私の帰る場所

 彼、大地さんが言うには、私の座っていた場所は市の中心部へと向かうバス停のベンチだったそうだ。
 只、一時間に一本しかないバスは既に終わっていて、往診の帰り道で私を見つけた彼はこの雨の中、バスに乗り損なったのかと不憫に思い声を掛けてくれたのだ。

 私は大地さんの話を黙って聞いていた。それは自分の名前さえ分からなかった私に、少しずつだが色々なことを思い出させてくれるような内容だったからだ。
 ひとしきり大地さんの話を聞いたあと、頭の中にぼんやりとした記憶の欠片がひとつだけ甦ってきていた。

「ここは、美空市ですか?」

 小さな声で呟いていた。
 それを聞いた大地さんは私の記憶を混乱させないように配慮したのか、とてもゆっくりと、丁寧に尋ねてきた。

「ここが、美空市だということが分かるのかね」
「はい。何故、ここにいたのかは分からないのですが。美空市、美しい空の街だということはなんとなく覚えています」
「ほほぅ。どうしてここが美しい空の街だということを」
「それは美しい空と、とてもキレイな星空が見えるから。そう……、随分前に誰かに教えてもらったような気がします」

 目を閉じると瞼の裏側に美しい星空が浮かんできた。
 澄んだ夜の空気の中、誰かが夜空を指差して私に星座の名を教えてくれている。そして目の前には大きな四方形を形取る星々が輝いていた。



『あれは……っていう星座なんだよ』

 遠くから微かな声が聞こえた。

― あなたは、誰?

 心の中で呟いた瞬間、その記憶はそこで途切れ、星空は暗闇の中にふっと消えていった。



「ふむ、そうだな。唐突だが、お嬢さんは今の日本の首相が誰だか分かるかね?」

 大地さんの声で我に返った。
 ひとつ深呼吸をして、もう一度目を閉じた。

 不思議なことに、彼が尋ねてくる幾つかの日常的な質問にはすらすらと答えることが出来る。
 どうやら私は自分以外のことはきちんと覚えているようだった。大地さんも安心したのか、それ以上の質問をしてくることはなかった。

 車は街の中心部を抜け郊外へと向かっていた。
 ヘッドライトが雨に濡れた路面を眩しく浮かび上げる。私の耳にはルーフを激しく叩く雨音だけが聞こえていた。
 しばらくすると車は脇道に入り、鬱蒼とした木立が続く山道を登りはじめた。

「あ、この道……。確か、美空山へ続く山道だったと思います」

 不意に言葉が出ていた。
 そう、この道は確かに通った記憶がある。今と同じ雨の夜だったような気がする。

「驚いたな、その通りだよ。私の家は美空山の山中にあってね。美しい自然に囲まれて、心からくつろげる場所ですよ。お嬢さんもきっと気に入るはずだ」

 大地さんは自分の言葉に気を良くしたのか、朗らかな笑みを浮かべた。穏やかな笑顔がよく似合っている。
 きっとこの人の心根は名前の通り、広く大らかなのだろう。でなければ困っているからといって、見知らぬずぶ濡れの他人を車に乗せたりはしない。

 私には何時しか安堵感のようなものが生まれていた。それは多分、大地さんの醸し出す暖かな雰囲気のせいだろう。

「どうやらお嬢さんは美空市か近隣の土地の人だろう。この辺りの地理に詳しい。きっと手掛かりはすぐに見つかると思うよ。安心なさい」

 大地さんは私をチラリと見て頷いた。彼の言葉は何故だか安心出来る。頼りがいのある父親のようだ。

「はい。えっと、河埜さん。ご迷惑をお掛けしてすみません」

 私は素直に頭を下げ、お礼を述べた。

 途端、急な寒気が身体中に走った。多分、彼の言葉でこの先の目処が立ちそうになったことから張り詰めていた気持ちが緩んだのだろう。長時間雨に打たれた髪や身体がとても冷たく凍えるようだった。

 私は「寒い」と呟き、猫のように身体を丸めた。

「もう着きますよ。ほら、明かりが見えてきた。すぐに風呂に入って暖まりなさい」

 大地さんは静かにアクセルを踏み込んだ。





 雨に煙る山の中、生垣に囲まれ、ぽつんと佇む家屋の明かりが見えた。辺りに民家は見当たらず、そこだけが別世界のように浮かび上がっている。
 ベニカナメに囲まれた門を潜ると、彼は玄関脇の車寄せに車を停め、軽くクラクションを鳴らした。
 大地さんの着きましたよ、という言葉に頷きながらシートベルトを外したとき、玄関が開き、中から若い男性が出てきた。

「遙、風呂は沸いているかな?」

 大地さんが車の窓を開け、雨音に負けないように男性にそう叫んだ。

「ああ、沸いているよ。食事の仕度も出来ているから」

 その声に聞き覚えがあった。ついさっき、頭の中に聞こえてきた声と同じ感じがする。

 私は遙と呼ばれた男性の顔を見たいと思い、急いで車外へと出た。
 すると彼は、車から降りてきた私を見るなり戸惑う表情を見せた。

「遙、すまないが彼女をバスルームへ案内してやってくれ。詳しいことはあとで話す」

 大地さんがそう声を掛けて頷くと、遙という男性も軽く頷き返し、取り乱すこともなく手招きをしてくれた。

「僕は彼の息子で河埜 遙と言います。さ、どうぞこちらへ」

 彼は少しばかり事務的な口調でそう告げると、すたすたと家の中へと入っていく。

 正直なところ、戸惑った。顔も雰囲気も大地さんによく似てはいるが何だかちょっと素っ気無い。
 彼のイメージは頭の中に聞こえてきた声とは違うようにも感じた。
 そう、あの声はもっと優しく、何もかも暖かく包み込んでくれるような印象だった。こんなふうに素っ気無いタイプとは違う。

 迷惑がられているのだろうか。私は車の脇に立ち尽くしていた。
 そんな様子を見ていた大地さんが「ささ、遠慮せずに」と、家の中へ入るように促してくれる。
 その言葉に目で頷き、とぼとぼと玄関へ歩いて行くと、驚いたことに彼は私を待っていてくれた。

「風邪を引いてしまうよ。さぁ、早く上がって」

 差し出された手を私は見つめた。


― 差し出した手を振り払われるほど悲しいものはない。


 何度もそんな辛い目にあった。だからあのとき、私は差し出されたその手を掴んだのだ。



 ひとつの記憶が甦ってきていた。私は何度も助けを求めて通り過ぎる人に手を差し伸べた。
 しかしその手はことごとく無視され、振り払われ、私は絶望の淵にいた。
 そんなとき、誰かが私に手を差し伸べてくれたのだ。振り払われる悲しさを知っていた私は、躊躇いながらもその手を掴んだのだ。

 そして……。それからが思い出せなかった。