――帰ってきた。
外の足音に気づき、私は顔を上げる。
毎日聞いてきた彼の足音に、
深く呼吸をして昂ぶる気持ちを鎮める。
玄関の鍵が解かれ、
廊下を歩く歩幅は変わらず、
私の居るダイニングの扉が開く。
「おかえり。」
「ただいま。」
何年も交わしたあいさつ。
大学のサークルで知り合って、
卒業後も同棲してもう4年目の付き合い
にもなれば、惰性も習慣になっていた。
勉強だけが取り柄で
堅物と呼ばれていた彼は、
パズルに興味を持ってサークルに入った。
私はサークルに入っても、
誰も解けないような難しいパズルを
作ってばかりだった。
彼は持ち前の知識と頭脳で
無理やりにパズルを解き、
私は対抗心でパズルを作っていった。
互いにぶつかり、補い合う関係になると、
惰性で同棲して現在に至る。
彼は仕事から帰って疲れも見せず、
私の顔を見ても飽きる様子も見せない。
ただ少し、普段より緊張して見えるのは、
これは私の影響かもしれない。
長方形のダイニングテーブルに置いた、
A4サイズの紙を彼に差し出す。
他にはなにも置いていない。
「どうしたの?」と、彼は訊ねる。
「具体性のない質問ね。」と、私。
彼は伊達眼鏡の位置を直し、
シンクで手を洗う。
「ご飯は?」
「この時間にいつも用意しているのに?」
想定された質問に、想定通りの質問で返す。
私は彼の言いたいことが
わからないような関係ではない。
料理は作り置きを用意し、
在宅で仕事も済ませておいた。
彼も状況を理解して、
ペーパータオルで手を拭いてから頷く。
彼が堅物と呼ばれていたのは
学生時代の過去であって、
共同生活を続ければ必然的に
硬軟を併せ持つようになる。
「座って、これを見て。」
私はテーブルの紙を指先で小突く。
彼は半袖シャツ姿で私の正面に座り、
真っ白な紙に描かれた図形を見た。
4辺の長さがすべて等しく、
4つの角がすべて直角の四角形。

正方形の中にも外にも、
なにも書かれてはいない。
彼が帰ってくる直前に、
私がコピー用紙にマジックで書いた問題。
油性のマジックの筆跡が
テーブルに裏移りしたので、
除光液で拭いたにおいが
ダイニングに強く残っている。
役所に提出する書類ではない。
「質問するほど答えから遠のくからね。」
「なるほど。」彼は静かに頷く。
理解が早いせいで、喧嘩をした記憶もない。
「ヒントが欲しいな。」
「質問をしなさいよ。」
「質問はいくつか思い浮かぶよ。
でも答えから遠のくのであれば、
アプローチの方法がないと
解きようもないからね。」
次はペン回しをして見せるだろう。
――ほら。
彼は鞄からペンケースを取り出して、
スタイラスを手にする。
各指の間を器用に動き回るスタイラス。
彼が考える時に使うスタイラスは、
ボールペンではないので
芯やノック部分など余計な音が鳴らない。
この癖には慣れたのだけれど、
彼はスタイラスのままペン回しを行い、
ボールペンに戻したりはしなかった。
私が作った黒猫の形をしたペンケースを、
彼はいまも大事に使っている。
ユーモアの伝わりにくい彼のおかげで、
彼と旅を共にするこの子は好評らしい。
「仕方がないな。
出題者の方が有利だものね。
これはクロスワードパズルよ。」
「クロスワード?」
「いまのは質問と見做して、
最初のヒントから難しくするわね。」
「待って! 無し!
単語を確認しただけ。」
私は小さく顎を上げる。
焦る彼を見て、
自然と口角も上がってしまう。
クロスワードパズルは縦と横に交差する
共通の文字と異なる単語を、
キーワードを元にして空白を埋めていく。

しかしこの正方形にはマス目も無ければ、
ヒントになるキーワードもない。
彼は必ず質問をしなければいけない。
それでも彼は、この正方形の中に入る
文字数を訊ねるような野暮な真似はしない。
「最初のキーワードは?」
「この言葉は、Wikipediaに
200以上の言語で記事が作られている。」
彼の質問によるこのヒントでは、
非常に多くの答えが存在して、
一度で範囲を絞ることはできない。
「参考までに、数字の1も
同じく近い言語数が存在するよ。」
「なるほどね。」
答えの候補の多さを理解しても、
彼は焦るでも困るでもなく頷く。
ここから次のキーワードを得ても、
候補は絞れずに回答者に混乱を齎す。
語彙力が試されるクロスワードであっても、
このパズルは知識の量が裏目に出る。
彼は考え、スタイラスをまた回す。
彼のスタイラスは、右手の薬指に嵌めた
質素な銀の指輪に当たって音を立てる。
その手が止まった。
「わかった。」
「えっ?」耳を疑った。
「結構ヒントを貰ったからね。」
彼はペンケースにスタイラスをしまい、
すでに回答は確信に至っていた。
「次のキーワードは3文字。
もしくは漢字で2文字とか。」
「漢字では1文字のつもりよ。」
私はひとつの罠を用意してある。
彼はまだ勘違いしているかもしれない。
「そうか、そんな表記があったね。
カタカナのスエだったかな。」
しかし彼は罠に掛からず、また頷いて、
私のヒントに深く納得している。
さらに口早に説明を続けた。
「他にもキーワードを
8文字にすることもできるね。
これは答えに近いから、
すぐには言わないはずだ。
正解はその1文字だからね。」
彼は既に答えにアプローチしている。
私は自分の不備に気付かずに訊ねた。
「なにがヒントになったの?」
「最初のキーワードだよ。」
「Wikipedia?」
200言語も存在する
知名度の高い単語でも、
絞り込むのは簡単ではないはず。
300言語以上であれば、
国や言語、大陸などに絞れるが、
200言語以上では都市や宗教、
天体、現象などジャンルも広がる。
「君はクロスワードだって言ったけれど、
出したキーワードに対して
縦とも横とも指定は無かったし、
僕にも訊ねなかったよね。」
「必要だった?」
「2文字以上であれば、
交差する文字以外は異なると思うし、
縦か横のキーワードは異なるはずだ。」
「横なら8文字、縦なら2文字ね。」
――縦なら漢字1文字だったわ。
私は少し遅れて過ちに気づき、
彼は私の表情に小さく口角を上げた。
彼は私からヒントを訊ねる前に、
答えからキーワードを導いていた。
彼は黒猫のペンケースに触れ、
今度はボールペンを取り出す。
「もうひとつ、重大なヒントがあったね。」
「私、なにか言った?」
「数字の1は答えではないような
素振りを見せたね。」
「その言語の数が近いだけで、
数字の1は答えではないもの。」
「クロスワードは本来、
縦横のヒントの位置を示す数字が、
左上に書かれているはずだよね。
こういう風に。」
彼はボールペンの芯を出し、
正方形の左上に数字の1を書き足す。

「数字の1は答えではないけれど、
この状態では穴埋めクイズに
なってしまう。
クロスワードとして
構造が欠陥してしまう。」
答えにたどり着いて、
躍然とした表情の彼は眩しすぎる。
数字の1をこちらに向けられて、
私はテーブルに肘をつき、頭を抱えた。
私がクロスワードと明言した為に、
数字の1を参考に伝えた為に、
彼を答えに導いてしまった。
「正方形ではなくて、
円だったらどうかな?」
「円?」
「これは僕の職場で良く見かける記号だ。」
彼は、私の目の前で歪な円を描き、
彼は震える手で円の上に小箱を乗せた。
化学繊維が吹き付けられた、
濃紺色の角の取れた立方体が置かれる。
箱が上下に分かれて開かれると、
質素なデザインの金の指輪が出てきた。
「答えは?」と、彼が促す。
「ないでしょ…。」と、私。
拒絶の言葉を放つと、
すぐに彼の歪む顔を見た。
「もっと良いアプローチはなかったの?」
私は左手を差し出して、
彼を答えに導いた。
「君も、丸くなったね。」
薬指に指輪が上手く入らないのは、
彼の手が喜びで震えているせいだ。
(おしまい)
―――――――――
※正解が分かったひとは
感想欄に記入してください。(1文字のみ)
▼ クロスワードの答え

外の足音に気づき、私は顔を上げる。
毎日聞いてきた彼の足音に、
深く呼吸をして昂ぶる気持ちを鎮める。
玄関の鍵が解かれ、
廊下を歩く歩幅は変わらず、
私の居るダイニングの扉が開く。
「おかえり。」
「ただいま。」
何年も交わしたあいさつ。
大学のサークルで知り合って、
卒業後も同棲してもう4年目の付き合い
にもなれば、惰性も習慣になっていた。
勉強だけが取り柄で
堅物と呼ばれていた彼は、
パズルに興味を持ってサークルに入った。
私はサークルに入っても、
誰も解けないような難しいパズルを
作ってばかりだった。
彼は持ち前の知識と頭脳で
無理やりにパズルを解き、
私は対抗心でパズルを作っていった。
互いにぶつかり、補い合う関係になると、
惰性で同棲して現在に至る。
彼は仕事から帰って疲れも見せず、
私の顔を見ても飽きる様子も見せない。
ただ少し、普段より緊張して見えるのは、
これは私の影響かもしれない。
長方形のダイニングテーブルに置いた、
A4サイズの紙を彼に差し出す。
他にはなにも置いていない。
「どうしたの?」と、彼は訊ねる。
「具体性のない質問ね。」と、私。
彼は伊達眼鏡の位置を直し、
シンクで手を洗う。
「ご飯は?」
「この時間にいつも用意しているのに?」
想定された質問に、想定通りの質問で返す。
私は彼の言いたいことが
わからないような関係ではない。
料理は作り置きを用意し、
在宅で仕事も済ませておいた。
彼も状況を理解して、
ペーパータオルで手を拭いてから頷く。
彼が堅物と呼ばれていたのは
学生時代の過去であって、
共同生活を続ければ必然的に
硬軟を併せ持つようになる。
「座って、これを見て。」
私はテーブルの紙を指先で小突く。
彼は半袖シャツ姿で私の正面に座り、
真っ白な紙に描かれた図形を見た。
4辺の長さがすべて等しく、
4つの角がすべて直角の四角形。

正方形の中にも外にも、
なにも書かれてはいない。
彼が帰ってくる直前に、
私がコピー用紙にマジックで書いた問題。
油性のマジックの筆跡が
テーブルに裏移りしたので、
除光液で拭いたにおいが
ダイニングに強く残っている。
役所に提出する書類ではない。
「質問するほど答えから遠のくからね。」
「なるほど。」彼は静かに頷く。
理解が早いせいで、喧嘩をした記憶もない。
「ヒントが欲しいな。」
「質問をしなさいよ。」
「質問はいくつか思い浮かぶよ。
でも答えから遠のくのであれば、
アプローチの方法がないと
解きようもないからね。」
次はペン回しをして見せるだろう。
――ほら。
彼は鞄からペンケースを取り出して、
スタイラスを手にする。
各指の間を器用に動き回るスタイラス。
彼が考える時に使うスタイラスは、
ボールペンではないので
芯やノック部分など余計な音が鳴らない。
この癖には慣れたのだけれど、
彼はスタイラスのままペン回しを行い、
ボールペンに戻したりはしなかった。
私が作った黒猫の形をしたペンケースを、
彼はいまも大事に使っている。
ユーモアの伝わりにくい彼のおかげで、
彼と旅を共にするこの子は好評らしい。
「仕方がないな。
出題者の方が有利だものね。
これはクロスワードパズルよ。」
「クロスワード?」
「いまのは質問と見做して、
最初のヒントから難しくするわね。」
「待って! 無し!
単語を確認しただけ。」
私は小さく顎を上げる。
焦る彼を見て、
自然と口角も上がってしまう。
クロスワードパズルは縦と横に交差する
共通の文字と異なる単語を、
キーワードを元にして空白を埋めていく。

しかしこの正方形にはマス目も無ければ、
ヒントになるキーワードもない。
彼は必ず質問をしなければいけない。
それでも彼は、この正方形の中に入る
文字数を訊ねるような野暮な真似はしない。
「最初のキーワードは?」
「この言葉は、Wikipediaに
200以上の言語で記事が作られている。」
彼の質問によるこのヒントでは、
非常に多くの答えが存在して、
一度で範囲を絞ることはできない。
「参考までに、数字の1も
同じく近い言語数が存在するよ。」
「なるほどね。」
答えの候補の多さを理解しても、
彼は焦るでも困るでもなく頷く。
ここから次のキーワードを得ても、
候補は絞れずに回答者に混乱を齎す。
語彙力が試されるクロスワードであっても、
このパズルは知識の量が裏目に出る。
彼は考え、スタイラスをまた回す。
彼のスタイラスは、右手の薬指に嵌めた
質素な銀の指輪に当たって音を立てる。
その手が止まった。
「わかった。」
「えっ?」耳を疑った。
「結構ヒントを貰ったからね。」
彼はペンケースにスタイラスをしまい、
すでに回答は確信に至っていた。
「次のキーワードは3文字。
もしくは漢字で2文字とか。」
「漢字では1文字のつもりよ。」
私はひとつの罠を用意してある。
彼はまだ勘違いしているかもしれない。
「そうか、そんな表記があったね。
カタカナのスエだったかな。」
しかし彼は罠に掛からず、また頷いて、
私のヒントに深く納得している。
さらに口早に説明を続けた。
「他にもキーワードを
8文字にすることもできるね。
これは答えに近いから、
すぐには言わないはずだ。
正解はその1文字だからね。」
彼は既に答えにアプローチしている。
私は自分の不備に気付かずに訊ねた。
「なにがヒントになったの?」
「最初のキーワードだよ。」
「Wikipedia?」
200言語も存在する
知名度の高い単語でも、
絞り込むのは簡単ではないはず。
300言語以上であれば、
国や言語、大陸などに絞れるが、
200言語以上では都市や宗教、
天体、現象などジャンルも広がる。
「君はクロスワードだって言ったけれど、
出したキーワードに対して
縦とも横とも指定は無かったし、
僕にも訊ねなかったよね。」
「必要だった?」
「2文字以上であれば、
交差する文字以外は異なると思うし、
縦か横のキーワードは異なるはずだ。」
「横なら8文字、縦なら2文字ね。」
――縦なら漢字1文字だったわ。
私は少し遅れて過ちに気づき、
彼は私の表情に小さく口角を上げた。
彼は私からヒントを訊ねる前に、
答えからキーワードを導いていた。
彼は黒猫のペンケースに触れ、
今度はボールペンを取り出す。
「もうひとつ、重大なヒントがあったね。」
「私、なにか言った?」
「数字の1は答えではないような
素振りを見せたね。」
「その言語の数が近いだけで、
数字の1は答えではないもの。」
「クロスワードは本来、
縦横のヒントの位置を示す数字が、
左上に書かれているはずだよね。
こういう風に。」
彼はボールペンの芯を出し、
正方形の左上に数字の1を書き足す。

「数字の1は答えではないけれど、
この状態では穴埋めクイズに
なってしまう。
クロスワードとして
構造が欠陥してしまう。」
答えにたどり着いて、
躍然とした表情の彼は眩しすぎる。
数字の1をこちらに向けられて、
私はテーブルに肘をつき、頭を抱えた。
私がクロスワードと明言した為に、
数字の1を参考に伝えた為に、
彼を答えに導いてしまった。
「正方形ではなくて、
円だったらどうかな?」
「円?」
「これは僕の職場で良く見かける記号だ。」
彼は、私の目の前で歪な円を描き、
彼は震える手で円の上に小箱を乗せた。
化学繊維が吹き付けられた、
濃紺色の角の取れた立方体が置かれる。
箱が上下に分かれて開かれると、
質素なデザインの金の指輪が出てきた。
「答えは?」と、彼が促す。
「ないでしょ…。」と、私。
拒絶の言葉を放つと、
すぐに彼の歪む顔を見た。
「もっと良いアプローチはなかったの?」
私は左手を差し出して、
彼を答えに導いた。
「君も、丸くなったね。」
薬指に指輪が上手く入らないのは、
彼の手が喜びで震えているせいだ。
(おしまい)
―――――――――
※正解が分かったひとは
感想欄に記入してください。(1文字のみ)
▼ クロスワードの答え


