早朝から電車を乗り継ぎ、約三時間。たどり着いた駅は、某県の端にある、鳥の一羽も見当たらないがらんどうの無人駅だった。
そもそも俺は、大和さんが何を調べるためにこの僻地にやって来たのかすらわからない。三時間もあった道中で、俺たちの会話はほぼゼロであった。
大和さんは、大学の最寄り駅の改札をくぐった直後に俺が右肩に担いだ自身のバッグから分厚い本を取り出し、駅のホームで電車を待っているときも、座席に腰掛けて揺られているときも、電車の乗り換えのときでさえも、大和さんが本から目を離すことはなかった。さすがに乗り換えのときくらいは前を向いて歩いてくれると思っていたのに、両手で本を支え、ふらふらとおぼつかない足取りで狭いホームを歩くものだから気が気ではなく、仕方なしに、俺は彼の真後ろに貼り付いて彼の両肩をつつきながら、あっちへこっちへと誘導したのだ。
事前に志貴から言われたときは「お手伝いって、子どもじゃああるまいし」と、志貴の過保護っぷりに呆れたのものだが、この三時間で呆れの方向性が変わってしまった。
志貴よ。お前の兄さんは、人並みの行動ができないのだろうか。
そんなわけで本に夢中の三時間を過ごした大和さんは、当然俺に事情を説明する暇などなく。無人駅に着いて一言「着いた」と大和さんが呟いて、ようやく今回の目的地を知ったのだった。
「この場所で、いったい何を調べるんですか」
「正確にはここではない。少し進んだ先の村に用事がある」
村、と言われても馴染みがないために大した反応もできないが、なるほど、確かに市や町というよりは、村がありそうな雰囲気の場所である。
大和さんはついぞ手放すことのなかった本をいとも容易く俺に預けると、俺がそれを彼の鞄にしまいこむより早く歩き始めてしまう。
「少しって、どれくらい先なんですか」
バスなんて滅多に通ることのなさそうなあぜ道を行く大和さんの背中を追いかけながら尋ねると、彼は「さあね」と言い放った。
「道順は覚えたのだけれども、時間までは」
「言ってくれれば俺が調べますよ」
「オレもここへ来る前にいくつかの媒体で調べたが、今から訪れる村はどうやら、地図上では『ない』ことになっているらしい」
とんでもない話を、なんでもないように話すのはやめてほしい。つまりは何か、封じられた村とか存在してはいけない村とか、そういうあれだろうか。
ああどうしよう。すでにとても帰りたい。
「そもそも例えばの話、キミのように見るからに健康優良児然とした男と、オレのように不摂生を極めた男とでは、生物学上同じ『男』という枠に入れられたとて、その実一時間で歩ける距離に大きく差が生まれることは、実際に一時間歩いてみなくても予想がつくだろう」
「……つまり、何が言いたいんです?」
「つまり、キミが歩けば一時間で着く場所へ、オレは二時間かかっても着かない可能性があるのだ。目的地までの予想到着時間というものには、大きな個人差がある。オレは、オレよりも健康的な人間たちによって算出されたデータから割り出された予想到着時間を信じたことは、これまでの人生で一度たりともない」
なんだかまた小難しいことを言っているが、要は歩くのがとても遅い、という自白だろうか。言っちゃあ悪いが正直「そうだろうな」という感想しか出てこない。大和さんがこんな見た目をしておきながらめちゃくちゃ足が速かったり、腹筋が割れていたりしたら、むしろちょっと怖いぞ。
「はあ、そうですか」
ここで下手なことを言って機嫌を損ねるわけにもいかないため、俺は適当な相槌を打つ。
大和さんはそれきりまた口を閉ざすと、今度は俺が肩で操作をせずとも、しっかり自分の足で歩いた。ああ、やっぱり行くんですね。「地図上にない村」に。
できることなら今すぐ帰りの電車に乗りこみたいところだが、ここで逃げ帰れば七十万円が塵と化す。まだヤバい村だと決まったわけではないのだし、とりあえず大和さんに着いていって、本当にどうしてもヤバそうなら置いて帰ろうと、俺は静かに決意した。
炎天下の中、乱立するビルによってちょうど良い日陰ができる都会とは違い、周りには田畑ばかりの道を行く。たまにある街灯と電柱が唯一の高い人工物で、日除けにするにはずいぶんと頼りない細さであったので、わざと街灯や電柱の近くを歩こうかという気持ちは、そうそうに薄れた。
すれ違う住民はおろか、蝉の一匹すら姿を見せない場所をただひたすらに歩くこと、何分だろう。暑さで頭がやられたのか、体感では一時間か二時間経っていてもおかしくはないのだが、俺よりよほど暑さに弱そうで、かつ暑苦しい黒の長袖長ズボンを身に着けた大和さんがケロリとした表情なので、もしかしたら十分やそこらの時間しか経過していないのかもしれない。
俺の少し先を歩いていた大和さんは、森のような出で立ちの木々が立ち並ぶ場所で足を止めると、ご丁寧に俺の方を振り返り「今度こそ、着いたぞ」と言った。
雲ひとつない青い空の下、肌を焦がす太陽の光に照らされて、滝のような汗をかく俺の目の前に飛び込んで来たものは、腕はひしゃげて顔はただれ、カラスよりも人間をよけるオブジェと化した──案山子、カカシ、かかし。
大量の案山子である。
このときの俺の感情を一言で表わすのなら、それは間違いなく「絶望」だった。
こうしてやっと、この物語の時系列は冒頭と繋がる。
「帰りましょう」
「帰らない」
「危ないですって」
「帰らない」
「大和さん」
「では、キミだけ帰ってはどうだろうか。そう耳元でずっと煩くされては、オレも気が散るのでね。荷物はそこに置いていってくれて構わないよ」
「そんなことしたら俺の七十万はどうなるんですか!」
「知らん」
押し問答とも呼べないやりとりを交わしながら木々の奥へと進むと急に視界が開けて、太陽の眩しさに反射で目を瞑る。何度か瞬いてから開けた方へと目を向けると、広大な田畑と、俺たちを歓迎するかのように立ち並ぶ村民──にそっくりの、案山子。
「や、大和さん!」
「なんだ」
「み、みみみ、みてるみてる、こっち見てるッ!」
「案山子が皆同じ方向を向いて立てられているな。それがどうした」
「あんたなんでそんな平然としてられるんですか!」
「なんでと言われてもなあ。逆に聞くがミズホ、キミはなぜ、そんなに震えてオレの背中に隠れているんだ。キミの方がいくらも背が高いのだから、まったく隠れられてなどいないが」
「怖いからですが!?」
クソ。千重といい大和さんといい、ホラーに耐性がある奴は、俺のように耐性がない人間の気持ちをまるで理解しようとしないから嫌いだ。今だって俺が盾にしているこの人は、これ見よがしにため息を吐いている。まるで「何をそんなにビビっているのやら」とでも言いたげだな。ビビるに決まっているだろう。あの案山子たち、揃いもそろってリアル過ぎるのだ。
「もう一通り怖がったか? オレは先へ進むぞ。この村の位置関係を把握したい。ついでに村についての資料がある場所を見つけられればいいのだが」
「待ってくださいよ、置いていかないで!」
「オレがキミを置いていくのではない。キミが勝手に、オレに付いてこないだけだ」
言うが早いが、大和さんは案山子の乱立する畑の方へを歩みを進める。俺は少し躊躇ってから、けれどこの場所に一人残されることの方に恐怖を覚えて、急いで彼の後を追う。もちろん、右肩に彼の荷物を持ち、左肩には自分の荷物を引っかけて。
「大和さんはこの村のことをどうやって知ったんですか」
案山子を視界に入れないようにと、大和さんに目線を固定しながら歩く。ついでとばかりにずっと疑問に思っていたことを聞くと、彼は「シキが」と言った。
「シキが、面白そうな村があると、ここの話をしてきてね。興味深かったから、論文の題材探しも兼ねて実地調査にと思ったのだ」
志貴め。アイツ、どういう伝手で地図にも載っていない村を知ったんだ。まったく、どうせならもうちょっと明るくて平和そうな伝承のある村を紹介してほしいものである。
「それなんだが」
大和さんは歩みを止めずに言う。
「シキ曰く、この村は三年前まで、県の情報誌などにも村の名前や写真が載っていたそうだ。オレも見せてもらったが、確かにここの風景と似た写真が載っていた。村の名前は、」
「ようこそ、『烏矢津村』へ!」
「どぅわあッ!?」
大和さんの言葉に被せるように、知らない人間の声が聞こえた。それもかなり至近距離から。
体全体が跳ね、後ずさりながらも声のした方を見ると、大和さんと向かい合うように、小柄な女性が立っていた。
太陽の光に照らされているせいか、ところどころ金髪のように見える明るい髪と、その髪色に負けないくらい明るい笑顔で俺たちを見遣る女性は、涼しげなタンクトップから伸びる細い両腕を勢いよく真横に広げると、もう一度「ようこそ!」と言った。
「観光の方ですか? 嬉しいなぁ。今年はどうなることかと思ったけど、今日は二人もお客様がいらっしゃって! お祭りは明日の夕方からですから、それまでゆっくりしていってくださいね」
「『今日は』ということは、ほかにも観光の人間が?」
まだ激しく脈打つ心臓をなんとか落ち着かせながら大和さんの隣に戻ると、彼はわずかに口角を上げながら彼女にそう尋ねていた。この人のこういう、余所行きの顔みたいなものは初めて見たので、えらく新鮮である。
……いや、ちょっと待てよ。なんでこの人愛想笑いができるくせに、どうして俺と初めて会ったときはあんなに仏頂面だったのだ。俺ってもしや、初めましての段階から今にいたるまで、ずっとこの人に雑に扱われているのでは?
俺は思わず大和さん横目で見るが、俺の心境なんて知りもしない彼は、目の前の女性になおも口角を上げて接している。女性はと言えば、大和さんの問い掛けに一段と顔を輝かせると、大袈裟なくらいに首を縦に振った。
「そうなんです! 昨日、隣の県にお住まいの女性が、お祭りのためにといらしていて。お兄さんたちは、どこからお越しくださったのですか?」
彼女の言葉を受けたはずの大和さんはすぐには答えず、なぜか隣の俺に視線を寄越す。その深淵のように果てしなく暗い目は雄弁に「後は頼んだ」と語っていて、彼の余所行きモードは、そう長くは保たないことを知る。
「えっと、僕たちは東京から来ました」
「東京!? そんな遠路はるばる……。何もお構いはできませんが、どうか存分にお祭りを楽しんでいってくださいね!」
両手を組み合わせて微笑む彼女に、俺は申し訳なく思いながらも、気になったことを問わずにはいられなかった。
「あの、実は俺たち、この村のことをあまり知らなくて。……その、名前、とか。先程からおっしゃっているお祭りのこととかも、正直詳しくはないので、よければ教えていただけないでしょうか」
言いながらまた横目で大和さんを伺えば、いつも通りの無表情ではあるものの特に咎められないので、この切り返しは彼的にもよいことだったのだろう。
一方で目の前の女性は、口を小さく開けて絵に描いたような「ぽかんとした顔」をしている。薄々思ってはいたけれど、彼女、相当表情が豊かだ。いっそわざとらしく見えるほどのそれは、なんだか幼い少女のようにも思えてくる。
呆けていたのも束の間、彼女はまた先程のような笑顔を携えて、俺の提案に了承の意を告げる。
「立ち話もなんですから、よければすぐそこにある、私の家へお越しください。この村のこと、お祭りのこと、私のわかる範囲でしたら、なんでもお教えします!」
一瞬、女性の家に男二人がいきなり上がり込むことに躊躇いを覚えるも、「私の家」として指し示されたひときわ目立つ立派な日本家屋に、どう見ても一人暮らしの家ではないことがうかがえて安堵する。
彼女に案内されて歩き始めたとき、これまた大袈裟に、というよりもアニメチックに、彼女は両手をパチンと合わせて立ち止まる。
「そういえば名前も知りたいとおっしゃっていましたね。私の名前は穂積六花です。これはやっぱり、先にお伝えしておかないとですもんね!」
満面の笑みで自己紹介をしてくれた彼女に、先程とは比べものにならないほど莫大な申し訳なさが募る。
言うべきか、言わざるべきか。こんなにも丁寧に名前を教えてくれた彼女に対して、「知りたかったのはあなたの名前ではなくて村の名前です」なんて、やはり言うべきではないだろう。そもそも彼女は最初に村の名前を言っていたはずで、だけれども知らない声に驚くことに精一杯だった俺の脳が、村の名前を上手く覚えていられなかったのが悪いのだ。
そう、彼女は何も悪くはない。村の名前を記憶できなかった俺と、「村の名前を教えてくれ」と言わなかった俺が悪い。
「……僕は、正木瑞穂といいます」
おそらく千重より年は上のはずだが、その言動から妹と重なって見えてすらくる彼女の笑顔を曇らせるわけにはいかなかった。俺のことを早速「瑞穂さん」と呼んでくれる彼女の笑顔を守れたのであれば、俺はそれで十分である。
「瑞穂さん。素敵なお名前ですね。お連れのお兄さんのお名前はなんとおっしゃるのですか?」
「あ、彼は大和優希です」
「あら。お二人とも『マサキ』さんなんですね。素敵な繋がり! でも、優希さんを下のお名前でお呼びしたら、瑞穂さんが混乱なさるかしら。『大和さん』とお呼びしてもいいですか?」
「……お好きにどうぞ、リッカ」
大和さんは、また余所行きの顔を穂積さんに向ける。初対面の女性を、いきなり下の名前で呼ぶのかよ。
けれど、当の穂積さん本人が気に留めた様子も見せず、それどころか満足そうに頷くので、俺は黙るしかなかった。
くるりと背を向けた穂積さんは足取り軽く、自身の暮らす家へと先導するのだった。
遠目から見ていたよりもはるかに荘厳な佇まいを見せる穂積家を前に緊張を募らせる俺とは違い、大和さんはいつもの無表情のまま敷居を跨ぐ。
「少し待っていてください。今、お茶を持ってきます」
俺たちを座敷へと通してくれた穂積さんは、「お構いなく」と俺が言う間もなく、背中を向けて駆けていってしまう。手持ち無沙汰に開け放たれた障子の向こう側に広がる庭を眺めていると、その庭のさらに奥、青々とした葉が揺れる田んぼに、いくつも乱立する案山子を見つけて、咄嗟に目を逸らす。俺の隣で背筋を綺麗に伸ばしたまま正座をする大和さんは、静かに田んぼの方を眺めていた。
「お待たせしました。こちら、粗茶ですが」
小さな盆に二つのグラスを乗せて運んできた穂積さんはそう言いながら、俺たちの前にひとつずつグラスを置く。透明な縦長のグラスに、正方形の氷が三つ。透き通るように綺麗な色をした緑茶が、その中に注がれていた。
「ご丁寧にありがとうございます。すみません、突然押しかけて、お茶まで」
「いいえ! 私、とっても嬉しいんです。外からのお客様なんて滅多にいらっしゃらないから」
俺たちと向かい合うように座布団の上に座った穂積さんが「どうぞ足を崩してください」と促してくれたので、俺はお言葉に甘えて胡座をかく。大和さんは、正座のままだった。
「えぇっと……まずは、何からお話ししましょうか」
ここから先はあんたが聞いてくれ、という願いを込めて大和さんを見ると、彼は今まさに、ちょうど口を少しだけ開けて息を吸っているところであった。俺はそのまま、穂積さんへと目線を戻す。涼しげに解放された彼女の首元で、三つ葉のようなものがあしらわれた銀色のネックレスが揺れていた。
「では、早速で恐縮ですが。明日行われるという祭りについて、具体的にお聞かせ願えますか。どんなもので、なんのために、いつから行われているのかを」
大和さんの問いに、彼女はしばし逡巡したあと、軽く頷いてから笑って見せた。
「はい。明日行われるのはこの村──烏矢津村で、三年に一度行われる『御供養様』というお祭りです。お祭りといっても、露店が出たり花火が上がったりするわけではありません。……昔はそういうことも行われていましたが、村自体の人口減少などもあって、今ではすっかり。どんなもの、というと、この村には案山子がたくさんいまして」
言いながら、穂積さんは庭の先を指で指す。彼女は、先程俺が目を逸らした案山子を見ながら続きを話す。
「ほら、あの田んぼにもいる……いますでしょう? あれらをまとめて焼き払うお祭りです。『ご苦労様』と『供養』を併せて、『御供養様』と言うようになったと、祖父から聞いたことがあります」
穂積さんは「それから」と口にして、次いで眉をなんとも器用に八の字に下げ、申し訳ないと言わんばかりにこちらを見た。
「大和さんのおっしゃっていた『いつから行われているか』というものですが、ごめんなさい。私、それはわからないんです。ずいぶん昔から、としか。それこそ、祖父の若い頃からすでに行われていたはずではあるのですが」
「お爺様にお話を伺うことはできますか」
そう尋ねた大和さんに、穂積さんは首をゆるく横に振って答える。
「亡くなりました。……三年前に」
「では、この村に図書館や資料館のようなものは」
「隣町にはありますが、この村には。ただ、この家の蔵に古い書物はいくつかあったと思います。子どもの頃、かくれんぼをしていて入ったときにそれらしい物を見た気がして。村やお祭りに関するものではないかもしれないし、そもそも私の記憶違いかもしれませんが、よければ探していかれますか?」
「ぜひ」
「ちょっと大和さん、そんないきなり……」
「いいよ、じゃなくて……いいんですよ、瑞穂さん。何度も言っているけど私、嬉しいんです。お客様がいらしたことも、この村に興味を持ってくれるのも」
颯爽と立ち上がり、「こっちです!」と元気よく先導してくれる穂積さんの後に、大和さんは我が物顔で、俺はまた申し訳なさに苛まれながら続くのであった。
「おい、誰だお前ら」
ところが。意気揚々と玄関を出た穂積さんの前に、一人の男が立ち塞がる。男は目の前の穂積さんではなく、その後ろにいた俺と大和さんを睨みつけていた。
「あれ、公ちゃん。おかえり」
「ただいま、六花……じゃなくて。誰、コイツら。なんかされた? それともまた変なの拾ってきたんじゃねえだろうな」
拾うとは人聞きの悪い。犬猫じゃあるまいし。
だが、口ぶり的に男はこの家の住人なのだろう。穂積さんの髪色よりも明るい、限りなく金髪に近い茶髪のテッペン部分は黒くなっていて、いわゆるプリン頭になっている。背丈は大和さんよりも少し高いくらいだ。穂積さんから「きみちゃん」と呼ばれていたことを考えると、もしかして彼女のご兄弟だろうか。
男は目にも止まらぬ速さで、穂積さんを自分の背中に隠すように俺たちに立ちはだかる。二つのピアスが付いた左耳を手持ち無沙汰に触りながら、優しい印象を与えがちな垂れ目をこれでもかというほど細め、眉間には濃い皺を刻みながら、ヤンキーさながらに眼圧をかける彼に、俺は完全に萎縮してしまった。ヤンキーは怖いのだ。
「村じゃ見ない顔だ。外の人間か? なんでこの家に入っていやがる。六花に何を吹き込んだんだ。たとえお前たちが野垂れ死ぬ寸前のところを六花に拾われたんだとしても、それはお前らが特別なんじゃない。六花が誰にでも優しすぎるから拾ってもらえただけだ。……わかったならとっとと出て行け。これ以上六花に縋ろうもんなら、この俺が許さねえぞ」
「ちょっともう、公ちゃんってば! お客様に失礼でしょう!」
「痛ッ!」
男の背中に隠されていた穂積さんが、彼の脳天に容赦の無いチョップをお見舞いする。そうして彼がしゃがみ込んだところで、彼女はまた申し訳なさそうな顔で俺たちを見た。今度はなんと、両手をパチンと合わせるオプション付きで。
「大和さん、瑞穂さん。きみちゃんが大変失礼な態度をとって、ごめんなさい! 彼はかん……穂積公英と言います。私の、一応、旦那さんです」
「旦那さん!?」
「一応ってなんだよ!」
俺と公英さんの声が重なる。その瞬間、公英さんは俺を素早く睨みつけ、俺は反射的に「すみません」と両手を上げた。
それにしても、穂積さんがご結婚していたとは。俺と同じか少し年上くらいかなと予想していたので、驚愕の事実に思わず声が出てしまった。
「私と公ちゃんは幼馴染みなんです。ずっとこの村で一緒に育ってきたから、三年前に公ちゃんがこの家にお婿さんとして来てくれたけど、まだ全然、旦那さんっていう感覚はなくて」
そう教えてくれた穂積さんの表情は、初めて見る、どこか諦念を帯びたものだった。
「さあ! 公ちゃんは放っておいて、蔵の方に参りましょう。こちらです。ほら公ちゃん、どいて」
少ししんみりとした空気を無理矢理切り替えるように、穂積さんは再び両手をパチンと合わせて、明るい声で言う。それから公英さんの背中を強引に押しのけると、俺たちを玄関から外へと促した。そんな彼女に、大和さんは特に何の反応も見せないまま付いていく。
俺はと言えば、まだ何か言いたげにこちらを睨みつけることをやめない公英さんを素通りするわけにもいかず、その場に立ち尽くしてしまった。
「あの、突然お家にお邪魔してしまってすみません。僕は正木瑞穂と申します。あっちの黒い人が大和優希といって、彼は大学で民俗学を教えている者です。僕はその助手のようなものでして、えっと、今日は……」
「例の事件を調べに来たのか」
先程までの荒々しいものではなく、落ち着いた、それでいてこちらの心意を探るような公英さんの声に、俺は言葉を詰まらせる。彼の言う「例の事件」に、俺はもちろん心当たりなんてなかった。
彼の問いに何も返せない俺を、公英さんは「例の事件」とやらに無関係だと判断したらしい。軽く息を吐き出した後、「蔵はこっちだ」と俺に背を向けて玄関を出て行いく。
ぶっきらぼうな物言いだが蔵までの道のりを案内してくれるあたり、面倒見が良い人なのかもしれないと思いながら、俺は彼の後ろを大人しく追いかけた。
蔵、と聞いて誰しも想像する蔵があるだろう。歴史の教科書や、アニメやドラマといった媒体で見て、俺の中にも蔵と言えば、というなんとなくのイメージ像がある。
穂積家の蔵は、俺の想像上の蔵とさほど乖離していない見た目の蔵だった。二階建てとまではいかずとも、一階半建てくらいの高さを持ち、壁は白塗りで屋根は黒色の瓦、重厚感のある鉄の扉には、輪っか状の取っ手が付いている。
そんな「ザ・蔵」とでも言うべき出で立ちの蔵に俺と公英さんが到着したとき、すでに大和さんは中を物色していた。
入口付近に立っていた穂積さんが、一緒に歩いてきた俺と公英さんを見つけて嬉しそうに破顔する。
「瑞穂さんと公ちゃん、仲良くなったの? よかった」
「……六花、向こうの日陰にいろよ。ここは日を遮るものが無いし、蔵の中は埃っぽくて空気が悪い」
てっきり、俺と仲が良くなったと言った穂積さんの言葉を否定するかと思ったのに、公英さんはそれには答えず、代わりに彼女の体調を気遣う素振りを見せた。公英さんの提案を、穂積さんは笑って遠慮していたが、そんな二人のやりとりに、俺の中でまた、公英さんの人物像が更新されていく。きっと公英さんは、本当に穂積さんを大切に想っているのだろう。彼女の笑顔を否定することを、拒むほどには。
その後も仲睦まじく、近い距離で会話をする二人を邪魔することも躊躇われて、俺はなるべく気配を消して、蔵の中へと足を踏み入れる。中には照明などもちろん無いが、入口を開け放しているおかげで夏の日差しが十分に入り込み、蔵内の様子がよく窺えた。
公英さんの言うとおり、かなり空気の濁った蔵の中には、積み重なった本や大小さまざまな大きさの木箱が所狭しと置かれていて、そしてそのどれもに、うっすらと、あるいはそれ本来の色がわからないほど厚く、埃が積もっている。マスクを持ってこなかったことを後悔しながら、俺は大和さんの姿を探した。全身黒い服で身を固めた大和さんは、薄暗い蔵の中と同化して探すのに少しだけ時間を要したが、一番奥にある大きな棚の前にじっと立っているのを見つけて、彼の背後に近寄る。
大和さんの手元を見ると、そこには一冊の本が開かれていた。作りとしては簡素で、本屋などで売られている本というよりは、個人規模で製作された資料のような薄さのそれを、大和さんはパラパラとめくっている。かと思えば、その本を小脇に抱え、同じ棚の一番下に立て掛けられるように置かれていた、同じく薄い一冊の本を手に取った。こちらは先程まで大和さんが見ていた本よりもだいぶ年月が経っているようで、めくられていくページは古本特有の薄茶色をしていたし、ところどころにシミや折れ線が見られた。
大和さんのページをめくるスピードが速すぎて、俺にはその内容まではわからない。けれどところどころで案山子のイラストや写真が出てくることから、案山子の、もしくはこの村の案山子にまつわる何かをまとめたものなのだろうか。
大和さんは最後に、本の一番後ろのページである奥付の部分を、それまでのページよりも長い時間眺めてから、また小脇に抱える。彼はその次に、隣の棚を物色し始めた。
「俺、何か手伝うこととかありますか?」
「ない」
即答した大和さんの言葉に肩を落とし、彼が容赦なく物色するせいで立った埃によって咳き込んでしまったこともあり、俺はすごすごと蔵を後にする。
「なんだ、用済みで追い出されたのか?」
蔵の外にいた公英さんが、揶揄うような顔をして俺を覗き込む。その言葉に「まあ、そんなところです」と苦笑して返しながら、穂積さんの姿が見えないことが気になった。
「ああ……なんか、茶菓子を買ってくるって」
「え? あの、それってもしかして俺たちのせいですか」
「お前らの『ため』な。アイツ、観光客が珍しくてはしゃいでいるんだ。外から誰か来るといつもこうだよ。『村長の娘だから』が口癖で、人一倍もてなそうって気が強くてさ。昨日、あの女が来たときもそうだった」
「穂積さんって、村長の娘さんなんですか?」
またしても意外な彼女の一面に、公英さんは「なんだ、聞いてなかったのか」と軽く流す。だからあんなに、よそ者である俺たちにグイグイ来てくれたのかと、これまでの穂積さんの言動を振り返っていると、公英さんは肩を揺らして小さく笑いながら、ついでとばかりに彼女の話し方について言及する。
「六花はさ、外の人間が来ると無理して敬語を使うんだよ。普段は村の爺婆にだって子どもっぽいタメ口のくせに」
言われてみると穂積さんは時々、言葉を詰まらせることがあった。あれは敬語を言い慣れていなかったからなのかと、合点がいく。それにしても、ほんとうに穂積さんを大切に思っているんだな、公英さんは。それに、すごく近いところで生きてきたことがわかる。
幼馴染みで、それも村長の娘と結婚なんてすごくドラマチックというか、こういう夫婦が本当にいることに若干の感動を覚える。
俺には幼馴染みと呼べる存在がいないどころか、恋人さえ生まれてこの方できた試しがない。今のところ欲しいと思ったこともないが、公英さんたちのようにお互いを思い合える関係性というものをこうもまざまざと見せつけられると、微笑ましいと思う気持ちの中にほんの少しだけ、羨ましさも芽生えてしまうもので。
「穂積さんのこと、大切なんですね」
蔵から出てすぐに揶揄われたのをお返しするようにそう言ってみても、公英さんは「まあな」と素直に頷く。どうやら心の余裕というものも、俺と彼とではずいぶんと違うらしい。
「たった二人の幼馴染みなんだ。大切に思っていたって、いいだろ」
俺に真っ直ぐ瞳を向けて告げる公英さんは、有無を言わせない圧ではなくて、懇願するような雰囲気をまとっていた。俺はそんな彼にかける上手い言葉が見つからず、ただ一度だけ首を縦に振ることしかできなかった。
そのとき、俺たちが蔵へ来るために歩いてきた方向から、誰かの足音が聞こえた。
俺はそれを、てっきりお茶菓子を買いに行ってくれていた穂積さんのものだと思って「ありがとうございます」の「あり」まで言いかけて、見えた姿が穂積さんではないことに気が付く。口を中途半端に開けたままで、こちらへ向かって歩いてくる人を凝視するも、黒いタンクトップというラフな格好のその女性に、俺はまったく見覚えがなかった。
彼女も穂積家の一員かと公英さんを見れば、彼は顔をしかめ、げんなりとした表情で女性を見ている。やはり、公英さんの知っている人ではあるらしい。あまり彼が好んでいる人ではなさそうだが。
「なんや公英くん、蔵におったんか。起きたら家ン中誰もおらんから、紫苑さんビビったで。なあ、六花ちゃんは? そんでそこのお兄ちゃんはどなた?」
穂積さんとは別ベクトルでグイグイ来た女性は、俺のあまり聞き馴染みのない、関西の方言で喋る人だった。パーソナルスペースが狭いらしい女性に、ジリジリと距離を縮められながら名前を聞かれて、俺はその勢いに気圧されながらもフルネームを答える。すると彼女は真っ白い歯を見せながら、自身を「春田紫苑」と名乗った。
「『タヌキ』っちゅう名義で、オカルトライターをちょこっとやってます。ここの村のお祭りが気になって、昨日からお邪魔しとるんよ」
では、春田さんが穂積さんや公英さんの言っていた、俺たちのほかにいる観光客なのか。それにしても馴染んでいる。話しぶりから察するに、昨夜は穂積家に宿泊したのだろう。余所様の家でこの快眠っぷりからも、さぞ図太い心臓の持ち主だと窺える。
そういえばこの村、宿泊施設はあるのだろうか。
「はあ? あるわけねえだろ、そんなもん。田んぼと畑しかないド田舎だぞ」
おそるおそる公英さんに聞いてみるも、あえなく撃沈。真っ向から否定され、さて野宿セットは売っているかなと、ここから一番近いコンビニエンスストアを検索しようとした矢先、またもや誰かがこちらへ向かってくる足音を、耳が捉えた。
やって来たのは今度こそ、穂積さんだった。赤いちりめんの風呂敷を両手で抱えた彼女は、「ただいま」と朗らかに笑いながら、俺たちの方へ歩み寄る。
「あれ、紫苑さん起きたんだ。おはようございます。夕べはよく眠れましたか?」
「六花ちゃん、おはようさん。おかげさまで今の今までぐっすりよ。六花ちゃん、どこ行ってたん」
「私はお茶菓子を買いに──」
「おい、六花」
風呂敷を持ち直しながら春田さんと話す穂積さんの言葉を遮り、公英さんが彼女に大股で近付く。その視線は、彼女の持つ風呂敷に注がれていた。
「その風呂敷……」
「あ、そうなの。あのね公ちゃん。横峰おばあちゃんのお店に行こうとしていたんだけど、その途中で家の前を通りかかったら、ちょうど朔ちゃんが縁側で作業してて。何しに行くのって言うから、お茶菓子の話をしたら、今朝作ったお饅頭があるからって持たせてくれたの。公ちゃんも朔ちゃんの作るお饅頭、好きだよね? 六花も大好きだから嬉しくって」
「なんだよ、それ」
弾んだ声の穂積さんは、誰が見ても嬉しいのだということが伝わってくるのに、それを遮った公英さんの声は固く、風呂敷を見る彼の表情は、苦しそうに歪んでいた。
「アイツの作ったモンなんて……毒でも入ってんじゃねえの」
「公ちゃん!」
ペチ、と。弱々しい音が響く。穂積さんが、公英さんの左頬を叩いた音だった。
いや、叩くなんて物騒なものではまったくなかった。音からもわかる通り、きっと公英さんの頬は少しも赤く腫れることなんてないのだろう。それくらい、叩き慣れていない音だった。
それでも叩かれた公英さんは酷く驚いた顔をして、そしてすぐに、悔しげに己の唇を噛みしめる。
「公ちゃん。言って良いことと、悪いことがあるでしょ」
穂積さんはそれだけ言うと、目の縁ぎりぎりまで溜まった涙を、ついぞ一滴もこぼすことなく、くるりと俺たちに背中を向けた。
「……お茶、淹れてきます。瑞穂さん、大和さんのお探し物が一段落したら、さっきの座敷でおやつにしましょうね」
そのまま足早に駆けて行く彼女を、公英さんも俺も、追いかけることなくただ呆然と見つめていた。
「ほな、ウチは六花ちゃんのお手伝いでもしてくるわ」
壁沿いに曲がった穂積さんの後ろ姿が見えなくなった直後に春田さんが言い、のんびりとした足取りで彼女と同じ道を行く。
俺と公英さんの間には、気まずい沈黙が流れていた。
うつむいたまま微動だにしない公秀さんの姿にいたたまれなくなった俺は、蔵の中に入り、大和さんを探す。俺が蔵を出る前とほぼ変わらない位置で佇む大和さんに声をかけると、意外なことに彼はすぐにこちらを振り返った。絶対に無視をされるか、返事をしたとしても体はこちらに背を向けたままだろうと思っていたから、妙に心臓が跳ねる。
「なんだ、その顔は。そちらが声をかけてきたのだろう?」
「ああ、はい、まあそうなんですけれども。ええっと、進捗はいかがですか」
「そうだな。とりあえず、見れる範囲は一通り目を通した。めぼしい物はこの三点だ」
そう言って大和さんが掲げたのは、あの小脇に抱えていた薄い二冊の資料と、俺には見覚えのない、細長い箱がひとつ。箱の方には、どうやら巻物が一巻は入っているようだった。
彼はそのまま蔵の扉まで歩みを進めると、俺に資料と巻物の入った箱を手渡し、いつの間にかしゃがみ込んで頭を抱えてしまっていた公英さんを一瞥もせずに、穂積さんたちの待つ座敷の方へと帰って行った。
俺も慌てて蔵から出てはみたものの、明らかに落ち込んでいる公英さんを放ってもおけず、しかも蔵の施錠についても気になってしまって、持たされた資料を汚さないように気をつけながら、公英さんの横に同じようにしゃがみ込む。
「あのー、公英さん。蔵の施錠って、どうしたらいいんでしょうか」
「……どうせ誰も入らない。このままでいい」
「はあ、わかりました」
──沈黙。
またしても、俺と彼との間には気まずい沈黙流れる。チクショウ。こういうとき、俺はどんな言葉をかければいいのだ。それかもしや、スルーが鉄則なのだろうか。
「人を慰める」だなんて経験が皆無に等しいせいで、正しい選択肢がわからず、俺まで公英さんとともにうなだれる。
青空の下、しゃがみ込んだ男が二人。首の裏が焼かれる幻聴が聞こえてきそうなほど容赦なく降り注ぐ日差しに、こうなったらとことんやってやろうか、なんて自暴自棄になりかけたとき、公英さんが立ち上がる気配がして、そちらを見遣った。
予想通りしゃんと背筋を伸ばして立つ公英さんは、俺の方を見ないまま「悪かった」と言った。
「さっきは、気分の悪くなるもん見せたな。俺はいつもこうなんだ。余計なこと言って、六花を泣かせる」
俺も立ち上がり、手に持った資料に傷や汚れをつけていないかをざっと確認した後で、同じように公英さんの方を見ないまま、「思春期なんですか」と問うた。
ちょっと調子に乗りすぎたかな、と一瞬冷や汗をかくも、公英さんは「はは」と言いながら笑った。しばらくの間、肩なんかを小刻みに揺らしながら笑っていた彼は、ふうと一度息を長く吐き出してから、小さく「かもな」と呟いた。
公英さんと連れ立って座敷へ戻ると、すでに大和さんと穂積さん、春田さんの三人が、お茶と饅頭に舌鼓を打っていた。
「おかえり、お二人さん。先に茶ぁしばかせてもらっとるで。あんたらは何飲む? 冷たい緑茶か、アイスコーヒーもあるで」
明るい声でそう聞く春田さんに、俺はコーヒーを、公英さん緑茶を頼むと、春田さんは瞬時に立ち上がり、奥の台所へと向かう。
「ああもう、紫苑さんってば。私がやるのに」
「ええの、ええの。六花ちゃんはとっとと公英くんと仲直りしいやぁ」
台所から響く春田さんの真正面からの気遣いに、隣同士で座った穂積さんと公英さんが、お互いを見つめ合う。この二人、さっきあんな出来事があったのに、座るのは隣なんだな。いつも自然と距離が近いのか……というよりも、お互いが隣にいることが当たり前なのかもしれない。
微妙な空気の中、先に動いたのは公英さんだった。座ったままで体ごと穂積さんへと向き直り、勢いよく頭を下げる。
「悪かった」
「……公ちゃん」
「アイツのことを疑うような、最低な言い方をした。お前の気遣いも無駄にした。……ごめん、六花」
その言葉を受け取った穂積さんは。下げられたままの公英さんの頭を両手でかき混ぜるように撫でる。
「いいよ、もう。六花もぶっちゃってごめんね」
ようやく頭を上げた公英さんの髪の毛は、寝起きのようにぐちゃぐちゃとしていて、自分がやったことなのに、彼の髪の有様を見た穂積さんが遠慮なく笑う。そんな彼女の笑顔に釣られるように、公英さんも控えめに笑っていた。
「おうおう。仲直りできたみたいでなによりやわ」
コーヒーと緑茶をそれぞれ入れたグラスを俺と公英さんの前に置いてくれた春田さんは、穂積さんの右隣に腰を下ろし、机の真ん中に置かれていた饅頭をひとつ手に取った。
「ちゅーかこのお饅頭、普通に美味いで。ウチこれで二個目やもん。その、ナントカちゃん? 料理上手なんやね」
「そうなの。朔ちゃんはね、いつも私たちの好きな物を、いっぱい作ってくれるんだよ」
「そらええ子やな、『朔ちゃん』は。女の子なん?」
「ううん、朔ちゃんは男の子。『鳴子朔』っていって、公ちゃんとは、家がお隣さんなんです」
公英さんの家はここなのでは、と言いかけて、彼が穂積家に婿入りしたことを思い出す。なるほど、それならば穂積さんの言う公英さんの家とは、彼の生家を指すのだろう。
「そういえば公英くんはお婿さんなんやもんね。旧姓はなんていうん」
「……カンバ」
「カンバ?」
声にこそ出さなかったものの、俺も春田さんと同じタイミングで同じ疑問を抱く。「カンバ」とは、聞いたことのない名字だ。漢字がまったく浮かばない。
「くさかんむりの下に浦島太郎の浦。一文字で『蒲』だ」
「なぜ、キミは婿だったんだ」
俺が必死に漢字を思い浮かべていると、それまで一言も発さなかった大和さんが、いきなり声をあげた。その場にいた全員の視線が一斉に彼を向くが、彼自身は公英さんだけを見ていた。
「……なぜ、って、どういう意味だ」
「キミの名付け親は、キミの名字が変わることを拒まなかったのか?」
「いや、そんな時代錯誤なことは」
「家や跡継ぎの話ではない。ワタシは、キミの名前の話をしている」
大和さんの一人称が「ワタシ」になった。この人が自分のことを「オレ」ではなく「ワタシ」と呼ぶときは、スイッチが入っているときだ。何のスイッチかはわからないが、とにかく今、なんらかのスイッチが、大和さんの中でオンになったのだ。
「お、俺の名前をつけてくれたのは、母親だ。でもとっくの昔に亡くなってる。俺が三歳のときらしい。俺は母親のことなんか何も覚えていないし、父親も知らない」
どこか逆らい難い大和さんの物言いに押されたのか、公英さんはかなりパーソナルな部分まで話をしてくれた。母親が亡くなってからは、ずっと祖父母と暮らしていたという。それでも、彼が一番懐いていたのは、穂積さんの母親だったそうだ。
「六花の母さんは、俺を自分の子どもみたいに可愛がってくれていたよ。でも、あの人だって名前のことなんて何も……」
「そうか。それは残念だ」
本人の中だけで完結して、禄にこちらに意図を伝えようともしない大和さんの話にカチンと来たのだろう。少し語気を荒げて、公英さんは「何が言いたい」と大和さんに噛みつく。対して大和さんは、我関せずといった素振りで饅頭に手を伸ばすものだから、公英さんはこめかみに青筋を浮かべて、大和さんに掴みかからんとする勢いで机の上に身を乗り出した。
「学者だかなんだか知らねえけど、言いたいことがあるならはっきり言えよ。お高くとまりやがって」
「公ちゃん、そんなすぐに怒らないでよ」
「……大和さん。俺、あんたが何言いたいか全然わからないんで、教えてもらっていいですか」
「なぜ?」
「大和さんが何に気が付いたのかが知りたいからです。……話してくれるまで、饅頭はお預けということで」
大和さんが取ろうとしていた饅頭を、皿ごと手の届かない机の端まで寄せてみる。すると、案外効果は抜群だったようで、大和さんは渋々といった様子を隠すことなく、頬杖を突きながら偉そうに話し出した。志貴が前に言っていた大和さんは甘い物全般が好きという情報は、今後もかなり役立ちそうなものであると知った。
「キミたち幼馴染み三人の名前だが」
「ちょ、ちょっと待って下さい。幼馴染み『三人』?」
いきなり話に待ったをかけた俺を、大和さんはギロリという音が鳴りそうなほどの眼力で睨みつける。だって、幼馴染みなのは穂積さんと公英さんの二人のはずだ。ならばあと一人とは、いったい誰のことを言っているのか。
「さっき、キミヒデが言っていただろう。『たった二人の幼馴染み』と。ミズホ、キミは大学でシキしか友人がいないようだが、その場合、キミはシキをなんと表わす?」
「え? えっと、『たった一人の友人』とか……あ」
「そう。キミヒデにとっての幼馴染みがリッカだけであるなら、彼は『たった一人の幼馴染み』と言うべきだった。つまり、キミヒデにとっての幼馴染みは二人いると考えられる」
普通に感心してしまったが、公英さんがその発言をしたとき、確か大和さんは蔵の中にいたはずだ。それなのに彼がこの言葉を発したと知っているということは。
「……地獄耳」
「そういうキミは相変わらずの愚鈍さだな、ミズホ。実に察しが悪い」
「はいはい、俺が愚鈍なのはもうわかっていますとも。それで、もう一人の幼馴染みは誰なんですか?」
「鳴子朔に決まっているだろう」
鳴子朔というと、この饅頭を作ったという男か。
「たしかに公英さんのご実家の隣に住んでいたり、穂積さんとも仲が良さそうですけど」
「そんなことはどうだっていい。大事なのは名前だ。彼らの名前は、三人でひとつのものを表わしているじゃあないか」
さも当然と言わんばかりの大和さんの言葉に、俺だけでなく、春田さんや公英さんも、ともに首を傾げる。しかし、唯一穂積さんだけが、何かの合点がいったように目を見開き、右手で控えめに挙手をした。
「あ、あの。口を挟んでごめんなさい。でもどうしても言いたくて……。昔、お母さんに言われたことがあるんです。『六花と朔くんと公英くんは、三人でひとつだから』って。当時はそれくらい仲良しでいてほしいってことかと思っていたんですけど、もしかして、お母さんは何かを知っていたんでしょうか」
「知っていたも何も、キミたちの名前が『そう』なるようにしたのは、キミたちの親ではないのか。キミヒデと名付けたのは、彼の母親なんだろう」
「そう聞いています。私の名前はお母さんが。朔ちゃんの名前は、彼のお父さんが付けたって」
「キミたちの生まれた順番はリッカ、サク、キミヒデで、何かあればその順番で呼ばれたり、並べられたりしたのではないかな」
「そ、そうです。私が七月に生まれて、二ヶ月後に朔ちゃんが、一ヶ月後の十月に公ちゃんが生まれました。三人で写真を撮るときとか、並んでご飯を食べるときなんかは、いつもこの順番で……それも、お母さんたちがこの並び順で撮るように言ったり、食器を並べてくれていたりしてたから」
「キミたちの親は、とても絆が固かったのかもしれないな。おそらく、相当話し合ってわざわざその名前を付けたのだろう。──時にミズホ」
「は、はい?」
大和さんと穂積さんのやりとりを聞き逃さないように必死だった俺に、いきなり話を振られたものだから、焦って素っ頓狂な声が出てしまった。そんな俺の声については綺麗さっぱり無視をして、大和さんは俺に「三つでひとつになるものは何か」と問うてきた。
「少しは頭を動かして、考えてみてはどうだ」
もう十分動かしているつもりです、とは言えず、黙って脳を働かせる。
三つでひとつ。三つでひとつ。
ジャンケン。信号機。朝昼夜。上中下。左、真ん中、右。スリーアウト。光の三原色。あー、あと、一富士二鷹三茄子。あとあれ、なんだっけ。数学で習う、英語と変な記号とが混ざったもの。
「サイン、アサイン、サンジェント?」
「それ、『サイン・コサイン・タンジェント』やない?」
春田さんからの指摘にも、そういえばそうだったかもな、といったぼんやりとした感想しか抱けない。中学、高校と、数学は特に苦手な教科だった。
「愚鈍極まりないミズホ、降参かな」
「……はい」
両手を挙げて、大人しく降参の意を示す。そんな俺を鼻で笑った大和さんは、大してもったいぶりもせずに「雪月花だ」と言い放つ。
「せつげつか?」
「日本の四季の美しさを表わす慣用句だ。冬の雪、秋の月、そして春の花が、自然美の代表的なものとしてあげられている」
どこかで聞いたことのある言葉だが、それが穂積さんたちの名前とどう繋がるのかがまだわからない。そんな俺の心情を読み取ったのか、大和さんはさらに説明を続けた。
「三人の名前は、それぞれが雪、月、花を表わしている。『朔』とは新月の別名だ。古くは『朔日』という言葉が月の始まりを示していた。『六花』は花ではなく、雪だ。雪の結晶が六角形であることから、雪の別名に『六花』がある。だから三人の中で最初に生まれたリッカに、雪月花の一番目である『雪』の別名を付けたのだろう。最後にキミヒデだが、彼の名前は春の花を指している。ただし彼の場合は、名前単体だと意味を成さない。名字と併せて初めて、彼の名前は花となる」
公英さんの名字というと、おそらくこの場合はホヅミではなく、旧姓のカンバを指すのだろう。
「カンバ、キミヒデ……」
「漢字にすると『蒲公英』。これは、『たんぽぽ』と読むことができる。春になると黄色の花が咲く、キク科の多年草だ」
誰かがゴクリと唾を飲み込む音が、やけにはっきりと聞こえた。それは俺の喉から出た音であったかもしれないし、ほかの誰かの音だったかもしれない。自分自身のことすらわからなくなるくらい、この場の全員の全神経が大和さんに注がれていたような気がする。
「よってキミたち三人は、三つでひとつになる名を与えられた──生まれる前からともにあることを望まれた人間たちだったかもしれない、ということだ。……以上。何か質問は?」
「…………すごい」
誰もが言葉を失う中、穂積さんだけがぽつりとそう呟く。彼女の言葉を受けて視線を大和さんから穂積さんへと移した俺は、穂積さんと、その隣に座る公英さんの肩が、一分の隙もないほどぴったりと触れあっていることに気が付いた。
「私たち、二十年も一緒に生きてきたのに。自分たちの名前にそんな意味があったなんて、初めて知りました」
「あんた、頭良いんだな」
穂積さんの言葉に続いて、公英さんも感嘆の声をもらす。しかし、大和さんは公英さんのその言葉を不思議そうな顔をして否定する。
「頭が良いのではない。キミたちの名前の起源が気になっただけだ。それに、真意はキミたちの名付け親にしかわからないだろう。オレがしているのは、ただ『こうだったかもしれない』という、可能性の示唆に過ぎない」
「それでも、そうだったかもしれない、とすら思ったことはなかったから。だから、とても嬉しいんです。お母さんたちが、もしもそんな願いを込めて私たちにこの名をくれたのなら……そうだったら、いいなって」
「だからありがとうございます」と、穂積さんは深々と頭を下げる。大和さんはそんな彼女に特に何か声をかけるわけでもなく、俺が移動させた饅頭の皿を指さし、「もういいだろう」と言った。俺は彼の言葉に大人しく従い、饅頭の皿を彼の目の前に置く。
「お茶のおかわり、持ってきますね」
無言で饅頭を食べ始めた大和さんを見た穂積さんは、そう言って台所の方へと向かう。春田さんも穂積さんの後を追いかけるように、コーヒーのおかわりを飲むべく立ち上がる。
彼女たちの後ろ姿を見届けた公英さんは、これまでより少し抑えたトーンで、俺と大和さんに向き直った。
「あんたら二人は、何をしにこの村に来たんだ。あのタヌキ女と違って、明日の祭りのことは知らなかったんだろう」
俺は目的地も知らぬまま、大和さんの荷物持ちとして付いてきただけなので、何をしに来たのかと問われても答えられない。のんきに饅頭をかじる大和さんは咀嚼を終えて一言「起源調査だ」と素っ気なく言ったきり、また饅頭に意識をやってしまった。
起源調査という、聞き慣れないであろう単語に怪訝な顔をする公英さんに、なんとかかみ砕いて説明しようとする俺を遮り、公英さんは「要するに何かの調査をしているんだな?」と尋ねる。
「平たく言うと、そういうことダと思います。僕も詳しくはわかっていないんですが、民俗学者という立ち位置の人なので何かこう、風習とか、伝承とかに興味があるらしくて」
「ああ、具体的なことはいいんだ。この村についての調査をしているんであれば……ひとつ、頼み事を聞いてほしい」
それまで胡座をかいていた公英さんは、そう言うや否や正座をして、大和さんを真正面に捉えるように体の向きを変えた。
「三年前の『御供養様』──村の祭りで、大量の死者が出た」
神妙な面持ちで話す公英さんによると、三年前の祭りがあった夜、村のあちこちで不審火が発生し、逃げ遅れた村人が焼死したという痛ましいできごとがあったそうだ。被害者の多くは高齢者で、穂積さんの祖父もそのうちの一人とであるという。
公英さん曰く、村内の別々の場所でほぼ同時に不審火が発生したことも確かに不可解だが、当時の村人たちに最も印象深く刻まれているのは、焼け跡から見つかった案山子の残骸であった。
「そんな物が全部の燃えた箇所から見つかったもんだから、最初は案山子の祟りだなんだって騒ぎになっていたんだ。自分の家の畑にある案山子に供え物をし始めた奴もいたくらいだ」
そんな噂がまことしやかに囁かれ、道端の案山子に手を合わせる村人が急増したと、公英さんは苦笑しながら振り返る。しかし彼はすぐに真剣な表情に戻ると、ある時から噂の内容が変わり始めたと語った。
「何がきっかけだったのかも、誰が言い出したのかもわからない。でも次第に、村にある案山子のほとんどを作っている鳴子家に、疑いの矛先が向けられるようになった。『鳴子が案山子に火を付けた』ってな。その噂は瞬く間に一人歩きをして、今じゃああれは事故じゃなくて、朔の父親が起こした事件だって思っている村人が大勢いる。朔の父親だって、あの日に亡くなっているのに」
「何か勘違いをしているようだが、オレは優秀な警察官でもなければ、稀代の名探偵でもないぞ」
呆れたような物言いの大和さんに怯むことなく、なおも公英さんは続ける。
「この事件について調べてほしいわけじゃない。ただ、村の祭りの最中に起こったことだから、あんたが村を調べているうちに、この事件についての何かを見聞きするかもしれない。村人も、俺も六花も、『朔の父親が一連の事件を起こしたのかもしれない』ってところまでで考えが止まっているんだ。動機や方法はわからない。もしかしたら、朔の父親じゃない、別の人間が犯人かもしれない。そもそも最初から事件じゃなくて、偶然の事故なのかもしれない。だけどみんな、誰かが言い出したひとつの仮説に飛びついて、それで終わりにした。終わりにすることしかできなかった。……でも、あんたほどいろんなことを考えられる人なら、きっと違う見方をするんじゃないかって思ったんだ」
公英さんは膝の上に両手を置くと、大和さんに向かって深く頭を下げる。まるで土下座のようなその姿からは、彼の生真面目さと、この頼み事に対する熱意みたいなものが感じられた。
「だからもしも、この村を調べる上で、あの事件について何か違う見方が考えられるなら、それを教えてほしい」
「こうだったかもしれない」というだけでいいのだと、公英さんは頭を下げたままで続けた。
「本当なら、六花と結婚するのは朔だったはずなんだ。少なくとも六花の母親は、それを望んでいた。でも、自分の父親が事件の犯人かもしれないからって、朔は三年前からずっと、俺たちや村人との関係をほぼ絶っていて、その間に俺の婿入りが決まった。あいつ自身が関係を絶っていても、六花は今日みたいに時々会いに行っているけどな。でも、昔みたいにこの家で三人で駄弁るなんて、もうできないんだ。村長……六花の父親が、俺たちと朔が一緒にいるのを、特に良く思わない人だから」
幼い頃から面倒をみてもらってきたことに加えて、入り婿である立場の公英さんが、村長の意見に反対してまで朔さんとこれまで通り仲良くするのは、難しいことなのだろう。逆らえないわけではないが、逆らってはいけない雰囲気がある。だからこそ、穂積さんが朔さんに会ったとわかったときも、あのようにキツい物言いをしてしまったのかもしれない。それにしたって、幼馴染みが作ってくれた物を毒入り呼ばわりはないが。
入り婿だの村長だのという複雑な関係性は、俺にはまったく縁遠い世界であるため共感はできなくても、その歯がゆさは理解できる。彼は日々、穂積さんの隣で、己の無力さに打ちのめされているのかもしれない。
「三年前に起こった事件というのが、最初にささやかれた通り案山子の祟りであるなら、興味深いな」
饅頭の最後のひとくちを飲み込んだ大和さんはそれだけ言うと、グラスに入ったお茶を飲み干し、おもむろに立ち上がる。
「え、どこに行くんですか、大和さん」
「資料は蔵の中であらかた読んだ。次は実地調査だ」
「だから、どこへ」
「決まっているだろう。案山子の元へだよ」
資料はお前が持てという大和さんの指示に、畳に直置きしていた薄い資料を二冊と巻物の箱を素早く手に持ち、置いて行かれまいと小走りで彼の後を追って玄関へ向かう。
「あ、そうだ。お茶とお饅頭ご馳走様でした! それからこの資料、ちょっと借りていきます!」
「おう。……なあ、一晩くらいなら、うちに泊めてやってもいいぞ。どうせ、あのタヌキ女も泊まるんだし」
一人だろうが三人だろうが変わらないという公英さんの言葉に、遠慮無く甘えさせてもらうことだけを告げて、俺は今度こそ、玄関のある方へと駆けて出した。
そもそも俺は、大和さんが何を調べるためにこの僻地にやって来たのかすらわからない。三時間もあった道中で、俺たちの会話はほぼゼロであった。
大和さんは、大学の最寄り駅の改札をくぐった直後に俺が右肩に担いだ自身のバッグから分厚い本を取り出し、駅のホームで電車を待っているときも、座席に腰掛けて揺られているときも、電車の乗り換えのときでさえも、大和さんが本から目を離すことはなかった。さすがに乗り換えのときくらいは前を向いて歩いてくれると思っていたのに、両手で本を支え、ふらふらとおぼつかない足取りで狭いホームを歩くものだから気が気ではなく、仕方なしに、俺は彼の真後ろに貼り付いて彼の両肩をつつきながら、あっちへこっちへと誘導したのだ。
事前に志貴から言われたときは「お手伝いって、子どもじゃああるまいし」と、志貴の過保護っぷりに呆れたのものだが、この三時間で呆れの方向性が変わってしまった。
志貴よ。お前の兄さんは、人並みの行動ができないのだろうか。
そんなわけで本に夢中の三時間を過ごした大和さんは、当然俺に事情を説明する暇などなく。無人駅に着いて一言「着いた」と大和さんが呟いて、ようやく今回の目的地を知ったのだった。
「この場所で、いったい何を調べるんですか」
「正確にはここではない。少し進んだ先の村に用事がある」
村、と言われても馴染みがないために大した反応もできないが、なるほど、確かに市や町というよりは、村がありそうな雰囲気の場所である。
大和さんはついぞ手放すことのなかった本をいとも容易く俺に預けると、俺がそれを彼の鞄にしまいこむより早く歩き始めてしまう。
「少しって、どれくらい先なんですか」
バスなんて滅多に通ることのなさそうなあぜ道を行く大和さんの背中を追いかけながら尋ねると、彼は「さあね」と言い放った。
「道順は覚えたのだけれども、時間までは」
「言ってくれれば俺が調べますよ」
「オレもここへ来る前にいくつかの媒体で調べたが、今から訪れる村はどうやら、地図上では『ない』ことになっているらしい」
とんでもない話を、なんでもないように話すのはやめてほしい。つまりは何か、封じられた村とか存在してはいけない村とか、そういうあれだろうか。
ああどうしよう。すでにとても帰りたい。
「そもそも例えばの話、キミのように見るからに健康優良児然とした男と、オレのように不摂生を極めた男とでは、生物学上同じ『男』という枠に入れられたとて、その実一時間で歩ける距離に大きく差が生まれることは、実際に一時間歩いてみなくても予想がつくだろう」
「……つまり、何が言いたいんです?」
「つまり、キミが歩けば一時間で着く場所へ、オレは二時間かかっても着かない可能性があるのだ。目的地までの予想到着時間というものには、大きな個人差がある。オレは、オレよりも健康的な人間たちによって算出されたデータから割り出された予想到着時間を信じたことは、これまでの人生で一度たりともない」
なんだかまた小難しいことを言っているが、要は歩くのがとても遅い、という自白だろうか。言っちゃあ悪いが正直「そうだろうな」という感想しか出てこない。大和さんがこんな見た目をしておきながらめちゃくちゃ足が速かったり、腹筋が割れていたりしたら、むしろちょっと怖いぞ。
「はあ、そうですか」
ここで下手なことを言って機嫌を損ねるわけにもいかないため、俺は適当な相槌を打つ。
大和さんはそれきりまた口を閉ざすと、今度は俺が肩で操作をせずとも、しっかり自分の足で歩いた。ああ、やっぱり行くんですね。「地図上にない村」に。
できることなら今すぐ帰りの電車に乗りこみたいところだが、ここで逃げ帰れば七十万円が塵と化す。まだヤバい村だと決まったわけではないのだし、とりあえず大和さんに着いていって、本当にどうしてもヤバそうなら置いて帰ろうと、俺は静かに決意した。
炎天下の中、乱立するビルによってちょうど良い日陰ができる都会とは違い、周りには田畑ばかりの道を行く。たまにある街灯と電柱が唯一の高い人工物で、日除けにするにはずいぶんと頼りない細さであったので、わざと街灯や電柱の近くを歩こうかという気持ちは、そうそうに薄れた。
すれ違う住民はおろか、蝉の一匹すら姿を見せない場所をただひたすらに歩くこと、何分だろう。暑さで頭がやられたのか、体感では一時間か二時間経っていてもおかしくはないのだが、俺よりよほど暑さに弱そうで、かつ暑苦しい黒の長袖長ズボンを身に着けた大和さんがケロリとした表情なので、もしかしたら十分やそこらの時間しか経過していないのかもしれない。
俺の少し先を歩いていた大和さんは、森のような出で立ちの木々が立ち並ぶ場所で足を止めると、ご丁寧に俺の方を振り返り「今度こそ、着いたぞ」と言った。
雲ひとつない青い空の下、肌を焦がす太陽の光に照らされて、滝のような汗をかく俺の目の前に飛び込んで来たものは、腕はひしゃげて顔はただれ、カラスよりも人間をよけるオブジェと化した──案山子、カカシ、かかし。
大量の案山子である。
このときの俺の感情を一言で表わすのなら、それは間違いなく「絶望」だった。
こうしてやっと、この物語の時系列は冒頭と繋がる。
「帰りましょう」
「帰らない」
「危ないですって」
「帰らない」
「大和さん」
「では、キミだけ帰ってはどうだろうか。そう耳元でずっと煩くされては、オレも気が散るのでね。荷物はそこに置いていってくれて構わないよ」
「そんなことしたら俺の七十万はどうなるんですか!」
「知らん」
押し問答とも呼べないやりとりを交わしながら木々の奥へと進むと急に視界が開けて、太陽の眩しさに反射で目を瞑る。何度か瞬いてから開けた方へと目を向けると、広大な田畑と、俺たちを歓迎するかのように立ち並ぶ村民──にそっくりの、案山子。
「や、大和さん!」
「なんだ」
「み、みみみ、みてるみてる、こっち見てるッ!」
「案山子が皆同じ方向を向いて立てられているな。それがどうした」
「あんたなんでそんな平然としてられるんですか!」
「なんでと言われてもなあ。逆に聞くがミズホ、キミはなぜ、そんなに震えてオレの背中に隠れているんだ。キミの方がいくらも背が高いのだから、まったく隠れられてなどいないが」
「怖いからですが!?」
クソ。千重といい大和さんといい、ホラーに耐性がある奴は、俺のように耐性がない人間の気持ちをまるで理解しようとしないから嫌いだ。今だって俺が盾にしているこの人は、これ見よがしにため息を吐いている。まるで「何をそんなにビビっているのやら」とでも言いたげだな。ビビるに決まっているだろう。あの案山子たち、揃いもそろってリアル過ぎるのだ。
「もう一通り怖がったか? オレは先へ進むぞ。この村の位置関係を把握したい。ついでに村についての資料がある場所を見つけられればいいのだが」
「待ってくださいよ、置いていかないで!」
「オレがキミを置いていくのではない。キミが勝手に、オレに付いてこないだけだ」
言うが早いが、大和さんは案山子の乱立する畑の方へを歩みを進める。俺は少し躊躇ってから、けれどこの場所に一人残されることの方に恐怖を覚えて、急いで彼の後を追う。もちろん、右肩に彼の荷物を持ち、左肩には自分の荷物を引っかけて。
「大和さんはこの村のことをどうやって知ったんですか」
案山子を視界に入れないようにと、大和さんに目線を固定しながら歩く。ついでとばかりにずっと疑問に思っていたことを聞くと、彼は「シキが」と言った。
「シキが、面白そうな村があると、ここの話をしてきてね。興味深かったから、論文の題材探しも兼ねて実地調査にと思ったのだ」
志貴め。アイツ、どういう伝手で地図にも載っていない村を知ったんだ。まったく、どうせならもうちょっと明るくて平和そうな伝承のある村を紹介してほしいものである。
「それなんだが」
大和さんは歩みを止めずに言う。
「シキ曰く、この村は三年前まで、県の情報誌などにも村の名前や写真が載っていたそうだ。オレも見せてもらったが、確かにここの風景と似た写真が載っていた。村の名前は、」
「ようこそ、『烏矢津村』へ!」
「どぅわあッ!?」
大和さんの言葉に被せるように、知らない人間の声が聞こえた。それもかなり至近距離から。
体全体が跳ね、後ずさりながらも声のした方を見ると、大和さんと向かい合うように、小柄な女性が立っていた。
太陽の光に照らされているせいか、ところどころ金髪のように見える明るい髪と、その髪色に負けないくらい明るい笑顔で俺たちを見遣る女性は、涼しげなタンクトップから伸びる細い両腕を勢いよく真横に広げると、もう一度「ようこそ!」と言った。
「観光の方ですか? 嬉しいなぁ。今年はどうなることかと思ったけど、今日は二人もお客様がいらっしゃって! お祭りは明日の夕方からですから、それまでゆっくりしていってくださいね」
「『今日は』ということは、ほかにも観光の人間が?」
まだ激しく脈打つ心臓をなんとか落ち着かせながら大和さんの隣に戻ると、彼はわずかに口角を上げながら彼女にそう尋ねていた。この人のこういう、余所行きの顔みたいなものは初めて見たので、えらく新鮮である。
……いや、ちょっと待てよ。なんでこの人愛想笑いができるくせに、どうして俺と初めて会ったときはあんなに仏頂面だったのだ。俺ってもしや、初めましての段階から今にいたるまで、ずっとこの人に雑に扱われているのでは?
俺は思わず大和さん横目で見るが、俺の心境なんて知りもしない彼は、目の前の女性になおも口角を上げて接している。女性はと言えば、大和さんの問い掛けに一段と顔を輝かせると、大袈裟なくらいに首を縦に振った。
「そうなんです! 昨日、隣の県にお住まいの女性が、お祭りのためにといらしていて。お兄さんたちは、どこからお越しくださったのですか?」
彼女の言葉を受けたはずの大和さんはすぐには答えず、なぜか隣の俺に視線を寄越す。その深淵のように果てしなく暗い目は雄弁に「後は頼んだ」と語っていて、彼の余所行きモードは、そう長くは保たないことを知る。
「えっと、僕たちは東京から来ました」
「東京!? そんな遠路はるばる……。何もお構いはできませんが、どうか存分にお祭りを楽しんでいってくださいね!」
両手を組み合わせて微笑む彼女に、俺は申し訳なく思いながらも、気になったことを問わずにはいられなかった。
「あの、実は俺たち、この村のことをあまり知らなくて。……その、名前、とか。先程からおっしゃっているお祭りのこととかも、正直詳しくはないので、よければ教えていただけないでしょうか」
言いながらまた横目で大和さんを伺えば、いつも通りの無表情ではあるものの特に咎められないので、この切り返しは彼的にもよいことだったのだろう。
一方で目の前の女性は、口を小さく開けて絵に描いたような「ぽかんとした顔」をしている。薄々思ってはいたけれど、彼女、相当表情が豊かだ。いっそわざとらしく見えるほどのそれは、なんだか幼い少女のようにも思えてくる。
呆けていたのも束の間、彼女はまた先程のような笑顔を携えて、俺の提案に了承の意を告げる。
「立ち話もなんですから、よければすぐそこにある、私の家へお越しください。この村のこと、お祭りのこと、私のわかる範囲でしたら、なんでもお教えします!」
一瞬、女性の家に男二人がいきなり上がり込むことに躊躇いを覚えるも、「私の家」として指し示されたひときわ目立つ立派な日本家屋に、どう見ても一人暮らしの家ではないことがうかがえて安堵する。
彼女に案内されて歩き始めたとき、これまた大袈裟に、というよりもアニメチックに、彼女は両手をパチンと合わせて立ち止まる。
「そういえば名前も知りたいとおっしゃっていましたね。私の名前は穂積六花です。これはやっぱり、先にお伝えしておかないとですもんね!」
満面の笑みで自己紹介をしてくれた彼女に、先程とは比べものにならないほど莫大な申し訳なさが募る。
言うべきか、言わざるべきか。こんなにも丁寧に名前を教えてくれた彼女に対して、「知りたかったのはあなたの名前ではなくて村の名前です」なんて、やはり言うべきではないだろう。そもそも彼女は最初に村の名前を言っていたはずで、だけれども知らない声に驚くことに精一杯だった俺の脳が、村の名前を上手く覚えていられなかったのが悪いのだ。
そう、彼女は何も悪くはない。村の名前を記憶できなかった俺と、「村の名前を教えてくれ」と言わなかった俺が悪い。
「……僕は、正木瑞穂といいます」
おそらく千重より年は上のはずだが、その言動から妹と重なって見えてすらくる彼女の笑顔を曇らせるわけにはいかなかった。俺のことを早速「瑞穂さん」と呼んでくれる彼女の笑顔を守れたのであれば、俺はそれで十分である。
「瑞穂さん。素敵なお名前ですね。お連れのお兄さんのお名前はなんとおっしゃるのですか?」
「あ、彼は大和優希です」
「あら。お二人とも『マサキ』さんなんですね。素敵な繋がり! でも、優希さんを下のお名前でお呼びしたら、瑞穂さんが混乱なさるかしら。『大和さん』とお呼びしてもいいですか?」
「……お好きにどうぞ、リッカ」
大和さんは、また余所行きの顔を穂積さんに向ける。初対面の女性を、いきなり下の名前で呼ぶのかよ。
けれど、当の穂積さん本人が気に留めた様子も見せず、それどころか満足そうに頷くので、俺は黙るしかなかった。
くるりと背を向けた穂積さんは足取り軽く、自身の暮らす家へと先導するのだった。
遠目から見ていたよりもはるかに荘厳な佇まいを見せる穂積家を前に緊張を募らせる俺とは違い、大和さんはいつもの無表情のまま敷居を跨ぐ。
「少し待っていてください。今、お茶を持ってきます」
俺たちを座敷へと通してくれた穂積さんは、「お構いなく」と俺が言う間もなく、背中を向けて駆けていってしまう。手持ち無沙汰に開け放たれた障子の向こう側に広がる庭を眺めていると、その庭のさらに奥、青々とした葉が揺れる田んぼに、いくつも乱立する案山子を見つけて、咄嗟に目を逸らす。俺の隣で背筋を綺麗に伸ばしたまま正座をする大和さんは、静かに田んぼの方を眺めていた。
「お待たせしました。こちら、粗茶ですが」
小さな盆に二つのグラスを乗せて運んできた穂積さんはそう言いながら、俺たちの前にひとつずつグラスを置く。透明な縦長のグラスに、正方形の氷が三つ。透き通るように綺麗な色をした緑茶が、その中に注がれていた。
「ご丁寧にありがとうございます。すみません、突然押しかけて、お茶まで」
「いいえ! 私、とっても嬉しいんです。外からのお客様なんて滅多にいらっしゃらないから」
俺たちと向かい合うように座布団の上に座った穂積さんが「どうぞ足を崩してください」と促してくれたので、俺はお言葉に甘えて胡座をかく。大和さんは、正座のままだった。
「えぇっと……まずは、何からお話ししましょうか」
ここから先はあんたが聞いてくれ、という願いを込めて大和さんを見ると、彼は今まさに、ちょうど口を少しだけ開けて息を吸っているところであった。俺はそのまま、穂積さんへと目線を戻す。涼しげに解放された彼女の首元で、三つ葉のようなものがあしらわれた銀色のネックレスが揺れていた。
「では、早速で恐縮ですが。明日行われるという祭りについて、具体的にお聞かせ願えますか。どんなもので、なんのために、いつから行われているのかを」
大和さんの問いに、彼女はしばし逡巡したあと、軽く頷いてから笑って見せた。
「はい。明日行われるのはこの村──烏矢津村で、三年に一度行われる『御供養様』というお祭りです。お祭りといっても、露店が出たり花火が上がったりするわけではありません。……昔はそういうことも行われていましたが、村自体の人口減少などもあって、今ではすっかり。どんなもの、というと、この村には案山子がたくさんいまして」
言いながら、穂積さんは庭の先を指で指す。彼女は、先程俺が目を逸らした案山子を見ながら続きを話す。
「ほら、あの田んぼにもいる……いますでしょう? あれらをまとめて焼き払うお祭りです。『ご苦労様』と『供養』を併せて、『御供養様』と言うようになったと、祖父から聞いたことがあります」
穂積さんは「それから」と口にして、次いで眉をなんとも器用に八の字に下げ、申し訳ないと言わんばかりにこちらを見た。
「大和さんのおっしゃっていた『いつから行われているか』というものですが、ごめんなさい。私、それはわからないんです。ずいぶん昔から、としか。それこそ、祖父の若い頃からすでに行われていたはずではあるのですが」
「お爺様にお話を伺うことはできますか」
そう尋ねた大和さんに、穂積さんは首をゆるく横に振って答える。
「亡くなりました。……三年前に」
「では、この村に図書館や資料館のようなものは」
「隣町にはありますが、この村には。ただ、この家の蔵に古い書物はいくつかあったと思います。子どもの頃、かくれんぼをしていて入ったときにそれらしい物を見た気がして。村やお祭りに関するものではないかもしれないし、そもそも私の記憶違いかもしれませんが、よければ探していかれますか?」
「ぜひ」
「ちょっと大和さん、そんないきなり……」
「いいよ、じゃなくて……いいんですよ、瑞穂さん。何度も言っているけど私、嬉しいんです。お客様がいらしたことも、この村に興味を持ってくれるのも」
颯爽と立ち上がり、「こっちです!」と元気よく先導してくれる穂積さんの後に、大和さんは我が物顔で、俺はまた申し訳なさに苛まれながら続くのであった。
「おい、誰だお前ら」
ところが。意気揚々と玄関を出た穂積さんの前に、一人の男が立ち塞がる。男は目の前の穂積さんではなく、その後ろにいた俺と大和さんを睨みつけていた。
「あれ、公ちゃん。おかえり」
「ただいま、六花……じゃなくて。誰、コイツら。なんかされた? それともまた変なの拾ってきたんじゃねえだろうな」
拾うとは人聞きの悪い。犬猫じゃあるまいし。
だが、口ぶり的に男はこの家の住人なのだろう。穂積さんの髪色よりも明るい、限りなく金髪に近い茶髪のテッペン部分は黒くなっていて、いわゆるプリン頭になっている。背丈は大和さんよりも少し高いくらいだ。穂積さんから「きみちゃん」と呼ばれていたことを考えると、もしかして彼女のご兄弟だろうか。
男は目にも止まらぬ速さで、穂積さんを自分の背中に隠すように俺たちに立ちはだかる。二つのピアスが付いた左耳を手持ち無沙汰に触りながら、優しい印象を与えがちな垂れ目をこれでもかというほど細め、眉間には濃い皺を刻みながら、ヤンキーさながらに眼圧をかける彼に、俺は完全に萎縮してしまった。ヤンキーは怖いのだ。
「村じゃ見ない顔だ。外の人間か? なんでこの家に入っていやがる。六花に何を吹き込んだんだ。たとえお前たちが野垂れ死ぬ寸前のところを六花に拾われたんだとしても、それはお前らが特別なんじゃない。六花が誰にでも優しすぎるから拾ってもらえただけだ。……わかったならとっとと出て行け。これ以上六花に縋ろうもんなら、この俺が許さねえぞ」
「ちょっともう、公ちゃんってば! お客様に失礼でしょう!」
「痛ッ!」
男の背中に隠されていた穂積さんが、彼の脳天に容赦の無いチョップをお見舞いする。そうして彼がしゃがみ込んだところで、彼女はまた申し訳なさそうな顔で俺たちを見た。今度はなんと、両手をパチンと合わせるオプション付きで。
「大和さん、瑞穂さん。きみちゃんが大変失礼な態度をとって、ごめんなさい! 彼はかん……穂積公英と言います。私の、一応、旦那さんです」
「旦那さん!?」
「一応ってなんだよ!」
俺と公英さんの声が重なる。その瞬間、公英さんは俺を素早く睨みつけ、俺は反射的に「すみません」と両手を上げた。
それにしても、穂積さんがご結婚していたとは。俺と同じか少し年上くらいかなと予想していたので、驚愕の事実に思わず声が出てしまった。
「私と公ちゃんは幼馴染みなんです。ずっとこの村で一緒に育ってきたから、三年前に公ちゃんがこの家にお婿さんとして来てくれたけど、まだ全然、旦那さんっていう感覚はなくて」
そう教えてくれた穂積さんの表情は、初めて見る、どこか諦念を帯びたものだった。
「さあ! 公ちゃんは放っておいて、蔵の方に参りましょう。こちらです。ほら公ちゃん、どいて」
少ししんみりとした空気を無理矢理切り替えるように、穂積さんは再び両手をパチンと合わせて、明るい声で言う。それから公英さんの背中を強引に押しのけると、俺たちを玄関から外へと促した。そんな彼女に、大和さんは特に何の反応も見せないまま付いていく。
俺はと言えば、まだ何か言いたげにこちらを睨みつけることをやめない公英さんを素通りするわけにもいかず、その場に立ち尽くしてしまった。
「あの、突然お家にお邪魔してしまってすみません。僕は正木瑞穂と申します。あっちの黒い人が大和優希といって、彼は大学で民俗学を教えている者です。僕はその助手のようなものでして、えっと、今日は……」
「例の事件を調べに来たのか」
先程までの荒々しいものではなく、落ち着いた、それでいてこちらの心意を探るような公英さんの声に、俺は言葉を詰まらせる。彼の言う「例の事件」に、俺はもちろん心当たりなんてなかった。
彼の問いに何も返せない俺を、公英さんは「例の事件」とやらに無関係だと判断したらしい。軽く息を吐き出した後、「蔵はこっちだ」と俺に背を向けて玄関を出て行いく。
ぶっきらぼうな物言いだが蔵までの道のりを案内してくれるあたり、面倒見が良い人なのかもしれないと思いながら、俺は彼の後ろを大人しく追いかけた。
蔵、と聞いて誰しも想像する蔵があるだろう。歴史の教科書や、アニメやドラマといった媒体で見て、俺の中にも蔵と言えば、というなんとなくのイメージ像がある。
穂積家の蔵は、俺の想像上の蔵とさほど乖離していない見た目の蔵だった。二階建てとまではいかずとも、一階半建てくらいの高さを持ち、壁は白塗りで屋根は黒色の瓦、重厚感のある鉄の扉には、輪っか状の取っ手が付いている。
そんな「ザ・蔵」とでも言うべき出で立ちの蔵に俺と公英さんが到着したとき、すでに大和さんは中を物色していた。
入口付近に立っていた穂積さんが、一緒に歩いてきた俺と公英さんを見つけて嬉しそうに破顔する。
「瑞穂さんと公ちゃん、仲良くなったの? よかった」
「……六花、向こうの日陰にいろよ。ここは日を遮るものが無いし、蔵の中は埃っぽくて空気が悪い」
てっきり、俺と仲が良くなったと言った穂積さんの言葉を否定するかと思ったのに、公英さんはそれには答えず、代わりに彼女の体調を気遣う素振りを見せた。公英さんの提案を、穂積さんは笑って遠慮していたが、そんな二人のやりとりに、俺の中でまた、公英さんの人物像が更新されていく。きっと公英さんは、本当に穂積さんを大切に想っているのだろう。彼女の笑顔を否定することを、拒むほどには。
その後も仲睦まじく、近い距離で会話をする二人を邪魔することも躊躇われて、俺はなるべく気配を消して、蔵の中へと足を踏み入れる。中には照明などもちろん無いが、入口を開け放しているおかげで夏の日差しが十分に入り込み、蔵内の様子がよく窺えた。
公英さんの言うとおり、かなり空気の濁った蔵の中には、積み重なった本や大小さまざまな大きさの木箱が所狭しと置かれていて、そしてそのどれもに、うっすらと、あるいはそれ本来の色がわからないほど厚く、埃が積もっている。マスクを持ってこなかったことを後悔しながら、俺は大和さんの姿を探した。全身黒い服で身を固めた大和さんは、薄暗い蔵の中と同化して探すのに少しだけ時間を要したが、一番奥にある大きな棚の前にじっと立っているのを見つけて、彼の背後に近寄る。
大和さんの手元を見ると、そこには一冊の本が開かれていた。作りとしては簡素で、本屋などで売られている本というよりは、個人規模で製作された資料のような薄さのそれを、大和さんはパラパラとめくっている。かと思えば、その本を小脇に抱え、同じ棚の一番下に立て掛けられるように置かれていた、同じく薄い一冊の本を手に取った。こちらは先程まで大和さんが見ていた本よりもだいぶ年月が経っているようで、めくられていくページは古本特有の薄茶色をしていたし、ところどころにシミや折れ線が見られた。
大和さんのページをめくるスピードが速すぎて、俺にはその内容まではわからない。けれどところどころで案山子のイラストや写真が出てくることから、案山子の、もしくはこの村の案山子にまつわる何かをまとめたものなのだろうか。
大和さんは最後に、本の一番後ろのページである奥付の部分を、それまでのページよりも長い時間眺めてから、また小脇に抱える。彼はその次に、隣の棚を物色し始めた。
「俺、何か手伝うこととかありますか?」
「ない」
即答した大和さんの言葉に肩を落とし、彼が容赦なく物色するせいで立った埃によって咳き込んでしまったこともあり、俺はすごすごと蔵を後にする。
「なんだ、用済みで追い出されたのか?」
蔵の外にいた公英さんが、揶揄うような顔をして俺を覗き込む。その言葉に「まあ、そんなところです」と苦笑して返しながら、穂積さんの姿が見えないことが気になった。
「ああ……なんか、茶菓子を買ってくるって」
「え? あの、それってもしかして俺たちのせいですか」
「お前らの『ため』な。アイツ、観光客が珍しくてはしゃいでいるんだ。外から誰か来るといつもこうだよ。『村長の娘だから』が口癖で、人一倍もてなそうって気が強くてさ。昨日、あの女が来たときもそうだった」
「穂積さんって、村長の娘さんなんですか?」
またしても意外な彼女の一面に、公英さんは「なんだ、聞いてなかったのか」と軽く流す。だからあんなに、よそ者である俺たちにグイグイ来てくれたのかと、これまでの穂積さんの言動を振り返っていると、公英さんは肩を揺らして小さく笑いながら、ついでとばかりに彼女の話し方について言及する。
「六花はさ、外の人間が来ると無理して敬語を使うんだよ。普段は村の爺婆にだって子どもっぽいタメ口のくせに」
言われてみると穂積さんは時々、言葉を詰まらせることがあった。あれは敬語を言い慣れていなかったからなのかと、合点がいく。それにしても、ほんとうに穂積さんを大切に思っているんだな、公英さんは。それに、すごく近いところで生きてきたことがわかる。
幼馴染みで、それも村長の娘と結婚なんてすごくドラマチックというか、こういう夫婦が本当にいることに若干の感動を覚える。
俺には幼馴染みと呼べる存在がいないどころか、恋人さえ生まれてこの方できた試しがない。今のところ欲しいと思ったこともないが、公英さんたちのようにお互いを思い合える関係性というものをこうもまざまざと見せつけられると、微笑ましいと思う気持ちの中にほんの少しだけ、羨ましさも芽生えてしまうもので。
「穂積さんのこと、大切なんですね」
蔵から出てすぐに揶揄われたのをお返しするようにそう言ってみても、公英さんは「まあな」と素直に頷く。どうやら心の余裕というものも、俺と彼とではずいぶんと違うらしい。
「たった二人の幼馴染みなんだ。大切に思っていたって、いいだろ」
俺に真っ直ぐ瞳を向けて告げる公英さんは、有無を言わせない圧ではなくて、懇願するような雰囲気をまとっていた。俺はそんな彼にかける上手い言葉が見つからず、ただ一度だけ首を縦に振ることしかできなかった。
そのとき、俺たちが蔵へ来るために歩いてきた方向から、誰かの足音が聞こえた。
俺はそれを、てっきりお茶菓子を買いに行ってくれていた穂積さんのものだと思って「ありがとうございます」の「あり」まで言いかけて、見えた姿が穂積さんではないことに気が付く。口を中途半端に開けたままで、こちらへ向かって歩いてくる人を凝視するも、黒いタンクトップというラフな格好のその女性に、俺はまったく見覚えがなかった。
彼女も穂積家の一員かと公英さんを見れば、彼は顔をしかめ、げんなりとした表情で女性を見ている。やはり、公英さんの知っている人ではあるらしい。あまり彼が好んでいる人ではなさそうだが。
「なんや公英くん、蔵におったんか。起きたら家ン中誰もおらんから、紫苑さんビビったで。なあ、六花ちゃんは? そんでそこのお兄ちゃんはどなた?」
穂積さんとは別ベクトルでグイグイ来た女性は、俺のあまり聞き馴染みのない、関西の方言で喋る人だった。パーソナルスペースが狭いらしい女性に、ジリジリと距離を縮められながら名前を聞かれて、俺はその勢いに気圧されながらもフルネームを答える。すると彼女は真っ白い歯を見せながら、自身を「春田紫苑」と名乗った。
「『タヌキ』っちゅう名義で、オカルトライターをちょこっとやってます。ここの村のお祭りが気になって、昨日からお邪魔しとるんよ」
では、春田さんが穂積さんや公英さんの言っていた、俺たちのほかにいる観光客なのか。それにしても馴染んでいる。話しぶりから察するに、昨夜は穂積家に宿泊したのだろう。余所様の家でこの快眠っぷりからも、さぞ図太い心臓の持ち主だと窺える。
そういえばこの村、宿泊施設はあるのだろうか。
「はあ? あるわけねえだろ、そんなもん。田んぼと畑しかないド田舎だぞ」
おそるおそる公英さんに聞いてみるも、あえなく撃沈。真っ向から否定され、さて野宿セットは売っているかなと、ここから一番近いコンビニエンスストアを検索しようとした矢先、またもや誰かがこちらへ向かってくる足音を、耳が捉えた。
やって来たのは今度こそ、穂積さんだった。赤いちりめんの風呂敷を両手で抱えた彼女は、「ただいま」と朗らかに笑いながら、俺たちの方へ歩み寄る。
「あれ、紫苑さん起きたんだ。おはようございます。夕べはよく眠れましたか?」
「六花ちゃん、おはようさん。おかげさまで今の今までぐっすりよ。六花ちゃん、どこ行ってたん」
「私はお茶菓子を買いに──」
「おい、六花」
風呂敷を持ち直しながら春田さんと話す穂積さんの言葉を遮り、公英さんが彼女に大股で近付く。その視線は、彼女の持つ風呂敷に注がれていた。
「その風呂敷……」
「あ、そうなの。あのね公ちゃん。横峰おばあちゃんのお店に行こうとしていたんだけど、その途中で家の前を通りかかったら、ちょうど朔ちゃんが縁側で作業してて。何しに行くのって言うから、お茶菓子の話をしたら、今朝作ったお饅頭があるからって持たせてくれたの。公ちゃんも朔ちゃんの作るお饅頭、好きだよね? 六花も大好きだから嬉しくって」
「なんだよ、それ」
弾んだ声の穂積さんは、誰が見ても嬉しいのだということが伝わってくるのに、それを遮った公英さんの声は固く、風呂敷を見る彼の表情は、苦しそうに歪んでいた。
「アイツの作ったモンなんて……毒でも入ってんじゃねえの」
「公ちゃん!」
ペチ、と。弱々しい音が響く。穂積さんが、公英さんの左頬を叩いた音だった。
いや、叩くなんて物騒なものではまったくなかった。音からもわかる通り、きっと公英さんの頬は少しも赤く腫れることなんてないのだろう。それくらい、叩き慣れていない音だった。
それでも叩かれた公英さんは酷く驚いた顔をして、そしてすぐに、悔しげに己の唇を噛みしめる。
「公ちゃん。言って良いことと、悪いことがあるでしょ」
穂積さんはそれだけ言うと、目の縁ぎりぎりまで溜まった涙を、ついぞ一滴もこぼすことなく、くるりと俺たちに背中を向けた。
「……お茶、淹れてきます。瑞穂さん、大和さんのお探し物が一段落したら、さっきの座敷でおやつにしましょうね」
そのまま足早に駆けて行く彼女を、公英さんも俺も、追いかけることなくただ呆然と見つめていた。
「ほな、ウチは六花ちゃんのお手伝いでもしてくるわ」
壁沿いに曲がった穂積さんの後ろ姿が見えなくなった直後に春田さんが言い、のんびりとした足取りで彼女と同じ道を行く。
俺と公英さんの間には、気まずい沈黙が流れていた。
うつむいたまま微動だにしない公秀さんの姿にいたたまれなくなった俺は、蔵の中に入り、大和さんを探す。俺が蔵を出る前とほぼ変わらない位置で佇む大和さんに声をかけると、意外なことに彼はすぐにこちらを振り返った。絶対に無視をされるか、返事をしたとしても体はこちらに背を向けたままだろうと思っていたから、妙に心臓が跳ねる。
「なんだ、その顔は。そちらが声をかけてきたのだろう?」
「ああ、はい、まあそうなんですけれども。ええっと、進捗はいかがですか」
「そうだな。とりあえず、見れる範囲は一通り目を通した。めぼしい物はこの三点だ」
そう言って大和さんが掲げたのは、あの小脇に抱えていた薄い二冊の資料と、俺には見覚えのない、細長い箱がひとつ。箱の方には、どうやら巻物が一巻は入っているようだった。
彼はそのまま蔵の扉まで歩みを進めると、俺に資料と巻物の入った箱を手渡し、いつの間にかしゃがみ込んで頭を抱えてしまっていた公英さんを一瞥もせずに、穂積さんたちの待つ座敷の方へと帰って行った。
俺も慌てて蔵から出てはみたものの、明らかに落ち込んでいる公英さんを放ってもおけず、しかも蔵の施錠についても気になってしまって、持たされた資料を汚さないように気をつけながら、公英さんの横に同じようにしゃがみ込む。
「あのー、公英さん。蔵の施錠って、どうしたらいいんでしょうか」
「……どうせ誰も入らない。このままでいい」
「はあ、わかりました」
──沈黙。
またしても、俺と彼との間には気まずい沈黙流れる。チクショウ。こういうとき、俺はどんな言葉をかければいいのだ。それかもしや、スルーが鉄則なのだろうか。
「人を慰める」だなんて経験が皆無に等しいせいで、正しい選択肢がわからず、俺まで公英さんとともにうなだれる。
青空の下、しゃがみ込んだ男が二人。首の裏が焼かれる幻聴が聞こえてきそうなほど容赦なく降り注ぐ日差しに、こうなったらとことんやってやろうか、なんて自暴自棄になりかけたとき、公英さんが立ち上がる気配がして、そちらを見遣った。
予想通りしゃんと背筋を伸ばして立つ公英さんは、俺の方を見ないまま「悪かった」と言った。
「さっきは、気分の悪くなるもん見せたな。俺はいつもこうなんだ。余計なこと言って、六花を泣かせる」
俺も立ち上がり、手に持った資料に傷や汚れをつけていないかをざっと確認した後で、同じように公英さんの方を見ないまま、「思春期なんですか」と問うた。
ちょっと調子に乗りすぎたかな、と一瞬冷や汗をかくも、公英さんは「はは」と言いながら笑った。しばらくの間、肩なんかを小刻みに揺らしながら笑っていた彼は、ふうと一度息を長く吐き出してから、小さく「かもな」と呟いた。
公英さんと連れ立って座敷へ戻ると、すでに大和さんと穂積さん、春田さんの三人が、お茶と饅頭に舌鼓を打っていた。
「おかえり、お二人さん。先に茶ぁしばかせてもらっとるで。あんたらは何飲む? 冷たい緑茶か、アイスコーヒーもあるで」
明るい声でそう聞く春田さんに、俺はコーヒーを、公英さん緑茶を頼むと、春田さんは瞬時に立ち上がり、奥の台所へと向かう。
「ああもう、紫苑さんってば。私がやるのに」
「ええの、ええの。六花ちゃんはとっとと公英くんと仲直りしいやぁ」
台所から響く春田さんの真正面からの気遣いに、隣同士で座った穂積さんと公英さんが、お互いを見つめ合う。この二人、さっきあんな出来事があったのに、座るのは隣なんだな。いつも自然と距離が近いのか……というよりも、お互いが隣にいることが当たり前なのかもしれない。
微妙な空気の中、先に動いたのは公英さんだった。座ったままで体ごと穂積さんへと向き直り、勢いよく頭を下げる。
「悪かった」
「……公ちゃん」
「アイツのことを疑うような、最低な言い方をした。お前の気遣いも無駄にした。……ごめん、六花」
その言葉を受け取った穂積さんは。下げられたままの公英さんの頭を両手でかき混ぜるように撫でる。
「いいよ、もう。六花もぶっちゃってごめんね」
ようやく頭を上げた公英さんの髪の毛は、寝起きのようにぐちゃぐちゃとしていて、自分がやったことなのに、彼の髪の有様を見た穂積さんが遠慮なく笑う。そんな彼女の笑顔に釣られるように、公英さんも控えめに笑っていた。
「おうおう。仲直りできたみたいでなによりやわ」
コーヒーと緑茶をそれぞれ入れたグラスを俺と公英さんの前に置いてくれた春田さんは、穂積さんの右隣に腰を下ろし、机の真ん中に置かれていた饅頭をひとつ手に取った。
「ちゅーかこのお饅頭、普通に美味いで。ウチこれで二個目やもん。その、ナントカちゃん? 料理上手なんやね」
「そうなの。朔ちゃんはね、いつも私たちの好きな物を、いっぱい作ってくれるんだよ」
「そらええ子やな、『朔ちゃん』は。女の子なん?」
「ううん、朔ちゃんは男の子。『鳴子朔』っていって、公ちゃんとは、家がお隣さんなんです」
公英さんの家はここなのでは、と言いかけて、彼が穂積家に婿入りしたことを思い出す。なるほど、それならば穂積さんの言う公英さんの家とは、彼の生家を指すのだろう。
「そういえば公英くんはお婿さんなんやもんね。旧姓はなんていうん」
「……カンバ」
「カンバ?」
声にこそ出さなかったものの、俺も春田さんと同じタイミングで同じ疑問を抱く。「カンバ」とは、聞いたことのない名字だ。漢字がまったく浮かばない。
「くさかんむりの下に浦島太郎の浦。一文字で『蒲』だ」
「なぜ、キミは婿だったんだ」
俺が必死に漢字を思い浮かべていると、それまで一言も発さなかった大和さんが、いきなり声をあげた。その場にいた全員の視線が一斉に彼を向くが、彼自身は公英さんだけを見ていた。
「……なぜ、って、どういう意味だ」
「キミの名付け親は、キミの名字が変わることを拒まなかったのか?」
「いや、そんな時代錯誤なことは」
「家や跡継ぎの話ではない。ワタシは、キミの名前の話をしている」
大和さんの一人称が「ワタシ」になった。この人が自分のことを「オレ」ではなく「ワタシ」と呼ぶときは、スイッチが入っているときだ。何のスイッチかはわからないが、とにかく今、なんらかのスイッチが、大和さんの中でオンになったのだ。
「お、俺の名前をつけてくれたのは、母親だ。でもとっくの昔に亡くなってる。俺が三歳のときらしい。俺は母親のことなんか何も覚えていないし、父親も知らない」
どこか逆らい難い大和さんの物言いに押されたのか、公英さんはかなりパーソナルな部分まで話をしてくれた。母親が亡くなってからは、ずっと祖父母と暮らしていたという。それでも、彼が一番懐いていたのは、穂積さんの母親だったそうだ。
「六花の母さんは、俺を自分の子どもみたいに可愛がってくれていたよ。でも、あの人だって名前のことなんて何も……」
「そうか。それは残念だ」
本人の中だけで完結して、禄にこちらに意図を伝えようともしない大和さんの話にカチンと来たのだろう。少し語気を荒げて、公英さんは「何が言いたい」と大和さんに噛みつく。対して大和さんは、我関せずといった素振りで饅頭に手を伸ばすものだから、公英さんはこめかみに青筋を浮かべて、大和さんに掴みかからんとする勢いで机の上に身を乗り出した。
「学者だかなんだか知らねえけど、言いたいことがあるならはっきり言えよ。お高くとまりやがって」
「公ちゃん、そんなすぐに怒らないでよ」
「……大和さん。俺、あんたが何言いたいか全然わからないんで、教えてもらっていいですか」
「なぜ?」
「大和さんが何に気が付いたのかが知りたいからです。……話してくれるまで、饅頭はお預けということで」
大和さんが取ろうとしていた饅頭を、皿ごと手の届かない机の端まで寄せてみる。すると、案外効果は抜群だったようで、大和さんは渋々といった様子を隠すことなく、頬杖を突きながら偉そうに話し出した。志貴が前に言っていた大和さんは甘い物全般が好きという情報は、今後もかなり役立ちそうなものであると知った。
「キミたち幼馴染み三人の名前だが」
「ちょ、ちょっと待って下さい。幼馴染み『三人』?」
いきなり話に待ったをかけた俺を、大和さんはギロリという音が鳴りそうなほどの眼力で睨みつける。だって、幼馴染みなのは穂積さんと公英さんの二人のはずだ。ならばあと一人とは、いったい誰のことを言っているのか。
「さっき、キミヒデが言っていただろう。『たった二人の幼馴染み』と。ミズホ、キミは大学でシキしか友人がいないようだが、その場合、キミはシキをなんと表わす?」
「え? えっと、『たった一人の友人』とか……あ」
「そう。キミヒデにとっての幼馴染みがリッカだけであるなら、彼は『たった一人の幼馴染み』と言うべきだった。つまり、キミヒデにとっての幼馴染みは二人いると考えられる」
普通に感心してしまったが、公英さんがその発言をしたとき、確か大和さんは蔵の中にいたはずだ。それなのに彼がこの言葉を発したと知っているということは。
「……地獄耳」
「そういうキミは相変わらずの愚鈍さだな、ミズホ。実に察しが悪い」
「はいはい、俺が愚鈍なのはもうわかっていますとも。それで、もう一人の幼馴染みは誰なんですか?」
「鳴子朔に決まっているだろう」
鳴子朔というと、この饅頭を作ったという男か。
「たしかに公英さんのご実家の隣に住んでいたり、穂積さんとも仲が良さそうですけど」
「そんなことはどうだっていい。大事なのは名前だ。彼らの名前は、三人でひとつのものを表わしているじゃあないか」
さも当然と言わんばかりの大和さんの言葉に、俺だけでなく、春田さんや公英さんも、ともに首を傾げる。しかし、唯一穂積さんだけが、何かの合点がいったように目を見開き、右手で控えめに挙手をした。
「あ、あの。口を挟んでごめんなさい。でもどうしても言いたくて……。昔、お母さんに言われたことがあるんです。『六花と朔くんと公英くんは、三人でひとつだから』って。当時はそれくらい仲良しでいてほしいってことかと思っていたんですけど、もしかして、お母さんは何かを知っていたんでしょうか」
「知っていたも何も、キミたちの名前が『そう』なるようにしたのは、キミたちの親ではないのか。キミヒデと名付けたのは、彼の母親なんだろう」
「そう聞いています。私の名前はお母さんが。朔ちゃんの名前は、彼のお父さんが付けたって」
「キミたちの生まれた順番はリッカ、サク、キミヒデで、何かあればその順番で呼ばれたり、並べられたりしたのではないかな」
「そ、そうです。私が七月に生まれて、二ヶ月後に朔ちゃんが、一ヶ月後の十月に公ちゃんが生まれました。三人で写真を撮るときとか、並んでご飯を食べるときなんかは、いつもこの順番で……それも、お母さんたちがこの並び順で撮るように言ったり、食器を並べてくれていたりしてたから」
「キミたちの親は、とても絆が固かったのかもしれないな。おそらく、相当話し合ってわざわざその名前を付けたのだろう。──時にミズホ」
「は、はい?」
大和さんと穂積さんのやりとりを聞き逃さないように必死だった俺に、いきなり話を振られたものだから、焦って素っ頓狂な声が出てしまった。そんな俺の声については綺麗さっぱり無視をして、大和さんは俺に「三つでひとつになるものは何か」と問うてきた。
「少しは頭を動かして、考えてみてはどうだ」
もう十分動かしているつもりです、とは言えず、黙って脳を働かせる。
三つでひとつ。三つでひとつ。
ジャンケン。信号機。朝昼夜。上中下。左、真ん中、右。スリーアウト。光の三原色。あー、あと、一富士二鷹三茄子。あとあれ、なんだっけ。数学で習う、英語と変な記号とが混ざったもの。
「サイン、アサイン、サンジェント?」
「それ、『サイン・コサイン・タンジェント』やない?」
春田さんからの指摘にも、そういえばそうだったかもな、といったぼんやりとした感想しか抱けない。中学、高校と、数学は特に苦手な教科だった。
「愚鈍極まりないミズホ、降参かな」
「……はい」
両手を挙げて、大人しく降参の意を示す。そんな俺を鼻で笑った大和さんは、大してもったいぶりもせずに「雪月花だ」と言い放つ。
「せつげつか?」
「日本の四季の美しさを表わす慣用句だ。冬の雪、秋の月、そして春の花が、自然美の代表的なものとしてあげられている」
どこかで聞いたことのある言葉だが、それが穂積さんたちの名前とどう繋がるのかがまだわからない。そんな俺の心情を読み取ったのか、大和さんはさらに説明を続けた。
「三人の名前は、それぞれが雪、月、花を表わしている。『朔』とは新月の別名だ。古くは『朔日』という言葉が月の始まりを示していた。『六花』は花ではなく、雪だ。雪の結晶が六角形であることから、雪の別名に『六花』がある。だから三人の中で最初に生まれたリッカに、雪月花の一番目である『雪』の別名を付けたのだろう。最後にキミヒデだが、彼の名前は春の花を指している。ただし彼の場合は、名前単体だと意味を成さない。名字と併せて初めて、彼の名前は花となる」
公英さんの名字というと、おそらくこの場合はホヅミではなく、旧姓のカンバを指すのだろう。
「カンバ、キミヒデ……」
「漢字にすると『蒲公英』。これは、『たんぽぽ』と読むことができる。春になると黄色の花が咲く、キク科の多年草だ」
誰かがゴクリと唾を飲み込む音が、やけにはっきりと聞こえた。それは俺の喉から出た音であったかもしれないし、ほかの誰かの音だったかもしれない。自分自身のことすらわからなくなるくらい、この場の全員の全神経が大和さんに注がれていたような気がする。
「よってキミたち三人は、三つでひとつになる名を与えられた──生まれる前からともにあることを望まれた人間たちだったかもしれない、ということだ。……以上。何か質問は?」
「…………すごい」
誰もが言葉を失う中、穂積さんだけがぽつりとそう呟く。彼女の言葉を受けて視線を大和さんから穂積さんへと移した俺は、穂積さんと、その隣に座る公英さんの肩が、一分の隙もないほどぴったりと触れあっていることに気が付いた。
「私たち、二十年も一緒に生きてきたのに。自分たちの名前にそんな意味があったなんて、初めて知りました」
「あんた、頭良いんだな」
穂積さんの言葉に続いて、公英さんも感嘆の声をもらす。しかし、大和さんは公英さんのその言葉を不思議そうな顔をして否定する。
「頭が良いのではない。キミたちの名前の起源が気になっただけだ。それに、真意はキミたちの名付け親にしかわからないだろう。オレがしているのは、ただ『こうだったかもしれない』という、可能性の示唆に過ぎない」
「それでも、そうだったかもしれない、とすら思ったことはなかったから。だから、とても嬉しいんです。お母さんたちが、もしもそんな願いを込めて私たちにこの名をくれたのなら……そうだったら、いいなって」
「だからありがとうございます」と、穂積さんは深々と頭を下げる。大和さんはそんな彼女に特に何か声をかけるわけでもなく、俺が移動させた饅頭の皿を指さし、「もういいだろう」と言った。俺は彼の言葉に大人しく従い、饅頭の皿を彼の目の前に置く。
「お茶のおかわり、持ってきますね」
無言で饅頭を食べ始めた大和さんを見た穂積さんは、そう言って台所の方へと向かう。春田さんも穂積さんの後を追いかけるように、コーヒーのおかわりを飲むべく立ち上がる。
彼女たちの後ろ姿を見届けた公英さんは、これまでより少し抑えたトーンで、俺と大和さんに向き直った。
「あんたら二人は、何をしにこの村に来たんだ。あのタヌキ女と違って、明日の祭りのことは知らなかったんだろう」
俺は目的地も知らぬまま、大和さんの荷物持ちとして付いてきただけなので、何をしに来たのかと問われても答えられない。のんきに饅頭をかじる大和さんは咀嚼を終えて一言「起源調査だ」と素っ気なく言ったきり、また饅頭に意識をやってしまった。
起源調査という、聞き慣れないであろう単語に怪訝な顔をする公英さんに、なんとかかみ砕いて説明しようとする俺を遮り、公英さんは「要するに何かの調査をしているんだな?」と尋ねる。
「平たく言うと、そういうことダと思います。僕も詳しくはわかっていないんですが、民俗学者という立ち位置の人なので何かこう、風習とか、伝承とかに興味があるらしくて」
「ああ、具体的なことはいいんだ。この村についての調査をしているんであれば……ひとつ、頼み事を聞いてほしい」
それまで胡座をかいていた公英さんは、そう言うや否や正座をして、大和さんを真正面に捉えるように体の向きを変えた。
「三年前の『御供養様』──村の祭りで、大量の死者が出た」
神妙な面持ちで話す公英さんによると、三年前の祭りがあった夜、村のあちこちで不審火が発生し、逃げ遅れた村人が焼死したという痛ましいできごとがあったそうだ。被害者の多くは高齢者で、穂積さんの祖父もそのうちの一人とであるという。
公英さん曰く、村内の別々の場所でほぼ同時に不審火が発生したことも確かに不可解だが、当時の村人たちに最も印象深く刻まれているのは、焼け跡から見つかった案山子の残骸であった。
「そんな物が全部の燃えた箇所から見つかったもんだから、最初は案山子の祟りだなんだって騒ぎになっていたんだ。自分の家の畑にある案山子に供え物をし始めた奴もいたくらいだ」
そんな噂がまことしやかに囁かれ、道端の案山子に手を合わせる村人が急増したと、公英さんは苦笑しながら振り返る。しかし彼はすぐに真剣な表情に戻ると、ある時から噂の内容が変わり始めたと語った。
「何がきっかけだったのかも、誰が言い出したのかもわからない。でも次第に、村にある案山子のほとんどを作っている鳴子家に、疑いの矛先が向けられるようになった。『鳴子が案山子に火を付けた』ってな。その噂は瞬く間に一人歩きをして、今じゃああれは事故じゃなくて、朔の父親が起こした事件だって思っている村人が大勢いる。朔の父親だって、あの日に亡くなっているのに」
「何か勘違いをしているようだが、オレは優秀な警察官でもなければ、稀代の名探偵でもないぞ」
呆れたような物言いの大和さんに怯むことなく、なおも公英さんは続ける。
「この事件について調べてほしいわけじゃない。ただ、村の祭りの最中に起こったことだから、あんたが村を調べているうちに、この事件についての何かを見聞きするかもしれない。村人も、俺も六花も、『朔の父親が一連の事件を起こしたのかもしれない』ってところまでで考えが止まっているんだ。動機や方法はわからない。もしかしたら、朔の父親じゃない、別の人間が犯人かもしれない。そもそも最初から事件じゃなくて、偶然の事故なのかもしれない。だけどみんな、誰かが言い出したひとつの仮説に飛びついて、それで終わりにした。終わりにすることしかできなかった。……でも、あんたほどいろんなことを考えられる人なら、きっと違う見方をするんじゃないかって思ったんだ」
公英さんは膝の上に両手を置くと、大和さんに向かって深く頭を下げる。まるで土下座のようなその姿からは、彼の生真面目さと、この頼み事に対する熱意みたいなものが感じられた。
「だからもしも、この村を調べる上で、あの事件について何か違う見方が考えられるなら、それを教えてほしい」
「こうだったかもしれない」というだけでいいのだと、公英さんは頭を下げたままで続けた。
「本当なら、六花と結婚するのは朔だったはずなんだ。少なくとも六花の母親は、それを望んでいた。でも、自分の父親が事件の犯人かもしれないからって、朔は三年前からずっと、俺たちや村人との関係をほぼ絶っていて、その間に俺の婿入りが決まった。あいつ自身が関係を絶っていても、六花は今日みたいに時々会いに行っているけどな。でも、昔みたいにこの家で三人で駄弁るなんて、もうできないんだ。村長……六花の父親が、俺たちと朔が一緒にいるのを、特に良く思わない人だから」
幼い頃から面倒をみてもらってきたことに加えて、入り婿である立場の公英さんが、村長の意見に反対してまで朔さんとこれまで通り仲良くするのは、難しいことなのだろう。逆らえないわけではないが、逆らってはいけない雰囲気がある。だからこそ、穂積さんが朔さんに会ったとわかったときも、あのようにキツい物言いをしてしまったのかもしれない。それにしたって、幼馴染みが作ってくれた物を毒入り呼ばわりはないが。
入り婿だの村長だのという複雑な関係性は、俺にはまったく縁遠い世界であるため共感はできなくても、その歯がゆさは理解できる。彼は日々、穂積さんの隣で、己の無力さに打ちのめされているのかもしれない。
「三年前に起こった事件というのが、最初にささやかれた通り案山子の祟りであるなら、興味深いな」
饅頭の最後のひとくちを飲み込んだ大和さんはそれだけ言うと、グラスに入ったお茶を飲み干し、おもむろに立ち上がる。
「え、どこに行くんですか、大和さん」
「資料は蔵の中であらかた読んだ。次は実地調査だ」
「だから、どこへ」
「決まっているだろう。案山子の元へだよ」
資料はお前が持てという大和さんの指示に、畳に直置きしていた薄い資料を二冊と巻物の箱を素早く手に持ち、置いて行かれまいと小走りで彼の後を追って玄関へ向かう。
「あ、そうだ。お茶とお饅頭ご馳走様でした! それからこの資料、ちょっと借りていきます!」
「おう。……なあ、一晩くらいなら、うちに泊めてやってもいいぞ。どうせ、あのタヌキ女も泊まるんだし」
一人だろうが三人だろうが変わらないという公英さんの言葉に、遠慮無く甘えさせてもらうことだけを告げて、俺は今度こそ、玄関のある方へと駆けて出した。
