祈りの先の物語

 太陽が体のほぼ真上にあるせいで、頭のてっぺんがジリジリと音を放ちながら焼けていく感覚がする。帽子でも被ってくるべきだった。あるいは日傘か。志貴のことだから、大和さんに日傘の一本でも持たせていそうだけれど、俺の半歩先を行く大和さんはそういった日除けのアイテムを活用することはなく、加えて着用している黒いハイネックシャツの袖をまくることすらしないまま、淡々とあぜ道を歩いている。
 この人は、暑さを感じないのだろうか。研究室にいたときと今とで、あまりにも表情や服装、言動が変わらない大和さんに対して、俺はなんとなく、人間味を感じられないでいた。もしかしたら彼は、変温動物なのかもしれない。
 俺がそんな失礼なことを心の中で呟いているうちに、大和さんは一件の家の前で立ち止まる。彼に倣って足を止めた先には、穂積家ほどではないにしろ、仰ぎ見るほどには高く、十分立派な造りをした日本家屋があった。表札に書かれた「鳴子」という文字を見て、ここが穂積さんと公英さんの幼馴染みである「鳴子朔」の家であることを知る。
 大和さんが「案山子の元へ」と言うから、てっきりあの田畑に立ち並ぶ案山子を一体ずつ調べでもするのかと身構えていたが、目的地は鳴子家だったのか。
 確かに、村の案山子のほとんどは鳴子家が作っていたと、公英さんは言っていた。今がどうかは知らないが、この家の中になら案山子があってもおかしくはない。
 インターホンのようなものは見つからず、俺はその場で「ごめんください」と声をかけてみる。一度だけでは反応がなかったが、周りに自分たち以外の人影が見えないのをいいことに、さらに大きな声でもう二、三度声かけを繰り返す。
 するとしばらくの後、玄関扉ではなく、そこから左側に回り込んだ場所にある縁側から、「はい」という声がした。耳馴染みの良い中低音につられて顔をそちらへ向けると、紺色の作務衣をまとった黒髪の男と目が合った。涼やかな目元を細めた男は、突然やって来た俺たちに嫌な顔ひとつ見せず、「何かご用でしょうか」と尋ねる。
「あの、初めまして。えー、僕たちはですね、この村に観光に来たといいますか、あの、大学で研究していることで少し……」
「あなたの作る案山子を見せていただきたい」
 いざ用件を聞かれると、鳴子家を訪ねた理由はおろか、この村に来た理由すら上手いこと説明ができずに四苦八苦していると、大和さんが端的に言い放つ。大和さんの言葉を受けた男は、不躾ともとれる彼の要望にそれでも表情を崩さず、それどころか「こちらへどうぞ」と俺たちを縁側へ手招くのだった。
 恐縮しながら敷地に足を踏み入れる俺と、促されるままに縁側に腰を据える大和さんを、男は数秒の間微動だにせず見つめると、お茶を淹れると言い残して部屋の奥へと姿を消した。
 彼の背中を追って部屋の中へと目をやった俺は、その軽率な行動をすぐに後悔する。
「あれ? ほかにも人が……ヒッ!」
 日の光によって照らされた部屋のいたるところに、案山子、カカシ、かかし。
 まるでそこに暮らす人であるかのように、椅子や座布団に座ったり、畳の上に寝転んだりしている、十数体の案山子がいる。
「大和さん、帰りましょう」
「なぜ」
「だってこんな、ヤバいですって」
「何が」
「案山子ですよ、見えないんですか? 俺、あまりにリアル過ぎて一瞬住人かと思っちゃいましたよ。もう少しで挨拶するところでした」
 部屋中の案山子から全力で目を逸らして大和さんに訴えても、彼はどこ吹く風という様子で、俺を鬱陶しがる。
「もう忘れたのか、ミズホ。オレはここへ、案山子を見るためにきたんだ」
「そうは言っても限度があるでしょうが!」
 そりゃあ俺だって、案山子を作っている家へ行くのだから、庭先に佇む案山子の一体や二体、覚悟をしていた。けれどここにいるのは、あのよく見る田畑に置かれた案山子というよりはむしろ、誰かの身代わり人形のような、奇妙なリアリティーのあるものだったから、こうして動揺しているのだった。
 俺がもう一度大和さんに帰宅を提案しようとした矢先、背中から先程の男の声がした。
「驚かせてしまってすみません。僕、案山子を作ってネットで販売しているんですよ」
 これは今度発送する分ですと、片手で側にあった案山子の頭を小突いた男性は、片手に持っていた盆から、湯飲みと饅頭を置いてくれた。
「申し遅れました、僕は鳴子朔と申します。鳴子の家は昔から、この村のために案山子を作ってきましてね。僕の父までは本業の合間に案山子を作っていましたが、僕はこれを専業にするつもりで」
 そう言って見せてくれた携帯の画面には、通販サイトらしきものが表示されている。人間のような案山子の写真がいくつかイメージ画像として紹介されている隣には、「完全受注生産」「屋外設置可能」「等身大かかし」の文字があった。
「案山子本来の役割としてはもちろん、不審者対策の同居人や抱き枕、お店のマスコットキャラクターといった、色々な用途でご要望いただいているんです。一番面白かったのは、理想の彼女が欲しいという理由でしたね」
 茶目っ気たっぷりに笑う朔さんに、俺は呆気にとられる。想像していたよりも、ずっと明るい人だった。三年前の事件をきっかけに、村人との関係をほぼ絶っていると公英さんは言っていたから、もっと暗くよどんだ気配をまとった人だと思っていたのに、これでは身構え損である。
「それで、お二人のご用件はなんでしょうか。そちらの方は案山子を見たいとおっしゃっていましたね。ご購入希望の方ですか?」
 朔さんの問いに、俺はまず名前を名乗った。次いで大和さんのことも朔さんに紹介して、案山子の購入希望ではないことを伝える。
「そうでしたか。早とちりをしてしまって、お恥ずかしい」
 照れたように肩をすくめる彼にこれ以上何を説明すればいいのかわからず、大和さんを見る。案山子を見たいのなら、あの発送前だというものを見せてもらえないかと頼めばいいのだろうか。そう考えた俺は、まず朔さんに案山子の作り方を尋ねた。
「あの案山子は、どうやって作っているんですか? 本物の人そっくりですごいというか、そもそも俺、顔にへのへのもへじが書いてある案山子ですら、作り方を知らなくて」
「たしかに、一般的に案山子というと、へのへのもへじのあの顔をイメージしますよね」
 朔さんは一番近くにいた、床に寝転がった状態の案山子を持ち上げる。近くで見ると、髪や手の質感は作り物だとわかるが、おそらく着ているものが人間用の服なので、やっぱり人間味が拭えない。まるで、人間のフリをしている人形といった漢字で、余計に怖くなってきた。
「僕が作っている案山子は、基本的に木材とワイヤーを使っています。体はほとんど木材を削って形を整えているので、持つと結構重たいんですよ」
 そう言いながら試しにとばかりに案山子をこちらへ持たせようとしてくれたが、「壊したら申し訳ないから」と言って遠慮をする。本当は、持った瞬間に動き出しそうで怖かったから断ってしまっただけなのだが。
「腕と足にはワイヤーを使って、多少稼働するようにしています。だから、ポーズの自由が利くんですよ。ワイヤーのまわりには新聞などで肉付けをして、手と顔は石塑粘土で型を作った上から布を被せています」
 着せられた服をめくると、朔さんの言うとおり、布やワイヤーが見える。朔さんは案山子に服を着せ直しながら、この服は昔自分が着ていたものであると教えてくれた。
「より人間らしく見えるように、人の服を着せているんです。村に置いている案山子は、村の誰かが昔着ていたもののことがほとんどですよ。この服を着せてほしいと、オーダーの際にわざわざ送ってくださったお客様もいましたね」
「どうして、人間らしく見せる必要があるんですか?」
 売り物ならば、ユニークさのためにも人間に近づけようとするのは理解できる。だが、村の中で使う案山子まで、人間らしくある必要がわからない。
 俺が疑問を投げかけると、朔さんは困ったように形の良い眉を下げた。
「……さあ。僕も、父から教わった作り方を踏襲しているだけなので、理由まではわかりません。考えたこともなかったな」
 お答えできずにすみませんと苦笑する朔さんに、慌てて不躾な質問であったことを詫びると、彼は「でも」と顎に右手を添えて続けた。
「『供養のため』と……父が言っていた気がします。僕がずいぶん幼い頃の記憶なので、不確かなものですが」
 なおも申し訳なさそうに伝える朔さんの右手には、どこかで見た覚えのあるチャームが付いた、細い銀色のブレスレットが揺れていた。
「供養のため」。代々の鳴子家の人々がどうかはわからないが、少なくとも朔さんの父親はそのために人間そっくりの案山子を作っていた、ということだろうか。
 案山子と供養と聞くと、明日行われる祭りである「御供養様」が脳裏をちらつく。あれはたしか、案山子を供養するための祭りだと六花さんが言っていた。俺の中での供養は、役目を終えたものを捨てるというイメージだが、朔さんの父親の言うとおりならば、因果関係が逆になるように思えてしまう。
 役目を終えた案山子を供養するのではなく、供養するために案山子を作る、ということだ。祭りに備えて案山子を作るという意味だろうか。なんだかよくわからなくなってきた。
 そろそろ大和さんにも何か言ってもらいたいという思いで彼を見るが、相変わらずぴくりとも動かないで座っている。せっかく朔さんが色々と話をしてくれているのだから、せめて相槌くらいは打ってほしいものである。
 突然押しかけた二人組のうちの片方の愛想がまるでよくないことに勝手な申し訳なさを抱えながら、なんとか俺が話を広げねば、という気持ちで朔さんの方を見る。すると彼は俺ではなく、俺の隣にいる大和さんを見ていた。その目は軽く見開かれている。
 朔さんのそんな表情に俺が何かを尋ねる前に、朔さんが「あの」と声を発した。
「お連れの方、体調が優れないのでは?」
 大和さんから俺に視線をずらしながら、朔さんが言う。体調が優れないって、まさか、大和さんが?
 俺よりも少しだけ下に頭があるせいで、座っている状態の大和さんの顔はよく見えない。思わず覗き込むように彼の表情を伺うと、一見いつも通りの無表情に見える。しかし、朔さんの言葉が気にかかってよくよく観察してみれば、常ならば青白い肌が若干赤らんで見える。むしろ健康的な色味な気がするが、浅く速い呼吸や虚ろな目を見るに、体調が良いとは言えなそうであった。
「大和さん、聞こえますか。これ、何本に見えます?」
 彼の目の前で指を三本立てて軽く振ると、それは小さな声で「さん」と返された。我ながらどうかと思うほど雑な問い掛けにもかかわらず素直に答えるあたり、どうやら相当参っているらしい。
「熱中症でしょうか。この村は日除けになるようなところもありませんから」
 そう言って立ち上がった朔さんは、背中側の襖を開けて足早にどこかへ行く。
 朔さんは村に日除けがないからと言ってくれたが、どう考えても原因はこの人の格好である。この炎天下に長袖長ズボン、しかも上に着ているものがハイネックとは、どういう了見だ。加えて今日は、朝早くからかなりの距離を歩いている。ただでさえ体力なんて皆無の不健康な見た目をしているのに、移動中に大和さんが水分補給をしているところも見ていない。穂積さんの家で出されたお茶が、今日最初の水分だったのではないだろうか。
「大和さん、体調が悪いなら、無理せず言ってくださいよ。とりあえず今日は、もう穂積さんの家に戻って休ませてもらいましょう」
 勝手に服を脱がせるわけにもいかず、手持ち無沙汰に右手で彼の顔周りを仰ぐ。持っていた資料を使えばよほど風がなびく気もするが、人様から借りている物でそんなことはできないので、仕方なくそよ風とも呼べない微量の風を送り続けた。
 大和さんはもう完全に両目を閉じて、頭も少しふらついている。そんな様子なのに汗をまったくかいていないあたり、かなり危険な状態かもしれない。俺の分のお茶もなんとか飲ませていると、保冷剤とペットボトルを手にした朔さんが姿を現した。
「僕の家、保冷剤があまり多くなくて。とりあえずこの二つを、両脇の下に挟んで固定してください。あと、このペットボトルは経口補水液が入っています。食塩と砂糖で作った簡易的なものですが、ペットボトルごと差し上げるので、こまめに飲ませてあげてください」
 至れり尽くせりの歓待に恐縮していると、休む場所の当てを聞かれる。
「もちろん我が家で休んでいかれても結構ですが、いかがなさいますか」
「ああいえ、それは大丈夫です。……えっと、穂積さんのお宅に泊まらせていただくことになっていまして」
 穂積さんたちと朔さんとの関係性を思い出し、話してもいいものか少しだけ迷ったが、隠すことでもないと思い直して素直に宿泊の予定を告げる。
「穂積」という名前を聞いた朔さんは、一瞬動きを止める。けれどすぐに、何事もなかったように柔和な笑みを浮かべて、「そうですか」と彼は言った。
「では、あの子たちをよろしくお願いします。……お大事に」
 彼の言う「あの子たち」が穂積さんと公英さんを指していることは、すぐに察しが付いた。なぜならその時の朔さんの微笑みが、彼のことを話す穂積さんと公英さんのそれと、そっくりだったから。


 力の抜けた大和さんをおぶって帰宅した俺に、穂積さんは目をまんまるに見開いて、それは大慌てで家中を駆け巡り、客用布団と扇風機を抱えてやって来た。
 そんな、誰よりもパニックに陥る穂積さんとは対照的に、公英さんの動きは的確で無駄のないものだった。風通しが良く、それでいて日の光が当たりすぎない一階の奥の座敷に布団を敷くよう穂積さんに促すと、自分の部屋から持ってきた薄手の甚兵衛を大和さんに手渡す。
「その襖を開けて右、廊下の突き当たり左側に風呂場がある。ざっとシャワーだけ浴びてこいよ。着替えはそれ。タオルは風呂場の下の棚にある。わかりづらかったり、一人じゃ歩けないほど体調が悪いなら、俺が付いていくけど」
 公英さんの言葉に緩く首を横に振った大和さんは、大人しく言われたとおりの襖を開けて、廊下へと消える。まだ知り合って日は浅いが、あそこまで他人に従順な大和さんは初めて見た。やはり相当体調が良くないように思えるが、これは志貴に連絡をした方がいいのだろうか。いや、万が一俺のせいで体調不良になったと思われれば、治療費と称して給料を減らされかねないのか?
 俺が、大和さんの健康と自分のお金とを天秤にかけるなどという、あまり健全ではない思考を巡らせているうちにも、公英さんはてきぱきと部屋を整えていた。
 穂積さんが持ってきた扇風機を首が回るように設定すると、網戸にした部屋の窓付近に設置する。枕の下に柔らかい保冷剤を入れて、掛け布団ではなく大判のブランケットを足元に置く。枕元には氷水の入った桶があり、その中には手ぬぐいと、朔さんが作って持たせてくれた経口補水液入りのペットボトルが冷やされていた。
 用意周到な公英さんの姿に感心していると、穂積さんが俺の隣にぺたんと座り込み、声を潜めて「驚いた?」と聞いてくるので、素直に頷く。
「私、小さいときは体が弱かったんです。今日みたいな暑い日にバテちゃったこともたくさんあって。そんなときは必ず、公ちゃんと朔ちゃんが私のお母さんと一緒になって、ああやってお世話してくれたんです」
 なるほど、昔から看病には慣れていたというわけか。だからこそ朔さんも、あの短時間で経口補水液なんてものが作れたのかと合点がいく。
「このお座敷で、公ちゃんが冷やして絞ってくれた手ぬぐいを首に巻いて、朔ちゃんの作ってくれた経口補水液を飲んだら、大和さんの熱中症もすぐに良くなりますよ。経験者は語る、ってやつです」
 安心させるように俺を見て微笑む穂積さんには、なんの説明もしなくとも、あのペットボトルが朔さんの作った飲み物だということがわかるのだな。公英さんも、俺が持っていたあのペットボトルを見るやいなや、中身を聞かずに氷水の入った桶で冷やし始めていた。
 甚兵衛を着て戻ってきた大和さんを見て、開口一番「髪の毛!」と声を揃えた穂積さんと公英さんを見ながら、これが俗に言う幼馴染みの絆というやつか、と感動を覚える。
「おい、何ぼけっと見てんだ。あんたの連れだろ、あんたが世話しろ」
 公英さんにいつの間にか手渡されたドライヤーを使い、濡れた大和さんの髪を乾かし終わってもなお、俺の心には「幼馴染みっていいなあ」という一種の憧れが芽生えたままだった。

 大和さんが寝静まったのを見届けて、俺は少し遅めの昼食をいただくことにした。穂積さんと春田さんが作ってくれたというサラダうどんは、上に乗ったキュウリやレタス、トマト、ナスといった野菜だけではなく、うどん自体も、穂積家の所有する畑で採れた小麦から手作りしたものだと、穂積さんは自慢げに教えてくれた。
「昨日のうちに、紫苑さんとおうどんを作っておいたんです」
「うどん作るのなんて久しぶりやったから、ええ運動になったわ」
 軽快に会話を続ける二人を横目に、俺はうどんをすする。手作りと言われなければわからないほど、市販品と変わらない味と食感のうどんは、多少暑さにやられていた俺でも、ぺろりと平らげることができた。
 このレベルの食事が自分の所有する畑で採れた食材だけを使って作れるのなら、穂積家はもしかして自給自足ができているのではないだろうか。そんな素朴な疑問を穂積さんに尋ねると、彼女はそれをすぐに否定した。
「うちは酪農や牧畜はやっていませんから、お肉や牛乳、卵とか、そういうものはお店で買っていますよ。あ、でも卵は鶏を飼っているお家から譲っていただくことの方が多いかも。どっちにしろ、穂積の家が所有している畑と田んぼでは、お野菜とお米だけを作っていますね」
「そういえば、この家の周りは特に田畑が多いですよね。どれが穂積家のものなんですか」
「ああ、全部です」
 朗らかに告げられた穂積さんの言葉に耳を疑う。全部? 全部って、あれ全部ってことなのか?
「はい。この家を囲うようにある大きく分けて五つの畑と、道を挟んで向かい側にある田んぼが三つですね。この家から見える範囲の畑と田んぼは、すべて穂積家の所有している土地ですよ」
 思っていた以上に広大な土地の面積に、改めて村長という役割に納得せざるを得ない。先程大和さんと鳴子家へ向かう道すがら、ざっくりとこの村を見渡してみたが、おそらく村の三分の二ほどが、穂積家の所有する土地面積なのではないだろうか。
 村の中でも、いわば絶対的地位を築いている家の娘と幼馴染みであり、そんな彼女に婿入りをすることになった公英さんの心境は計り知れない。そりゃあ、村長に逆らおうという気もなくなってしまうか。
 公英さんは、本来なら朔さんが穂積さんと結婚するはずだった、というような事を口にしていた。しかし三年前に事件が起こり、その関係で朔さんが村人と自ら距離を取り始めた結果、「婿入りが決まった」と。もしかしたら、望んだ結婚ではなかったのかもしれない。
 公英さんが穂積さんを大切に思っていることは、この半日のうちに嫌というほど伝わっている。それでも、公英さんは彼女と同じくらい、朔さんのことも大切に思っている。そのことだって、俺は……否、俺でなくとも、彼と少し話せば誰でもわかるくらい、彼は露骨だ。本人は隠しているつもりかもしれないが、根が素直な分、にじみ出るものというのがある。
 では、誰が公英さんの婿入りを望んだのだろう。穂積さん自身だろうか。だが、彼女も彼女で、公英さんと朔さんの二人を、同じように大切に思っていることがよく伝わってくる。穂積さんの母親も、生前は朔さんと穂積さんが結婚することを望んでいたと、公英さんは言っていた。それが事実だとすれば、残るは村長か。
 村長はいったいなぜ、公英さんが穂積家に婿入りすることを望んだのか。あるいはなぜ、朔さんの婿入りを望まなかったのか。
 村で悲惨な事件を起こしたかもしれない人間の息子だから、敬遠した? その可能性はなくもない。これだけ村の中で確かな地位を築いているともなると、ある種のスキャンダルになりかねない事態は、極力避けたいと思うことは自然だ。
 ──いや、待てよ。
 村長が朔さんではなく公英さんを婿にと推す意味は、なんとなく想像がつく。ならば、穂積さんの母親が、公英さんではなく朔さんを婿に推していた理由は何だ?
 彼らは二人は、どちらも自分の娘である穂積さんを大切に思って接していただろうし、穂積さん自身も彼らに優劣をつけることなく、平等に絆を深めていたはずだ。そもそも穂積さんの母親は、彼女たちの名前を三人でひとつとなるようにつけたかもしれない張本人のうちの一人である。ならば、公英さんと朔さん、どちらか一人を優遇することは、あまり考えられない。
 公英さんの名字が蒲ではなく穂積になると、彼が花の名前を持たなくなってしまうから、公英さんの婿入りを止めた? それが本当ならば、あまりにも幼稚ではないだろうか。何より、そんな理由から幼い公英さん本人に朔さんの婿入りを推すような発言をしていたのなら、それはかなり残酷で身勝手な話である。
 何か、何かほかの、もっと別の理由があったのではないだろうか。
 幼いうちから公英さんに、穂積さんとの結婚を諦めさせなければいけない理由が、何か……。

「なあ、お前はどうする?」
 まるで海の底に沈んでいくように、思考の波に意識が飲まれかけていたとき、公英さんの声が脳を揺さぶった。はっとして横を見ると、食事を終えた公英さんが、机に頬杖を突いたまま俺を見ていた。
「なんだよ、ぼーっとして。お前も具合が悪いのか?」
 彼の言葉を慌てて否定しながら、どうするとはどういうことかを尋ね返す。
「聞いてなかったのかよ。これから、明日の祭りの準備があるんだ。俺はその手伝いに行くけど、お前はどうするって聞いたんだ」
 祭りの準備か。つまり、村のことをもう少し色々知れる良い機会かもしれない。大和さんが寝込んでいる今、俺が情報収集をするべきだろう。
 そう考えて、公英さんと共に祭りの準備を手伝う旨を伝える。穂積さんは家に残って、大和さんの看病をしてくれるらしい。
「ありがとうございます、何から何まで」
「いいんですよ。体調の悪い方を置いて家を空けるのは心配ですから。むしろ、お手伝いに行けなくてごめんなさい」
 看病をしてくれるだけでもありがたいというのに、穂積さんは祭りの準備を手伝えないことに対して申し訳なさそうな顔を見せる。そんな彼女を、公英さんはすぐに否定した。
「いいんだよ、六花は。明日の本番で、大役があるんだから」
「大役?」
 公英さんの発した「大役」という単語を聞き返すと、穂積さんは照れたように、少しだけ赤らんだ頬を人差し指でかく。
「穂積の家の女性は、御供養様のときに、田んぼの近くに組むやぐらで舞を踊るんです」
「そのあと、供養する案山子と一緒に神輿に乗って烏矢津の森に行くんだ。そうして案山子に火をくべるまでが、六花の役割なんだよ」
「『烏矢津の森』っていうのは、公ちゃんや朔ちゃんのお家があった方の奥にある森のことです」
 穂積さんの補足で、俺は頭の中でこの烏矢津村の地図を描く。たしかに先程訪れた鳴子家の近くに、木が生い茂っていた場所があった。村に入って一番最初に登ったあの森のようなところが、もうひとつあったとは。
 段々とこの村の位置関係を把握してきたところで、それまで黙って俺たちの会話を聞いていた春田さんが、突然右手をピンと伸ばしながら「はいはーい」と口を挟んだ。
「一応言っとくと、ウチはお祭りの準備はパスするで。六花ちゃんと夕飯の準備でもしつつ、のんびり待たせてもらいますー」
 彼女のそんな宣言に、間髪を入れず待ったをかけたのは公英さんだった。
「おい待てタヌキ女、一人だけ楽しようとすんなよ」
 眉間に皺を寄せて凄む公英さんなど歯牙にもかけず、春田さんはなおも飄々と「だって六花ちゃん一人にせえへんし」と続けた。
「公英くんやって、大事な六花ちゃんとよう知らん男が言えに二人っきりなん、ほんまは心配なんと違う? そんなら同じ女の子のウチが一緒におった方がええやろ」
 春田さんの言葉に図星を突かれたのか、公英さんはぐっと唇を噛みしめたかと思うと、眉間の皺を増やしながらも逡巡し、「……まあ」と小さな声で言う。
「……一理ある。お前も知らない奴ではあるけどな」
「あちゃー、痛いとこ突かれたわ」
 自分の額を勢いよく叩いた春田さんのオーバーリアクションに、おろおろと事の成り行きを見守っていた穂積さんが軽く吹き出す。そんな彼女の様子を見て、公英さんも安心したらしい。
「じゃあ、留守番頼むな」
「いってらっしゃい、公ちゃん。瑞穂さんも。暑いから気をつけて」
 午後はさらに日差しが強くなるからと、公英さんから手渡された麦わら帽子と水筒を手に持ちながら、玄関を出る。門をくぐって少し歩き始めてから後ろを振り向くと、門の外まで出てきて手を振る穂積さんと春田さんの姿があった。

 公英さんの後に続いて歩いていると、人だかりが見えてきた。人だかりといってもせいぜい二十人より少なく、そのうち子どもが三、四人ほどいて、残りは初老の男女ばかりだった。
「あの十字路からこっち側は、全部穂積の家の土地だ」
 よく見れば、彼が指さす十字路の向こう側にある広場のようなところに、人々は集まっていた。
「今、人が集まっているところにある掘っ立て小屋みたいなのが、村唯一の集会所だ。祭りで使うやぐらなんかは、集会所の奥の倉庫にある」
「公英さんのご実家は、集会所のすぐ裏手なんですね。じゃああの集会所近くにある畑は、蒲家の畑ですか?」
「いや、あれは鳴子の」
 鳴子……朔さんの家も、畑を持っていたのか。そういえばあの畑にも、案山子が二体ほど立っていたような覚えがある。
「朔さんは案山子作りを専業にしているみたいですけど、鳴子家は代々畑仕事を生業にしていたんですか?」
「いや、そんなことはないと思う。あれくらいの規模じゃあ、畑を仕事にできるほどではないからな。せいぜい趣味の家庭菜園くらいだろ」
 公英さんはあれくらいの規模、と話す鳴子家の畑も、俺からするとかなり広く見える。けれどたしかに、穂積家の持つ畑の面積と比べてしまうと、家庭菜園レベルと言われてしまっても仕方がないのかもしれない。
「少なくとも朔の父親は、隣町で理科の教師をやっていたから、畑が専業ではなかったな。もっと大昔のことは知らないけど」
「蒲の家は、家業みたいなものはあるんですか」
「うちは代々大工の家系だ。この村の家のほとんどは、蒲の人間が建てた」
「穂積の家もな」と、公英さんは右の口角だけをにやりと上げて教えてくれた。では、公英さんも大工になるのだろうか。それとも穂積の家に入ったから、畑の仕事を覚えるのだろうか。
 気付けば人だかりの元へと到着していて、俺が公英さんにその質問をすることはなかった。
「やあ、公英くんじゃないか。手伝いに来てくれたのかい」
 髪をオールバックに整え、半袖のワイシャツに長ズボンの、サラリーマン然とした男が公英さんに声をかける。はっきりとよく通る声質のその男は、目元に刻まれた皺をさらに濃くしながら、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「こんにちは、村長」
 頭を下げる公英さんの肩を慣れ親しんだように軽く叩くこの男が、村長──つまり、穂積さんの父親か。
「おや、そちらの彼は? 村では見ない顔だね」
 笑顔の中に有無を言わせぬ圧を感じる村長と目が合ってしまった俺は、なんと自己紹介をすればいいのやらと途方に暮れながら、とりあえず無難に挨拶と名前くらいは名乗ろうかと息を吸いかけたところで、公英さんの後頭部が視界を遮った。
「こいつは正木です。俺の大学の友人なんですが、暇に飽かして寝てばかりというので、男手をと思って呼びました」
「そうかい。君のそれは、地毛?」
 何を言われたのか、一瞬理解ができなかった。ジゲ、とはつまり「地毛」のことだろうか。俺のこの髪色は地毛ではなく染めているが、それがなんだというのだろう。というか、初対面で他人の髪が地毛かどうかって、そこまで気になるものか?
 予想外の質問に固まってしまった俺に助け船を出すように、横から公英さんが「俺たちは何をしましょうか」と村長に尋ねる。
「じゃあ、若者二人にはやぐら組みを頼もうかな」
 すると、すぐに俺には興味を失ったように、村長は公英さんの方へと視線をずらした。村長の言葉を受けた公英さんは、俺の背を押して集会所の横を通り、倉庫のある方へと向かう。
 その道すがら、なぜ村長に俺の身分を偽ったのかと問えば、公英さんははずいぶん声を潜めて答えた。
「村の連中、特に村長は、まだ三年前の事件を引きずってピリピリしているんだよ。俺が最初にお前達を警戒したように、あの事件について引っ掻き回しに来た部外者だと思われたら後々厄介だぞ。いいから、村長たちの前では俺に話を合わせろよ。あと、お前の連れな、あいつの身分も隠した方がいい。学者って、要は先生だろ。村長は自分以外の『先生』って役職に就いてる奴が好きじゃないんだ」
 なんだ、その幼稚な思考は。思わず半笑いで呆れたが、村長の職業が議員だと公英さんに教えられて、なんとなく察しが付いた。
「こんな狭い村で、自分だけが政治家先生だぜ。そりゃあ、天狗にもなるよな」
 仮にも嫁ぎ先の親であるが、公英さんは村長をあまり好意的に思っていないらしい。幼馴染みとの交流を制してくるような人だから、当たり前と言えば当たり前か。
「そういえば、公英さんたちっていくつなんですか」
 俺を大学の友人と紹介したところを見るに、現役大学生なのだろう。とすると、俺とかなり年が近いはずだ。
「今年二十一になる。大学三年だ」
 やはりか。俺の一個上だな。
 公英さんにそのとこを伝えると、途端に横暴な態度で「は? なんだ、お前後輩かよ。じゃあ絶対敬語使えよ」と宣う。いや、逆に今まで同い年か年上と思っていた上で、あの態度だったのかよ。しかも俺の方は、初対面から公英さんに敬語でしたよね。
 俺の恨みがましい視線を物ともせず、公英さんは流れるような手つきでやぐらを組み立てていく。さすがは大工の家系といったところか。ド素人である俺への指示も、荒々しいが的確でわかりやすい。おかげで、ほんの数十分で、それなりの高さがあるやぐらが組み上がった。
 休憩と称して、集会所の壁に寄りかかって水分補給をする。ちょうど日の位置的に影になっている場所に佇めば、風が吹いて流れた汗を冷やしてくれた。
「村長は、村の外の人間なんだ」
 ぽつりと、独り言のように公英さんがこぼす。俺は道路を挟んだ先にある、穂積家の田んぼで揺れる緑を眺めながら、彼の声に耳を傾けた。
「六花の祖父さん……先代の村長も元議員で、現村長は祖父さんの部下だったらしい。自分の息がかかった若い奴が身近に欲しかったんだか知らないが、あいつは六花の母親に婿入りして、今じゃ村長だ」
「あいつは村長のくせに、昔からほとんど穂積の家には帰らなかった。隣町にある自分の事務所ってところで寝泊まりして、たまに帰ってきたかと思えば、ろくに畑を耕しもせずに妙なご高説だけ垂れてさっさと出て行く。今日だって、あの格好を見たろ? 祭りの準備の仕切りだけして、どうせもう帰ってるぜ。明日の祭りが始まる頃にまたノコノコ遅れてやって来て、無駄に挨拶して飲み食いして、一晩だけ穂積の家で眠ったら、早朝にはもう出て行くんだろうな。六花が作った朝飯なんて、一口も食べずにさ」
 幼い頃から穂積さんと共にいた公英さんは、きっと悲しげな顔の彼女を何度も間近で見てきたのだろう。悔しさのにじみ出る声色からは、村長に対する彼の嫌悪が容易に感じられた。
「でも、母親が亡くなった六花にとって、あいつは唯一血の繋がった家族だからな。六花もその情があるせいか、あいつの言うことにはあまり逆らわない」
 今日も彼女は、父親が村に来ていたことを知らないのだろう。今に始まったことではなく、幼少期から続く父親との距離感に、穂積さんは何を思うのだろうか。
 俺は両親とは折り合いが悪く、結果的に今は実家を出て一人で暮らしているが、それは近い距離にいたからこそ衝突を繰り返した結果だ。遠く離れて、衝突することすらできなかった穂積さんの気持ちは、きっと俺にはわからない。

 しんみりした空気の中、それをかき消すように大きく伸びをした公英さんは、「ふう」と口に出しながらため息をひとつ吐き出した。
「行くか。次は案山子を神輿に積むぞ」
 あの人間そっくりの案山子を触らなければいけないのかと憂鬱な気分になりながらも、間近で見ることで三年前の事件の手がかりが掴めるかもしれない、と自分を奮い立たせ、公英さんの案内で穂積家の田んぼへ向かう。
 ぬかるんだ田んぼの中に落ちないように細心の注意を払いながら、それなりに重量のある案山子を抱え上げる。長く雨風にさらされたのであろうそれは、人の格好をしながらも顔は汚れて表情は見えず、なんなら首が取れかかっている物もあって、あまり本体を直視しないように運ぶ。
 するとそのとき、道を挟んだ向かい側にある、穂積家の畑から、同じように案山子を運ぶ子どもたちが、何かを口ずさむ声が聞こえた。そしてそれは、前を歩く公英さんからも聞こえてくる。歩くスピードを速めて彼に近付くと、俺と同じように田んぼから引き上げた案山子を抱えながら、公英さんはやはり何かを歌っていた。
「うやづのもりをぬけたなら、ごくろうさまや、ひをくべよ」
 節をつけて歌われているその歌詞に聞き覚えはなく、この村に伝わる民謡なのではないかと、俺は当たりをつけた。
「めかくし、くちふさぎ、はなおおい、はなだけたよれやもうあんしん」
 俺が耳をそばだてているのに気付く様子も見せないまま、彼はどこか遠くを見つめて歌を続ける。
「あっちにゃかみのて、ちかよるな、こっちにゃひとのて、ちかづくな」
 公英さんの歌声はどこまでも柔らかいが、よくよく歌詞を聴いていると、なんだか物騒なことを言っている気がした。
「はらがへったらかえらにゃならぬ、たらふく……うわ」
 歌声が止み、次いで公英さんの足も止まる。俺が盗み聞いているのがバレたようだった。
「……なんだよ」
「いや、聞いたことない歌だなあと思って。畑から案山子を運んでいた子たちも何かを歌っていましたけど、同じ歌ですか?」
「ああ。これは、なんて言うんだろうな。この村に昔からある、童歌、みたいなやつ」
 公英さんにこの歌を教えてくれたのは穂積さんの母親であったらしい。この村の人間なら誰でも歌えるというほど村の中で普及しているこの歌は、御苦労様の際、案山子を運ぶときになると、必ず歌うものとして教わるのだとか。
「烏矢津の森を抜けたなら、御苦労様や火をくべよ。目隠し口塞ぎ鼻覆い、花だけ頼れやもう安心。あっちにゃ神の手、近寄るな。こっちにゃ人の手、近付くな。腹が減ったら帰らにゃならぬ。たらふく稲穂を食うために」
 音に乗せず、歌詞だけを暗唱してくれた公英さんは「意味はよくわからん」と言い放つ。
「誰が作ったのかも、いつからあったのかも知らない。ただ、この村の人間はみんな、案山子を運ぶときには必ず歌えと言われて育ってきた」
 この童歌の存在を、大和さんは知っているだろうか。彼ならこの歌の起源に興味を抱くかも知れない。
 案山子を神輿に積みながらそんなことを考えて、俺もずいぶんあの人に毒されているのかもしれないと、ひとりでに苦笑してしまった。


 村にある案山子をすべて神輿に積み、やぐら周りを整地したり、舞に必要な道具を手入れしたりと動いているうちに、辺りはすっかり橙色の夕陽に包まれた。暗くなりすぎる前にと、公英さんが帰宅を促す。気付けば、ほかの村人の姿はなかった。
「この村は街灯もほとんどないから、夜はあまり出歩かないんだ」
 足早に穂積家へと帰る道中、公英さんが言う。たしかに見渡すと、百メートルくらいの感覚で街灯があるが、どれも光量は乏しい。刻一刻と日の落ちる中で見えてきた穂積家の明かりに、ほっと息を吐いた。
 穂積家ではすでに夕飯の準備が整っていて、祭りの準備で体をよく動かしていたのもあり、かなり空腹だった俺は、鶏肉や野菜の天ぷらに白米、そして長ネギと油揚げの味噌汁を遠慮なくいただく。
「瑞穂くん、ええ食べっぷりやね。天ぷら好きなん?」
 小首を傾げてカラッと笑いながら聞く春田さんに、大葉の天ぷらを頬張りながら頷く。
「一人暮らしだと、揚げ物ってハードル高いから滅多に作らないんです。だから、食べられるときに食べます」
「あー、揚げ物ダルいよなあ。瑞穂くんは何の天ぷらが好き? ウチは茄子とかしわ」
 言われてみると、好きな天ぷらの具材をちゃんと考えたことはなかったかもしれない。大葉は好きかな。香りが良いし。かしわも、食べ応えがあって好きだ。あとはミョウガとか?
「香りの良いやつが好きかもですね。大葉とかミョウガとか、あと、実家ではよくニンニクの天ぷらが出ました。あれも好きです」
 俺の何気ない言葉を聞いて、斜め向かいに座って食事をしていた穂積さんが箸を置く。彼女は、今日何度目かの申し訳なさそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、瑞穂さん。私、ニンニクが苦手だから、料理では使わないんです」
 しまった。気を遣わせてしまったのか。
 俺は大慌てで催促したつもりではないし、ニンニクが好物というわけでもないし、今ここにある天ぷらはどれも美味しくて大満足であるという弁明をした。
「ニンニクって、独特な匂いだから苦手な人多いですもんね、わかります。いや本当すみません、まったくそういうつもりはなくて」
「いいえ。私も昔はニンニクの天ぷら、好きだったんです。母が作ってくれたのは美味しくて。ただ……」
 言いよどむ穂積さんに、「ただ?」と続きを促したのは、彼女の隣に座っていた春田さんだった。俺は、ここまで一言も喋っていない、俺の隣に座る公英さんの横顔を盗み見る。彼は、手に持った茶碗に視線を落としながら、黙々と食事を続けていた。
「ただ、三年前のお祭りの日の事件で……私、燃えている家を見ていたんですが、その時にニンニクみたいな匂いがして。私の、勘違いかもしれないですけど。それ以来、ニンニクの匂いを嗅ぐとあの日のことを思い出してちょっと怖くなっちゃうから、ニンニク、苦手になっちゃったんです」
 なんだか変な理由ですよね、と弱々しく笑う穂積さんの肩に触れながら、春田さんは優しく微笑んで彼女の言葉を否定する。俺も、嫌なことを思い出させてしまったことを、誠心誠意詫びた。
 静かに食事を進めていた公英さんが、空になった食器を持って立ち上がる。そのまま食器を洗い始める公英さんの後ろ姿からなんとなく目が離せずにいると、裸足になっていた彼の左足首を控えめに彩る、銀色のチャームのような物が付いたアンクレットの存在に気が付く。
 彼も三年前、燃えている家から同様の匂いを感じ取ったのだろうか。けれどまさか無神経にそんなことを聞くこともできず、少し気まずい雰囲気の中で、俺は夕食を終えた。

 俺が足を目一杯伸ばしてもなお余りある広さの湯船から上がり、持ってきていたジャージに着替える。泊まりになることを想定して、服の替えを持ってきておいて正解だった。
 風呂上がりに通された寝床は、昼間から大和さんが寝ていた、一階の奥にある座敷だった。すでに布団が引かれていて、少し間を空けた隣には、大和さんが眠っている。
「そういえば俺たちが準備に出た後、大和さんは起きましたか?」
 薄手の掛け布団を運んできてくれた穂積さんに小声で問うと、彼女は「いいえ」と首を横に振る。
「何か食べていただかないと、体力も戻らないだろうと思いはしたのですけれど、穏やかな表情で眠っていらっしゃるから、起こさなかったんです。だからもし、大和さんが夜中に起きられたら、さっき食事をしたところにある冷蔵庫に夕食の残りを入れてありますから、自由に温めて召し上がってとお伝えくださいね」
 手厚い待遇に深々と頭を下げて感謝の言葉を述べた後、「おやすみなさい」と軽く手を振る彼女に手を振り返す。
 襖を閉めて彼女の姿が見えなくなり、知らず詰めていた息を吐く。今日一日で、色々なことがありすぎた。
 一度大きく伸びをして首も二、三度回し、「寝るか」と呟く。
「まだ寝るな」
 誰にも聞かせるつもりのなかったその言葉は、なんと背後で眠る男に聞かれていたらしい。大声をあげそうになり、咄嗟に両手で己の口を塞ぐ。そのまま錆び付いたロボットのように小刻みに首を後ろに向けると、案の定、障子越しの月光に照らされた大和さんの両目が、綺麗に開かれていた。
「起きていたなら言ってください。何か食べますか」
「いや、いい。それよりも、オレが休んでいた間にキミが知った情報を教えたまえ。キミが眠るのはそれからだ」
 暑さにやられてダウンしたときの素直さはどこへやら、相変わらずの横暴な物言いにこめかみがひくりと動くが、どうせ早いうちに大和さんに伝えなければと思っていたことはいくつかあるのだ。それが今か、明日の朝かというだけの違いである。
 敷かれた布団の上に胡座をかき、大和さんの方へと体を向ける。彼は仰向けで寝た体勢のまま、顔をこちらに向けることすらしないが、そんなのはいつものことだと割り切って、俺は祭りの準備中に公英さんから聞いた村長の出自や性格、そして村に伝わる童歌の話をした。
「だから、今日も村長はこの家には帰ってきていなくて」
「そうか」
「……ちなみに夕食のときに聞きましたけど、穂積さんも童歌は歌えるそうです。もちろん、隣県に住んでいる春田さんは、この歌詞に覚えはないと言っていましたが」
「そうか」
 おや。思っていた反応と違うな。
 村長がどういう人間かということに大和さんは興味を抱かないだろうということは予想できたが、食いつくのではと思っていた童歌のことについても大した反応を見せない。
 そんな大和さんの態度に悔しさを覚えた俺は、大和さんが寝込んだ直後まで記憶を遡り、今この瞬間までに見聞きしたことを片っ端から語る。何かひとつでも大和さんの琴線に触れれば、彼の中の俺の株が上がるかもしれない。そうすれば、あの横暴な態度が少しは改善されるのではなかろうか。
 そんな淡い期待を抱きながら、穂積家の所有する畑と田んぼの場所からスタートして、ゴールは大和さん用の夕食が冷蔵庫にあるから自由に温めて食べろ、というところまで。あまり良くない記憶力を総動員して、ところどころ話が飛びながらも喋り倒すこと三十分弱。
 口の中が乾いてしまい、なんとかして唾を飲み込みながら大和さんの様子を窺う。天井をじっと見つめていたかと思えば、大和さんは確かめるような口調で俺に問いかける。
「明日供養する案山子は、今の田畑に使用されていたものなのだね」
「え? ああ、はい。取りましたからね、田んぼから」
「『わざわざ』?」
「……はい、まあ。わざわざ」
 大和さんは静かに目を閉じる。月の光を浴びているせいか、普段より輪をかけて青白い肌は、まるで精巧なビスクドールのように、生き血の通っていないものに見えた。
「理科教師。ニンニクに似た匂い……。ミズホ」
「はい」
「リッカとキミヒデは、童歌を同じ歌詞で歌っていたか」
「……たぶん」
「二人は、その歌詞しか知らないのだね」
 少なくとも、公英さんは童歌に別の歌詞があるようなことは言っていないし、そんな素振りも見せなかったように思う。そう伝えると、大和さんは「そうか」と言って、口を閉じた。
 暫しの沈黙。俺と大和さん、二人だけの空間に満ちる深い夜の気配と、静かな寝息──寝息?
「大和さん?」
 反応、ナシ。呼吸、正常。顔、穏やか。
「寝た……」
 何も言わずに眠りについてしまった大和さんにがっくりと肩を落としながら、俺もいそいそと横になる。頭も体も一日中使ったために、あっという間に眠気に襲われる。抗うことなく睡魔に身を委ねることにした俺は、明日の祭りで何事もないことを願いながら両目を閉じた。