夏休みを目前に控えたとある日。
講義を受けるために、敷地内で一番奥にあるA棟に向かっていると、後ろから声をかけられた。思わず止まって振り向けば、声の主である志貴は、相も変わらず爽やかなオーラを纏いながら、俺に手を振っていた。
「探したよ、瑞穂くん。今日のお昼ご飯は学食じゃなかったみたいだね。いつもの席にいないから、欠席でもしているのかと思った」
言いながら、志貴は俺に追いつくと歩幅を合わせて歩く。その手には携帯がひとつ握られているだけで、ノートや筆記用具といったものは見受けられなかった。
「最近、スキマバイトってやつを始めたんだよ。さっきの昼休み中も、道路を挟んで向かい側にあるあそこのコンビニで品出ししてきたんだ」
そう。苦学生を極めた俺は、とうとうスキマバイトに手を出した。
大学周辺で検索をかけ、時間が合えばどんな仕事内容だろうと飛び込む。コンビニの品出しから始まり、そのまま接客をすることもある。昼時は飲食店のヘルプも多い。同じ理由で飲食の配送なんかも募集がかけられやすいので、自分の昼食時間を犠牲にすれば、意外と金が貰えることがわかったのだ。
それにスキマバイトなら、そうそう変な現象に出くわさないのだ。一時間や、長くても半日ほどしかいない場所だからだろうか。今のところは、「当たり」ばかりを引けている。
「驚いた。そんなにお金に困っていたんだね」
「誰かさんのせいでな」
わざとらしく首を傾げる志貴に、こちらもわざとらしくため息をお見舞いする。
俺がスキマバイトでちょこまかと日銭を稼ぐ羽目になっているのは、間違いなく志貴のせいだ。正確には、志貴が仕事を斡旋してくれないせい、である。
一ヶ月と少し前、志貴は俺に確かにこう言った。あの年がら年中薄暗い闇に包まれているであろう大和さんの研究室で、自分の兄である大和さんの荷物持ちのアルバイトをしろ、と。
日給は十万円と、絶対に確実に確かに言った。そして俺はその提案を二つ返事で引き受けたはずだ。
だがしかし、現実はどうだろう。待てど暮らせど志貴からも、もちろん大和さん本人からも、その後アルバイトの招集がかかることはなく。このままでは、夏休み中に妹の千重を某テーマパークへ連れて行くという口約束を果たすことはおろか、年々上がる外気温に耐えるべく冷房をフル稼働させるための資金すらなく、夏休み明けに溶けて蒸発する未来しか待っていない。
そんな恐ろしい未来を回避するために、食う間も惜しんでスキマバイトを始めたのだ。志貴め、まさかとは思うがアルバイトの話を忘れているとか、そもそもなかったことにするとか、そういう魂胆じゃあなかろうな。
「心外だなあ。僕が今日瑞穂くんを探していたのは、まさにそのアルバイトの話をするためだっていうのに」
「それを早く言えよ、水くさいじゃあないか」
なあんだ。そうならそうと言ってくれれば、俺はこんなにため息なんて吐かなくてよかったのに。まったく、無駄に幸せを逃しちまった。
A棟の二階、階段の手前から三番目の講義室に入ろうとして、足を止める。俺が満面の笑みを浮かべていると、志貴も爽やかな笑顔を携えて俺を見ていた。
「と、言うわけで。今からサキちゃんのところへ行こう」
踵を返して、今し方上がってきたばかりの階段の方へ颯爽と歩き出す志貴の背中に、一瞬反応が遅れる。
サキちゃんって誰だっけ、と思ったのも束の間。大和さんの下の名前が、俺の名字とおなじ「マサキ」と読むことと、ああ見えてとてつもないブラコンである志貴が、己の兄を「サキちゃん」と呼んでいることを思い出す。
「あれ? ほら早く、おいでよ」
階段下り始める直前で、俺が立ち止まったままであることに気が付いたらしい志貴は、不思議そうな顔で俺を呼ぶ。
いや、早くと言われても。これからこの教室で、履修している講義が始まるんですけれども。まさかサボれというのか。常に最前ドセンターで講義を受ける、この俺に?
「瑞穂くん、お金に困っているんだよね?」
講義をサボるか、バイトを蹴るか。その狭間で揺れ動く俺に、志貴は無邪気さすら感じるような声色で問い掛けた。
「サキちゃんはいつも、とても丁寧にフィールドワークをするんだ。今回は何日くらいかかるのかな。仮に一週間だとしたら、一週間は七日だから……えーっと、日給十万円だといくらになるんだっけ?」
その瞬間、俺の脳内で、「七十万」という未だかつて見たことのない数の万札が駆け巡った。
七十万。七十万あれば、冷房と扇風機を一日中つけて、毎日アイスを食べて、千重と前泊してテーマパークを楽しむことだってできるだろう。夏休み中はアルバイトをしなくてもいいし、それどころかちょっと遠出して海に行くとか、手持ち花火を買うとか、近所の祭りに行くとかもできるのではないだろうか。
「この講義を捨てるだけで、俺は七十万を手に入れることができる……!」
「まあ、サキちゃんはものすごく頭が良いから、一週間なんて滅多にかかることはないんだけど。……聞こえていないみたいだね、瑞穂くん」
足取り軽く、階段を下りる。目指すは大和さんの研究室だ。
待っていろ、俺の七十万円!
ドアを二回ノックして扉を開けた志貴に続き、大和さんの研究室に足を踏み入れる。相変わらずの暗さをまとうこの部屋も、今の俺には輝いて見えるのだから、金とは偉大である。「兄さん、来たよ。それで出発はいつになりそう?」
以前、大和さん自身に「サキちゃん」呼びを咎められていた志貴は、本人を前にした途端にあのときの言葉を忠実に守り、大和さんを「兄さん」と呼び改めていた。俺の前では「サキちゃん」であったくせに。まったく、抜け目のない男である。
志貴に問われた大和さんは、俺と志貴を一瞥し、すぐに視線を手元の本に落とした。彼も彼で、部屋に溶け込むような全身真っ黒コーデは健在らしい。もう日中はかなりの暑さだというのに、見ているこちらが無駄に汗をかきそうな黒いハイネックのシャツを着ていても、本人はいたって涼しげな表情を崩さなかった。
「いつも何も、ミズホを連れてくるから出発を待てと言ったのはシキだろう。おかげでオレは、道中に読もうと思っていた論文を読み終えてしまったよ」
「それはごめんね、兄さん。何か代わりの本を持って行くといいよ。幸い、こうして立派な荷物持ちくんが付いているんだから」
「こうして」の言葉とともに、志貴が隣に立つ俺を右手で示す。わかってはいたが、あまりにも直球で荷物持ちと称されると、それはそれで複雑な心境に陥るな。
再び大和さんが俺を見て、俺はなんとなく会釈をする。彼と対面するのは、千重の中学校で起こった【アヤノさん】という儀式について相談をした、あの日以来だった。
あのとき、俺は彼に散々こき下ろされたというか、馬鹿にされたというか。とにかく、彼は俺に呆れ果てていたように思う。
しかし、そんな俺が彼のフィールドワークに同行することは、どうやら大和さんにとって許容範囲のことらしい。以前、志貴がこの部屋で俺にアルバイトの話を勧めたときに、大和さんはそれを拒絶はしなかったからだ。
せいぜい、邪魔にならない荷物持ちに徹しよう。
ヘマをすれば七十万が遠ざかる。それだけはなんとしてでも避けた俺は、そう固く決意した。
「この前も言ったと思うけれども、瑞穂くんは兄さんの荷物持ち兼、お手伝いさんだからね。兄さんの手となり足となり、兄さんが不便のないよう存分に努めてほしい」
今から早速目的地へと出発するつもりらしい大和さんにどうにか頼み込み、明日の早朝に大学の最寄り駅で待ち合わせをする取り決めを交わした俺が、家に帰って出かける準備をしようと研究室のドアに手をかけたとき、背中に志貴の声が降りかかる。
「もしも兄さんに何かがあれば、瑞穂くんへのお給料から補填するね」
こうして俺は七十万円を人質に取られ、大和さんのフィールドワーク──後にこれが、彼独自のこだわりから「起源調査」と呼ばれる作業であることを知る──に同行することとなった。
調査先の村で、あんなにも恐ろしい目に遭うとも知らずに。
講義を受けるために、敷地内で一番奥にあるA棟に向かっていると、後ろから声をかけられた。思わず止まって振り向けば、声の主である志貴は、相も変わらず爽やかなオーラを纏いながら、俺に手を振っていた。
「探したよ、瑞穂くん。今日のお昼ご飯は学食じゃなかったみたいだね。いつもの席にいないから、欠席でもしているのかと思った」
言いながら、志貴は俺に追いつくと歩幅を合わせて歩く。その手には携帯がひとつ握られているだけで、ノートや筆記用具といったものは見受けられなかった。
「最近、スキマバイトってやつを始めたんだよ。さっきの昼休み中も、道路を挟んで向かい側にあるあそこのコンビニで品出ししてきたんだ」
そう。苦学生を極めた俺は、とうとうスキマバイトに手を出した。
大学周辺で検索をかけ、時間が合えばどんな仕事内容だろうと飛び込む。コンビニの品出しから始まり、そのまま接客をすることもある。昼時は飲食店のヘルプも多い。同じ理由で飲食の配送なんかも募集がかけられやすいので、自分の昼食時間を犠牲にすれば、意外と金が貰えることがわかったのだ。
それにスキマバイトなら、そうそう変な現象に出くわさないのだ。一時間や、長くても半日ほどしかいない場所だからだろうか。今のところは、「当たり」ばかりを引けている。
「驚いた。そんなにお金に困っていたんだね」
「誰かさんのせいでな」
わざとらしく首を傾げる志貴に、こちらもわざとらしくため息をお見舞いする。
俺がスキマバイトでちょこまかと日銭を稼ぐ羽目になっているのは、間違いなく志貴のせいだ。正確には、志貴が仕事を斡旋してくれないせい、である。
一ヶ月と少し前、志貴は俺に確かにこう言った。あの年がら年中薄暗い闇に包まれているであろう大和さんの研究室で、自分の兄である大和さんの荷物持ちのアルバイトをしろ、と。
日給は十万円と、絶対に確実に確かに言った。そして俺はその提案を二つ返事で引き受けたはずだ。
だがしかし、現実はどうだろう。待てど暮らせど志貴からも、もちろん大和さん本人からも、その後アルバイトの招集がかかることはなく。このままでは、夏休み中に妹の千重を某テーマパークへ連れて行くという口約束を果たすことはおろか、年々上がる外気温に耐えるべく冷房をフル稼働させるための資金すらなく、夏休み明けに溶けて蒸発する未来しか待っていない。
そんな恐ろしい未来を回避するために、食う間も惜しんでスキマバイトを始めたのだ。志貴め、まさかとは思うがアルバイトの話を忘れているとか、そもそもなかったことにするとか、そういう魂胆じゃあなかろうな。
「心外だなあ。僕が今日瑞穂くんを探していたのは、まさにそのアルバイトの話をするためだっていうのに」
「それを早く言えよ、水くさいじゃあないか」
なあんだ。そうならそうと言ってくれれば、俺はこんなにため息なんて吐かなくてよかったのに。まったく、無駄に幸せを逃しちまった。
A棟の二階、階段の手前から三番目の講義室に入ろうとして、足を止める。俺が満面の笑みを浮かべていると、志貴も爽やかな笑顔を携えて俺を見ていた。
「と、言うわけで。今からサキちゃんのところへ行こう」
踵を返して、今し方上がってきたばかりの階段の方へ颯爽と歩き出す志貴の背中に、一瞬反応が遅れる。
サキちゃんって誰だっけ、と思ったのも束の間。大和さんの下の名前が、俺の名字とおなじ「マサキ」と読むことと、ああ見えてとてつもないブラコンである志貴が、己の兄を「サキちゃん」と呼んでいることを思い出す。
「あれ? ほら早く、おいでよ」
階段下り始める直前で、俺が立ち止まったままであることに気が付いたらしい志貴は、不思議そうな顔で俺を呼ぶ。
いや、早くと言われても。これからこの教室で、履修している講義が始まるんですけれども。まさかサボれというのか。常に最前ドセンターで講義を受ける、この俺に?
「瑞穂くん、お金に困っているんだよね?」
講義をサボるか、バイトを蹴るか。その狭間で揺れ動く俺に、志貴は無邪気さすら感じるような声色で問い掛けた。
「サキちゃんはいつも、とても丁寧にフィールドワークをするんだ。今回は何日くらいかかるのかな。仮に一週間だとしたら、一週間は七日だから……えーっと、日給十万円だといくらになるんだっけ?」
その瞬間、俺の脳内で、「七十万」という未だかつて見たことのない数の万札が駆け巡った。
七十万。七十万あれば、冷房と扇風機を一日中つけて、毎日アイスを食べて、千重と前泊してテーマパークを楽しむことだってできるだろう。夏休み中はアルバイトをしなくてもいいし、それどころかちょっと遠出して海に行くとか、手持ち花火を買うとか、近所の祭りに行くとかもできるのではないだろうか。
「この講義を捨てるだけで、俺は七十万を手に入れることができる……!」
「まあ、サキちゃんはものすごく頭が良いから、一週間なんて滅多にかかることはないんだけど。……聞こえていないみたいだね、瑞穂くん」
足取り軽く、階段を下りる。目指すは大和さんの研究室だ。
待っていろ、俺の七十万円!
ドアを二回ノックして扉を開けた志貴に続き、大和さんの研究室に足を踏み入れる。相変わらずの暗さをまとうこの部屋も、今の俺には輝いて見えるのだから、金とは偉大である。「兄さん、来たよ。それで出発はいつになりそう?」
以前、大和さん自身に「サキちゃん」呼びを咎められていた志貴は、本人を前にした途端にあのときの言葉を忠実に守り、大和さんを「兄さん」と呼び改めていた。俺の前では「サキちゃん」であったくせに。まったく、抜け目のない男である。
志貴に問われた大和さんは、俺と志貴を一瞥し、すぐに視線を手元の本に落とした。彼も彼で、部屋に溶け込むような全身真っ黒コーデは健在らしい。もう日中はかなりの暑さだというのに、見ているこちらが無駄に汗をかきそうな黒いハイネックのシャツを着ていても、本人はいたって涼しげな表情を崩さなかった。
「いつも何も、ミズホを連れてくるから出発を待てと言ったのはシキだろう。おかげでオレは、道中に読もうと思っていた論文を読み終えてしまったよ」
「それはごめんね、兄さん。何か代わりの本を持って行くといいよ。幸い、こうして立派な荷物持ちくんが付いているんだから」
「こうして」の言葉とともに、志貴が隣に立つ俺を右手で示す。わかってはいたが、あまりにも直球で荷物持ちと称されると、それはそれで複雑な心境に陥るな。
再び大和さんが俺を見て、俺はなんとなく会釈をする。彼と対面するのは、千重の中学校で起こった【アヤノさん】という儀式について相談をした、あの日以来だった。
あのとき、俺は彼に散々こき下ろされたというか、馬鹿にされたというか。とにかく、彼は俺に呆れ果てていたように思う。
しかし、そんな俺が彼のフィールドワークに同行することは、どうやら大和さんにとって許容範囲のことらしい。以前、志貴がこの部屋で俺にアルバイトの話を勧めたときに、大和さんはそれを拒絶はしなかったからだ。
せいぜい、邪魔にならない荷物持ちに徹しよう。
ヘマをすれば七十万が遠ざかる。それだけはなんとしてでも避けた俺は、そう固く決意した。
「この前も言ったと思うけれども、瑞穂くんは兄さんの荷物持ち兼、お手伝いさんだからね。兄さんの手となり足となり、兄さんが不便のないよう存分に努めてほしい」
今から早速目的地へと出発するつもりらしい大和さんにどうにか頼み込み、明日の早朝に大学の最寄り駅で待ち合わせをする取り決めを交わした俺が、家に帰って出かける準備をしようと研究室のドアに手をかけたとき、背中に志貴の声が降りかかる。
「もしも兄さんに何かがあれば、瑞穂くんへのお給料から補填するね」
こうして俺は七十万円を人質に取られ、大和さんのフィールドワーク──後にこれが、彼独自のこだわりから「起源調査」と呼ばれる作業であることを知る──に同行することとなった。
調査先の村で、あんなにも恐ろしい目に遭うとも知らずに。
