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短い一秒だけのキス。それだけなのに、何時間も続いているような錯覚。自分のすべてがそこに集中してしまう。微かに届く、花と蜜が混じるような匂い。頬に触れた髪から香っている。
唇が離れる。遠ざかる顔を上の空で眺める。
放心している間に悠李はじゃあね、と告げて教室に帰って行った。心臓がバクバクとして治らない。左の胸ポケットをぎゅっと掴み、治れ、治れと呟くが、一向に収まる気配はない。
キス、された。
変に意識してしまい唇に触れる。飲みかけのサイダーを一気に飲み干し、近くの水道で頭から水をかぶる。夏の暑さで暖められた水は、普段よりも温いはずだが、自分の体温の高まりもあって普段と何も変わらなかった。
「意味わかんな……」
濡れた髪の毛を日差しで乾かしつつ、空を眺めているとブブ、と携帯が振動した。ポケットから取り出すと、画面には悠李からのメッセージが来ていた。
『星がついた黒い紙袋なら、商店街の入り口から四件目ぐらいに店舗を構えてるブランドだよ。これしか力になれないけど』
助かるよ、と返事をして携帯をしまう。そんなことって言ったらあれだけど……そんなことより、俺は悠李がまだ理解できてないよ。
頭の中は未だに整理がついていないが、今はとにかく亡くなるはずの彼を助けなければならない。寄り道をせずにさっと教室に戻り、カバンを手に取る。悠李は先に帰ったようだ。
帰るか、と席を立つと、近くに女子が寄ってくる。
「泉野、一花くんと何かあった?」
「え、な、何もないけど……」
「うそ! 絶対あったでしょ! あんなに色っぽい一花くん初めて見たよ!」
「そうそう! ライバルが増えちゃうよ~」
どんな顔をしていたんだろう。艶々とした茶色い髪を揺らしながら興奮した表情で力説する彼女たちに、何があったかなんて言えるはずもなく、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そしてより一層、彼の行動が理解できなくなった。
「まあ俺が後で聞いておくから……」
「頼んだよ! もー、泉野にしか心開いてくれないんだから!」
「はいよ」
力強く背を叩かれ、無理矢理にでも気合を入れられた俺は、早く動かなきゃと、そそくさと教室を出た。
――
『次は商店街前、商店街前。お出口は左側です』
電車から降りた途端、小雨が降り出した。傘を刺すレベルじゃないなと思い、そのまま商店街まで歩く。
商店街に着くと、時代の流れなのか優雅な午後にも関わらずシャッターが降りている店舗が数軒見られた。シャッターには子供会や町内会のチラシが貼られている。小さい頃にお煎餅をくれたおばさんが経営していた服屋も、閉店セールの文字が掲げられ、寂しい気持ちにさせられる。その一方で隣の店舗では、月末にオープンが予定された韓国料理店の内装工事が行われていた。どれくらい続くかなと思いつつ、悠李に教えてもらったブランド店へ向かう。
ブランド店は落ち着いた雰囲気で、高校生の俺が入店するには少し勇気が必要だった。覗いて帰ろうか、と時計を見た時、後ろから声をかけられた。
「いずみ〜、こんなところで何してんの?」
「うわっ!」
振り向くとニヤニヤとした藁谷が口をスマートフォンで隠していた。
「こんなブランド店で……あ! まさか彼女……!?」
「変な妄想すんな。えと、母さんの誕生日が近くてさ、父さんが何か見て来いって言うから……」
少し無理があるか? 母親の誕生日は十一月だし父さんは毎回自分で選びに行っているが、咄嗟に嘘が口から出てしまった。というかそれなら父さんと一緒に行けよって話だけど……。
「えー! すご! 仲良いな!」
手を叩いて笑う藁谷。アホで助かった。
「仲良いかも……」
「俺も付き合うよ。たまには一花じゃなくて俺でもいいだろ」
中でじっくり見ようぜー、と藁谷に豪快に引っ張られて店に入った。いつもはこの無鉄砲さに嫌気がさすところだが、場違いなブランド店に気が引けていた今回に限ってはありがたい。
店に入ると、高級感のある制服をまとった女性店員と目が合った。
「いらっしゃいませ。どのような商品をお探しでしょうか?」
「いやー、お母さんたちに人気の商品とかあります? 取り敢えず予算は無しで」
小さくOKサインを掲げた藁谷が飄々と応答する。こんな高級店で予算がないとか怖すぎるが、ひとまずありがとう。
「お母様への贈り物ですね。それならハンカチやネイルオイル、予算が許すなら……ネックレスやお財布などはいかがでしょうか」
案内いたしましょうか、とにこやかに対応される。
「いいですね、助かります。それじゃ見てきますね」
あの辺ですかね、と藁谷は店員との会話を手短に済ませ、俺を小物が展示されている場所に連れて行く。値段を見るとやはり高校生には手を出しにくい値段で、きっと俺たち庶民にとってはお祝いごとでしか縁がないんだなと感じた。煌びやかに飾られたショーケースの上に並べられたハンカチを手に取る。
「いずみの母さん、何色が好きなの?」
「白かな……」
店内で商品を物色していると、一人の男性が入店してきた。
細身で紺色のTシャツ。この人だ。例の夢で見た亡くなる男性だった。白っぽい顔に、丸っこい目。顔のつくりは違うが、どこか悠李と似た、親しみやすく柔らかい雰囲気がある。よく見ると短めの黒髪の中に白髪が混ざっていた。三十代半ばぐらいだろうか。頭部の血だまりと事件の衝撃で気づかなかった。
手がかりを探そうとし始めたばかりなのに運がいい。彼の行動を見て、あのレンガは何がどうなって落ちてきたのかを突き止めなければならない。
「……いずみ! いずみ!」
「あ、あぁ何?」
「あの人、二宮先生じゃない?」
「二宮先生?」
「いずみってテレビっ子じゃないんだっけ? 最近テレビに出まくってるカリスマ脳外科医の二宮 蛍だよ。頭も良いしスポーツも出来て、喋りも上手い。毎日のようにテレビに出てるよ」
「へぇ」
スマホでこれだよ、と画像を見せられる。本当だ。今見た顔と同じ顔。自分でも検索してみると、写真付き記事が沢山でてくる。どうやら彼は有名人らしい。朝のニュースぐらいしかテレビは見ないため、全然知らなかった。
「俺話しかけてみようかな〜」
「よせって、プライベートだぞ」
「そっか」
遠くで店員と和気藹々と話す彼は、ここにいる誰よりも幸せそうで、特別、心のこもったプレゼントを選んでいることが容易に想像できた。
「二宮様はお忙しい中でも、何度もご来店してくださって嬉しい限りです」
「いやぁ、今時ネット通販もありますけど、やっぱり自分で見て、心を込めて選びたいですよね。俺もそうですけど向こうも大好きで。今日はパートナーだけじゃなくて妹にもあげたくてね」
「妹様ですか」
「そう。最近婚約相手が決まったらしくて。兄としては寂しいですけど……」
「そんな。妹様も愛されていますね。ところでいつもの活動は上手くいきそうですか?」
彼は顔見知りであろう店員と話を弾ませながら、女性ものの指輪と、ペアの食器を買っていた。片方はやはり恋人への贈り物だろうか。彼は買い物を済ませると、併設されたカフェに足を運び、読書を始めた。
「いずみ、目星はついたの?」
「うん、大丈夫。また父さんと来るよ」
「何買ったか教えてくれよー」
ブランド店を後にするとともに藁谷と別れ、俺はカフェの近くのベンチで待機していた。しばらく彼の様子を眺めていると、表情が豊かで意外と素直な人物なのかもしれない。
二十分ほどそうしていただろうか。ショートカットに細いパンプス。ラフなジーンズをはいたスポーティーな女性がやってきて、カフェの中に手を振った。どうやら二宮医師の待ち合わせ相手らしい。女性に気が付いた彼は本を閉じて外へ出てきた。
「かな。やっと来た」
「待たせた?」
「いや、本が面白かったから気にならなかったよ」
「そう? じゃあ良かった」
相手は"かなさん"というらしい。二人は適度に会話をして、歩き始めた。俺はごめんなさいと思いつつ、二人の後をつけた。
後をつけ始めて数分。なんと彼らは、レンガが落ちた例のスーパーに入って行った。買ったものは生ハムやポテトサラダといった軽食らしきものたちで、これからどちらかの家に行くと予想できた。
会計が終わるとそのまま横のガラス戸からマンションへと入って行った。どうやらどちらかはこの上に住んでいるらしい。エレベーターまで女性が先導していたため、家は彼のものではないとわかった。
ここからはどうしようもないなと引き返そうとした途端、彼は全ての荷物を持って電話をかけながら外に出てきた。そのまますぐにタクシーを呼び止め、去って行った。
続けて女性も息を上げて追ってきたが、その様子は何やらおかしかった。
「なんなの……! いっつもいっつも……結局……」
大粒の涙を流しながら彼女はガラス戸前の階段でうずくまった。
正直かなりきまずいが、ここで話しかけるしかないか。
「あ、あの、大丈夫ですか……」
「何か用! 放っておいてよ!」
目の前で泣いている女性を放ってはおけなくて声をかけるが、わかりやすく怒りの対象が自分に向いてしまった。明確な関係がない以上、一度突き放されてしまったらもう俺に出来ることはない。どうする。一度離れるか。身を引いた瞬間、後ろから耳慣れた声が聞こえた。
「ちか」
「悠李……」
「……心配できちゃった」
「な、なんだそれ……」
今日のことはすっかり忘れたのか、悠李はケロッとした顔でそこに現れた。こっちはこっちできまずい。止まった時間を動かしたのは泣いていた女性だった。
「イケメン……」
悠李を見た女性は怒りも収まったのか、泣き止んで立ち上がる。イケメンならいいのかとも思ったが、そういえば悠李はあの医師と度となく似ていた。だからこそ落ち着いたのもあり得そうだ。ごめんなさいねと、彼女は悠李に向かって丁寧に話しかける。
「あなた名前は」
「い、一花悠李です……」
「悠李くん……名前まで綺麗……とっても綺麗……心が洗われる……」
悠李の手を握り締め、彼女は改めて涙を流した。なんてわかりやすい人間なんだ。でも、これはいい感触。事件の被害者と面識がある人と知り合いになったのは大きい。できればこのまま原因を探りたい。
「あ、あの、よろしければお話伺いますけど……」
「中身まで美しい! 今から家に上がって話聞いてくれる? お茶菓子も出すわ! そこの地味なのも!」
地味なのて、と突っ込む前に悠李の腕を引っ張る彼女は、俺のことは雑に手招いて階段を登って行った。地味で悪かったな。地味で。
――
マンションの中は案外広かった。廊下にはIHの付いたキッチンがあり、水回りがあるであろう扉の前に、洗濯かごが置かれている。洗われたトランクスがあるが……二宮さんのものだろうか。目を逸らし、廊下の先の扉へ導かれる。八畳一間、奥にベランダがある構造だった。ベランダの前には、植木鉢に入った観葉植物。鉢の下にはお洒落なレンガの土台が置いてあった。
ああ、これか。
落下したレンガはここにあったようだ。つまり、この女性が落とした可能性が出てきてしまった。これまでも殺人で亡くなる夢がたまにあったが、遠くない未来で殺人犯になる可能性がある人と接するのは少しだけ怖い。もし俺が殺されてしまったらどうなるんだろう。夢の中の彼女とはもう……なんて考えるだけで気が滅入る。今回も不慮の事故ならばいいのだが。凶器に触ろうと自然に手を伸ばす。
「この木、なんていうんですか。葉っぱ可愛いですね」
「なに、いっちょ前に。これはモンステラって名前。可愛いでしょ」
へえ、とそれなりの返事をして植物の幹からさりげなくレンガに触れる。レンガの下はよく見ると少し欠けていた。鉢に隠れて見えなかったが、いくつかストックがあるみたいだ。
「普段部屋の中で育ててるんですか?」
「そう。時々ベランダに出して育てーって願ってるけど、日光が当たりすぎると焼けちゃうからね。明日は出してみようかな」
これは、明日ベランダに出す際に落としたと考えるのが自然だ。
「明日は出さない方がいいです」
「どうして?」
「明日小学生が子供会で商店街を歩き回るみたいです。レンガ、落ちたら危ないです」
「そうなの、明日は絶対外に出したいわけじゃないから、明後日にするわ」
よかった。これで一旦は安心できるだろう。
念のため、もう少し話は聞いていくが。
「あんたたち高校生? 若くて良いね」
「そ、そうですかね」
「私なんてもう三十六よ、三十六。もう少ししたら人生も折り返し地点って感じ」
ブドウジュースでいいかしら、とコップを持ち出す。机に乗せられた化粧水やピルケース退け、コップにジュースを注ぐ。二宮医師の年齢も同じくらいか。彼女の部屋はそこそこ広く、インテリアもシックにまとめられており、居心地はいい。一人でも生きていけている、逞しい女性だと感じる。
「……それで、なんであんなにも泣いていたんですか」
「それ聞いちゃう? まあ、知り合いでもないし丁度いいか」
彼女はお菓子を出し終えると、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私ね、彼と付き合ってる……はずなの。地味は見ただろうけど、あの二宮よ。知ってる?」
さっき知ったが、あたかも前から知っていたかのように、真顔で知っています、と返すと微笑んでそうよね、と彼女は続ける。
「彼ってさ、なんでも完璧じゃない? そもそも医者だし、ルックスもそこそこだし、話も面白いしね……でも、だからこそ、私は怖いの」
「怖い?」
彼女の肩が小さく震え出す。
「彼は私がいなくても生きていけることが怖い。私は彼がいないと生きていけないのに……今だって患者の容態が急変しただとか、いっつもいっつも出てってしまう。会うのは数分。この数分も三日ぶとかが当たり前。なんのために私たち付き合ってるの? 子どもじゃないから、仕事が大切なのはわかるよ……でもテレビとか、そんな仕事するぐらいなら私と居てくれていいじゃない……!」
「最近ね、結婚を決めて背中を押してくれた友達がいたの。だから私も、彼との未来を真剣に考えるようになった。それなのに……そんなに人気者になりたいわけ? 私が居るだけじゃ不服? 私の気持ちじゃ足りない? こんなに好きになったの、彼だけなのに……プレゼントも私宛じゃなかった……他の奴に渡すのよきっと……許せない……!」
感情が昂り、また涙をボロボロと流し始める。今度は自分からティッシュを持ち出し、鼻水をかむ。怒涛の愚痴に当てられて少し暑い。大人は大変なんだな。
「……あの」
「何よ地味」
地味って言うな。
「俺、実はブランド店で買い物してるところを見ていたんです」
「え?」
「二宮さん、パートナーと妹にって選んでましたよ。もしかしたらまだプレゼントは貰ってないかもしれませんが、相手もこのブランドが好きだからって選んでて……第三者の俺から見ても幸せそうでした」
「そうなの?」
「はい。あとテレビに出るのは何か理由がありましたよ。人気になりたいっていうことではないみたいでした。店員さんも知っているようで」
「……な、何よ……もう」
女性は顔を真っ赤にしてソファーにうずくまった。他人の目を気にしない性格がうらやましいと感じながら、ティッシュを手渡す。
「たぶん、あなたは愛されていますよ。二宮さんのどんなところが好きなんですか」
「……私を選んでくれたところ」
にっこりとほほ笑む彼女。
「そんな簡単なことですか」
「簡単じゃないよ。二宮……というか蛍はね、選べる立場じゃない?」
「選べる立場?」
「顔もかっこいいし優しいし、親しみやすくてお医者様で。人が欲しいもの全部持ってるの。持ってる、って言い方はよくないね。見た目以外は彼が努力して手に入れたものだし。世間的にも知名度がそこそこあるから、例えば芸能人の誰かと付き合ってもおかしくないはずなの。でも、私を選んでくれた。私ね、彼と学生時代に出会ったの。もう十年、いや二十年以上前の話になるけど」
「思ってたより長いですね」
「知り合って、意気投合してから、ずっと仲良くしてくれた。私は、そのほとんどの間、蛍が好きだった。お互い仕事で忙しくなって、時間が空いて……自分の中で気持ちの整理がついて。数年前にカミングアウトしたらね、俺と付き合ってって言われた。本当に、夢だと思った」
「カミングアウト?」
「蛍にゲイだって伝えたの」
驚いた、彼女ではなかった。全く気付かなかった。確かにボーイッシュではあるが、ジーンズにパンプスを合わせるあたり、勝手に女性だと思い込んでいた。声も男性にしては高い。肌も綺麗で、振る舞いや口調ももどこか女性らしい感じがしていた。思い込みは怖い。
「え、あの……すみません。男性だったんですね」
すみません、と謝ると呆気にとられた彼女……もとい彼は俺にデコピンをする。
「いでっ」
「アンタ今気がついたの! 私の名前は谷本 奏人。歴とした男性だからね」
口調が変でもわかるでしょ、と奏人さんは隅に置かれた財布から保険証を取り出す。確かにそこには『性別:男性』と書かれていた。
「悠李……わかってた?」
「うん。わかってたよ。部屋に来るまでに男性が使うものいっぱいあったし。それに……」
悠李が棚の隅に並べられたボトルやケースを指差す。
「これ、シェービング後のオイルでしょ。こっちは保湿用のジェル。父さんが使ってたことあるから分かる。この部屋に二人住んでるとは思えないのに、ここまで男性が普段使うようなものが部屋に馴染んでるとさすがに男性かなと思うよ」
俺には骨格も男性に見えるかな、と呟く。た、確かに言われてみれば……廊下にあったトランクスも奏人さんのものなのだろう。もっと他人の見た目を気にした方がいいかもしれない。
「話を戻すけど。簡単に言うと、あんなに魅力的な男が、わざわざ私という男を選んで一緒にいてくれることが嬉しいの」
奏人さんの表情がどんどん柔らかくなっていく。
「やっぱり、愛されているじゃないですか」
「なんでそんなこと言えるのよ」
「ありきたりな言葉しか言えないけど、性別って簡単には越えられない壁だと思います。ましてやテレビに出るレベルの著名人で、バレたらまだ指を刺される時代です。それでも、どんな綺麗な人よりも奏人さんを選んだ。どれだけ忙しくても予定を合わせて会いに来る。奏人さんのこと好きすぎるでしょ」
俺がそんなことされたらすぐ好きになるわ。
「……地味、良いこと言うじゃない」
「ラブラブでよかったですね」
「あんたたち、気に入った! 美味しいドーナツちゃんの引換券あげるから! 行ってきなさい」
すっかり元気になった奏人さんはキラキラとした目で俺たちを見つめ、名刺ほどの紙を手渡す。来週には期限が切れる引換券。少し前に出来たドーナツ店は午前中は主婦のたまり場として、午後は中高生のたまり場として繁盛している。最近食べてなかっし、いい機会だ。明日の帰りに寄っていこう。
ありがとうございます、と二人で受け取り、彼女……彼の家を後にした。
――
一通り終わった、自転車を押して歩く帰り道。悠李とは駅から数分歩いた時点で家の方向が違うため、あと少しで別れてしまう。すっかり日も暮れて、夕方になった空は、綺麗なグラデーションになっていた。
「話を聞く限り、奏人さんが犯人……というよりは家にあったレンガがベランダから不意に落ちた、というのが正しいかも」
「そうだね……二宮さんがマンションの下で待っていたってことは、きっとまた谷口さんに会いに来てくれていたんだね……」
そんな最悪な世界線が夢として現れてくれてよかった、と言わざるを得ない。
「……夢の中で聞こえた悲鳴も多分奏人さんのものだったんだ。目の前で、自分の最愛の人が大怪我をするってどんな気持ちなんだろう」
自分が目の前で家族を失ったら。恋人を失ったら。考えると胸が締め付けられる。俺が階段から落ちた時も、怖い思いをさせたのだろうか。
「……きっと一生記憶から消えなくて、心の中を蝕み続けるんだろうね」
前で組まれた悠李の手が震えている。特別感情移入しやすいタイプでもなかったはずだが、最近はやはり感情が昂りやすそうに見える。どこか寂しい表情を見せる悠李が放って置けなくて、震える手を取る。よかった。暖かい手だ。
「大丈夫。二宮さんも、奏人さんも俺が助けるよ。もし明日ダメでも、何度でも聞きにいくし、助けるまでやり直すだけだから」
だから悠李は安心して、と目を見る。真剣で、壊れそうなほど美しい表情。ダメだ。こういう顔をされると思い出してしまう。
なんで俺に……。頭に浮かんだ煩悩を消し去るために手を離そうとする。が、するりと手を掴み返される。
「ぇ、あ……」
甲に触れる指から熱が伝わってくる。さっきよりも熱い手の温度に硬直してしまう。普段部活で触れてしまうときは全く気にならなかったのに……どうしてか、今はこんなにも体温を感じてしまう。しかも悠李の手は、俺の手よりもちょっとだけ大きい。今知ってしまった。いや、本当はもっと前から知っていたはずだったのに、気にも留めていなかっただけだろう。きっとこれまでも悠李のては熱を帯びていて、それを無視していただけ。一度意識させられると見える景色がまるで違う。触れる指の柔らかさ。自分より厚みのある胸板。透き通る瞳に映る俺の影。視線が絡まり合い、顔が熱くなる。
動悸が止まらない俺を置いてけぼりにして、悠李は消えそうな声で話し続けた。
「……ちかはいつもこうやって誰かを助けてきたの?」
「そう、だけど」
「……すごいなあ」
孤独に慣れた面持ちを、さらりと伸びた前髪の隙間から覗かせる。最近そんな顔をさせてばかりだ。
キス、のことはまあ……いったん忘れて。俺のケガの原因が違うとか、会ったことがあるとか、どういうことなんだろう。
「……昼間の話だけどさ、悠李はさ、俺と会ったことあるの」
「会ったことっていうか……」
「というか?」
「……ごめん、ちょっと気持ちの整理ついてからでもいい?」
「いいけど」
ありがとう。沈んだ表情でまた明日、試験頑張ろ、と言い残すと彼は去って行った。きっとここ最近の挙動不審の理由と関係しているんだろう。俺は自転車に跨り、カゴに入れられた鞄を見て試験の予定を思い出してしまった。母に俺の怪我の話を聞こうと思ったが、明日に控えた試験で余計なことを考えたくないと思い、一度意識から外すことにした。
