私の帰る場所

「遙さん、ペガサスという名の由来は?」

 突然の問い掛けだったが、彼はすぐに答えてくれた。

「腰辺りにある白い四つの点がペガスス座の四方形に見えるからペガサス。それと、黒い毛並みの中にある白い点が夜空の星に見えるから……」

 彼はそこまで言うと目を伏せた。
 途端、彼の目からも涙が溢れ出てきた。

「星に見えるから、星と書いてあかり……。母さんと同じ名前にしようかとも思った」

 涙で何も見えなかった。
 嬉しくて哀しくて、そして切なかった。
 この家にやってきたとき、ミルクを飲み終え、まどろんでいた私の身体を撫でながら名前を考えている遙さんの姿が甦る。

「ありがとう。覚えてくれていて。私はペガサスです。ううん、ペガサスの想いが私、あかりです」

 遙さんが震える手をそっと差し出した。
 私はその手を両手で握る。
 暖かな優しい手。
 私をいつも撫でてくれていた、私だけの大きな手。
 その手を頬に充てて私は言葉を続けた。

「私、シリウスの目を盗んで小川に行き、水を飲んでいるときに発作を起こして倒れたの。そして、降り出した雨に打たれまいと必死で岩陰の中に隠れたわ。とても苦しかった。でも、私の帰る場所はここだって思いながら痛みに耐えたわ。大地さん、遙さんのところへ必ず戻るって。でも、意識は次第に薄れていくだけだった。私、力を振り絞って雨雲の彼方に輝いているはずの星に願ったの。もう一度あなたに逢いたい。あなたに自分の気持ちを伝えたいって」

 胸に耐えがたい苦しさを感じた私は深呼吸をして息を整える。

「私は何時の間にか人間の女性に……、あかりになっていたわ。私は、ペガサスの想いの幻影なの」

 遙さんが震える手で私を抱きしめた。
 暖かい彼の腕の中。
 そう、私はこうしてこの家にやって来たのだ。
 あなたに教えられた私の居る場所に。
 私の帰る場所に。

「幻影なんかじゃない。あかりの身体はこんなにも暖かいじゃないか」

 彼の腕に力がこもる。

「約束しただろう、ずっとここに居るって……」

 私を抱きしめたまま、遙さんはそっと頬にキスをしてくれた。
 幸せな気持ちが胸いっぱいに広がっていく。
 彼の大きな手でいつも撫でられていたこと。
 一緒にベッドで眠りに就いたこと。
 星座を教えてもらったこと。
 寝ている彼の唇にそっとキスをしたこと。

 ペガサスのときの様々な思い出が幾つも幾つも鮮やかに甦ってくる。
 でも、もうそれも思い出にしなくてはいけない。彼の涙が私の頬を伝っているから。
 そう、私は遙さんを哀しませるためにあかりになったのではない。笑顔でありがとう、そして大好きという想いを伝えるためなのだ。

 私は溢れ出る涙を拭った。

「私の心の中はいつもあなたへの想いで輝いていたわ。そう、それは夜空に輝く星のようだった。私は……、そんな想いをあなたに伝えたかったの。だからこうして願いが叶ったの。あかりになれたのよ」

 もう限界だった。呼吸が乱れ、息が途切れ途切れになる。
 しかし、どうしても彼に伝えたい言葉があった。
 私はもう一度深く息を吸い、呼吸を整えた。

「今のままの遙さんでいてね。そうしたら私、生まれ変わっても必ずあなたに恋をするわ。何度でも……、好きになるわ」

 胸の痛みはピークに達し、意識が遠のいてくる。
 でも、不思議と穏やかな気分だった。
 大好きな遙さんの胸に抱かれている。
 私の尽きせぬ想いも一緒に。
 それだけでとても幸せだった。

「あかりさん……」

 大地さんが涙を拭い、笑顔で私の手を握ってくれた。

「大地さん、ありがとう。私、ほんとうに幸せでした。きっと(あかり)さんが、この姿と力を貸してくれたんです。何度も私に呼び掛けてくれていたのも(あかり)さんでした」

 彼は何度も頷き、手にそっとキスをしてくれた。
 私は最後の力を振り絞り、最愛の遙さんを見つめた。
 しかし、大好きな彼の顔はもうぼやけてよく見えなかった。
 でも瞼には彼の笑顔が焼き付いている。
 私は彼の手を握ったまま囁いた。

「遙さん、大好きよ。私を拾ってくれてありがとう。育ててくれてありがとう。傍にいてくれてほんとうにありがとう。大好きだったわ。あなたが……、大好き」

 彼の暖かな涙の雫が頬にポタポタと落ちてくる。
 私は震える手を伸ばし、彼の目をそっと拭った。
 その時、彼の囁いた声がはっきりと聞こえた。


「俺も大好きだよ」


 その言葉に私は微笑んだ。
 そして彼の腕の中で、私はゆっくりと瞳を閉じた。






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 エピローグ


 茜色の季節が過ぎた。
 山並みを彩る木々は何度かの模様替えをし、白い季節はもう目の前だった。

 裏庭の落ち葉を集めていた遙の耳に、来訪者を告げるチャイムの音が聞こえた。
 そっと箒を縁側に立て置き、秋桜の咲く庭から玄関に向かうと、セーラー服を着た小学生の女の子が思いつめた表情でそこに立っていた。女の子は遙に気付くと、深く頭を下げる。彼女は小さなダンボール箱を抱えたまま、遙の顔を恐る恐る見上げて言った。

「あの、私は美空町の高階 千里です。今日はお願いがあって来ました。家で飼っているスピカが赤ちゃんを産んだんです。でも……でも、たくさん産まれて全部の赤ちゃんを飼えないんです。だから、お隣のお家やお友達のお家で何匹か引き取ってもらったんです。だけど、だけどこの()だけどうしても里親が見つからなくて……。河埜先生のところなら預かってくれるかも知れないって、お友達のお父さんが教えてくれたんです。だから、お願いします。この()の里親になって下さい」

 女の子は涙ぐみながら、もう一度深々と頭を下げた。
 箱が揺れたことに驚いたのか、中から小さく「ミィ」と鳴くか細い声が聞こえた。

「仔猫だね」

 遙は女の子の頭を優しく撫でながら微笑んだ。
 遙の笑顔を見て少し安心したのか、女の子は涙を拭ぐい少女らしい屈託のない笑顔を見せた。

「はい。女の子です」
「名前はもう決めているのかな?」

 遙がそっと両手を差し出すと、女の子は胸に抱えていたダンボール箱を名残惜しむように手渡した。

「名前は、名前はペガサスって付けました。私、星を見るのが好きだから」

 その言葉を聞いた遙は目を細め、優しく微笑んだ。

「いい名前だね。ペガサスは僕が引き取ろう。可愛がるって君に約束するよ」

 彼女は安堵したように小さな吐息を吐いた後、弾けるような笑顔で言った。

「ありがとうございます。きっとこの()は……、ペガサスは幸せになれます」

 女の子は何度も何度もお辞儀をしながら帰って行った。

 彼女を見送ったあと、玄関に腰を下ろした遙は何かを懐かしむようにそっとダンボール箱の蓋を開いた。



 中にいたのは産まれて二ヶ月前後の仔猫だった。
 鳶色の瞳をしたその黒い仔猫は躊躇うような目で遙を見上げている。
 遙は微笑みながら仔猫をそっと胸に抱きしめた。

 そして、不安げな彼女を安心させるように彼は優しく耳元で囁いた。



「さぁ、今日からここがキミの家だよ」



 そのとき、何処からかあかりの声が聞こえたような気がした。



― ただいま……。


                                 私の帰る場所   了