虹の粒よりきらめいて


「部長っ」
「ん?」

 翌日の夕方、目を腫らした後輩くんが、三年の教室まで突撃してきた。ちょうど部室こと美術室に行く準備をしていたところだったから、カバンを持つと二つ返事で彼の元に向かった。

 怒号でも飛び交うのだと思われているのか、ぷるぷると震える彼を見ていると、非常に申し訳ない気分になる。

 とはいえ、自分は聞き役なので、彼が話し出すのを待った。

「あのっ、今日、美術室に行くまでにって思って」
「なるほど?」
「詳しい話……ちゃんと、言いたくて」

 どこの教室も今は下校時間で慌ただしいし、部活も始まるので、空き教室もまばらだ。ほかの後輩に聞かれるよりいいか、と廊下で話すことにした。
 校門側から遠い、出来るだけ人通りは少ないほうを選んだが、生徒全員が使わないわけでもないので、人通りはゼロではない。

「えっと、あの……」

 人が通るたびにキョロキョロしている彼の歯切れの悪い言葉に、俺は「落ち着いてからでいいよ」と呟くに留まった。
 本気の絵をダメにされたのだから、怒るべきなのだとはわかるが、自分はどうもその感覚が鈍いらしい。
 むしろ、ほかの部員がしっかりと言葉にしていたために、「あえて自分まで怒らなくていいか」と思っているのかもしれない。

 下校する生徒が粗方いなくなってから、彼は「僕が悪いんです」と話し始めた。

「部長を訪ねてきてた子がいて」
「うん」
「僕、その子を案内しようとしたんです。隣のクラスの、森山くんって言うんですけど」
「そうなんだ」

 ゆっくりと相づちを打ちながら、彼の話を聞いていたが、なぜだか口をもごもごさせて言いづらそうにしていた。
 ややあって、彼は意を決したように言った。
 
「ただ、自分も描いてる最中だったんて、イーゼルも邪魔だよねって片付けようとしたら、その、イーゼルごと、倒して、しまって……」
「そっか、大変だったね」
「っ、でも、ほんとにわざとじゃなくて」
「うんうん」

 思い出すだけで感極まってきたのだろう。
 後輩くんは上半身を太ももに向かって折り曲げるように、体を小さくしていた。
 別に、俺がどうにか出来る問題は、ちゃんと絵を描くことだから、なんの問題もないだろう。

「俺を訪ねてきた子……森山くん? は、なんか言ってた?」
「絵を見せようとしてたんで、その、前後はわかりませんが、見れたんじゃ、ないかって」
「……そっか」
「あの」
「大丈夫、きっとその子はまた見に来るよ」

 そうでしょうか、と言いたげな彼は、口をつぐんだ。部員でもない人が美術室に来ること自体が微妙と思っているのかもしれない。

 別に閉鎖しているわけでなし、たまに勉強道具を借りに来る人たちもいるので、完全閉鎖は難しいだろう。それに、閉鎖しきっているかどうかでピリつくのも、無駄だろう。

 建設的な答えは見つからないなと、俺は首をひねるに留まった。
 別に、絵を割いてしまった彼をとがめるつもりもなかったので、俺は口添えすることもなく、彼の感傷を止めることはなかった。

「今日、部活行かない?」
「え。いや、行っていいんですか、僕、あんなこと……したのに」
「大丈夫。そもそもの絵の持ち主がそう言ってるんだから。ね、行こう?」
「あっ、あの……はい」

 しぶしぶ、と言ったかたちだが、後輩くんは無事に休まず美術室に吸い込まれて行った。
 俺は何も知らなかった顔を作り、一分も経たないうちに美術室に入り、新しく据え付けられたキャンバスのロールを見て苦笑した。
 どうやら先生が準備してくれていたらしい。真新しいふせんには「廣田部長用」とだけ書き添えられている。

 このまま使うのであれば、これでもよかったけれど、あいにく、俺は描いている途中のそれを投げ出すつもりはない。
 そして、ここに「部長」宛での来訪者だ。新入生なら、容易に想像がつく。

「……きっとヒロトくんだろうな」

 その惨状の中にいたとあっては、気を悪くしたことだろう。

 厚塗りにしていた部分がきれいにはげてしまったので、そこを隠すか、再度盛り上げていくべきなのだと思う。
 こればかりはどうすることもできないが、再度同じような絵を描くのはしんどい。
 もう一度同じように塗ることもできるが、せっかくの彼の横顔に傷をつけてしまったような気がして、

「あ……そうか」

 別に、元の姿に戻す必要はないのではないか、と俺は考えた。

 いっそ、頭もシャボン玉にしてやろうか。それなら、多少の段差もイラストの工夫としてわかりやすくなる。
 電球頭や、ビデオカメラ頭の人だっているのだ、しゃぼん頭にしたっていいだろう。

 だったら、黄緑のタートルネックにしたほうが「それっぽい」だろう。
 ヒロトくんの顔も描く必要がなくなる。

 無邪気と儚さの間に立つ彼は、とてもかっこよく見えたのだけれど。
 俺がそれを表現する力を持っていないということを、認めたくは無かったのだった。