その景色の揺らぎに気付いたのは、たまたまだった。いつもと変わらず下校しようと、廊下を歩いていたときのこと。
夕日がよく入り込む廊下に、不可思議な影が現れて、消えた。
ぼうっと立っていれば、また同じように、浮かんで消える影。
「え?」
思わず俺は立ち止まり、窓の方向を見た。
まっすぐに突き刺さるオレンジ色を遮るように、ちらちらと、薄い透明な膜が浮かんでは消えている。
廊下側ではなく、外でやっているのだろう。窓にぶつかりそうになりながらも、その前に儚く消えていく薄膜。
正体を探るため、俺はきちんと下駄箱を経由して、先ほど見た廊下の辺りへ駆け出した。
「しゃ、ぼんだま?」
冷静に考えれば、そんなファンタジーな現象がその場で起こっているはずもない。
ゆらゆらと景色を歪めていたのは、シャボン玉だった。そして、当然それを膨らませていた生徒もそこにいた。
学ラン姿。同じ服装のはずだが、自分のものよりぱりっとした生地に見えるその服。
自分の声が彼に届いてしまったらしく、「え」と強めの声とともに、彼は振り返ってきた。
と思った瞬間、視界いっぱいに、小さなシャボン玉が溢れていた。
「ちょ……っ!」
俺と目が合うなり、俺に向かってシャボン玉を吹き付けてきたのだ。
なんだコイツ。うちの学校にそんなことする奴なんていただろうか。いや、違う学年ならわからない。
不審者、なんて言葉も浮かんだが、それをどうにか考えるより前に体が動いていた。
「ちょ、なにして」
「やばっ」
その人が慌てて逃げようとしていたのは、ちょうど芝生の上で。
彼の行き先には、彼自身が噴射したシャボン液がそこら中に広がっているわけで。
「……っ、わ」
「あぶなっ」
思わず腕を引き、彼が強かに腰を打ち付けるのを避けることができた。
代わりに腕が痛いとか言われたら、どうしようもないけれど、程度としてはこちらのほうがマシじゃないかと思う。
ぐっと引っ張ってしまった彼の腕は、華奢かと思いきや意外と肉厚で、自分と遜色ない体格のように思えた。
身長も同じくらい、となると、かなり引き締まった人なのだろうか。
やっていたことは、かなり子どもじみていたけれど。
びっくりして動けなくなっていた彼に、俺は思わず、強めに声をかけてしまった。
「ねえ、きみ! なにしてたの!」
「わ、悪いかよ! 高校生にもなってシャボン玉とか!」
反論はわりと甲高い声だった。
自分の周りは声変わりも済んでしまった奴らが多いせいか、微妙に幼い声のトーンに、俺は驚いて手を離してしまった。
「……こうこうせい」
「この春なったばっかだけど……って、なに、先輩?」
「え」
よくよく彼の制服に付けられている校章を見てみると、カラーリングが一年生のそれだ。
うちの学校は、三年ごとに同じ色を使うので、赤青緑のどれがどの学年か、一目瞭然だ。
俺のつけている緑色でも、一学年下の双子が着けていた赤色でもない、青色。
消去法で、彼は一年生だということになる。もちろん俺たちの先輩の可能性がないわけではないが、この春なったばかり、というのだから間違いないはずだ。
俺は息を整えて、彼に向き直った。
「一応、そうなるね」
「なんだ、先生かと思ってビビって損した」
「……ああそうご勝手に」
「うえっ、」
思わず口をついて出た言葉に、その後輩はぎょっと目を丸くしていた。
普段から大人しそう、と言われ続けていた見た目の良さがあだになったようだ。
しかし、逆を言えば、これはチャンスなんじゃないだろうか。
「あのさ、後輩くん」
「え、後輩じゃないです。大斗です」
「……わかった、ヒロトくんね」
自分の名前が廣田で、あだ名がヒロだということを考えないようにして、彼に応えた。
「ヒロトくん。シャボン玉、あの公園に向かって吹いてくれない?」
「え、いいけど」
「写真撮りたいんだ」
「写真?」
「参考資料。夕日が落ちる前に撮りたくて、あとで説明するから」
「……なんかわかんないけど、ちゃんと終わったら消します?」
「もちろん」
そこはかとなく、後輩というよりもただの友達のような距離感に苦笑しつつ、素直に準備している彼を見る。
ちょうど、陰り始めた夕焼け空が、淡いグラデーションになりつつある。しぶしぶ了承してくれた彼にひたすら感謝の思いを述べて、俺は彼の後ろ姿が中心になるよう、スマホを構えた。
全体を捉える必要はない。ただ、彼の浮かばせるそれにピントが合うのがいい。
じっくりと考えていても、あとは彼の気分次第だろう。
肩がゆっくりと上下して、透明な膜が、空へと舞い上がる。
「……っ」
小さなシャボン玉が、ふわふわと浮かび、爆ぜる。
その瞬間を、何度もタップしてスマホに収める。
「えっと、いつまでやればいい?」
振り返って、首を傾げた彼と、スマホ越しに目が合う。
そのまま俺は、シャッターを切っていた。彼の瞳がはっきりと見える形で。
背景には、朱色に染まるシャボン玉。
シャボン玉の中に、違う風景を収めたら。なにか、彼にまつわるもの、いや、俺の思い出とかでもいい。
一気に描きたいものが浮かんできて、俺は少しだけ、興奮していたと思う。
「あのさ、もっと大きいのとかできるけど」
「いいの? ヒロトくん、お願い。もう少し、何枚か撮るから」
「わ、かった」
彼の提案に、鼻息荒く応えたせいで、ヒロトくんは若干引いていたように思う。
でも、こっちだって必死なのだ。
「じゃあ、行くよ」
その声の数秒後、先ほどよりも静かに広がって、浮かんだ世界。
これかもしれない。いっそシャボン玉で埋めてしまおうか。
透明水彩でもいいし、色鉛筆でも。ただ、それだと真ん中の少年が埋もれてしまうかもしれない。
先輩にペンの使い方が上手い人がいたし、あの人の描き方を参考にしてもいいだろう。
もう一度、と言って一分も経たず、彼のシャボン液がなくなったらしく、諦めたように「空になった」と呟いて近付いてきた。
「で、なんで写真っすか」
「美術部なんだよ、モチーフ決まらなくて」
「……ふーん?」
「一応、顔はそのまま描かないから安心して」
「ちゃんと、流出しないようにしてくださいね」
「もちろん」
「じゃあ、できたやつ見せて。いや、なんか途中でもいいや」
「……わかった」
あまり進捗を見せるつもりはなかったが、全然見せないというのも不安だろう。
「一応、部長だから、美術室来てもらって部長って言ってくれたらわかるはず」
「……ってことは、三年? 偉い人?」
「偉くはないよ」
「ふーん」
できれば、名乗りたくなかったので、俺は部長で通すことにした。
それでも特に気にすることはなかったのか、「じゃあ俺帰るんで」とヒロトくんはすげなく帰っていった。
残された俺は、ぼんやりと彼の姿を反すうしてから、家路についたのだった。
夕日がよく入り込む廊下に、不可思議な影が現れて、消えた。
ぼうっと立っていれば、また同じように、浮かんで消える影。
「え?」
思わず俺は立ち止まり、窓の方向を見た。
まっすぐに突き刺さるオレンジ色を遮るように、ちらちらと、薄い透明な膜が浮かんでは消えている。
廊下側ではなく、外でやっているのだろう。窓にぶつかりそうになりながらも、その前に儚く消えていく薄膜。
正体を探るため、俺はきちんと下駄箱を経由して、先ほど見た廊下の辺りへ駆け出した。
「しゃ、ぼんだま?」
冷静に考えれば、そんなファンタジーな現象がその場で起こっているはずもない。
ゆらゆらと景色を歪めていたのは、シャボン玉だった。そして、当然それを膨らませていた生徒もそこにいた。
学ラン姿。同じ服装のはずだが、自分のものよりぱりっとした生地に見えるその服。
自分の声が彼に届いてしまったらしく、「え」と強めの声とともに、彼は振り返ってきた。
と思った瞬間、視界いっぱいに、小さなシャボン玉が溢れていた。
「ちょ……っ!」
俺と目が合うなり、俺に向かってシャボン玉を吹き付けてきたのだ。
なんだコイツ。うちの学校にそんなことする奴なんていただろうか。いや、違う学年ならわからない。
不審者、なんて言葉も浮かんだが、それをどうにか考えるより前に体が動いていた。
「ちょ、なにして」
「やばっ」
その人が慌てて逃げようとしていたのは、ちょうど芝生の上で。
彼の行き先には、彼自身が噴射したシャボン液がそこら中に広がっているわけで。
「……っ、わ」
「あぶなっ」
思わず腕を引き、彼が強かに腰を打ち付けるのを避けることができた。
代わりに腕が痛いとか言われたら、どうしようもないけれど、程度としてはこちらのほうがマシじゃないかと思う。
ぐっと引っ張ってしまった彼の腕は、華奢かと思いきや意外と肉厚で、自分と遜色ない体格のように思えた。
身長も同じくらい、となると、かなり引き締まった人なのだろうか。
やっていたことは、かなり子どもじみていたけれど。
びっくりして動けなくなっていた彼に、俺は思わず、強めに声をかけてしまった。
「ねえ、きみ! なにしてたの!」
「わ、悪いかよ! 高校生にもなってシャボン玉とか!」
反論はわりと甲高い声だった。
自分の周りは声変わりも済んでしまった奴らが多いせいか、微妙に幼い声のトーンに、俺は驚いて手を離してしまった。
「……こうこうせい」
「この春なったばっかだけど……って、なに、先輩?」
「え」
よくよく彼の制服に付けられている校章を見てみると、カラーリングが一年生のそれだ。
うちの学校は、三年ごとに同じ色を使うので、赤青緑のどれがどの学年か、一目瞭然だ。
俺のつけている緑色でも、一学年下の双子が着けていた赤色でもない、青色。
消去法で、彼は一年生だということになる。もちろん俺たちの先輩の可能性がないわけではないが、この春なったばかり、というのだから間違いないはずだ。
俺は息を整えて、彼に向き直った。
「一応、そうなるね」
「なんだ、先生かと思ってビビって損した」
「……ああそうご勝手に」
「うえっ、」
思わず口をついて出た言葉に、その後輩はぎょっと目を丸くしていた。
普段から大人しそう、と言われ続けていた見た目の良さがあだになったようだ。
しかし、逆を言えば、これはチャンスなんじゃないだろうか。
「あのさ、後輩くん」
「え、後輩じゃないです。大斗です」
「……わかった、ヒロトくんね」
自分の名前が廣田で、あだ名がヒロだということを考えないようにして、彼に応えた。
「ヒロトくん。シャボン玉、あの公園に向かって吹いてくれない?」
「え、いいけど」
「写真撮りたいんだ」
「写真?」
「参考資料。夕日が落ちる前に撮りたくて、あとで説明するから」
「……なんかわかんないけど、ちゃんと終わったら消します?」
「もちろん」
そこはかとなく、後輩というよりもただの友達のような距離感に苦笑しつつ、素直に準備している彼を見る。
ちょうど、陰り始めた夕焼け空が、淡いグラデーションになりつつある。しぶしぶ了承してくれた彼にひたすら感謝の思いを述べて、俺は彼の後ろ姿が中心になるよう、スマホを構えた。
全体を捉える必要はない。ただ、彼の浮かばせるそれにピントが合うのがいい。
じっくりと考えていても、あとは彼の気分次第だろう。
肩がゆっくりと上下して、透明な膜が、空へと舞い上がる。
「……っ」
小さなシャボン玉が、ふわふわと浮かび、爆ぜる。
その瞬間を、何度もタップしてスマホに収める。
「えっと、いつまでやればいい?」
振り返って、首を傾げた彼と、スマホ越しに目が合う。
そのまま俺は、シャッターを切っていた。彼の瞳がはっきりと見える形で。
背景には、朱色に染まるシャボン玉。
シャボン玉の中に、違う風景を収めたら。なにか、彼にまつわるもの、いや、俺の思い出とかでもいい。
一気に描きたいものが浮かんできて、俺は少しだけ、興奮していたと思う。
「あのさ、もっと大きいのとかできるけど」
「いいの? ヒロトくん、お願い。もう少し、何枚か撮るから」
「わ、かった」
彼の提案に、鼻息荒く応えたせいで、ヒロトくんは若干引いていたように思う。
でも、こっちだって必死なのだ。
「じゃあ、行くよ」
その声の数秒後、先ほどよりも静かに広がって、浮かんだ世界。
これかもしれない。いっそシャボン玉で埋めてしまおうか。
透明水彩でもいいし、色鉛筆でも。ただ、それだと真ん中の少年が埋もれてしまうかもしれない。
先輩にペンの使い方が上手い人がいたし、あの人の描き方を参考にしてもいいだろう。
もう一度、と言って一分も経たず、彼のシャボン液がなくなったらしく、諦めたように「空になった」と呟いて近付いてきた。
「で、なんで写真っすか」
「美術部なんだよ、モチーフ決まらなくて」
「……ふーん?」
「一応、顔はそのまま描かないから安心して」
「ちゃんと、流出しないようにしてくださいね」
「もちろん」
「じゃあ、できたやつ見せて。いや、なんか途中でもいいや」
「……わかった」
あまり進捗を見せるつもりはなかったが、全然見せないというのも不安だろう。
「一応、部長だから、美術室来てもらって部長って言ってくれたらわかるはず」
「……ってことは、三年? 偉い人?」
「偉くはないよ」
「ふーん」
できれば、名乗りたくなかったので、俺は部長で通すことにした。
それでも特に気にすることはなかったのか、「じゃあ俺帰るんで」とヒロトくんはすげなく帰っていった。
残された俺は、ぼんやりと彼の姿を反すうしてから、家路についたのだった。


