君の影が溶ける前に。〜理系委員長と呪われた大型犬の、不合理な延命プロトコル〜

 高校一年生の一学期。
 五月の連休が明け、そろそろクラスの人間関係がカーストという名の固定資産へと変わり始める時期。

 僕、高宮玲央(たかみや れお)は、退屈の極みである現代文の授業中、ノートに几帳面な字を走らせながら、本日何度目か分からないため息を噛み殺していた。

(……なぜ、僕がこんな場所にいるんだ)

 何度反芻しても、答えは一つしかない。
 第一志望の県立トップ校に落ちたから」だ。
 数学のケアレスミス一つで、僕の完璧な人生設計は狂った。
 本来なら今頃、偏差値七十超えの秀才たちと高度な議論を戦わせているはずだったのに。
 現実はどうだ。

 右を見れば、居眠りをしてよだれを垂らす間抜け面。
 左を見れば、教科書の裏にスマホを隠してSNSを眺める間延びした顔。

 この学び舎には、知性のかけらもない。
 偏差値という名の重力が、僕の精神をじわじわと摩耗させていく。

(……特に、目の前のこれだ。これが一番の不条理の塊だ)

「せ」と「た」。
 つまり、サ行とタ行。

 出席番号順の残酷な巡り合わせで、僕の視界には常に、男の茶色いクセっ毛が入り込む。
 瀬名伊織(せな いおり)
 顔立ちだけはアイドル級に整っているが、中身は驚くほどのアホだ。
 休み時間になれば筋肉がなまるとか何とか言って懸垂を始め、授業中はこうして死んだように爆睡している。
 脳に送られるべき栄養が、すべて筋肉に吸い取られているに違いない。

 そんな瀬名の、机の横にかかったスクールバッグ。
 そこには、手のひらサイズのぬいぐるみが、ボールチェーンでぶら下がっていた。
 丸っこいフォルムに、短い手足。
 そして、不釣り合いなほど立派な尻尾。

(……タヌキ、だろうか。なぜあんな幼稚園児が好むようなマスコットを、アイドル顔の男が嬉々として持ち歩いているんだ。理解に苦しむ)

 そのマスコットを、見ていると妙な気分になる。
 時折、僕がノートを取る手を休めた瞬間、視界の端でそのぬいぐるみが揺れている気がするのだ。
 風もないのに。
 そして、そのつぶらな瞳……。
 プラスチックのパーツのはずなのに、妙に鈍い光を放ち、僕を観察しているような……。

(……いや、疲れているんだ。滑り止めの高校に通うストレスが、僕の視神経を狂わせているに違いない)

 そう自分に言い聞かせ、視線を黒板に戻そうとした、その時だった。

 ――モゾリ。

(……え?)

 バッグの縁に引っかかっていたはずのマスコットが、短い手足でバッグをよじ登り始めた。
 ぬいぐるみらしい、どこかぎこちない、けれど確実な意志を感じさせる動き。
 椅子の背に移動して、瀬名の背中……ブレザーの繊維を器用に掴んで這い上がっていく。
 瀬名本人は爆睡中で、自分の背中をマスコットが登山していることなど微塵も気づいていない。

(……ゼンマイ式? 最近のAI搭載型ロボットか? いや、それにしては動きが滑らかすぎる……というか、あれ、足裏に肉球がないか!?)

 僕の脳内論理回路が、火花を散らす。
 マスコットは瀬名の逞しい肩を越え、無防備な首筋へと到達した。
 瀬名の首筋は、美しかった。
 地元の女装コンテストで優勝したという噂も納得の、透き通るような白さ。
 だが、そこに乗っている茶色の毛玉は、あまりにも奇妙で、そして――どこか、歪に見えた。

 マスコットが瀬名の右耳。
 光る小さなピアスがついた耳たぶに、ふにふにとした口元を寄せた。

 そして、ぱく。

 噛み付いた、というよりは、吸い付いたという表現の方がが正しいかもしれない。
 タヌキっぽいマスコットは、両手で大切そうに瀬名の耳を抱え込み、頬を膨らませて、ちうちうちう、と何かを美味しそうに啜り始めた。

「ん……、」

 寝ていた瀬名が、微かに肩を揺らした。
 苦しそう、というよりは、極度の疲労に襲われたような、重苦しい溜息を吐く。
 それと対照的に、マスコットの毛並み?はどんどんツヤを増し、その尻尾が犬のように、満足げにパタパタと揺れた。

(あれは何だ。最新のバイオテクノロジーか? それとも、僕がついに発狂したのか?)

 僕の常識が、メキメキと音を立てて崩れていく。
 しばらくして、マスコットだかロボットだか分からない物体は、満足したのか、瀬名の耳を離すと、チラリとこちらを振り返った。
 そして、黒いビーズの瞳を細め、僕に向かって「えへへないしょだよ」と言わんばかりに、短い前足を口元に当てて小首をかしげた。

(…………。あざとい。……いや、そうじゃない!)

 キーンコーン、カーンコーン。

 終礼を告げるチャイムが、静まり返った僕の脳内に爆音で響く。
 周りの連中が騒がしく立ち上がる中、瀬名もまた、ゆっくりと頭を上げた。
 タヌキ型マスコットは彼が完全に起き上がる一瞬前、何事もなかったかのようにバッグの定位置へ滑り降り、ただの動かないぬいぐるみに戻る。

「……ふわぁぁ、よく寝た。……あれ、高宮? 何そんな怖い顔して俺のこと見てんの? 恋しちゃった?」

 瀬名がヘラヘラと笑いながら振り返った。
 その顔は、授業前よりも明らかに青ざめている。
 幽霊のように青白い顔を構成する、黄金律の配置。
 そのギャップが、僕の胸をざわつかせる。

「……瀬名、お前。そのバッグのぬいぐるみ、捨てろ」

「えー!? ひどいよ高宮! こんなに可愛いのに。ほら、見てよこのモフモフ感」

 瀬名がマスコットを僕の顔の前に突き出してくる。
 至近距離で見ると、やはりただのぬいぐるみなのだが。

 僕が睨みつけると、タヌキはほんの一瞬、僕にだけ見える角度で「べー」と舌を出した……気がした。

「……っ、不潔だ! 僕に近づけるな!」

「あはは、照れんなって。……おわっ、と……」

 笑っていた瀬名の体が、急にぐらりと傾いた。
 一メートル八十センチを超える、鍛え上げられたその大きな体が、支えを失った巨木のように僕の方へ倒れ込んでくる。

「おい、瀬名!?  ……重いっ! 」

 反射的に、僕は椅子から立ち上がり、彼の両肩を掴んだ。
 その瞬間、制服越しに伝わってきたのは、瀬名の異常な体温の低さと――そして、僕の体に触れた瞬間、彼が漏らした震えるような吐息だった。

「……あ、……れ。高宮に、触ったら……なんか、あったかい……」

 瀬名が、僕の胸元に頭を預けてくる。
 耳元で囁かれる低い声。
 筋肉質な体の重み。
 不快だ。顔が近い。バカが移る。
 なのに。
 
 僕の手を握りしめる瀬名の指先が、僕の体温を吸い取ってなのか、少しずつ赤みを取り戻していくのを見て、僕は突き放すことができなかった。

 バッグの横で、マスコットが「計画通り♡」とでも言うように、尻尾をくるんと丸めた。

(……僕の、完璧な人生設計が。この、あざといタヌキと、バカなチャラ男の手によって、めちゃくちゃにされていく……!)

 夕暮れの、喧騒に満ちた教室。
 僕の心臓が、不確かな焦燥によって、不気味なほど大きく、早鐘を打っていた。