「いいか、瀬名。これはあくまで特別監視措置だからな。旅行でもなければ、ましてや新婚旅行などというふざけた行事ではない」
「わかってるってー! でも、バスの隣の席でずっと手繋いでるの、なんか修学旅行みたいで超楽しい! 玲央の手も匂いも、すげえ落ち着く」
七月下旬。
僕たちは今、長野県の蓼科高原へと向かう貸切バスの、最後列に座っていた。
周囲には、英単語帳を握りしめて呪詛を吐く三年生の受験生たちが、ひしめき合っている。
本来、一二年生は希望者のみの参加であるこの『地獄のサマースクール』。
だが、今の瀬名を僕の目の届かない場所に放置すれば、数日でこの世から完全に消滅してしまうとい懸念がある。
ゆえに、僕は瀬名の赤点回避のための徹底指導という名目で教師を言いくるめ、強引にこの合宿への参加をもぎ取ったのだ。
僕は、通路側に置かれた瀬名のスクールバッグを睨みつけた。
まめたは、長野の山奥に近づくにつれて、明らかに活気づいている。
ぬいぐるみ特有の無機質な顔の奥底で、下劣な嘲笑を浮かべているのが手に取るようにわかった。
「気分は悪くないか」
「んーん、大丈夫。玲央がずっと触っててくれるから、俺、今すっげー元気だよ」
瀬名が僕の肩にコテンと頭を乗せ、繋いだ指先にさらに力を込めてくる。
夏場のバスの中、男同士で密着しているなど不潔極まりない。
まめたの不吉な予言以降、どうやら、僕が身に付けているシルバーリングとチョーカーが共鳴し、僕の生気を媒介に、瀬名の命を繋ぎ止めている。
『たべつくしたいぽん』
『でも、パパうえにもおすそわけしたいぽん。お家に帰りたいぽん』
僕は、まめたの言った言葉を咀嚼する。
つまりは『パパうえ』なる存在に、瀬名の命を『おすそわけしたい』から、今のところ、瀬名を食うのを一時休止している。
「寝てろ。到着までまだ二時間はかかる」
「はーい」
瀬名が嬉しそうに目を閉じ、静かな寝息を立て始めた。
僕は周囲の先輩たちから「高宮と瀬名、なんか最近距離感おかしくね?」というヒソヒソ話が聞こえてくるのを、強靭な精神力で完全にシャットアウトした。
★
「……というわけで、一部屋四人ずつの相部屋だ! 部屋割りはそこに貼り出しておくから、各自荷物を置いて十五分後に大広間に集合しろ!」
鬱蒼とした白樺の森に囲まれた、古く巨大な木造の研修所。
引率の教師の声が響く中、僕は貼り出された部屋割りの紙の前で、ある種の『工作』を完了させた後の達成感を噛み締めていた。
「うおー! 玲央、俺たち同じ部屋でしかも角部屋!」
「偶然だな。僕の論理的な計算が、確率の神に味方した結果だ」
(嘘だ。教師のパソコンのデータをハッキングいや、合法的に閲覧し、僕と瀬名が同室になるよう、あらかじめエクセルを書き換えておいた。すべては効率的な充電管理のためだ)
割り当てられた『二〇四号室』の扉を開ける。
そこは、古びた洋室だった。
四人部屋とはいえ、左右には二段別途が備え付けられており、窓際には学習用のデスクが置かれてある。
足の踏み場がない狭さ。
ドアを開けようとすると、後ろから声を掛けられる。
「おっ、向かいは、高宮と瀬名か! よろしくなー!」
「俺たち、夜通し赤本解くから、お前ら、差し入れ持って来てくれてもいいんだぞ」
地学研究会の元部長と副部長だ。
彼らの目の下には、六月の時よりもさらに深く、どす黒いクマが刻まれている。
(この受験ノイローゼの先輩たちと同室じゃなくて良かった……夜間の『合法的充電』のハードルが異常に跳ね上がるからな)
「ねえねえ玲央」
僕が頭を抱えていると、瀬名が背後からこっそりと僕の制服の裾を引っ張った。
振り返ると、瀬名が耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく囁いてくる。
「二段ベッド、カーテン閉められるから、充電し放題。一緒寝よ」
「……っ、ば、バカ! 声がデカい!!」
「あはは、顔真っ赤。俺、声出さないように我慢するから」
「我慢ってなんだ我慢って! 誤解を招くような言い方をするな!!」
顔面が沸騰する。
足元では、長野の空気を吸ってどうやらハイになったまめたとべよ猫が、我が物顔で這い回っていた。
こうして、命と影と、そして僕の貞操観念を懸けた、地獄のサマースクールが幕を開けたのだった。
★
消灯時間を一時間ほど過ぎた、深夜零時。
僕たちは、二〇四号室を、音もなく抜け出した。
いびきと赤本をめくる音が交差する廊下を、進む。
「いいか、絶対に足音を立てるな。この建物の床は、経年劣化でどこが軋むか予測不能だ」
「わかってるって、玲央。でも暗いから手貸して」
「充電のためだからな」
ひんやりとした板張りの廊下を、靴下越しの足先で探るように進む。
瀬名の大きな手が僕の左手をすっぽりと包み込み、そこから流れ込んでくる熱だけが、この不気味な暗闇の中での唯一の道標だった。
目的は、屋上。
やはり同室の目を搔い潜りながら、十分な充電の時間を確保するのは難しい。
それに、窓辺で万歳するような体勢で森の方を見ていたまめたが、どう動くか、監視しやすい開けた場所が必要だった。
木造の階段に足をかけた、その時だ。
――カツ、……カツ。
「……っ!」
廊下の奥から、懐中電灯の細い光の束と、規則正しいスリッパの足音が近づいてくるのが見えた。
見回りの教師だ。
この時間の徘徊が見つかれば、連帯責任でサマースクールのカリキュラムに地獄のペナルティが追加される。
「やばっ、玲央、せんせー来た——」
「しっ! 声を出すな!!」
僕は瀬名の腕を力任せに引き寄せると、階段の踊り場にある、防火扉のくぼみの暗がりへと身を滑り込ませた。
ドンッ、と。
狭いスペースに長身の瀬名を押し込む形になり、僕の背中が冷たい鉄の扉にぶつかる。
瀬名の顔が、僕の目の前数十センチの距離に迫った。
「……っ」
瀬名が何かを言いかけたため、僕は咄嗟に空いている右手で、彼の口を乱暴に塞いだ。
暗闇の中、至近距離で二人の視線が絡み合う。
瀬名の硬い胸板が僕の額に押し付けられる。
逃げ場のない、完全な密着状態。
(……近い。……近すぎる……っ!)
教師の足音が、階段の下までやってきて立ち止まる。
懐中電灯の光が、すぐ足元の段板を舐めるように照らし出した。
息を止める。
静寂の中で、僕の手のひらに瀬名の熱い唇が触れているのが、嫌というほど生々しく伝わってくる。
瀬名の心臓が、僕の胸を直接叩くように、ドク、ドク、と恐ろしい速さで脈打っていた。
(なんだ、この動悸は。見回りの教師への恐怖か? いや、違う)
暗闇に慣れてきた目で、瀬名の顔を見上げる。
僕の手で口を塞がれた瀬名は、怯えるどころか、その長い睫毛を震わせ、濡れた黒曜石のような瞳で僕をじっと見つめ返していた。
こいつ、喜んでいる。
僕に壁際まで追い詰められ、抱きしめられるような体勢で拘束されているこの状況に。
首元のシルバーチョーカーが、瀬名の体温の上昇に呼応して、チリチリと焼け焦げそうなほどの熱を持ち始めた。
教師が「気のせいか……」と呟き、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。
光が見えなくなり、再び完全な暗闇が戻ってきても、瀬名は僕の腰に回した腕を解こうとしなかった。
「……ぷはっ。玲央」
僕が塞いでいた手をどかすと、瀬名が甘ったるい、熱を帯びた息を吐き出した。
「死ぬかと思った。玲央から壁ドンされて、口塞がれて。俺、ちょっとー、いやかなりー、変な気分」
言いながら、体勢が入れ替えられる。
今度は僕が、暗がりへと追い詰められる
「おい、ふざけるな」
僕は真っ赤になっているであろう顔を誤魔化すように、瀬名の胸をドンと押し返そうとした。
が、びくともしない!
「さ、さっさと上に行くぞ。屋上への扉が開いているかは不明だが」
「俺は、別にここでもいいけどー。狭くて、身動き取れないね、玲央」
瀬名が僕の手を再びギュッと握り直し、少し上に持ち上げた後、意味深に笑う。
僕の腕が、完全に壁へと押し付けられた。
「おい! 待て! 早まるな!」
「んー、待てなーい」
瀬名が、そっと身を屈める。
僕に目線を合わせ、ゆっくりと――。
暗闇に慣れた網膜に、瀬名の熱く潤んだ瞳が、獲物を狙う猛獣のような光を宿して映り込んだ。
(落ち着け、高宮玲央。これは、これは、単なる『充電』のオーバーフローだ。瀬名が長野の地脈に中てられ、出力の制御が効かなくなっているだけで——)
脳内で必死に言い訳を叩き出すが、手首を掴む瀬名の指先から伝わる圧倒的な熱が、それをいともたやすく焼き切っていく。
僕の首元のシルバーチョーカーが、キイン、と喜ぶような高音で鳴る。
「玲央。さっき、俺の口、塞いだよね?」
「それは、あの瞬間の最適な判断というものだ」
「ふーん? 手のひら越しだったけど。あーいうのはさ、やっぱり直接がいいんじゃないの」
瀬名の顔が、さらに近づく。
鼻先が触れ合うほどの距離。
彼のシルバーのような、清潔で、けれどどこか野生的な匂いが鼻腔を突き、僕の心臓がまたもや不規則に刻み始める。
「ふ、ふざけるな! 合宿所の廊下だぞ。また誰か来たら」
「来ないよ。それに、玲央が俺を『管理』するんだろ? だったら、最後まで責任とらないと」
瀬名の吐息が、僕の唇をかすめる。
逃げようにも、壁と瀬名の巨体の間に挟まれ、身動き一つ取れない。
覚悟を決めて目を閉じようとした、その時だった。
――ガサガサッ!!
瀬名の胸元が、激しく蠢いた。
「きゅるるるる! うまいぽん! 愛のえねるぎー、最高にでりしゃすだぽん!」
瀬名の来ているパーカーの首元からまめたが首だけを出し、ビーズの瞳をギラつかせて歓喜の声を上げる。
足元で這っていたはずのべよ猫も、瀬名の太もも辺りにかじりつくようにして、ふるふるしている。
「…………ッ!!」
僕の頭に、北極の氷山が直撃したような冷徹さが戻ってきた。
「この化けタヌキめ!」
瀬名がきょとんとした顔で、首から顔を覗かせているまめたを摘まみ上げる。
「あはは! まめた、空気読めよなー! てか、本当に話すんだ。すげーどういう仕組み?」
瀬名が噴き出し、ようやく僕の手首を解放した。
僕は弾かれたように瀬名から距離を取り、乱れた制服の襟をこれでもかと正す。
「知らん、まめたに聞け! 充電完了だ。死ぬ気で階段を駆け上がれ」
「えー、いいところだったのに! 玲央、耳まで真っ赤だよ? 可愛い」
「うるさい! 光学的錯覚だ!!」
★
逃げるように辿り着いた屋上は、宇宙に放り出されたかのような静寂に包まれていた。
見上げれば、降り注ぐような満天の星。
だが、その美しさを堪能する間もなく、瀬名は僕の背後に回り、上着ごと背中から抱きしめた。
「……ぶるっ、え、急に、寒い……」
瀬名の身体が、微かに震える。
踊り場での熱気はどこへやら。
標高千メートルを超えるこの場所の夜風は、七月とは思えないほど鋭く冷たい。
まめたに食われ、極度の生気不足に陥っている今の瀬名には、自力で体温を維持する機能すら欠落し始めているのだ。
「だから言っただろうが。はしゃぐから無駄なエネルギーを消費する」
瀬名が、僕を後ろから抱きかかえるようにして「あはは、あったかい」と顔を肩辺りに埋める。
星明かりの下、僕たちは一つの塊のように身を寄せ合っていた。
静かだった。
風の音と、瀬名の規則正しい呼吸だけが世界を満たしている。
このまま、朝までこうして……。
僕が、己の不合理な感情に身を委ねようとした、その瞬間だった。
――…………
森の奥の方向から、重厚な、空気を物理的に押し潰すような『音のない地鳴り』が響いてきた。
まめたが、森の方角に向かって、両手を上げ、ピタリと動きを止める。
「わあい、パパうえ、笑ってるぽん」
森の闇が、ゆっくりとこちらを見ている。
全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出す。
湿った腐葉土と、むせ返るような強烈な獣の臭いが、風に乗って屋上まで届く。
圧倒的な闇の質量を前に、黒曜石と青金石が、警告するように焼け焦げそうな熱を発していた。
★
屋上から這うようにして逃げ帰り、二〇四号室の重いドアを音もなく開ける。
部屋の中は、廊下よりもさらに濃い静寂と、知らない誰かの規則正しい寝息に満たされていた。
「……っ」
僕は入り口で足を止め、暗闇に目を凝らす。
二段ベッドが二台並ぶ狭い室内。
僕たちの向かいのベッドの下段では、名前も知らない二年生が、布団を頭から被って深く眠りについていた。
もう一人の同室者は病欠で不在。
つまり、今この部屋で僕たちを監視し得るのは、この「眠っている赤の他人」ただ一人だ。
「………寒い……あつい……」
瀬名が僕の肩に縋り付き、震える声で零す。
屋上で浴びた『パパうえ』なる正体不明の存在からのプレッシャーが、瀬名の微かな残滓を削り取ったのだろう。
彼の指先は、氷のように冷たくなっていた。
「いいか、絶対に声を出すなよ」
僕は自分の下段の布団を捲り、瀬名を先に押し込んだ。
続いて僕も滑り込み、遮光性の低い、薄っぺらなカーテンを細心の注意を払って閉める。
畳一畳にも満たない、心もとない空間。
外からは、隣のベッドの住人が寝返りを打つ「ギィ……」という床板の軋みと、遠くで風が唸る音だけが聞こえてくる。
「まままま、まて、瀬名、寄りすぎだ! お前具合悪いんだろうが!」
「玲央の匂いと、暗いのと」
瀬名は抗議を無視して、圧倒的な体躯を持ってして、僕を押し倒している。
利き腕を縫い留められ、思わず顔を横に向けると、瀬名は喉の奥で笑った。
極限の密着に呼応して、暗闇の中でシルバーリングとチョーカー青白く発光している。
ドクン、ドクン、と。
僕の心臓が、瀬名の胸板を直接叩く。
瀬名は僕の鎖骨に鼻先を埋め、深く、渇望するように、呼吸している。
柔らかな前髪が、僕の頬を上下に撫で付けるたび、背中辺りに正体不明の感覚が這い上がる。
「玲央。怖いの?」
鎖骨に埋まっていた瀬名の顔が、ゆっくりと持ち上がった。
「なにが、だ」
薄暗闇の中でも、その双眸がひどく濡れて、飢えた獣のような熱を帯びているのがわかった。
僕の身体は、まるで金縛りにあったかのように、動かない。
目を、反らせない。
「大人しく、充電していれば、いずれ……」
瀬名が、また喉の奥でくくくと笑う。
「え、足りないでしょ。こんなんじゃ」
氷のように冷たい瀬名の指先が、僕の顎をそっとすくい上げた。
逃げる場所などこの狭いベッドのどこにもない。
「……っ、やめ、……」
抗議の声を紡ごうと開いた唇を、瀬名の熱い息が塞いだ。
――んっ、……。
最初は、触れるだけの、恐る恐る確かめるような口付けだった。
だが、僕の唇から微かな生気を吸い上げた瞬間、瀬名の理性が完全に弾け飛んだのがわかった。
「……んんっ、……っ、せな……っ」
強引に唇がこじ開けられ、深く、貪るように舌が侵入してくる。
唾液が絡み合う、生々しい水音。
隣のベッドの二年生が起きないかという絶望的な恐怖と、瀬名の圧倒的な支配力に、僕の脳髄が真っ白にショートしていく。
だめだ。
不衛生の極みだ。
なけなしの理性が警鐘を鳴らし、僕は空いている左手で瀬名の肩を押し返そうとした。
だが、瀬名はその僕の左手をいとも簡単に掴み取ると、自分の首元——冷たく熱いシルバーチョーカーの横へと乱暴に押し当てた。
『――玲央の全部は、俺のもの』
言葉にはならない、けれどあまりにも重く、巨大な感情が、口付けと銀の輪を通して僕の奥底に流れ込んでくる。
「……はぁっ」
瀬名の冷たかった頬に、急速に熱が戻っていくのがわかる。
僕からすべてを奪い尽くすかのような、執拗で、溺愛に満ちたキス。
息継ぎの隙間すら与えられず、僕はただ、はじめてうける感覚に身を委ねるしかなかった。
隣のベッドの住人が寝返りを打つ音すら、もう僕の耳には、水の中から聞くように遠くぼやけはじめる。
その時だった。
――カサッ。
「……っ!?」
カーテンが、小さく揺れた。
まめたがカーテンの隙間から、期待に満ちた瞳で僕たちを覗き込んでいる。
「愛しみが、さいこうちょうだぽん。ふたりの結合、最高のうまみだぽん」
呪いのような言葉を耳にしたであろう瀬名が、僕を貪りながら、薄く笑うのが分かった。
「……ん、……ぁ……」
「俺たちの愛が、まめたにとっても、良いんだって。ほら、すげえ喜んでる」
くつくつと笑いながら瀬名が、一層深く僕の口内に侵入してくる。
他人の気配、怪異の嘲笑、そして、壊れそうなほど甘い瀬名の吐息。
長い夜が明けるまで、あと、何時間あるのだろうか。
「わかってるってー! でも、バスの隣の席でずっと手繋いでるの、なんか修学旅行みたいで超楽しい! 玲央の手も匂いも、すげえ落ち着く」
七月下旬。
僕たちは今、長野県の蓼科高原へと向かう貸切バスの、最後列に座っていた。
周囲には、英単語帳を握りしめて呪詛を吐く三年生の受験生たちが、ひしめき合っている。
本来、一二年生は希望者のみの参加であるこの『地獄のサマースクール』。
だが、今の瀬名を僕の目の届かない場所に放置すれば、数日でこの世から完全に消滅してしまうとい懸念がある。
ゆえに、僕は瀬名の赤点回避のための徹底指導という名目で教師を言いくるめ、強引にこの合宿への参加をもぎ取ったのだ。
僕は、通路側に置かれた瀬名のスクールバッグを睨みつけた。
まめたは、長野の山奥に近づくにつれて、明らかに活気づいている。
ぬいぐるみ特有の無機質な顔の奥底で、下劣な嘲笑を浮かべているのが手に取るようにわかった。
「気分は悪くないか」
「んーん、大丈夫。玲央がずっと触っててくれるから、俺、今すっげー元気だよ」
瀬名が僕の肩にコテンと頭を乗せ、繋いだ指先にさらに力を込めてくる。
夏場のバスの中、男同士で密着しているなど不潔極まりない。
まめたの不吉な予言以降、どうやら、僕が身に付けているシルバーリングとチョーカーが共鳴し、僕の生気を媒介に、瀬名の命を繋ぎ止めている。
『たべつくしたいぽん』
『でも、パパうえにもおすそわけしたいぽん。お家に帰りたいぽん』
僕は、まめたの言った言葉を咀嚼する。
つまりは『パパうえ』なる存在に、瀬名の命を『おすそわけしたい』から、今のところ、瀬名を食うのを一時休止している。
「寝てろ。到着までまだ二時間はかかる」
「はーい」
瀬名が嬉しそうに目を閉じ、静かな寝息を立て始めた。
僕は周囲の先輩たちから「高宮と瀬名、なんか最近距離感おかしくね?」というヒソヒソ話が聞こえてくるのを、強靭な精神力で完全にシャットアウトした。
★
「……というわけで、一部屋四人ずつの相部屋だ! 部屋割りはそこに貼り出しておくから、各自荷物を置いて十五分後に大広間に集合しろ!」
鬱蒼とした白樺の森に囲まれた、古く巨大な木造の研修所。
引率の教師の声が響く中、僕は貼り出された部屋割りの紙の前で、ある種の『工作』を完了させた後の達成感を噛み締めていた。
「うおー! 玲央、俺たち同じ部屋でしかも角部屋!」
「偶然だな。僕の論理的な計算が、確率の神に味方した結果だ」
(嘘だ。教師のパソコンのデータをハッキングいや、合法的に閲覧し、僕と瀬名が同室になるよう、あらかじめエクセルを書き換えておいた。すべては効率的な充電管理のためだ)
割り当てられた『二〇四号室』の扉を開ける。
そこは、古びた洋室だった。
四人部屋とはいえ、左右には二段別途が備え付けられており、窓際には学習用のデスクが置かれてある。
足の踏み場がない狭さ。
ドアを開けようとすると、後ろから声を掛けられる。
「おっ、向かいは、高宮と瀬名か! よろしくなー!」
「俺たち、夜通し赤本解くから、お前ら、差し入れ持って来てくれてもいいんだぞ」
地学研究会の元部長と副部長だ。
彼らの目の下には、六月の時よりもさらに深く、どす黒いクマが刻まれている。
(この受験ノイローゼの先輩たちと同室じゃなくて良かった……夜間の『合法的充電』のハードルが異常に跳ね上がるからな)
「ねえねえ玲央」
僕が頭を抱えていると、瀬名が背後からこっそりと僕の制服の裾を引っ張った。
振り返ると、瀬名が耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく囁いてくる。
「二段ベッド、カーテン閉められるから、充電し放題。一緒寝よ」
「……っ、ば、バカ! 声がデカい!!」
「あはは、顔真っ赤。俺、声出さないように我慢するから」
「我慢ってなんだ我慢って! 誤解を招くような言い方をするな!!」
顔面が沸騰する。
足元では、長野の空気を吸ってどうやらハイになったまめたとべよ猫が、我が物顔で這い回っていた。
こうして、命と影と、そして僕の貞操観念を懸けた、地獄のサマースクールが幕を開けたのだった。
★
消灯時間を一時間ほど過ぎた、深夜零時。
僕たちは、二〇四号室を、音もなく抜け出した。
いびきと赤本をめくる音が交差する廊下を、進む。
「いいか、絶対に足音を立てるな。この建物の床は、経年劣化でどこが軋むか予測不能だ」
「わかってるって、玲央。でも暗いから手貸して」
「充電のためだからな」
ひんやりとした板張りの廊下を、靴下越しの足先で探るように進む。
瀬名の大きな手が僕の左手をすっぽりと包み込み、そこから流れ込んでくる熱だけが、この不気味な暗闇の中での唯一の道標だった。
目的は、屋上。
やはり同室の目を搔い潜りながら、十分な充電の時間を確保するのは難しい。
それに、窓辺で万歳するような体勢で森の方を見ていたまめたが、どう動くか、監視しやすい開けた場所が必要だった。
木造の階段に足をかけた、その時だ。
――カツ、……カツ。
「……っ!」
廊下の奥から、懐中電灯の細い光の束と、規則正しいスリッパの足音が近づいてくるのが見えた。
見回りの教師だ。
この時間の徘徊が見つかれば、連帯責任でサマースクールのカリキュラムに地獄のペナルティが追加される。
「やばっ、玲央、せんせー来た——」
「しっ! 声を出すな!!」
僕は瀬名の腕を力任せに引き寄せると、階段の踊り場にある、防火扉のくぼみの暗がりへと身を滑り込ませた。
ドンッ、と。
狭いスペースに長身の瀬名を押し込む形になり、僕の背中が冷たい鉄の扉にぶつかる。
瀬名の顔が、僕の目の前数十センチの距離に迫った。
「……っ」
瀬名が何かを言いかけたため、僕は咄嗟に空いている右手で、彼の口を乱暴に塞いだ。
暗闇の中、至近距離で二人の視線が絡み合う。
瀬名の硬い胸板が僕の額に押し付けられる。
逃げ場のない、完全な密着状態。
(……近い。……近すぎる……っ!)
教師の足音が、階段の下までやってきて立ち止まる。
懐中電灯の光が、すぐ足元の段板を舐めるように照らし出した。
息を止める。
静寂の中で、僕の手のひらに瀬名の熱い唇が触れているのが、嫌というほど生々しく伝わってくる。
瀬名の心臓が、僕の胸を直接叩くように、ドク、ドク、と恐ろしい速さで脈打っていた。
(なんだ、この動悸は。見回りの教師への恐怖か? いや、違う)
暗闇に慣れてきた目で、瀬名の顔を見上げる。
僕の手で口を塞がれた瀬名は、怯えるどころか、その長い睫毛を震わせ、濡れた黒曜石のような瞳で僕をじっと見つめ返していた。
こいつ、喜んでいる。
僕に壁際まで追い詰められ、抱きしめられるような体勢で拘束されているこの状況に。
首元のシルバーチョーカーが、瀬名の体温の上昇に呼応して、チリチリと焼け焦げそうなほどの熱を持ち始めた。
教師が「気のせいか……」と呟き、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。
光が見えなくなり、再び完全な暗闇が戻ってきても、瀬名は僕の腰に回した腕を解こうとしなかった。
「……ぷはっ。玲央」
僕が塞いでいた手をどかすと、瀬名が甘ったるい、熱を帯びた息を吐き出した。
「死ぬかと思った。玲央から壁ドンされて、口塞がれて。俺、ちょっとー、いやかなりー、変な気分」
言いながら、体勢が入れ替えられる。
今度は僕が、暗がりへと追い詰められる
「おい、ふざけるな」
僕は真っ赤になっているであろう顔を誤魔化すように、瀬名の胸をドンと押し返そうとした。
が、びくともしない!
「さ、さっさと上に行くぞ。屋上への扉が開いているかは不明だが」
「俺は、別にここでもいいけどー。狭くて、身動き取れないね、玲央」
瀬名が僕の手を再びギュッと握り直し、少し上に持ち上げた後、意味深に笑う。
僕の腕が、完全に壁へと押し付けられた。
「おい! 待て! 早まるな!」
「んー、待てなーい」
瀬名が、そっと身を屈める。
僕に目線を合わせ、ゆっくりと――。
暗闇に慣れた網膜に、瀬名の熱く潤んだ瞳が、獲物を狙う猛獣のような光を宿して映り込んだ。
(落ち着け、高宮玲央。これは、これは、単なる『充電』のオーバーフローだ。瀬名が長野の地脈に中てられ、出力の制御が効かなくなっているだけで——)
脳内で必死に言い訳を叩き出すが、手首を掴む瀬名の指先から伝わる圧倒的な熱が、それをいともたやすく焼き切っていく。
僕の首元のシルバーチョーカーが、キイン、と喜ぶような高音で鳴る。
「玲央。さっき、俺の口、塞いだよね?」
「それは、あの瞬間の最適な判断というものだ」
「ふーん? 手のひら越しだったけど。あーいうのはさ、やっぱり直接がいいんじゃないの」
瀬名の顔が、さらに近づく。
鼻先が触れ合うほどの距離。
彼のシルバーのような、清潔で、けれどどこか野生的な匂いが鼻腔を突き、僕の心臓がまたもや不規則に刻み始める。
「ふ、ふざけるな! 合宿所の廊下だぞ。また誰か来たら」
「来ないよ。それに、玲央が俺を『管理』するんだろ? だったら、最後まで責任とらないと」
瀬名の吐息が、僕の唇をかすめる。
逃げようにも、壁と瀬名の巨体の間に挟まれ、身動き一つ取れない。
覚悟を決めて目を閉じようとした、その時だった。
――ガサガサッ!!
瀬名の胸元が、激しく蠢いた。
「きゅるるるる! うまいぽん! 愛のえねるぎー、最高にでりしゃすだぽん!」
瀬名の来ているパーカーの首元からまめたが首だけを出し、ビーズの瞳をギラつかせて歓喜の声を上げる。
足元で這っていたはずのべよ猫も、瀬名の太もも辺りにかじりつくようにして、ふるふるしている。
「…………ッ!!」
僕の頭に、北極の氷山が直撃したような冷徹さが戻ってきた。
「この化けタヌキめ!」
瀬名がきょとんとした顔で、首から顔を覗かせているまめたを摘まみ上げる。
「あはは! まめた、空気読めよなー! てか、本当に話すんだ。すげーどういう仕組み?」
瀬名が噴き出し、ようやく僕の手首を解放した。
僕は弾かれたように瀬名から距離を取り、乱れた制服の襟をこれでもかと正す。
「知らん、まめたに聞け! 充電完了だ。死ぬ気で階段を駆け上がれ」
「えー、いいところだったのに! 玲央、耳まで真っ赤だよ? 可愛い」
「うるさい! 光学的錯覚だ!!」
★
逃げるように辿り着いた屋上は、宇宙に放り出されたかのような静寂に包まれていた。
見上げれば、降り注ぐような満天の星。
だが、その美しさを堪能する間もなく、瀬名は僕の背後に回り、上着ごと背中から抱きしめた。
「……ぶるっ、え、急に、寒い……」
瀬名の身体が、微かに震える。
踊り場での熱気はどこへやら。
標高千メートルを超えるこの場所の夜風は、七月とは思えないほど鋭く冷たい。
まめたに食われ、極度の生気不足に陥っている今の瀬名には、自力で体温を維持する機能すら欠落し始めているのだ。
「だから言っただろうが。はしゃぐから無駄なエネルギーを消費する」
瀬名が、僕を後ろから抱きかかえるようにして「あはは、あったかい」と顔を肩辺りに埋める。
星明かりの下、僕たちは一つの塊のように身を寄せ合っていた。
静かだった。
風の音と、瀬名の規則正しい呼吸だけが世界を満たしている。
このまま、朝までこうして……。
僕が、己の不合理な感情に身を委ねようとした、その瞬間だった。
――…………
森の奥の方向から、重厚な、空気を物理的に押し潰すような『音のない地鳴り』が響いてきた。
まめたが、森の方角に向かって、両手を上げ、ピタリと動きを止める。
「わあい、パパうえ、笑ってるぽん」
森の闇が、ゆっくりとこちらを見ている。
全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出す。
湿った腐葉土と、むせ返るような強烈な獣の臭いが、風に乗って屋上まで届く。
圧倒的な闇の質量を前に、黒曜石と青金石が、警告するように焼け焦げそうな熱を発していた。
★
屋上から這うようにして逃げ帰り、二〇四号室の重いドアを音もなく開ける。
部屋の中は、廊下よりもさらに濃い静寂と、知らない誰かの規則正しい寝息に満たされていた。
「……っ」
僕は入り口で足を止め、暗闇に目を凝らす。
二段ベッドが二台並ぶ狭い室内。
僕たちの向かいのベッドの下段では、名前も知らない二年生が、布団を頭から被って深く眠りについていた。
もう一人の同室者は病欠で不在。
つまり、今この部屋で僕たちを監視し得るのは、この「眠っている赤の他人」ただ一人だ。
「………寒い……あつい……」
瀬名が僕の肩に縋り付き、震える声で零す。
屋上で浴びた『パパうえ』なる正体不明の存在からのプレッシャーが、瀬名の微かな残滓を削り取ったのだろう。
彼の指先は、氷のように冷たくなっていた。
「いいか、絶対に声を出すなよ」
僕は自分の下段の布団を捲り、瀬名を先に押し込んだ。
続いて僕も滑り込み、遮光性の低い、薄っぺらなカーテンを細心の注意を払って閉める。
畳一畳にも満たない、心もとない空間。
外からは、隣のベッドの住人が寝返りを打つ「ギィ……」という床板の軋みと、遠くで風が唸る音だけが聞こえてくる。
「まままま、まて、瀬名、寄りすぎだ! お前具合悪いんだろうが!」
「玲央の匂いと、暗いのと」
瀬名は抗議を無視して、圧倒的な体躯を持ってして、僕を押し倒している。
利き腕を縫い留められ、思わず顔を横に向けると、瀬名は喉の奥で笑った。
極限の密着に呼応して、暗闇の中でシルバーリングとチョーカー青白く発光している。
ドクン、ドクン、と。
僕の心臓が、瀬名の胸板を直接叩く。
瀬名は僕の鎖骨に鼻先を埋め、深く、渇望するように、呼吸している。
柔らかな前髪が、僕の頬を上下に撫で付けるたび、背中辺りに正体不明の感覚が這い上がる。
「玲央。怖いの?」
鎖骨に埋まっていた瀬名の顔が、ゆっくりと持ち上がった。
「なにが、だ」
薄暗闇の中でも、その双眸がひどく濡れて、飢えた獣のような熱を帯びているのがわかった。
僕の身体は、まるで金縛りにあったかのように、動かない。
目を、反らせない。
「大人しく、充電していれば、いずれ……」
瀬名が、また喉の奥でくくくと笑う。
「え、足りないでしょ。こんなんじゃ」
氷のように冷たい瀬名の指先が、僕の顎をそっとすくい上げた。
逃げる場所などこの狭いベッドのどこにもない。
「……っ、やめ、……」
抗議の声を紡ごうと開いた唇を、瀬名の熱い息が塞いだ。
――んっ、……。
最初は、触れるだけの、恐る恐る確かめるような口付けだった。
だが、僕の唇から微かな生気を吸い上げた瞬間、瀬名の理性が完全に弾け飛んだのがわかった。
「……んんっ、……っ、せな……っ」
強引に唇がこじ開けられ、深く、貪るように舌が侵入してくる。
唾液が絡み合う、生々しい水音。
隣のベッドの二年生が起きないかという絶望的な恐怖と、瀬名の圧倒的な支配力に、僕の脳髄が真っ白にショートしていく。
だめだ。
不衛生の極みだ。
なけなしの理性が警鐘を鳴らし、僕は空いている左手で瀬名の肩を押し返そうとした。
だが、瀬名はその僕の左手をいとも簡単に掴み取ると、自分の首元——冷たく熱いシルバーチョーカーの横へと乱暴に押し当てた。
『――玲央の全部は、俺のもの』
言葉にはならない、けれどあまりにも重く、巨大な感情が、口付けと銀の輪を通して僕の奥底に流れ込んでくる。
「……はぁっ」
瀬名の冷たかった頬に、急速に熱が戻っていくのがわかる。
僕からすべてを奪い尽くすかのような、執拗で、溺愛に満ちたキス。
息継ぎの隙間すら与えられず、僕はただ、はじめてうける感覚に身を委ねるしかなかった。
隣のベッドの住人が寝返りを打つ音すら、もう僕の耳には、水の中から聞くように遠くぼやけはじめる。
その時だった。
――カサッ。
「……っ!?」
カーテンが、小さく揺れた。
まめたがカーテンの隙間から、期待に満ちた瞳で僕たちを覗き込んでいる。
「愛しみが、さいこうちょうだぽん。ふたりの結合、最高のうまみだぽん」
呪いのような言葉を耳にしたであろう瀬名が、僕を貪りながら、薄く笑うのが分かった。
「……ん、……ぁ……」
「俺たちの愛が、まめたにとっても、良いんだって。ほら、すげえ喜んでる」
くつくつと笑いながら瀬名が、一層深く僕の口内に侵入してくる。
他人の気配、怪異の嘲笑、そして、壊れそうなほど甘い瀬名の吐息。
長い夜が明けるまで、あと、何時間あるのだろうか。



