「……いいか瀬名。お前は今日から、この『スマート・ヘルス・トラッカー』を常時装着しろ。心拍、血圧、そして皮膚温度。異常があれば僕の端末に即座に通知が来るように設定した」
「ええ〜、玲央、それはさすかに、過保護すぎない?」
放課後の地学準備室。
瀬名はのほほんとした顔で、べよ猫とじゃれ合っている。
だが、僕の目には見えている。
瀬名が笑うたび、その足元の影が、少しずつ、確実に形を失っているのを。
そして、瀬名の足元で人畜無害なアホ面をしたマスコットの振りをしているまめたが、僕と目が合うたびに、あざ笑うように鼻を鳴らすのを。
(科学だ。科学で解決するんだ。妖怪だの呪いだの、そんな言葉に屈してまるか。これは、未知の寄生生物による、宿主の情報の書き換え及び喪失に過ぎない……!)
僕は震える足で、地学準備室の最奥――僕ですら滅多に足を踏み入れない、古文書と未整理の岩石標本が積み上がる資料庫の扉を開けた。
「……おい。そこに、いるのは分かっている、鯨岡先輩」
埃の舞う暗闇の中、うず高く積まれた『日本民俗地質誌』の山から、ボサボサの黒髪がひょっこりと顔を出した。
「うるさいよ、高宮。せっかく、この土地の『地脈の淀み』と睡眠の相関関係について学習をしていたのに」
二年生の幽霊部員、鯨岡カイ。
この学校で唯一僕が、話が通じるかもしれない、と思っている変人だ。
「それはつまり午睡的なあれですね。暇という事がよーく判りました。あのですね、先輩すこしご意見を伺いたくて。これは、仮定の話ですが。もし、ある個体の『影』が特定の生物によって物理的に咀嚼されている場合、その個体の生命維持にどのような影響が出ると考えられますか?」
鯨岡先輩は、重たい瞼をゆっくりと上げた。
そして、僕の背後――準備室へと続く扉を、じっと見つめた。
「相変わらず、高宮は唐突だねえ。うーん『真名』かな? 名前はね、首輪なんだよ。一度つけてしまえば、飼い主の命を吸い尽くすまで、その鎖は外れない」
鯨岡先輩が、カビ臭い本を一冊、僕の胸に放り投げた。
表紙には『式神化の事略』と書かれている。
「……オカルトは嫌い? 君の大事な大事なバッテリーとやらが空っぽになる前に、その理屈を捨てないと。影が消えるのは、魂が『あっち側』に半分持っていかれた証拠だよ」
ドクン、と心臓が跳ねる。
僕は反射的に、ポケットに忍ばせている、シルバーリングを握りしめた。
準備室の方から「玲央〜! オニオンリング、べよ猫が食べたいって言ってるよー! てか、猫にたまねぎダメくない?」と、瀬名の能天気な声が聞こえる。
(魂? あっち側? そんな不確かな概念)
僕は鯨岡先輩からひったくった本を抱え、瀬名の元へと走り出した。
「今すぐそのタヌキとおもちから離れろ!! ……いや、離れるな、僕のそばにいろ!!」
「どっちだよ! あはは、玲央、今日マジで熱いね! ツンデレ!!」
抱きついてくる瀬名の温かさが、今はひどく恐ろしい。
影が消えるまで、あと、どれくらいなんだ?
「うん、青春してるのは結構だけど、君たち、肝心の『呪物』を放置してるよ」
のっそりと、資料庫の暗がりから鯨岡先輩が姿を現した。
そして、瀬名のバッグの横に転がっていたタヌキのマスコット『まめた』を、長い指でつまみ上げる。
「あー……これね。なるほど、見事な『依代』だ」
「依代……? 待ってください、ただのポリエステル製のアミューズメント景品ですよ。質量も組成も、非生物のそれです」
「高宮、君のそのガチガチの唯物論、嫌いじゃないけどね。狸ってのは、元々『化かす』のが得意な土着の精霊だ。形のない彼らに、この瀬名くんが『まめた』という固有の『真名』を与え、このぬいぐるみという『概念』を『個』として、紐づけてしまった。つまり、無自覚な『式神化』の契約を結んじゃったわけだ」
「式神……!? 非科学的の極み!」
「んでー、式神が三次元で物理的な力を振るうには、主人のエネルギーが要るから。瀬名くんの何らかが食われてるのは、このタヌキが完全な肉体を得るための、いわば等価交換って、ところかな? たぶん」
鯨岡先輩がまめたを揺らしても、マスコット状態のままだらんと手足を垂らしている。
僕がギリッと奥歯を噛み締めていると、先輩がふと、僕たちの足元の虚空を見つめて目を細めた。
「……ん? 高宮、君の足元に、微弱な『地脈の淀み』というか、何かがいるね?」
「っ、見えるんですか!? べよ猫が!」
「いやいや、ものすごーく残念だけど、僕には見えない。空間がそこだけ歪んでる気配がするだけ。いいなぁ、高宮。君、完全に『あっち側』に波長が合っちゃってるよ。羨ましいぜ。ちょっとスマホで写真撮ってみてよ」
先輩に急かされ、僕はポケットからスマートフォンを取り出し、べよ猫と、先輩が手に持つまめたに向けてシャッターを切った。
「……ほら、見てください先輩」
画面に映し出された画像。
そこには、古びた床板だけが映っており、白いおもち生物の姿は完全に透過されていた。
そして、先輩が持つまめたは、どこからどう見ても『ただのぬいぐるみ』として静止した状態で写っている。
「エセ心霊写真にすらならない。光学迷彩か何かは知りませんが、物理的な光の反射には映らない。これが現実です」
ついでに、僕はスマホを、地学準備室の隅にある、型落ちのデスクトップパソコンにケーブルを繋いだ。
「玲央? 何してんの?」
「画像解析だ。オカルトで片付けられてたまるか。もしこのタヌキが本当に『瀬名の何かのエネルギー』を咀嚼しているのなら、その周囲のピクセルデータ、あるいは光の波長に、何らかの物理的な異常値が記録されているはずだから。もっと早く気が付けば良かった!」
僕はキーボードを叩き、まめたの写真を解析ソフトへと放り込んだ。
RGBのヒストグラムを展開し、輝度と彩度の分布を数値化していく。
瀬名が「うおー、玲央ハッカーみたい! かっけー!」と無邪気に僕の背中に張り付いてくるが、無視だ。
「む、なんだ、これは」
数秒後。
画面に表示された解析結果を見て、僕の指が硬直した。
「おー、何か出たかい?」
鯨岡先輩が、ニヤニヤしながらモニターを覗き込む。
「えっと、結果としてはありえないですね。マスコットの周囲だけ、ピクセルデータが存在しません」
「どういうこと?」と瀬名が首を傾げる。
「黒色として記録されているんじゃない? データそのものが欠落しているんだ。まるで、このタヌキの周囲の空間の光だけが、ブラックホールに吸い込まれたように、プログラム上で『Error』として処理されるやつ」
科学的なツールを使えば使うほど、目の前の存在が「物理法則を無視した化け物」であることが証明されていく。
画面をのぞき込んでいた鯨岡先輩が、ダブルチェックするように、マウスをくるくると動かす。
「これが意味するところは、そうだな~。ただの物質じゃない。瀬名くんのデータを食って、この世界に上書きされようとしてる『バグ』ってところかなあ」
鯨岡先輩の間延びした声が、準備室に冷たく響いた。
僕は、パソコンのモニターと、瀬名の足元で薄れゆく影を交互に見比べながら、自分の手が微かに震え始めているのを感じていた。
「……バグならば、システムを修復するか、ウイルスそのものを駆除するしかない。先輩。何か、物理的、あるいは論理的にこの侵食を遅らせる手段に心当たりはありませんか」
屈辱だった。
偏差値トップクラスの理系であるこの僕が、日々幽霊部員として昼寝ばかりしているオカルトマニアに助けを求めているのだから。
だが、僕の背中に張り付いている瀬名の体温が、僕の理性を強制的にシャットダウンさせる。
「うーん、そうだねぇ。一番手っ取り早いのは、そのタヌキの『真名』を解除することだけど。でも、もうここまで侵食が進んじゃってると、無理やり引き剥がせば瀬名くんの魂ごと千切れるかもね」
「なんて恐ろしい事を言うんですかっ」
「いやー、だから、まずは防壁を張るんだよ。言うならば、瀬名くんの魂を、高宮の魂でコーティングしてやるのさ。はい、これ」
鯨岡先輩が白衣のポケットをごそごそと探り、クシャクシャに丸まった一枚のメモ用紙を僕に手渡した。
そこには、達筆な筆ペンで何やら古めかしい言葉が書かれている。
「なんですか、これは」
「僕の特製、守護の言霊。強力な呪術だよ。これを、ターゲットと接触して、一字一句間違えずに唱えるんだ。できれば、夜の静寂の中でね。言霊ってのは、波長が合いやすい場所で唱えるほど効果が上がるから」
僕は疑わしげにそのメモに目を落とした。
『我が命の欠片、お前にすべてを託さん』
「ただの古文の暗唱にしか見えませんが。……本当に、これで侵食が止まるんですか?」
「僕が精進潔斎して描き上げた渾身の一作だよお~。たぶん、止まる止まる。『想い』が強ければ強いほどね。実証実験兼ねてやってみてよ~。去年の定期テストの問題欲しいだろ?」
鯨岡先輩が、ニヤリ、と。
いつもなら絶対に見せないような、悪戯っ子のような、底意地の悪い笑みを浮かべた気がした。
「わかりました。今は検証可能な手段がこれしかない。瀬名、今日はもう帰るぞ」
「えっ、もう!? 玲央、もっとパソコンでカッコいいことやらないの?」
「うるさい、僕が疲れたんだ。それとお前の家に、課題プリントを忘れたから、寄ってから帰る」
「マジで!? やったー!!」
瀬名が飛び跳ねて喜び、僕の首に腕を回してくる。
僕は舌打ちをしながら、鯨岡先輩から受け取ったメモをブレザーのポケットにねじ込んだ。
(このバカの命を繋ぐためだ。どんな胡散臭い呪文だろうと、一文字の狂いもなく完璧に読み上げてやる)
それが『命懸けのプロポーズ』として瀬名に解釈されることになるとは、この時の僕は知る由もなかった。
「じゃあね、高宮。健闘を祈るよ。いろんな意味で」
背を向けて準備室を出る僕たちに、鯨岡先輩が意味深に手を振る。
僕のポケットの中で、先輩の渡したメモが、まるでこれから起こる事態を予言しているかのように、カサリと乾いた音を立てた。
★
「……いいか、瀬名。今回だけだ。次に課題を忘れたら、僕は迷わずお前の通知表に『大馬鹿』の二文字を刻み込んでやるからな」
「ごめんって玲央ぉ! 夜の学校ってなんか出そうだし、一人だと怖すぎてさ」
テストを目前に控えた夜の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように冷え切っていた。
僕達は、不法侵入および、忘れ物奪還を敢行するため、瀬名と共に暗い廊下を歩いていた。
僕が、瀬名の家に忘れたはずの課題プリントを、ちょっとした親切心から学校に持ってきていたらしい瀬名は、それそのもの存在を忘れ、教室の机の中に入れっぱなしで帰宅したという、無駄な行き来をする羽目になっている。
こんな時間に。
懐中電灯の光が、埃の舞う空間を一本の線で切り取る。
隣を歩く瀬名は、さっきから「寒い、充電……」と抜かして、僕の腕をがっしりと抱え込んでいる。
体温が、僕の左腕を通じて心臓まで熱を伝えてくる。
(暗闇への恐怖よりも、このバカの心音が僕に同期してくる感覚の方が、よっぽど心臓に悪い)
ふと、瀬名の足元を照らす。
仄暗さの下、瀬名の影は昨日よりもさらに輪郭がぼやけ、今にも床に溶け出しそうだった。
ブレザーのポケットから顔を覗かせているまめたが「きゅっきゅっ」と低く喉を鳴らす。
その目は、僕の恐怖を愉しんでいるかのようだ。
(そういば、鯨岡先輩に教わった、あの『術』を試すなら、今しかないのか)
僕はおもむろにポケットから、先輩に渡された一枚のメモを取り出した。
『影の侵食を止める守護の言霊。ターゲットに密着して、一字一句間違えずに唱えろ』。
「瀬名、止まれ。そこにいろ」
「え、何? 玲央、幽霊見えた!? 助けて!!」
「うるさい、いちいち騒ぐな! ……いいか、今からお前に『特別な処置』を施す。復唱などしなくていい、ただ、聞いていろ」
僕は覚悟を決め、瀬名の正面に立ち塞がった。
至近距離。
瀬名の長い睫毛、震える瞳、そしてほのかに甘い匂いが、僕の理性を掻き乱す。
僕は彼の胸元に両手を添え、メモに書かれた文字列を読み上げた。
「我が命の欠片、お前にすべてを託さん。時を越え、魂を重ね、未来永劫、僕の全てを、お前に捧げる」
沈黙。
夜の廊下で、僕の声だけが静かに反響した。
言霊の力だろうか。瀬名の足元で崩れかけていた影が、一瞬、カッと強く濃くなった気がした。
だが、それ以上に――。
「……え。……れ、玲央……?」
見上げた瀬名の顔が、爆発したように真っ赤に染まっていた。
瞳には、涙さえ浮かんでいる。
「えっと、今の、それって……。……俺のこと、一生愛してるってこと!?」
「先輩は『守護の言霊』だと言っていたが」
「いやいやいやまって、違うよ! 先週の古文の授業でやったじゃん! 『命を捧ぐ』って、最上級の求婚の意味だよ!! 玲央ぉぉぉ!! 俺も、俺もお前に一生ついていく!! 大好きだあああ!!」
ガバッ、と。
瀬名が僕を押し潰さんばかりの勢いで抱きしめてきた。
鋼鉄めいた筋肉でホールドされ、首筋に熱い顔が埋められる。
心拍数トラッカーが「ピーー!!」と、過去最高値を記録して鳴り響く。
というか、なんでお前は睡眠学習に励んでいるくせに、古文の授業の内容をしっかりと覚えているんだ!?
(あの、クソ先輩っ!! 嵌めたな!!)
恥ずかしさで、脳が沸騰しそうだ。
だが、腕の中で「生きる、生きるよ俺」と泣きながら笑う瀬名の熱を感じ、僕は突き放すことができなかった。
「さっさと課題を持って帰るぞ、バカ」
僕は真っ赤な顔のまま、瀬名の背中に、小さく手を回して、しまった。
「ええ〜、玲央、それはさすかに、過保護すぎない?」
放課後の地学準備室。
瀬名はのほほんとした顔で、べよ猫とじゃれ合っている。
だが、僕の目には見えている。
瀬名が笑うたび、その足元の影が、少しずつ、確実に形を失っているのを。
そして、瀬名の足元で人畜無害なアホ面をしたマスコットの振りをしているまめたが、僕と目が合うたびに、あざ笑うように鼻を鳴らすのを。
(科学だ。科学で解決するんだ。妖怪だの呪いだの、そんな言葉に屈してまるか。これは、未知の寄生生物による、宿主の情報の書き換え及び喪失に過ぎない……!)
僕は震える足で、地学準備室の最奥――僕ですら滅多に足を踏み入れない、古文書と未整理の岩石標本が積み上がる資料庫の扉を開けた。
「……おい。そこに、いるのは分かっている、鯨岡先輩」
埃の舞う暗闇の中、うず高く積まれた『日本民俗地質誌』の山から、ボサボサの黒髪がひょっこりと顔を出した。
「うるさいよ、高宮。せっかく、この土地の『地脈の淀み』と睡眠の相関関係について学習をしていたのに」
二年生の幽霊部員、鯨岡カイ。
この学校で唯一僕が、話が通じるかもしれない、と思っている変人だ。
「それはつまり午睡的なあれですね。暇という事がよーく判りました。あのですね、先輩すこしご意見を伺いたくて。これは、仮定の話ですが。もし、ある個体の『影』が特定の生物によって物理的に咀嚼されている場合、その個体の生命維持にどのような影響が出ると考えられますか?」
鯨岡先輩は、重たい瞼をゆっくりと上げた。
そして、僕の背後――準備室へと続く扉を、じっと見つめた。
「相変わらず、高宮は唐突だねえ。うーん『真名』かな? 名前はね、首輪なんだよ。一度つけてしまえば、飼い主の命を吸い尽くすまで、その鎖は外れない」
鯨岡先輩が、カビ臭い本を一冊、僕の胸に放り投げた。
表紙には『式神化の事略』と書かれている。
「……オカルトは嫌い? 君の大事な大事なバッテリーとやらが空っぽになる前に、その理屈を捨てないと。影が消えるのは、魂が『あっち側』に半分持っていかれた証拠だよ」
ドクン、と心臓が跳ねる。
僕は反射的に、ポケットに忍ばせている、シルバーリングを握りしめた。
準備室の方から「玲央〜! オニオンリング、べよ猫が食べたいって言ってるよー! てか、猫にたまねぎダメくない?」と、瀬名の能天気な声が聞こえる。
(魂? あっち側? そんな不確かな概念)
僕は鯨岡先輩からひったくった本を抱え、瀬名の元へと走り出した。
「今すぐそのタヌキとおもちから離れろ!! ……いや、離れるな、僕のそばにいろ!!」
「どっちだよ! あはは、玲央、今日マジで熱いね! ツンデレ!!」
抱きついてくる瀬名の温かさが、今はひどく恐ろしい。
影が消えるまで、あと、どれくらいなんだ?
「うん、青春してるのは結構だけど、君たち、肝心の『呪物』を放置してるよ」
のっそりと、資料庫の暗がりから鯨岡先輩が姿を現した。
そして、瀬名のバッグの横に転がっていたタヌキのマスコット『まめた』を、長い指でつまみ上げる。
「あー……これね。なるほど、見事な『依代』だ」
「依代……? 待ってください、ただのポリエステル製のアミューズメント景品ですよ。質量も組成も、非生物のそれです」
「高宮、君のそのガチガチの唯物論、嫌いじゃないけどね。狸ってのは、元々『化かす』のが得意な土着の精霊だ。形のない彼らに、この瀬名くんが『まめた』という固有の『真名』を与え、このぬいぐるみという『概念』を『個』として、紐づけてしまった。つまり、無自覚な『式神化』の契約を結んじゃったわけだ」
「式神……!? 非科学的の極み!」
「んでー、式神が三次元で物理的な力を振るうには、主人のエネルギーが要るから。瀬名くんの何らかが食われてるのは、このタヌキが完全な肉体を得るための、いわば等価交換って、ところかな? たぶん」
鯨岡先輩がまめたを揺らしても、マスコット状態のままだらんと手足を垂らしている。
僕がギリッと奥歯を噛み締めていると、先輩がふと、僕たちの足元の虚空を見つめて目を細めた。
「……ん? 高宮、君の足元に、微弱な『地脈の淀み』というか、何かがいるね?」
「っ、見えるんですか!? べよ猫が!」
「いやいや、ものすごーく残念だけど、僕には見えない。空間がそこだけ歪んでる気配がするだけ。いいなぁ、高宮。君、完全に『あっち側』に波長が合っちゃってるよ。羨ましいぜ。ちょっとスマホで写真撮ってみてよ」
先輩に急かされ、僕はポケットからスマートフォンを取り出し、べよ猫と、先輩が手に持つまめたに向けてシャッターを切った。
「……ほら、見てください先輩」
画面に映し出された画像。
そこには、古びた床板だけが映っており、白いおもち生物の姿は完全に透過されていた。
そして、先輩が持つまめたは、どこからどう見ても『ただのぬいぐるみ』として静止した状態で写っている。
「エセ心霊写真にすらならない。光学迷彩か何かは知りませんが、物理的な光の反射には映らない。これが現実です」
ついでに、僕はスマホを、地学準備室の隅にある、型落ちのデスクトップパソコンにケーブルを繋いだ。
「玲央? 何してんの?」
「画像解析だ。オカルトで片付けられてたまるか。もしこのタヌキが本当に『瀬名の何かのエネルギー』を咀嚼しているのなら、その周囲のピクセルデータ、あるいは光の波長に、何らかの物理的な異常値が記録されているはずだから。もっと早く気が付けば良かった!」
僕はキーボードを叩き、まめたの写真を解析ソフトへと放り込んだ。
RGBのヒストグラムを展開し、輝度と彩度の分布を数値化していく。
瀬名が「うおー、玲央ハッカーみたい! かっけー!」と無邪気に僕の背中に張り付いてくるが、無視だ。
「む、なんだ、これは」
数秒後。
画面に表示された解析結果を見て、僕の指が硬直した。
「おー、何か出たかい?」
鯨岡先輩が、ニヤニヤしながらモニターを覗き込む。
「えっと、結果としてはありえないですね。マスコットの周囲だけ、ピクセルデータが存在しません」
「どういうこと?」と瀬名が首を傾げる。
「黒色として記録されているんじゃない? データそのものが欠落しているんだ。まるで、このタヌキの周囲の空間の光だけが、ブラックホールに吸い込まれたように、プログラム上で『Error』として処理されるやつ」
科学的なツールを使えば使うほど、目の前の存在が「物理法則を無視した化け物」であることが証明されていく。
画面をのぞき込んでいた鯨岡先輩が、ダブルチェックするように、マウスをくるくると動かす。
「これが意味するところは、そうだな~。ただの物質じゃない。瀬名くんのデータを食って、この世界に上書きされようとしてる『バグ』ってところかなあ」
鯨岡先輩の間延びした声が、準備室に冷たく響いた。
僕は、パソコンのモニターと、瀬名の足元で薄れゆく影を交互に見比べながら、自分の手が微かに震え始めているのを感じていた。
「……バグならば、システムを修復するか、ウイルスそのものを駆除するしかない。先輩。何か、物理的、あるいは論理的にこの侵食を遅らせる手段に心当たりはありませんか」
屈辱だった。
偏差値トップクラスの理系であるこの僕が、日々幽霊部員として昼寝ばかりしているオカルトマニアに助けを求めているのだから。
だが、僕の背中に張り付いている瀬名の体温が、僕の理性を強制的にシャットダウンさせる。
「うーん、そうだねぇ。一番手っ取り早いのは、そのタヌキの『真名』を解除することだけど。でも、もうここまで侵食が進んじゃってると、無理やり引き剥がせば瀬名くんの魂ごと千切れるかもね」
「なんて恐ろしい事を言うんですかっ」
「いやー、だから、まずは防壁を張るんだよ。言うならば、瀬名くんの魂を、高宮の魂でコーティングしてやるのさ。はい、これ」
鯨岡先輩が白衣のポケットをごそごそと探り、クシャクシャに丸まった一枚のメモ用紙を僕に手渡した。
そこには、達筆な筆ペンで何やら古めかしい言葉が書かれている。
「なんですか、これは」
「僕の特製、守護の言霊。強力な呪術だよ。これを、ターゲットと接触して、一字一句間違えずに唱えるんだ。できれば、夜の静寂の中でね。言霊ってのは、波長が合いやすい場所で唱えるほど効果が上がるから」
僕は疑わしげにそのメモに目を落とした。
『我が命の欠片、お前にすべてを託さん』
「ただの古文の暗唱にしか見えませんが。……本当に、これで侵食が止まるんですか?」
「僕が精進潔斎して描き上げた渾身の一作だよお~。たぶん、止まる止まる。『想い』が強ければ強いほどね。実証実験兼ねてやってみてよ~。去年の定期テストの問題欲しいだろ?」
鯨岡先輩が、ニヤリ、と。
いつもなら絶対に見せないような、悪戯っ子のような、底意地の悪い笑みを浮かべた気がした。
「わかりました。今は検証可能な手段がこれしかない。瀬名、今日はもう帰るぞ」
「えっ、もう!? 玲央、もっとパソコンでカッコいいことやらないの?」
「うるさい、僕が疲れたんだ。それとお前の家に、課題プリントを忘れたから、寄ってから帰る」
「マジで!? やったー!!」
瀬名が飛び跳ねて喜び、僕の首に腕を回してくる。
僕は舌打ちをしながら、鯨岡先輩から受け取ったメモをブレザーのポケットにねじ込んだ。
(このバカの命を繋ぐためだ。どんな胡散臭い呪文だろうと、一文字の狂いもなく完璧に読み上げてやる)
それが『命懸けのプロポーズ』として瀬名に解釈されることになるとは、この時の僕は知る由もなかった。
「じゃあね、高宮。健闘を祈るよ。いろんな意味で」
背を向けて準備室を出る僕たちに、鯨岡先輩が意味深に手を振る。
僕のポケットの中で、先輩の渡したメモが、まるでこれから起こる事態を予言しているかのように、カサリと乾いた音を立てた。
★
「……いいか、瀬名。今回だけだ。次に課題を忘れたら、僕は迷わずお前の通知表に『大馬鹿』の二文字を刻み込んでやるからな」
「ごめんって玲央ぉ! 夜の学校ってなんか出そうだし、一人だと怖すぎてさ」
テストを目前に控えた夜の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように冷え切っていた。
僕達は、不法侵入および、忘れ物奪還を敢行するため、瀬名と共に暗い廊下を歩いていた。
僕が、瀬名の家に忘れたはずの課題プリントを、ちょっとした親切心から学校に持ってきていたらしい瀬名は、それそのもの存在を忘れ、教室の机の中に入れっぱなしで帰宅したという、無駄な行き来をする羽目になっている。
こんな時間に。
懐中電灯の光が、埃の舞う空間を一本の線で切り取る。
隣を歩く瀬名は、さっきから「寒い、充電……」と抜かして、僕の腕をがっしりと抱え込んでいる。
体温が、僕の左腕を通じて心臓まで熱を伝えてくる。
(暗闇への恐怖よりも、このバカの心音が僕に同期してくる感覚の方が、よっぽど心臓に悪い)
ふと、瀬名の足元を照らす。
仄暗さの下、瀬名の影は昨日よりもさらに輪郭がぼやけ、今にも床に溶け出しそうだった。
ブレザーのポケットから顔を覗かせているまめたが「きゅっきゅっ」と低く喉を鳴らす。
その目は、僕の恐怖を愉しんでいるかのようだ。
(そういば、鯨岡先輩に教わった、あの『術』を試すなら、今しかないのか)
僕はおもむろにポケットから、先輩に渡された一枚のメモを取り出した。
『影の侵食を止める守護の言霊。ターゲットに密着して、一字一句間違えずに唱えろ』。
「瀬名、止まれ。そこにいろ」
「え、何? 玲央、幽霊見えた!? 助けて!!」
「うるさい、いちいち騒ぐな! ……いいか、今からお前に『特別な処置』を施す。復唱などしなくていい、ただ、聞いていろ」
僕は覚悟を決め、瀬名の正面に立ち塞がった。
至近距離。
瀬名の長い睫毛、震える瞳、そしてほのかに甘い匂いが、僕の理性を掻き乱す。
僕は彼の胸元に両手を添え、メモに書かれた文字列を読み上げた。
「我が命の欠片、お前にすべてを託さん。時を越え、魂を重ね、未来永劫、僕の全てを、お前に捧げる」
沈黙。
夜の廊下で、僕の声だけが静かに反響した。
言霊の力だろうか。瀬名の足元で崩れかけていた影が、一瞬、カッと強く濃くなった気がした。
だが、それ以上に――。
「……え。……れ、玲央……?」
見上げた瀬名の顔が、爆発したように真っ赤に染まっていた。
瞳には、涙さえ浮かんでいる。
「えっと、今の、それって……。……俺のこと、一生愛してるってこと!?」
「先輩は『守護の言霊』だと言っていたが」
「いやいやいやまって、違うよ! 先週の古文の授業でやったじゃん! 『命を捧ぐ』って、最上級の求婚の意味だよ!! 玲央ぉぉぉ!! 俺も、俺もお前に一生ついていく!! 大好きだあああ!!」
ガバッ、と。
瀬名が僕を押し潰さんばかりの勢いで抱きしめてきた。
鋼鉄めいた筋肉でホールドされ、首筋に熱い顔が埋められる。
心拍数トラッカーが「ピーー!!」と、過去最高値を記録して鳴り響く。
というか、なんでお前は睡眠学習に励んでいるくせに、古文の授業の内容をしっかりと覚えているんだ!?
(あの、クソ先輩っ!! 嵌めたな!!)
恥ずかしさで、脳が沸騰しそうだ。
だが、腕の中で「生きる、生きるよ俺」と泣きながら笑う瀬名の熱を感じ、僕は突き放すことができなかった。
「さっさと課題を持って帰るぞ、バカ」
僕は真っ赤な顔のまま、瀬名の背中に、小さく手を回して、しまった。



