学園祭――それは、非効率的な熱狂と無駄なエネルギー消費の祭典だ。
僕、は、地学準備室の隅で、ピンセットを片手に、それと対峙していた。
「お前は未確認の粘菌、あるいは特殊な菌糸体の集合体だ。だから、これはあくまで実験動物への栄養供給であって、決して『餌付け』ではない。理解したか?」
目の前には、先日北校舎から僕たちについてきてしまった例の白い塊。
ただの綿飴のようになった『べよべよ鳴く猫みたいな形の生き物』が、つぶらな瞳で僕を見上げている。
――べよ、べよ。
「妙な声で鳴くな。だが、個体維持のためのタンパク質が不足しているのは事実だからな」
僕は周囲を警戒しながら、カバンに隠し持ってきた「一缶五〇〇円の高級猫缶」を、滅菌済みのシャーレに開けた。
おもちのような物体が、嬉しそうにべよべよと震えながら食らいつく。
(よし、食べている。ふん、粘菌にしては、なかなかの咀嚼能力じゃないか。不覚にも、少しだけ、可愛いと思ってしまった自分を恥じろ、高宮玲央)
「あー! 玲央、それ高級なやつじゃん! 俺に内緒でいいもん食わせてるー! 部長にバレたら怒られるぞ! 学校でペットを飼うなって」
「っ……!? 瀬名、お前いつからそこに!!」
背後から響いたアホの声に、僕は飛び上がった。
振り返ると、そこには――僕の思考回路を瞬時にショートさせる異形が立っていた。
「どうした。何が起こった。その格好は」
「え? 学祭の女装コンのリハーサル。華椿女子高の制服借りてきたんだよね。どう? 似合う?」
そこにいたのは、清楚な紺色のセーラー服を纏った、威圧的な美だった。
瀬名伊織の、アイドル級の顔立ちは、ウィッグを被るまでもなく中性的な輝きを放っている。
長い睫毛に、スッと通った鼻筋。
瞳は灰色混じりの紺に見える黒。
黙って、伏し目がちにして、五十メートルくらい離れたところから見れば、どこかの深窓の令嬢に見えなくもない。
だが。
問題は、その首から下だ。
「お前、自分の肩幅を考えろ。セーラー服の肩が、悲鳴を上げているぞ」
「え〜、やっぱちょっと見た目的にもキツいのバレてる? 腕動かすとパツパツなんだよね。破れそう」
瀬名が「よいしょ」と椅子に足をかけた。
短いスカートの裾が捲り上がり、そこから剥き出しになったのは――。
毎日自転車で鍛え上げられられたであろう、下腿三頭筋と、硬質な大腿四頭筋。
僕は、絶句した。
顔はあんなに、姫味に溢れているのに、足は紛れもなく「戦士」のそれだ。
浮き出た血管。
岩のように硬そうな筋肉の隆起。
理系男子を自称する者として、人体標本や解剖図は抵抗が無いはずなのに、目の前にある、生々しい肉体の質量に、本能的な恐怖――いや、得体の知れない圧迫感を感じて、呼吸が浅くなる。
「近寄るな、瀬名。その、無駄にごつい足を見せるな。気持ち悪い」
「ひどっ!! これ、玲央のために頑張って仕上げた筋肉といっても過言ないんだよ!? いざって時、お姫様抱っこして逃げなきゃいけないんだから!」
瀬名が、長い足を伸ばして僕のパーソナルスペースに踏み込んでくる。
セーラー服の裾を翻しながら。
その体温と、筋肉の放つ威圧感が、狭い準備室を満たしていく。
「待て、どちらかというと、支えているのは僕だろうがっ!」
「あはは~、そうだった~。ちょっと充電させて。リハーサルで緊張して倒れたら困るし」
「緊張ってお前、そういうキャラじゃないだろっ」
瀬名が、悪戯っぽく笑って僕の首筋に手を伸ばした。
大きな、骨張った男の手。
スカート姿という悪夢みたいな格好のはずなのに、僕はその腕に捕まったら最後、二度と逃げられないような錯覚に陥っていた。
足元では、べよべよ猫とまめたが、楽しそうにじゃれ合っている。
僕の小指の黒曜石が、瀬名の接近を知らせるように、トクン、と熱を帯びた。
(不合理だ。……こんな、……バカな男に、僕は……)
窓の外から聞こえる、吹奏楽部の音の外れがちな練習音。
学園祭の浮ついた空気の中で、僕たちの距離は、確実に近づいている。
★
そして迎えた学園祭当日。
校内は興奮と、騒音と、揚げ物の油っこい匂いに満ちていた。
僕は、地学準備室に併設された展示コーナーで、淡々と当番をこなしている。
「あーん、ここにもいないね。伊織くん、どこ行っちゃったんだろー」
「女装コンテストの予選終わってから見てないよね。絶対捕まえて写真撮りたいのに!」
展示されている岩石標本には目もくれず、近隣女子高の生徒たちが騒がしく通り過ぎていく。
本日、何度目か分からない「瀬名伊織」の名前。
(どいつもこいつも、あのアホの顔面にばかり惑わされやがって。あいつのどこにそんな価値があるというんだ)
胸の奥が、重油を流し込まれたようにモヤモヤとする。
これは、展示のクオリティに対する焦燥だろうか。
それとも、騒音によるストレスか。
論理的な答えが出せないまま、僕は不機嫌に鉱石図鑑をめくった。
「っ……あっちぃー!! 死ぬ、マジで死ぬ!!」
唐突に準備室の裏扉が開き、セーラー服姿の戦士が飛び込んできた。
「瀬名。お前、まだその格好をしていたのか」
「玲央ぉ! 助けて、女子たちの囲みが凄すぎて逃げてきた! もう全身汗だく、パツパツで限界!」
瀬名は僕の抗議も聞かず、バサバサとスカートを振って熱を逃がしている。
セーラー服の襟元からは、汗をかいて色気を帯びた鎖骨が覗き、たくましい腕が窮屈そうに袖を押し広げている。
「早く着替えろ。不潔だ。汗が床に落ちるだろうが」
「ちょっと待って、今脱ぐから! あーでも、スカートってマジで涼しくて最高だわ。玲央も一回履いてみなよ、人生観変わるから! 俺、目覚めそう。家で着るように一着もらっちゃったよ」
「……はあ!? 何を馬鹿なことを――」
「ほら、これ貰ったやつ! 未使用タグ付き! ほらほら脱いで!」
瀬名が無理やり、僕にチェック柄のスカートを押し付けてくる。
「やめろ、瀬名! 僕はそんなもの履かない! 離せ、この筋肉ダルマ!!」
「いいじゃん、一瞬だけ! ほら、足通して――」
もみ合いになった、その瞬間。
僕の足元に、まめたとべよべよ猫がじゃれ合いながら滑り込んできた。
「あっ――」
もつれた足が、空を切る。
咄嗟に僕の腕を掴もうとした瀬名も、衣装の窮屈さにバランスを崩した。
――ドサッ!!!
床に敷かれた古いカーペットの上に、重なり合うようにして僕たちは倒れ込んだ。
「……っ、……う……」
衝撃に備えて目を閉じていた僕が、ゆっくりと瞼を開ける。
目の前にあったのは、瀬名の――いや、絶世の美少女の皮を被ったの雄の顔だった。
僕を押し倒す格好で、瀬名の両腕が僕の頭の横についている。
石鹸の匂いと、瀬名自身の体温。
そして、スカートの裾から伸びる、汗ばんだ逞しい太ももが僕の足に触れている。
「……わりぃ。……大丈夫? 玲央。俺、重いでしょ」
至近距離で囁かれる、低くて甘い声。
瀬名の瞳が、僕の唇をじっと見つめている。
(なんだ。なんだ、この熱は。こいつ、今、どんな顔で僕は……)
心臓が、耳元で鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされる。
強烈な何かが、僕のうちに湧き上がる正体不明の焦燥を、熱く燃え上がらせていた。
「なにするんだあああーーっ!!!」
僕は叫び声を上げると、瀬名の胸を全力で突き飛ばし、準備室から転がるように走り出した。
「あ、おい! 玲央!? 待てよ!!」
瀬名の呼ぶ声を背中に受けながら、僕は無人の廊下を全力で駆け抜ける。
誰もいない階段の踊り場で立ち止まり、激しく上下する肩を抑えた。
「……はぁ、……はぁ、……っ」
頬が火が出るほど熱い。
瀬名に触れられた場所が、まだジリジリと痺れている。
(充電、のせいか? いや、さっきの熱量は、今までの感覚とは明らかに違った。僕の、心臓が、おかしい。これじゃ、まるでお前を、……)
僕は自分の胸を強く押さえ、ずるずると壁に背を預けて座り込んだ。
喧騒の向こうで聞こえる、誰かの笑い声。
初めて自覚した、自分でも信じたくない違和感。
それは、どんな怪異よりも、僕の平穏な日常を脅かす恐ろしい予感だった。
激しく打つ鼓動をなだめようと、深呼吸した瞬間。
「あ! さっきの人、見つけた!!」
さっき展示コーナーを抜けていった、華椿女子高の制服を着た二人組が僕を指差して走ってきた。
「あの、伊織くんのお友達の方ですよね? 伊織くんに、これ……渡してもらえませんか!? 私たち、もう帰らなきゃいけなくて……でも、どうしてもこれだけは!!」
差し出されたのは、パステルピンクの可愛らしい封筒。
今時、ラブレターか?
一瞬、手が凍りついた。
(なぜ、この僕が、あのアホへの『好意の結晶』を仲介しなければならないんだ)
受け取った指先が、不思議と冷たくなる。
封筒に書かれた「瀬名伊織様」の文字が、鋭い棘になって僕の眼球を刺す。
「分かった。預かっておく」
「わぁ、ありがとうございます!」
彼女たちが去った後、僕はそのピンクの封筒を握りしめた。
ぐにゃり、と紙が歪む。
(なにもかもが不快だ。自分の心臓の音すら制御できない無能な僕が、他人の恋路を助けている暇などないはずなのに。なぜ、こんなに胸が、締め付けられるように痛むんだ)
クラスの方に顔を出して、後片付けを手伝っていると、後夜祭の準備が、グラウンドで進められているのが、見えた。
「おい瀬名。これ、女子生徒からだ。お前に、と言って預かった」
既に、着替えを終えていた瀬名に、僕はその封筒を叩きつけるように差し出した。
「え、これ何? あ、手紙か。いいんちょお、ありがと」
「礼を言うな。それより、お前が彼女たちに連絡先を教えないから、僕がこんなパシリのような真似をさせられるんだ」
勢いで言ってしまった言葉に、瀬名が「あ」と口を開けた。
「そういやそうだった。いいんちょおをパシリにするなんて! じゃあさ、とりあえず俺たちのLINE、交換しとこうよ。緊急連絡用として!」
差し出されたスマートフォンの画面。
(緊急連絡用なら、仕方ない。こいつが倒れた時の『充電要請』に備えるのは、クラス委員長として、同じ部活に属する者としての義務だからな)
そして、僕たちは、初めてお互いのIDを交換した。
僕の端末に、瀬名の屈託のない笑顔のアイコンが並ぶ。
その瞬間、ピンクの封筒への忌々しさが、ほんの少しだけ、滲んで薄くなっていった。
僕、は、地学準備室の隅で、ピンセットを片手に、それと対峙していた。
「お前は未確認の粘菌、あるいは特殊な菌糸体の集合体だ。だから、これはあくまで実験動物への栄養供給であって、決して『餌付け』ではない。理解したか?」
目の前には、先日北校舎から僕たちについてきてしまった例の白い塊。
ただの綿飴のようになった『べよべよ鳴く猫みたいな形の生き物』が、つぶらな瞳で僕を見上げている。
――べよ、べよ。
「妙な声で鳴くな。だが、個体維持のためのタンパク質が不足しているのは事実だからな」
僕は周囲を警戒しながら、カバンに隠し持ってきた「一缶五〇〇円の高級猫缶」を、滅菌済みのシャーレに開けた。
おもちのような物体が、嬉しそうにべよべよと震えながら食らいつく。
(よし、食べている。ふん、粘菌にしては、なかなかの咀嚼能力じゃないか。不覚にも、少しだけ、可愛いと思ってしまった自分を恥じろ、高宮玲央)
「あー! 玲央、それ高級なやつじゃん! 俺に内緒でいいもん食わせてるー! 部長にバレたら怒られるぞ! 学校でペットを飼うなって」
「っ……!? 瀬名、お前いつからそこに!!」
背後から響いたアホの声に、僕は飛び上がった。
振り返ると、そこには――僕の思考回路を瞬時にショートさせる異形が立っていた。
「どうした。何が起こった。その格好は」
「え? 学祭の女装コンのリハーサル。華椿女子高の制服借りてきたんだよね。どう? 似合う?」
そこにいたのは、清楚な紺色のセーラー服を纏った、威圧的な美だった。
瀬名伊織の、アイドル級の顔立ちは、ウィッグを被るまでもなく中性的な輝きを放っている。
長い睫毛に、スッと通った鼻筋。
瞳は灰色混じりの紺に見える黒。
黙って、伏し目がちにして、五十メートルくらい離れたところから見れば、どこかの深窓の令嬢に見えなくもない。
だが。
問題は、その首から下だ。
「お前、自分の肩幅を考えろ。セーラー服の肩が、悲鳴を上げているぞ」
「え〜、やっぱちょっと見た目的にもキツいのバレてる? 腕動かすとパツパツなんだよね。破れそう」
瀬名が「よいしょ」と椅子に足をかけた。
短いスカートの裾が捲り上がり、そこから剥き出しになったのは――。
毎日自転車で鍛え上げられられたであろう、下腿三頭筋と、硬質な大腿四頭筋。
僕は、絶句した。
顔はあんなに、姫味に溢れているのに、足は紛れもなく「戦士」のそれだ。
浮き出た血管。
岩のように硬そうな筋肉の隆起。
理系男子を自称する者として、人体標本や解剖図は抵抗が無いはずなのに、目の前にある、生々しい肉体の質量に、本能的な恐怖――いや、得体の知れない圧迫感を感じて、呼吸が浅くなる。
「近寄るな、瀬名。その、無駄にごつい足を見せるな。気持ち悪い」
「ひどっ!! これ、玲央のために頑張って仕上げた筋肉といっても過言ないんだよ!? いざって時、お姫様抱っこして逃げなきゃいけないんだから!」
瀬名が、長い足を伸ばして僕のパーソナルスペースに踏み込んでくる。
セーラー服の裾を翻しながら。
その体温と、筋肉の放つ威圧感が、狭い準備室を満たしていく。
「待て、どちらかというと、支えているのは僕だろうがっ!」
「あはは~、そうだった~。ちょっと充電させて。リハーサルで緊張して倒れたら困るし」
「緊張ってお前、そういうキャラじゃないだろっ」
瀬名が、悪戯っぽく笑って僕の首筋に手を伸ばした。
大きな、骨張った男の手。
スカート姿という悪夢みたいな格好のはずなのに、僕はその腕に捕まったら最後、二度と逃げられないような錯覚に陥っていた。
足元では、べよべよ猫とまめたが、楽しそうにじゃれ合っている。
僕の小指の黒曜石が、瀬名の接近を知らせるように、トクン、と熱を帯びた。
(不合理だ。……こんな、……バカな男に、僕は……)
窓の外から聞こえる、吹奏楽部の音の外れがちな練習音。
学園祭の浮ついた空気の中で、僕たちの距離は、確実に近づいている。
★
そして迎えた学園祭当日。
校内は興奮と、騒音と、揚げ物の油っこい匂いに満ちていた。
僕は、地学準備室に併設された展示コーナーで、淡々と当番をこなしている。
「あーん、ここにもいないね。伊織くん、どこ行っちゃったんだろー」
「女装コンテストの予選終わってから見てないよね。絶対捕まえて写真撮りたいのに!」
展示されている岩石標本には目もくれず、近隣女子高の生徒たちが騒がしく通り過ぎていく。
本日、何度目か分からない「瀬名伊織」の名前。
(どいつもこいつも、あのアホの顔面にばかり惑わされやがって。あいつのどこにそんな価値があるというんだ)
胸の奥が、重油を流し込まれたようにモヤモヤとする。
これは、展示のクオリティに対する焦燥だろうか。
それとも、騒音によるストレスか。
論理的な答えが出せないまま、僕は不機嫌に鉱石図鑑をめくった。
「っ……あっちぃー!! 死ぬ、マジで死ぬ!!」
唐突に準備室の裏扉が開き、セーラー服姿の戦士が飛び込んできた。
「瀬名。お前、まだその格好をしていたのか」
「玲央ぉ! 助けて、女子たちの囲みが凄すぎて逃げてきた! もう全身汗だく、パツパツで限界!」
瀬名は僕の抗議も聞かず、バサバサとスカートを振って熱を逃がしている。
セーラー服の襟元からは、汗をかいて色気を帯びた鎖骨が覗き、たくましい腕が窮屈そうに袖を押し広げている。
「早く着替えろ。不潔だ。汗が床に落ちるだろうが」
「ちょっと待って、今脱ぐから! あーでも、スカートってマジで涼しくて最高だわ。玲央も一回履いてみなよ、人生観変わるから! 俺、目覚めそう。家で着るように一着もらっちゃったよ」
「……はあ!? 何を馬鹿なことを――」
「ほら、これ貰ったやつ! 未使用タグ付き! ほらほら脱いで!」
瀬名が無理やり、僕にチェック柄のスカートを押し付けてくる。
「やめろ、瀬名! 僕はそんなもの履かない! 離せ、この筋肉ダルマ!!」
「いいじゃん、一瞬だけ! ほら、足通して――」
もみ合いになった、その瞬間。
僕の足元に、まめたとべよべよ猫がじゃれ合いながら滑り込んできた。
「あっ――」
もつれた足が、空を切る。
咄嗟に僕の腕を掴もうとした瀬名も、衣装の窮屈さにバランスを崩した。
――ドサッ!!!
床に敷かれた古いカーペットの上に、重なり合うようにして僕たちは倒れ込んだ。
「……っ、……う……」
衝撃に備えて目を閉じていた僕が、ゆっくりと瞼を開ける。
目の前にあったのは、瀬名の――いや、絶世の美少女の皮を被ったの雄の顔だった。
僕を押し倒す格好で、瀬名の両腕が僕の頭の横についている。
石鹸の匂いと、瀬名自身の体温。
そして、スカートの裾から伸びる、汗ばんだ逞しい太ももが僕の足に触れている。
「……わりぃ。……大丈夫? 玲央。俺、重いでしょ」
至近距離で囁かれる、低くて甘い声。
瀬名の瞳が、僕の唇をじっと見つめている。
(なんだ。なんだ、この熱は。こいつ、今、どんな顔で僕は……)
心臓が、耳元で鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされる。
強烈な何かが、僕のうちに湧き上がる正体不明の焦燥を、熱く燃え上がらせていた。
「なにするんだあああーーっ!!!」
僕は叫び声を上げると、瀬名の胸を全力で突き飛ばし、準備室から転がるように走り出した。
「あ、おい! 玲央!? 待てよ!!」
瀬名の呼ぶ声を背中に受けながら、僕は無人の廊下を全力で駆け抜ける。
誰もいない階段の踊り場で立ち止まり、激しく上下する肩を抑えた。
「……はぁ、……はぁ、……っ」
頬が火が出るほど熱い。
瀬名に触れられた場所が、まだジリジリと痺れている。
(充電、のせいか? いや、さっきの熱量は、今までの感覚とは明らかに違った。僕の、心臓が、おかしい。これじゃ、まるでお前を、……)
僕は自分の胸を強く押さえ、ずるずると壁に背を預けて座り込んだ。
喧騒の向こうで聞こえる、誰かの笑い声。
初めて自覚した、自分でも信じたくない違和感。
それは、どんな怪異よりも、僕の平穏な日常を脅かす恐ろしい予感だった。
激しく打つ鼓動をなだめようと、深呼吸した瞬間。
「あ! さっきの人、見つけた!!」
さっき展示コーナーを抜けていった、華椿女子高の制服を着た二人組が僕を指差して走ってきた。
「あの、伊織くんのお友達の方ですよね? 伊織くんに、これ……渡してもらえませんか!? 私たち、もう帰らなきゃいけなくて……でも、どうしてもこれだけは!!」
差し出されたのは、パステルピンクの可愛らしい封筒。
今時、ラブレターか?
一瞬、手が凍りついた。
(なぜ、この僕が、あのアホへの『好意の結晶』を仲介しなければならないんだ)
受け取った指先が、不思議と冷たくなる。
封筒に書かれた「瀬名伊織様」の文字が、鋭い棘になって僕の眼球を刺す。
「分かった。預かっておく」
「わぁ、ありがとうございます!」
彼女たちが去った後、僕はそのピンクの封筒を握りしめた。
ぐにゃり、と紙が歪む。
(なにもかもが不快だ。自分の心臓の音すら制御できない無能な僕が、他人の恋路を助けている暇などないはずなのに。なぜ、こんなに胸が、締め付けられるように痛むんだ)
クラスの方に顔を出して、後片付けを手伝っていると、後夜祭の準備が、グラウンドで進められているのが、見えた。
「おい瀬名。これ、女子生徒からだ。お前に、と言って預かった」
既に、着替えを終えていた瀬名に、僕はその封筒を叩きつけるように差し出した。
「え、これ何? あ、手紙か。いいんちょお、ありがと」
「礼を言うな。それより、お前が彼女たちに連絡先を教えないから、僕がこんなパシリのような真似をさせられるんだ」
勢いで言ってしまった言葉に、瀬名が「あ」と口を開けた。
「そういやそうだった。いいんちょおをパシリにするなんて! じゃあさ、とりあえず俺たちのLINE、交換しとこうよ。緊急連絡用として!」
差し出されたスマートフォンの画面。
(緊急連絡用なら、仕方ない。こいつが倒れた時の『充電要請』に備えるのは、クラス委員長として、同じ部活に属する者としての義務だからな)
そして、僕たちは、初めてお互いのIDを交換した。
僕の端末に、瀬名の屈託のない笑顔のアイコンが並ぶ。
その瞬間、ピンクの封筒への忌々しさが、ほんの少しだけ、滲んで薄くなっていった。



