祈りの先の物語

 大型連休明けの大学は、いつにもまして学生が少ない。ただでさえ怠惰な大学生という生き物は、黄金週間と名の付く連休にかこつけて朝から晩まで馬鹿みたいに遊び、酒を飲み、そうして講義をすっぽかす。けれどそういう連中は普段の講義でも、教室の一番後ろの席を集団で陣取って携帯を弄るだけなので、いてもいなくてもそう大して変わりはしない気がする。連休の全日をバイトに費やした、講義は常に最前列のドセンターを一人で占領する俺のような人間にとっては、いてもいなくてもどうだっていいのである。
 ただひとつ利点があるとすれば、食堂の数量限定ワンコイン日替わり定食の競争率が下がることだろうか。あの定食を勝ち取れるか否かで、その日の食費は大きく変わる。物価高が嘆かれる昨今、資金難の男子大学生にとって、五百円でご飯おかわり無料の定食がいただけることのありがたみと言ったら! 親の金で好き放題飲み散らかしている奴らには、この気持ちなんてわかりっこない。
 今日も一人、静かに食堂の片隅でご飯を二杯食べ終えた後に携帯を取り出すと、メッセージが一件届いていた。差出人は妹の千重(ちえ)。天然パーマが悩みの俺とは正反対のストレートヘアを持つ彼女は、俺より七つも年下で、ひと月前に中学生になったばかりだった。
 俺のことを「お兄」と呼び慕ってくれる可愛い妹。両親との折り合いが悪く、大学入学と同時に逃げるように家を出た俺だが、妹とだけはこまめに連絡を取っている。自宅アパートとバイト先の往復しかしていなかった昨日までの連休中も、友達とどこそこに遊びに行ったとか、ショッピングモールに新しく入った雑貨屋が可愛いとか、そういう他愛のない日常を千重が教えてくれていたおかげで、心の健康がなんとか保たれていたようなものだ。
 そんな千重から今日はどんな内容が送られてきたのかと、密かに心を弾ませながらメッセージアプリを開く。しかしそこには絵文字いっぱいの元気な文章も、動くカラフルなスタンプも、煌びやかな加工が施された写真もない。普段の千重からは考えられない黒い文字ばかりの長文に、知らず知らずのうちに姿勢を正して読み込んだ。

『お兄、突然ごめんね。最近チエの通ってる中学で、変なウワサがあってさ。最初はよくある学校の七不思議とか、ネットでバズった都市伝説とかが流行ってるのかなって思ってスルーしてたんだけど、どうも違うっぽいんだ。っていうのも、まずそのウワサがチエは聞いたことない名前なの。お兄は知ってるかな。【アヤノさん】っていう、都市伝説って言うか、七不思議って言うか、学校の怪談って言うか……』
『チエは知らなくても、チエの周りのお友達は知っている子が多かったから、詳しい話を聞いたの。要はオリジナリティー溢れるコックリさんみたいな感じで、でもそのやり方が変なんだよね』
『絶対、一人でやらなきゃいけないの』
『コックリさんって普通、何人かでやるものじゃない? それで、誰かが指を動かしてワーキャー騒ぐまでがワンセット、的な。でも、うちの学校でウワサされてる【アヤノさん】は、絶対に一人でやらないといけないんだって。五十音と「はい」「いいえ」と数字が書かれた紙を用意する。ここまではコックリさんと一緒だね。でもここからがまた違ってて、儀式をするときに使う硬貨は五円玉じゃないといけないらしい。しかも、【アヤノさん】に聞いていいことは、アヤノさん本人のことだけ。そして一回質問するごとに必ず、五円玉から指を離す』
『これも変。変って言うか、コックリさんにおける絶対やっちゃいけないことをわざとしてるんだ』
『オカルトが嫌いなお兄は知らないかもだけど、コックリさんには禁忌事項があるんだよ。それを守らなきゃ危ないっていうルール。まあ、素人が面白半分で降霊術に手を出す時点で危ないも何もないんだけどね』
『諸説も地域ごとの違いもあるんだけど、一般的な禁忌事項の中に「一人でやる」「儀式の途中で硬貨から手を離す」「コックリさん自身のことを質問する」っていうのがあるんだ。この【アヤノさん】は、それを全部破ってる』
『別にこれだけだったら、単なる学校の怪談でチエだって気にも留めないんだけどさ。コックリさんの派生ってエンジェルさんとかキューピットさんとか、結構あるから。でも、やり方が禁忌犯しまくりっていうのと、あともう一つ気になることが起きちゃって、ちょっとお兄に相談したいなって思ったんだ。気になることっていうのがね、』
『隣のクラスの子が一人、【アヤノさん】をやるって言っていた次の日から、行方不明になったんだ』

「もうヤダ……」
 携帯の画面を机の上に伏せ、天を仰ぐ。食堂の天井から降り注ぐ照明が目を刺激して、なんだか涙が出てきそうだった。
 可愛い妹からの相談事は、まったくもって可愛くない生徒行方不明事件ときた。しかもオカルトが付随している。千重は俺と違い、オカルトや都市伝説といった、霊だの怪異だのが絡む話に嬉々として首を突っ込むタチだった。

 突然だが、ここで俺の話をしようと思う。
 名前は正木(まさき)瑞穂(みずほ)。十一月二十六日生まれのA型。現在十九歳の俺は、それほど偏差値の高くない私立大学の二年生である。本当は学費の安い国立大学に行きたかったが、受験当日に不幸な事故で車に跳ねられ救急搬送。あえなく滑り止めの私立に行くことになった、可哀想な男だ。
 俺の可哀想な話は、何も受験だけに留まらない。
 進学と同時に家を出て大学の最寄りから二駅先にあるアパートを借りるも、居住三日目に一階角部屋の住人の不始末でアパートが全焼。騒ぎは深夜の出来事で、パニックになった俺が持ち出せたのは枕と携帯と、財布の入ったハンドバッグ一つ。
 碌な補填もされないまま追い出された先で転がり込んだ今のアパートは右隣がアル中で、毎晩八時からドッタンバッタン大騒ぎ。左隣は職業不詳のデリヘル中で、毎晩九時からギッコンバッコン大騒ぎ。
 不眠に耐えかねて深夜帯のアルバイトを始めるも、勤務先の工場は事務所の入口に盛り塩、工場の扉の上に神棚、四隅にお札、ドス黒い隈を携えた工場長の右手首には、これでもかというほどの数珠。二時間に一度鳴り響く警報器は、いつだって誰も押してなどいない。
「犯人特定のために、ずいぶん前から警報器の前に監視カメラを設置しているんだけどね。一度も人が映ったことなんてないんだよ」
 半泣きで警報器の故障を訴える俺とは正反対の、ひどく凪いだ表情の工場長にそう言われて、俺は一ヶ月で仕事を辞めた。
 その後も警備員、品出し、倉庫、飲食店など、様々な夜勤を試したが、どれもそう長くは続かなかった。警備員として配属された閉店後のショッピングモールでは、二階の従業員倉庫に保管されていたマネキンが巡回後の警備室前に三体置かれていたのを見て気絶。テーマパークの夜間品出し作業中に、俺のいたショップだけが何故か激しく揺れて店内の棚がすべて崩壊。倉庫作業のアルバイトでは、八時間の労働時間中に五回の停電が起こった。夜勤を諦めて昼間に入った飲食店にいたっては、アルバイト初日に店長が自殺したとかで店が臨時休業。そのまま店は潰れて、俺は一銭も稼げないままクビとなった。
 不幸体質、というやつなのかもしれない。占いも呪いも、神も仏も信じてはいないが、生まれてこの方こんなことばかりの人生だ。さすがにそろそろ嫌気もさす。己のこの体質を、人間ではない何かのせいにできたのなら、どれだけいいかとも思う。
 けれど俺は、俺の人生で起きる事象のすべてを、何かのせいになどしない。幼い頃、懐いていた祖母が教えてくれた言葉がある。
「この世界に残る物語は、すべて人の創り出したもの。神話も社寺縁起も、呪いも都市伝説も。すべて人が創り、人が残してきた、人の祈りが生み出したものなんだよ」と、まだ幼かった俺に、祖母はよく言って聞かせてくれた。俺の祖母は小説を書いていた人で、俺は祖母が俺のために書いてくれた短い物語を読むのが大好きだったのだ。
 俺は祖母のこの言葉を胸に留めながら、これまでの人生を生きてきた。だから俺は神も仏も呪いも、幽霊も怪異も信じない。そんなものは人が生み出した物語の登場人物にしか過ぎず、彼らが俺の人生に何らかの事象を起こすことなど不可能だからだ。
 同じ理由で、オカルトも都市伝説も信じていない。所詮は人の想像の域を出ないものだからだ。陳腐な物語なんかに、俺の人生や感情が左右されてなるものか。
 断じて、オカルトの類いが怖いわけではない。断じて。

 齢十九にしてこの境地にたどり着いた俺とは違い、妹の千重は神や仏や、幽霊や怪異の存在を真面目に信じていた。それは幼い子ども特有の純粋な心というよりは、俺たちの出自に関係した信心深さからくるものであったように思う。
 俺たちの父は神社の宮司をしている。つまり俺は「寺生まれのTさん」ならぬ、「神社生まれのMさん」というわけだ。
 実家が神社。そんな特殊な環境だからだろうか。千重は五歳にも満たない頃から、口さけ女対策にべっこう飴を持ち歩いたり、両手を複雑に絡み合わせて作った小さな隙間から方々を覗き込んだり(後々、懇切丁寧に「狐の窓」と言うのだと教わった)と、人間ではないものの存在や都市伝説なんかを信じていたし、妙な儀式やまじないをどこからか仕入れてきては、そのすべてに真面目に取り組んでいた。
 そんな千重は時を経て、好奇心旺盛な少女から、探究力の凄まじいオカルトオタクへと成長してしまった。
 もはや彼女は生半可な噂話では飽き足らず、信憑性と怪奇度の高い「ホンモノ」の現象を追い求め、日夜オカルトスレッドや謎のコミュニティで情報収集を続ける、悲しきモンスターである。その片鱗を見せ始めたうちは、やんわりと別の趣味を提示したり、年頃の女子がこぞって色めく恋だの愛だのの話を聞き出そうとしてみたりと試行錯誤を繰り返してはみたものの、我が妹ながら手に負えないと判断し、俺はいつしか彼女の趣味に口を出すことを辞めた。
 辞めたにもかかわらず、身近で理解者を得られない千重自身は、俺に一方的に話題を振ることを辞めなかった。
「だって同級生に話したら、みんな次の日から『悪霊退散』しか言わないんだもん」とは、当時十歳だった千重の言い分である。俺が最後の良心として「悪霊退散」と塩を投げつけないのを良いことに、たとえ俺が実家を出ようとも、彼女はこうして仕入れたネタを「相談事」として、俺に提供するのだった。
「まずもって生徒一人行方不明になっているならそれはもう警察案件だからね。民事じゃ済まないよ、刑事だよ。であればなおさら、俺のようななんの権限もない一般市民が首を突っ込んでいい案件じゃないでしょ。そもそも千重だってもう少しこう、情緒がないとさ。隣のクラスの子が行方不明になったんなら、千重くらいの年の子は自分の身を案じるべきだよ。年の離れた兄に大して送る言葉は『怖いからこっちに帰ってきて毎日送り迎えして』であって、決して行方不明になった原因かも知れないオカルト的事象がいかに既存のオカルトの禁忌事項を犯しているかではないんだよ」
「相変わらず、一人でよく喋るね」
「んぎゃーッ!」
 食堂の天井に点在するシミを見つめていた俺の視界を遮るように、爽やかな笑顔が眼前に広がる。跳ねる心臓を服の上から必死に押さえつけながら目の前の人物にピントを合わせれば、嫌味なくらい整った相貌を崩さずにこちらに微笑みかける奴の正体が友人だとわかる。
「志貴、お前……驚かすなよ」
 勝手に俺の正面の椅子を引いて座り込んだ男の名前は、大和志貴という。俺より三つ年が上だが、俺と同じでこの大学の二年生だ。
 理知的な印象を覚える猫目と、枝毛一つなく綺麗に染まったアッシュグレーの髪。口元にある黒子を強調するように頬杖を突く様は、まるでアイドルの宣材写真のようで、顔の良い奴はどんなときでも顔が良いのだと痛感する。
「ごめんね。瑞穂くんがとんでもなくビビりだってこと、忘れてた」
 口では謝罪をしておきながら、その実一ミリだって悪いとは思っていないことがよくわかるにやけ面を携えて、志貴はわざとらしく首を傾げる。そんな姿でさえ、女子学生たちからは「可愛い」と大騒ぎされることだろう。
 大学一年生の頃、つまり昨年のことだが、必修の講義でたまたま隣に座ったというだけで、なんとなく今にいたるまで付き合いの続いている志貴は見てわかる通り、学内外を問わず大層モテる男だった。名前は忘れたが、偏差値が高いことで有名な大学を一度卒業してからこの大学に来ているという変わった遍歴も然る事ながら、圧倒的なルックスと絵に描いたような好青年っぷりで、入学した途端に学内に名前と顔が知れ渡っただけでは飽き足らず、落としたハンカチを志貴に拾ってもらった女性が、一目惚れをした志貴にもう一度会いたいがために大学の敷地内に無断で入ろうとして警備員に止められたとかなんとか、フィクションのような噂話が尾ひれも背びれも付けて一人歩きした結果、おそらくこの大学で志貴の存在を知らぬ学生はいない。
 しかし志貴自身は噂や好奇の目を意に介さず、良く言えば当たり障りなく、悪く言えば他人に興味を示さずに、悠々自適な二度目の学生生活を謳歌しているように、俺には見えた。
「ところで、今日は何について小言を垂れ流しているの?」
 垂れ流すとは人聞きの悪い。
 だが、志貴には意外とこういう雑さがあった。顔が綺麗だからって何も性格まで女々しいわけではなくて、男らしい粗雑さみたいなものが、会話の端々やちょっとした所作から、きちんと窺えるのだ。
「べつに、たいしたことじゃないから……」
「子どもが行方不明になったのは、たいしたことじゃないかな」
 俺自身も真偽不明の話をむやみやたらに広めても、という思いから話を濁したにもかかわらず、どこから俺の呟きを聞いていたのやら、「逃がさんぞ」という静かな圧を忍ばせながら志貴が言う。
 そのまましばしの沈黙が俺たちの間に流れる。先に白旗をあげたのは、俺だった。
「……妹が通う中学校で、妙な出来事があったらしい」
 いつもそうだ。俺は志貴に、口で勝てた試しがない。いつだって彼の良いように、彼の欲しい情報を与えてしまうのである。先週もそのせいで、隠し持っていた駅前のラーメン屋で使える味玉無料トッピング券を一枚、かっ攫われたばかりなのだ。
 やるせない気持ちになりながらも、いつものことだと諦めつつ千重からの情報をかいつまんで話す。その途中で、そういえば志貴とはオカルト系の話をしたことがなかったな、と思った。彼は幽霊や都市伝説の類いを信じるタチなのだろうか。それとも、人にはなんだかんだ言いつつ、自分も怖がりだったら面白い。
 いや、それはないか。あの大和志貴が、何かに怯えているところが、まったく想像できない。
「へぇ……それはそれは。興味深いね」
 ほら見たことか。
 一通り話を聞き終えた志貴の顔といったら。これのどこがビビっているように見える?
 千重といい、志貴といい、俺の周りにはオカルト体制の強い人間しかいないらしい。これではまるで、俺がめちゃくちゃビビりみたいじゃあないか。
「男のくせに怖いものが嫌いなのかとか言ってくる奴も昔はいたけど、それって最近流行りの性別の押しつけうんぬんとか以前に人格否定だからね。怖いものに男も女もないことくらいわかんないかな。誰だって眉間に拳銃突きつけられたらビビるだろ、それと一緒だよ。恐怖を感じる基準が人それぞれというだけであって、何に恐怖を覚えるかは性別も年齢も国籍も関係なく、個々人の意識レベルの問題だから」
「うんうん、また文句言っているところ悪いんだけどさ」
「文句じゃない。独り言」
「また独り言を言っているところ悪いんだけれども、瑞穂くんって、確かものすごくお金に困っているんだよね」
「はあ。おっしゃるとおり、僕は年がら年中お金に困っておりますが、それが何か」
 本人から直接聞いたわけではないが、志貴の家は大きい会社だかなんだかで、とにかくお金持ち、らしい。その身なりや、醸し出される余裕感からも、かなり信憑性の高い噂だと、俺は思っている。そんな相手から「ものすごく金に困っているのか」と問われ、多少なりともムッとしながら肯定すれば、志貴は少しの間を置いてから、初めて見る種類の笑顔を浮かべた。
「妹さんの学校のこと、相談できそうな相手を紹介するよ。それからついでと言ってはなんだけど、アルバイトも紹介しようか? 内容は、とある人が外出するときの荷物持ち。その人の荷物を持って同行するだけで、日給五万円。どうかな?」
「やります」
 今にして思えばあの笑顔は、獲物を見つけたときの野生動物のそれだった。

 志貴に連れてこられたのはなんと、大学の研究室だった。違う学部生の使用する棟であったため入ったことこそないが、割の良いアルバイト先がこんなに近くにあることに驚きを隠せないまま、志貴に続いて入室する。それにしてもここに来るまでの志貴の足取りは、まるでスキップでもし始めそうなほど軽快なものだった。
「なあ志貴、ここにいるのって……」
「サキちゃん。僕だよ、志貴だよ。さっきメールで伝えたカモ……じゃなくて、友人。連れてきたよ」
「おい待て今俺のことカモっつったか?」
 聞き捨てならなすぎる言葉が聞こえて突っかかるも、当の本人はどこ吹く風といった様子で、人ひとりがやっと歩けるかという幅しか床の見えない、大量の本で埋め尽くされた薄暗い部屋の奥へと進む。
 志貴は今、部屋の主を「サキちゃん」と呼んだ。ならばここにいるのは、志貴にとってそれなりに親しい女性教授なのだろうか。それにしては、遮光カーテンが作り出した容赦の無い暗さといい、古本特有の甘いような埃っぽいような匂いといい、およそ女性の部屋とは思えない気味の悪さが、どんよりと広がる空間である。
 いったいどんな女性なのだろう。
 若干の恐怖と、それに勝る好奇心で志貴の向かった先、部屋の奥に鎮座する黒い革張りのソファーに近付くと、緩慢な動作で揺れ動く、黒いかたまりと目が合った……ような、気がした。
「カモ、鴨……といえば、京都の下鴨神社だ。そこに『糺(ただす)の森』という、縄文時代から続く生態系をそのまま維持しているとされる由緒正しき森がある。ところで志貴、陰陽道における、邪気が集まり百鬼が出入りするとされる場所はなんというか知っているかな」
「『鬼門』だよね、サキちゃん」
「そのとおり。鬼門とは丑寅、すなわち東北の方角、またはその方角に当たる場所を指し、そしてこれも鬼門における有名な説だが、鬼門とは、スルーが鉄則だ。つまり鬼門に当たる場所には、触れない、近寄らない、いじらない。──さて、先程話をした『糺の森』だけれども。京都府における、北東の位置に現存するそうだ」
 部屋の薄暗さに慣れ始めた俺の目が、ふらふらと宙に漂う何かを捉える。よくよく注視してみればそれは、闇に溶け込む色をした服の長袖から覗く、細い人差し指だった。発光したような白さを放つその指は、空に何かを書き残すような仕草をしてから、パタンと小さな音を立てて、ソファーの向こう側へと消えていった。
「『不浄をただす』という意味の名を付けながら……結局は触れることを躊躇って、今があるのかもしれないね」
 先程までの流暢な語り口は成りを潜め、声の主はただ小さく呟いた。
 それは、見知らぬ大人に帰り道を尋ねる、幼い子どものようにすら思える声色だった。
「サキちゃん、紹介するね。この眼鏡をかけたガタイの良い子が、正木瑞穂くん。僕の友人で、今年ハタチになる十九歳」
 俺を右手で指し示した志貴は、次は左手で、ソファーに四肢を預けた黒いかたまりを指し示す。
「瑞穂くん。こちらが大和優希。この大学の客員教授で、僕の兄。七月十三日生まれの蟹座、O型、二十六歳の民俗学者。身長は一六五センチメートル、体重は先月の健康診断で五〇.二キロ。ちょっと増えたね、この調子でもう少し体重を増やそう。この世にサキちゃんの成分を伴った面積が増えるのは良いことだからね。好きなものはオカルト、都市伝説、社寺縁起、お呪い、因習、街中に取り残された祠、ビルの上にある鳥居、甘い食べ物全般。嫌いなものはトマトと騒音。主な研究内容は……」
「シキ」
「はい。なぁに、サキちゃん」
「その『サキちゃん』というの、オレの年齢には見合わないからやめてくれないか」
「見合わないなんてことはないよ。サキちゃんは自分の顔を鏡で毎日ちゃんと見ている? 童顔で、色白で、この長い黒髪だって、最上級と銘打たれる絹糸よりも美しい艶やかさだよ」
「やめてくれないか」
「わかった。ごめんね、兄さん」
 志貴はまた、とびきりの笑顔でそう了承の言葉をかけると、口角を上げたまま俺を見遣った。
「瑞穂くん。そういうわけだから、兄さんにぜひ、妹さんの学校で起こった出来事を相談してみてはどうかな」
 何がどう、「そういうわけ」なのだろう。
 俺の至極当然とも思えるこの疑問に答えてくれる人間は、残念ながらこの空間には存在しないようだった。

「だからまあつまり、【アヤノさん】というローカル都市伝説が原因の一端を担っているのではないかと思われる児童行方不明事件が、俺の妹が通う中学校で起こった……らしい、です」
 妙な重圧に耐えきれず、千重から送られてきたメッセージについてかなり簡潔に話しを終えると、部屋には何とも居心地の悪い静寂が満ちた。居心地が悪いと感じているのは、おそらく俺だけなのだろうけれど。
 というのも俺が話を終えるや否や、志貴の兄である大和優希という人は、自身が横たわっていたソファーの肘掛け部分に、奇跡とも言えるバランスで積み重なった複数の本の一番上にあった一冊を取り、パラパラとめくり始めたのだ。まるで、俺の存在そのものが最初からなかったかのように。
 志貴よ。わざわざ紹介してくれたのになんだが、お前のお兄様は俺の話を気に入らなかったようだぞ。
 若干の申し訳なさと、それを上回る後悔の念に苛まれながら志貴を見遣れば、なんとも形容しがたい顔──後になってよく思い返してみると、あれが俗に言う「デレデレとした顔」なのだろう──で、微動だにせず己の兄を見つめている友人の姿がそこにはあった。
 この研究室に入ったときから薄々感じていたが、あえて今、明言させてもらおう。
 大和志貴はブラコンだ。
 眉目秀麗、成績優秀な文武両道好青年である友人の、知りたくもない姿を知ってしまった。

「よかったね、瑞穂くん。兄さんはこの『起源』が気になったみたいだよ」
 俺が心の中で志貴をブラコン認定したとも知らずに、当の本人は朗らかにそう言ってのけた。
 さも当然のように聞き馴染みのない単語を用いて話をされても、理解に苦しむ。頭が良いのに、否、頭が良い「から」かもしれないが、志貴はこうして強引に話を進めることがある。まるで、自分が知っている知識は世の中のすべての人間も同じように知っていると言わんばかりに話すものだから、俺は都度、己の浅学さを恥じるのと同時に、志貴の傲慢さに辟易するのだった。
「志貴。俺にもわかる言葉で状況を説明してくれ」
「瑞穂くんにもわかる言葉も何も、そのままの意味で見たままの状況だよ」
「申し訳ないが、俺はお前の兄さんとは初対面だから、お前の兄さんがさっきの俺の話をどう受け止めてくれたのかは、見ただけではわからない」
「……ああ、なるほど」
 やっと合点がいったようで、志貴は顎に添えていた右手を離し、代わりに両方の掌を合わせる。パチン、と小気味の良い軽い音が、静かな空間にこだました。
「ごめんね、僕の説明不足だった。兄さんはこの世に生まれる事象、現象、あるいは物語の『起源』を研究しているんだ」
 志貴の左手でその存在を示された大和兄は、話題の対象であるにもかかわらず、やはり本から目を離すことはなかった。彼の手元を凝視してみれば、先程まで読んでいたものとは別の冊子を手にしているらしいことがわかる。
「『起源』。その名の通り、物事の起こる源。すなわち物事のはじまり。とりわけ人の意思が関わる物事が、『誰の』『どんな』意思のもと、『なぜ』起こり、『なんのために』残されているのか。兄さんは、それを知るために生きている」
 ずいぶん大袈裟な表現に聞こえるが、本人が否定しないということは、特段間違ってもいないのだろう。程度の差はあれど、夢中になれる何かがあるのは悪いことではないように思う。妹の千重も、オカルトについて調べたり話したりしているときは、心底楽しそうに目を輝かせていたっけ。
「瑞穂くんの話を聞いて、兄さんが一番初めに手に取ったのは集団ヒステリーに関する研究論文だった。【アヤノさん】は簡易降霊術として広まっているんでしょ。降霊術と集団ヒステリーには関係性があるんだ。近いところで言うと今から約十三年前、兵庫県の学校で、集団ヒステリーと見られる事件が発生して、二十人弱の生徒が救急搬送をされている。この事件で搬送された生徒がコックリさんをしていたんじゃあないかって、ネット上で話題になったんだ。校長が明確に否定しているらしいんだけど、日本で起こった、オカルト要素の含まれる集団ヒステリーとして、今もなお面白おかしく語り継がれている事件だね。そもそもコックリさんが日本で流行した一九七〇年代では、コックリさんが原因と思われる集団ヒステリーが度々発生したといわれている。つまり、コックリさんのような降霊術と集団ヒステリーとは、中々に繋がりが深いと考えられるんだよ」
 要するに、大和兄は此度の児童行方不明事件を降霊術が誘発した集団ヒステリーと何らかの関係があると考えて、なおかつそれに興味を抱いた、ということだろうか。
 だが、この考えが本当ならばそれは見当違いである。【アヤノさん】には、コックリさんとは明確に違う、集団ヒステリーを誘発しそうにないとある条件があるからだ。
「さっきの説明では端折ったんだが、【アヤノさん】にはコックリさんとは違う三つの条件があるらしい。そのひとつが『必ず一人で行うこと』なんだよ。これじゃあ、集団ヒステリーにはなり得ないんじゃあないか? 行方不明になったっていうのも、今のところは一人だけらしいし……いやまあ、中学生が一人行方不明になっただけでも相当大事であることに変わりはないし、そもそもこういうのは数の大小で危険視レベルを変えるべきでは決してないことくらい重々承知の上なんだけれども」
「キミ」
 俺の言葉を遮るように、鋭い声が部屋に響く。声に温度があったのなら、それはきっと絶対零度と言って然るべき冷たさをはらんでいた。
「キミ、そこの……ミズホと言ったか。いいかい、ミズホ。キミはまったく嘆かわしいことに、いや、もしかすると賞賛に値することかもしれないが、どちらにせよ、キミは愚鈍だ」
 声の主はけだるげな雰囲気を全身にまとわせながら、いやにゆっくりとソファーから身を起こす。
 色白を通り越して不健康な印象さえ与える肌。深淵が反射したような真っ黒な瞳の下には、うっすらとこびりついた隈が見えた。
 確か志貴は彼のことを、二十六歳と言っていたか。しかし、どう頑張っても俺と同い年か、下手したら年下にすら見える容姿は、その実年齢にまるで比例していなかった。
「愚鈍極まりないミズホ青年。難しいことは言わないから、妹君から伝えられた【アヤノさん】にまつわる事象について、一言一句違うことなく、ワタシに教えてくれたまえ」
 目を細め、口角を上げた彼のその表情を、大抵の人間は美しく思うのだろう。志貴の兄である彼は、弟に負けず劣らずの整った顔立ちをしている。そんな人間の、微笑みともとれる表情は、さぞかし美しいに違いない。
 しかし、俺を射貫くように向けられた彼の黒い黒い二つの眼は、俺に美しさよりも恐怖を覚えさせた。おそらく今、大和優希は、めちゃくちゃものすごくキレているのだった。

 千重からのメッセージが表示された携帯を片手に直立不動の俺。その目の前には、足を組み、右腕を肘掛けに乗せて頬杖をつきながら座る大和兄。ソファーの横に佇む志貴。
 志貴よ、なぜ座らないのだ。
 まさか、「兄さんの隣に座るなんておこがましいよ……」とでも言うんじゃないだろうな。やめろ、その照れた表情を。図星みたいで気まずいだろうが。
 気を取り直して姿勢も正し、携帯を見ながら改めて事の概要を話すことにした。
「えー、今日の昼休み中、俺の妹、千重といいますが、その千重からメッセージが届きました。彼女が先月入学した中学校で、【アヤノさん】という、おそらくはコックリさんの派生と思われる降霊術が流行っているという内容でした」
 まるでプレゼンでもしているような文体で喋りはじめてしまったが、苦言を呈される気配はないので続行した。
「しかし【アヤノさん】実行において設けられているルールは、妹曰く『コックリさんの禁忌事項をすべて破っている』そうです。【アヤノさん】を行う際のルールは三つ。一つ、必ず一人で行うこと。二つ、五円玉硬貨を使用して、一度質問をするごとに必ず五円玉から指を離すこと。三つ、【アヤノさん】本人に関する質問しかしてはいけないこと」
 三つのルールを順序立てて伝えると、大和兄が少し身じろいだのがわかったが、制止の声がかかったわけではないので、そのまま説明を続けた。
「妹はこのルールについて、コックリさんにおける『一人で行う』『儀式の途中で硬貨から手を離す』『コックリさん自身のことを質問する』という三つの禁忌事項に反していることが気になったそうです。そして、詳しい時系列はわかりませんがおそらくここ数日の間に、妹の隣のクラス……つまり中学一年生の子が一人、【アヤノさん】を行うと言っていた翌日から行方不明になった、とのことです」
 今度こそ、送られたメッセージのすべてを話し終えた俺は、軽く息を吐きながら、おそるおそる大和兄を見る。すると、先程と変わらずに頬杖をつき、足も組んでいるが、左手の位置が先程とは違うことに気が付く。
 彼は、左手の親指と薬指をつけて作った小さな輪の先を、ぼんやりと眺めていた。
 詳しく聞いた上で、やはり気に入らない話だったのだろうか。大和兄の真意がわからず困惑しながや志貴を見ると、彼は俺に対して小さな声で「大丈夫」と言った。
「兄さんのこれは、集中しているときに出る癖みたいなものだから。兄さんは今の瑞穂くんの話から、【アヤノさん】の起源を見つけようとしているんだよ。ちなみに前回この癖が出たのは一週間と二日前の午後五時三十二分、あと二十八分後までに提出しなければならない大学宛ての書類をどの本の栞代わりとして使ったか考えているときだった」
「お前の兄さん、大丈夫か?」
 志貴のことも色々な意味で心配ではあるが、変につついてこれ以上被害を被りたくないという一心で、あえてそれに触れることはしなかった。
 下手に話しかけて大和兄の集中力を削ぐのも気が引けて、手持ち無沙汰に部屋を見渡す。相変わらず薄暗いが、日の位置が変わったのか、目が慣れたのか、この部屋に入った当初より、室内が若干明るくなったように思えた。
 部屋には、壁一面の本棚でもまだ足りないというように、机上や床に散乱した無数の本のほかにも、知らない生き物の頭蓋骨やホルマリン漬けと思われる小さな瓶、謎のお札や石、どこかの海岸で拾ってきたような杖サイズの流木などが飾ってある。
「本来、客員教授というのは個別の研究室は与えられないんだ。いわばゲストみたいなもので、正式な大学の職員ではないからね」
 俺が室内の様子を見ていることに気が付いたのか、志貴が口を開いた。
「なら、ここは志貴のお兄さんの研究室じゃあないのか」
「いいや、ここは兄さんの研究室だよ」
 志貴の言っていることは矛盾しているのではないか。そう訝しむ俺を知ってか知らずか、志貴は淡々と説明を続けた。
「僕が買い取った。正確に言うと、すでに退任した教授が置いていった資料という名の遺物を詰め込んであるだけだったここを、仲の良い教授に頼んで明け渡してもらったんだ。それなりに謝礼をはずんだから、まあ、買い取ったといっても語弊はないかな」
 なんてことない顔をしてとんでもないことを言う志貴に、とんでもないことを言っている自覚はないのだろう。
 志貴は紛れもなく俺の友人の一人であるが、ちょっと距離を置こうかな、と思う程度には、今日だけでこの男の知りたくもない一面を、不本意にも知ってしまっている。微笑ましいはずの兄弟愛も、度が過ぎると恐怖の対象となり得るのだと、俺は学んだ。
 瞬きすらしていないのではないかと思うほど、自身の手元だけを見て固まっていた大和兄が動いたのは、俺がそんな学びを得た頃だった。
「時にミズホ」
 彼はそう言いながらソファーから立ち上がり、白くしなやかな右手を、俺の眼前に掲げた。
「三点、キミの妹君に調べてほしいことがある。本当はワタシがそちらへ赴くのが筋だが、あいにく四限目に講義があってね。休講にしても、ワタシとしては一向に構わないが、大学側がそうは問屋が卸さない。現に先週、上からお怒りの文書が届いたばかりだ。というわけで、暗愚魯鈍なミズホくん。博学多才なキミの妹君に、次の三点を調べるように伝えたまえ」
 おそらく貶されているであろう、名前の前に与えられた四字熟語を脳内で漢字に変換する間もなく、大和兄の掲げられた右手から、人差し指が伸びる。
「一つ。件の中学校に今年入学した者の中で、何らかの理由で入学式を欠席した生徒の存在」
 慌てて携帯のメモ帳アプリを開き、大和兄の言葉を打ち込む。焦る俺などお構いなしに、彼は中指を伸ばす。
「二つ。入学式を欠席した生徒の名前」
 次いで大和兄が伸ばしたのは、薬指ではなく親指であった。たしかどこかの国では、この三本の指で「三」を表わすことの方が主流だと、聞いたことがある。
「三つ。入学式を欠席した生徒と、行方不明になった生徒との関係性」
 携帯に三つ目の入力を終えて顔を上げると、大和兄は伸ばした三本の指を使い、小気味の良い音をひとつ鳴らした。
「このはじまりに、誰かの祈りを見出そうじゃあないか」
 そのときの彼を見て、俺は人生で初めて、人を美しいと思った。