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私がこの家に来たところで話は終わった。
改めて彼の話を聞いて思ったのだが、私は何処から来て、何故ベンチに座っていたのか自分でも全く分からない。
彼と車の中で話をしていて少しだけ思い出せるようなことはあったが、それ以前のことは何も記憶にはなかった。
彼はひとつ咳払いをしてマグカップを傾け、喉を湿らせてから再度、言葉を続けた。
「彼女は自分が誰なのか、何をしていたのかという記憶がない。しかし、日常的なことに関しては全く問題がないように見受けられる。社会情勢や市内の風景に地理。そして入浴や食事など、無意識のうちの行動と言葉にそれが出ているんだ」
間違いないかい? と、いうように大地さんが私を見た。
「はい。大地さんがおっしゃる通りで間違いないです。私、自分のことは何ひとつ分からないのに、生活に係わることなどに関しては躊躇うことなく思い出せます」
大地さんがうんうんと頷く。
「私の推測から言うと、彼女は生活史健忘症だと思う」
聞き慣れないその言葉に私は縋るような目で大地さんを見つめた。彼はその視線に気付くと、私を安心させるように優しく微笑んだ。
「それって単純に記憶喪失ってことなのかい?」
それまで黙って大地さんの説明を聞いていた遙さんが口を開いた。
「いや、記憶喪失というほどのものではない。ストレスやショックなどの一時的なものが原因だ。他には多感な年頃の少年少女が、悩みや不安を多く抱えたことで健忘症になるということはたまにあるんだよ。大体、一、二ヶ月くらいが目安と考えられている。早ければ一、二週間で記憶が除々に戻って来るときもある」
大地さんが私を見つめ、諭すように説明してくれた。
「良かった……。私、大丈夫なんですね。自分が誰なのか思い出せるんですね」
ほっとした私は安堵の溜息を吐いた。
でも、記憶が戻る一、二ヶ月をどうすればいいのか考えると途方に暮れる。やはり警察に行くべきなのだろうか? 何かしらの届け出がされているかも知れない。だけど何の手掛りもなかったら?
そのことを相談しようとすると大地さんが私を安心させてくれるように言った。
「ゆっくりと、安心して毎日を過ごせば必ず少しずつ思い出せる。それまでここに居ればいい。警察には私が明日、何かしらの届け出があるのかをそれとなく聞いてくるとしよう。懇意にしている知人がいるから安心なさい」
深い眠りの中、誰かが私を呼んでいた。耳を澄ますと『あかり』と、微かな声が何度も聞こえてくる。
ー あかり? 私の名前はあかりと言うの?
するとその声は又、何か別の話をしているような会話へと変わっていく。
『この四方形は……、そっくりだな』
ー 何を話しているの? ねぇ、私はあかりと言う名なの?
夢の中の私がそう尋ねたとき、ベッドの上で目が醒めた。目を擦りながら窓を見遣ると、カーテンの隙間から朝の陽射しが差し込んでいた。
ベッドからゆっくりと起き出て、カーテンを勢いよく開く。窓の向こうには朝もやに煙る紅葉が山を覆い尽くしている。響き渡る鳥の囀る声は自然の中にいることを感じさせてくれた。
ほんとうにくつろげる家だと心から思える。ここで過ごせば記憶は必ず取り戻せると、私は確信めいたものを何処かに感じていた。窓辺に立ったまま深呼吸をし、気持ちを集中させた私は夢の中で聞いた名前を呟いてみた。
「あかり。私は……あかり」
すると、頭の中に重く垂れ込めていた霧がすうっと晴れていくような気がした。
夢の続きなのか、遠くからその名を呼ぶ声が聞こえてくる気さえする。間違いない。きっと私の名前は『あかり』なのだ。
そう思うことで心の中が一気に軽くなり自然と顔が綻んだ。少しうきうきとした気分で部屋を出て、一階のリビングへと続く階段を軽快に駆け下りていた。
大地さんも遙さんもまだ起きていないのか、リビングのドアを開けた私を迎えてくれたのは犬と猫たちだった。
「おはよう、すごく気持ちのいい朝だね。外は快晴だよ」
そう声を掛けた私にシリウスとペルセウスが跳びかかってきた。
ゴールデンレトリバーのシリウスは私の肩に手を掛けて頬をペロペロと舐めてくる。
「きゃあ、やだ。くすぐったいよ」
バランスを崩し、ソファに倒れ込んだ私の胸にペルセウスが飛び乗ると他の犬や猫たちも一斉に集まってきた。
犬たちは朝の挨拶のように代わる代わる私の顔を舐め、猫たちは思い思いにじゃれてくる。動物たちの気のおけない振舞いは、私をこの家の仲間と認めてくれているのだと感じた。
「あなたたち、ほんとうに優しいのね。大好き」
私はシリウスをそっと抱きしめながら呟いていた。
そのまま犬や猫たちとじゃれ合っていると、スウェットのパジャマ姿のまま、大欠伸をしながら遙さんがリビングへとやって来た。
彼は、おはようございますと挨拶した私を見るなり「おっと……そうだった。着替えてくるから」と、言い残して自分の部屋へと戻っていった。
しばらくしてから彼は着替えを済ませ、再びリビングにやって来た。そして何事もなかったように微笑んだ。照れ隠しのように。
「おはよう。随分と早いな、よく眠れたのかい?」
ジーンズにアッシュ色の長袖Tシャツを着込んだ遙さんはソファに座り、何時の間に取りに行ったのか、厚めの朝刊を置きながら尋ねてきた。
犬と猫たちが朝の挨拶をしに彼のところへ集まっていく。
「はい。お陰様でぐっすり眠れました。ありがとうございました。それと、キッチンをお借りして私が朝食を作っても構わないでしょうか」
とびきりの笑顔で遙さんに尋ねると、彼は嬉しそうな、照れ臭そうな表情で頷いた。
「お願いしていいのかな?」
「勿論です」
河埜家の役に立ちたかった私は元気よく返事をする。
「私のことはハウスキーパーとでも思って下さい。お天気も良いですから朝食のあとはお掃除でも何でもやります」
俯いていた昨夜と違い、顔を上げてはきはきとした言葉が出てくる。こうして家事をするだけでも本来の自分を取り戻せそうな気がした。
「ありがとう。でも、その気持ちだけで十分だよ。キミはお客様なんだから。それとこの服、用意したから着替えなよ」
遙さんが新聞紙の中から私の着替えを差し出した。
「母の昔の服だけど」
きっとお母様が使っていたクローゼットの中から、私に似合うような服を探してきたのだろう。彼の何気ない心遣いが嬉しかった。


