君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 週末の瀬名博士所有土蔵探索ミッションを明日に控えた、金曜日の昼休み。
 僕はいつものように、地学準備室に身を潜めていた。
 最近の瀬名は、ゾンビのような足取りで地学準備室へとやってくる。

「……はぁ、なんか今日、マジで体が重い。玲央、こっちきて」

 パイプ椅子にスライムのように崩れ落ちた瀬名が、僕のブレザーの裾を力なく引っ張る。
 西日が差さないこの時間、影の濃さは確認しづらいが、瀬名の顔色は明らかに悪かった。
 スクールバッグの横で、まめたが「僕のせいじゃないぽーん」というような顔をしてあくびをしているのが、心底腹立たしい。

「仕方ない。手だけだぞ」

 僕が隣に座り、左手を差し出すと、瀬名は縋り付くように僕の指に自分の指を絡めてきた。
 大きな手が、僕の体温を貪るように密着する。
 少しだけ瀬名の顔に赤みが戻ったのを確認し、僕は右手で、持参した『あるもの』を机の上にドンと置いた。

「……ん? なにそれ、弁当箱? しかも二つ?」

「お前の分だ。食え」

 僕が蓋を開けると、瀬名が「えっ!?」と目を丸くした。
 中に入っているのは、ほうれん草の胡麻和え、レバニラ炒め、ひじきの煮物、そして小松菜と卵の炒め物。
 彩りなどという概念は捨て去った、茶色と緑色の圧倒的暴力。
 そう、完璧に計算し尽くされた『超鉄分特化型メニュー』である。

「お、俺の分!? これ、玲央が作ってきてくれたの!? ウソ、早起きして!? エプロンとか着て!?」

「想像するな気持ち悪い!! ……いいか、お前が怪異に生気を吸われて、極度の貧血状態に陥っていると仮定するとしたら。物理的な充電だけでは根本的な解決にならない。体内からのアプローチも必須だ」

「玲央……っ! 俺のために、弁当……っ」

「勘違いするな。お前に倒れられたら、僕が迷惑するからだ」

 瀬名の瞳が、感動で潤み始めている。
 大型犬の幻の尻尾が、千切れんばかりにパタパタと振られているのが見えた気がした。

「……でも俺、今、腕に力入んなくて……箸、持てないかもぉ……」

「は?」

「あーん、して? 玲央」

 瀬名が、繋いだ僕の左手をぎゅっと握りしめながら、これ以上ないほどあざとく口を開けた。
 顔面偏差値の暴力を、こんなふうに使うんじゃない。

「ふざけるな! 自分で食え!!」

「だってぇ、充電切れたら困るし……玲央の手、離したくないもん……」

「……っ、この、アホが……!」

 僕は舌打ちをしながらも、右手で箸を持ち、ほうれん草の胡麻和えを容赦なく瀬名の口にねじ込んだ。

「んんっ! ……うまっ! 玲央、メシ作るのすげえ上手いじゃん!」

「喋るな。いいか、鉄分が足りないぞ! レバーも食え、ほうれん草をもっと食え!」

「もぐもぐ……玲央の愛の味……俺、生きててよかった……」

「だから愛じゃないと言っているだろうが! ……って、おい、離せバカ、抱きつくなッ!!」

 ほうれん草を咀嚼し終わった瀬名が、感極まって僕の腰に右手で抱きついてきた。
 左手は恋人繋ぎ、右手は腰ホールド。
 そして僕の右手には、箸。
 完全に逃げ場を失った密着状態である。

「玲央の匂いする……。うち来るの、すげえ楽しみ……」

「……っ、くそ、重い。蔵の中をがっつり確認して、絶対にその原因を突き止めてやるからな」

 僕が瀬名の頭を小突いていると、床を『べよべよ』と這い回っていた白いおもち生物が、こぼれた卵焼きを美味しそうに食べていた。
 そして、瀬名のバッグにくくりつけられたまめただけが――。
 僕が作った弁当を頬張る瀬名を、ギリッ……と、歯ぎしりしそうなほど恨めしげな瞳で睨みつけていた。



「鉄分の吸収を阻害するから、食後にすぐコーヒーを飲むのは控えろと言っただろう。それから、このほうれん草は……なんだこの萎びた個体は。もっと根元が張っているものを選べ」

「はーい、いいんちょーママ……。ねえ、このお肉も買っていい? タイムセールで半額だよ!」

 金曜日の夕暮れ。
 地元のスーパー『ハイパーフレッシュ山騨』の野菜売り場。
 僕は、栄養学の講義を垂れ流しながら通路を闊歩していた。

(なぜこの僕が、この筋肉ダルマの夕飯の買い出しに付き合わねばならないんだ。……だが、こいつの栄養バランスがこれ以上崩れれば、僕の『充電』効率にも悪影響が出る。これは……そう、投資だ。長期的なメンテナンスの一環だ)

 そう自分に言い聞かせるが、周囲の視線が痛い。
 アイドル顔長身男が、僕の肩に腕を回して「ねえねえ玲央〜、これ美味しそうじゃない?」と覗き込んでくるたびに、見知らぬ主婦たちの「あら、仲がいいわねぇ」という無言の微笑みが僕を突き刺す。

「瀬名、離れろ。カートが押しにくいだろうが。つーか誰がママだ」
「え〜、だってここ、人が多くて『充電』がすぐ切れちゃうんだもん。……あ、玲央。ついでに週明けのテスト勉強、俺一人だと絶対寝ちゃうからさ。……今日、ついでに泊まって教えてよ」

 ドクン、と。
 スーパーの能天気な店内BGMに混じって、僕の心臓が不謹慎な音を立てた。

「はぁ!? 宿泊だと!? 却下だ。お前の部屋に寝泊まりするなど、僕の衛生基準が許さない」

「掃除してあるから! 玲央が来るなら、床に顔がばっちり映るレベルまでピカピカに磨くから! お願い! まめたも大事だけど、このままだと俺、欠点取って部活停止になっちゃう……。そしたら、昼休みも放課後も、効率的に充電できなくなるんだよ?」

 卑怯な男だ。
 僕が部活動という名の生存確認を密かに優先していることを知っていて、そんな交換条件を出すなんて。
 僕はカゴの中に、栄養価の高い豚レバーのパックを叩き込んだ。

「ひ、一晩だけだぞ……お前の部屋が少しでも埃っぽければ、僕は即座に帰宅するからな」

 この所よく訪れることになっている、立派な日本家屋。
 太い梁がむき出しになった古民家で、庭には鹿威しまである。

「相変わらず威圧感の凄い家だな」

「そー、一人は気楽だけど、ちょっと広すぎるからね~さ、上がって! 充電充電〜!」

 玄関に入るなり抱きついてこようとする大型犬を足払いし、僕は持参したスーパーのビニール袋を提げて、広い土間のある台所へと直行した。
 今日ここに来た最大の目的は『瀬名博士所有の文献調査』だが、その前に、この貧血男の血肉を物理的に補う必要がある。

「レバーの生臭さが鼻につくな。牛乳での臭み取りという工程の非効率さたるや……」

 僕は瀬名の家で見つけた、なぜかフリルがついているエプロンを不本意ながら身につけ、不慣れな手つきで豚レバーの血抜き作業を行っていた。
 ボウルの中で水が濁るたびに、眉間が深く寄る。

(だが、これを食わせなければ、こいつの鉄分値は回復しない! すべては僕の充電効率維持のためだ)

 論理的思考で己の嫌悪感をねじ伏せ、包丁でレバーの筋を丁寧に削ぎ落としていた、その時だった。

「玲央のエプロン姿、新妻みたいで最高なんだけど」

「っ!?」

 背後から、長い腕に絡めとられる。
 瀬名の広い胸板が僕の背中にぴたりと張り付き、肩口に重い顎が乗せられた。
 首筋に、吐息が直接かかった。

「……ば、……っ、離せ! 危ないだろうが!」

「え〜? 俺、今すげえ幸せ。毎日玲央がこうやって俺の家でご飯作ってくれたらいいのに」

「バカなことを言うな! お前の心臓の位置に刃先が向いたらどうするんだ!!」

 僕は包丁を持ったまま完全にフリーズして叫んだ。
 顔面が沸騰しそうに熱い。
 耳の裏まで真っ赤になっている自覚がある。
 後ろから抱きしめられるこの体勢は、あの北校舎で、対べよ猫戦で守られた時と同じだ。
 だが、あの時とは密着のベクトルが明らかに違った。
 甘ったるくて、逃げ場のない。

 無駄な、色気を、出すなあっ!

「……あ、でもなんか、本当に元気出てきたかも。玲央の匂い、すげえ落ち着く……」

 瀬名の声が、少しだけ低く、掠れた音を帯びる。
 床に置かれたスクールバッグから、まめたがジッとこちらを睨みつけているのを感じながら、僕は手元の包丁を力任せにまな板に突き立てた。

「おら、充電完了だ。さっさと離れろ! 炒め物の油がはねるぞ!」

「はーい。じゃあ俺、お皿並べて待ってる!」



 レバニラ炒め定食を瀬名に無理やり完食させた後。
 僕たちは母屋から渡り廊下で繋がった、漆喰塗りの土蔵へと足を踏み入れていた。

「……ひどい埃だ。換気機能はどうなっているんだ」

「ごめんごめん。俺も、ここは普段滅多に入らないからさ。じいちゃんの妖怪コレクション、奥の木箱に入ってるはずだよ」

 咳き込みながら懐中電灯で照らした蔵の奥には、夥しい数の和装本や巻物が、無造作に、しかしある種の規則性を持って積み上げられていた。

「これは……『百鬼夜行絵巻』の写本か? こっちは江戸時代の奇談集」

 オカルトなど非科学的だ、と頭では否定しているのに。
 古い紙の匂いと、整然と並んだ文献の山を前にすると、探究心と収集癖が疼き始めてしまった。

「おい瀬名、こっちの箱を開けろ。手分けして『何等かを、喰う』記述を探すぞ」
「え〜、俺そんなへなへな文字読めないし。玲央、なんか楽しそうだね」

 僕は無視して、古い妖怪事典のページを繰った。
 足元では、べよ猫が、埃をまきちらしながら「べよべよ」と這い回っている。

「……あったぞ。こいつに関する記述だ。『すねこすり』やはり岡山県に伝わる妖怪の一種だな。雨の降る夜、夜道を歩く人間の股をくぐり抜け、歩きにくくさせる……」

「へえー。じゃあ、命をおびやかす系の悪さはしないんだね」

「情報の絶対量が少なすぎる。実害がないから、誰も真面目に研究しなかったのだろう」

 僕はページをめくり、もう一つの厄介な怪異の項目を探した。

「反対に……『狸』に関する記述は多すぎるな。人を化かす、幻をみせる、金玉を八畳敷きに広げる……無駄な情報ばかりだ。……おっ、これは」

 僕は、分厚い和綴じの本に挟まれていた、一枚の古い覚書に目を止めた。
 そこには、瀬名の祖父の字と思われる走り書きが残されていた。

『四国・松山より、かの刑部狸の眷属の一部が、何らかの理由で信州の山奥へと封じられたとの伝承あり。その毛並みは茶に黒を交え、人に憑き、己の力を取り戻すために【■■】を喰らうという——』

「……肝心なところが、虫食いで読めないな」

 僕が顔をしかめた時だった。
 蔵の入り口に置きっぱなしにしていた瀬名のバッグから、ポトン、と。
 まめたが床に落ちる音が響いた。

「……まめた?」

 瀬名のバッグから転げ落ちたタヌキのぬいぐるみは、床に転がったまま動かない。
 だが、懐中電灯の光がそのビーズの瞳を掠めた瞬間、確かに光が跳ねた気がした。

「……おい、瀬名。今、こいつ……」

「あはは、まーた玲央の考えすぎだって。ほら、まめたも蔵の空気にびっくりしちゃったんだよ。……じいちゃん、早く退院してこれ片付けてくんねーかなぁ」

 瀬名がいつもの調子でヘラヘラと笑い、まめたを拾い上げようと腰を屈める。
 その背中越しに、僕は彼がふと漏らした言葉の重さに足を止めた。

 両親を事故で亡くし、この広い屋敷に自分を迎え入れてくれた祖父までもが、今は病室のベッドの上。
 この古色蒼然とした家を維持し、たった一人で主の帰りを待ち続ける高校生。
 そんな彼に、僕は「お前の生気が喰われてるかもしれない」などという、さらなる孤独を助長させるような言葉を突きつけている。

(……だが、現実から目を背ければ、こいつは本当に『一人』になってしまう)

「お前、じいさんが戻るまで、ずっとここで一人で……」

「え? まあね。でも慣れっこだし。玲央がこうして来てくれるだけで、この家がすげえ明るくなった気がするよ」

 瀬名がまめたをバッグに押し込み、僕を振り返る。
 蔵の入り口から差し込む、夕暮れ時の細い、死に際のような赤い光。
 それが瀬名の顔を半分だけ赤く染め、背後の漆喰の壁に、彼の長い影を映し出した。

「……っ」

 僕は、息を呑んだ。
 懐中電灯を持つ手が、目に見えて震え始める。

「……玲央? どうしたの、そんな怖い顔して。やっぱり埃で気分悪く――」

「動くな!!」

 僕の鋭い声に、瀬名がビクリと肩を揺らして硬直する。

「……え、なに、マジで怖いんだけど……」

「……瀬名、落ち着いて聞け。……お前の、後ろだ」

 僕は震える手で、懐中電灯の光を壁に這わせた。
 瀬名の背後の壁。

 そこにあるはずの「影」が、異常だった。
 頭から肩にかけての輪郭は、辛うじて残っている。
 だが、腰から下――。
 あの逞しい太ももや、僕が気持ち悪いと罵ったバキバキのふくらはぎがあるはずの部分の影が、まるで水で薄めた絵具のように、不自然に透けて消えかかっていた。

「……あ……、……れ……?」

 瀬名が自分の手を、壁の影にかざす。
 指先の影は、もう壁には映っていない。
 光は瀬名の身体を透過し、そのまま漆喰の白を照らしている。

「……透けてる……? 俺の、足……」

「離れろ! そのバッグから離れろ、瀬名!!」

 僕が叫び、瀬名の腕を掴んで引き寄せようとした、その時。

 ガクン、と。

 瀬名の膝が、糸の切れた人形のように折れた。

「……っ、……あ、……れ……。……力、が……」

「瀬名!!」

 倒れ込む巨体を、僕は必死で支えた。
 重い。
 物理的な体重はあるのに、腕の中に感じる瀬名の生命力が、砂時計の砂のようにサラサラとこぼれ落ちていくのがわかる。

 蔵の隅で、バッグから這い出したまめたが「きゅるるん」と愛らしく鳴いた。
 その口元が、どす黒い影の色に汚れているのを、僕は見逃さなかった。

「……玲央……ごめん……俺、……ちょっと、眠い……」
「寝るなバカ! ……っ、この、呪物だかなんだかしらないけど! 化け物め!!」

 僕は足の筋肉が重すぎて死ぬかと思ったが瀬名をなんとか背負い、埃の舞う蔵から這い出すようにして母屋へと駆け込んだ。