。あなたが妻と別人だということは分かっている。でも、私はあかりさんがこの家に来たことは偶然ではないと思っているんだ。今はまだ何も分からないが」

 途端に涙が溢れていた。
 どうしてこの人は、こんなに心豊かで穏やかな人なのだろうと感じた。

「私も偶然ではない何かに導かれて、ここに来たのだと思います。大地さんにも、遙さんにも何故だか懐かしさを感じてしまうんです。私、それが何かを知りたい」

 半泣き状態のままだったが、自然と言葉が出ていた。すると、遙さんが伝えたかった私の思いを代弁するかのように口を開いた。

「あかりさんはもう少しここにいてもいいんじゃないかな? 俺は父さんのように元、医師じゃないから人の医療に詳しくはないからよく分からないけど、こういうことは本人の気持ちや思いがいちばん大事だと思う」

 遙さんは私を見つめ、小さく頷きながら肩を優しく撫でてくれた。どうしてこの人の手はこんなにも暖かく安心出来るのだろう。

 気持を代弁してくれた嬉しさで、私は身を委ねるようにして彼の胸に顔を埋めた。遙さんはそっと肩を抱き寄せてくれる。
 大地さんは何かを考えていたようで、私たちの間に束の間の沈黙が流れた。リビングには、私のすすり泣く声だけが響き、犬と猫達も耳を欹て成り行きを見守っていた。

「遙。昨夜も話したと思うが、健忘症というのはストレスやショックが原因だ。あかりさんが何故そうなったのかという原因を突き止めないと又、同じことを繰り返すかも知れないんだ。仮に彼女の家庭に何かしらの問題があったとしたら戻っても同じことだ。警察には捜索届が出されているか確認はしてみるが、ここはあかりさんの思いを尊重しよう。今しばらくはここでゆっくりしていなさい」

 大地さんが安心なさい、という表情で私を見つめてくれる。
 彼の瞳はとても穏やかで慈愛に満ち溢れている。私は遙さんの胸から離れ、二人に向かって深々とお辞儀をした。

「我儘を言ってすみませんでした。大地さん、遙さん。ほんとうにありがとうございます」

 私は涙を拭い、感謝の気持ちを込めて微笑んだ。

「うん、あかりさんは笑っているほうがいい。もう泣いたりしないで」

 遙さんが笑みを返し「さぁ、朝食だ。そのあとは掃除に洗濯。忙しいぞ」と、言いながら私がやりかけていた食事の仕度を手伝い始めた。
 私は気を取り直し、カップやお皿を食器棚から取り出し準備を整える。
 その光景を大地さんと犬や猫たちが優しい眼差しで見つめていた。