3
遠くから無慈悲なチャイムが聞こえてくる。
「回収するぞー。解答用紙は裏返して後ろから前へ送ってくれ。名前を書き忘れるなよー。今なら見逃してやるから」
やべーと言いながら叩くようにシャーペンで文字を紡ぐ音と、矢継ぎ早に話す数学教師の声で俺は目を覚ました。
泉野君、と前の女子に心配そうに声を掛けられ、ごめんと謝りながら解答用紙を素早く手渡した。
「小テストの結果で次の補習内容決めるからな。できなかった人は焦るように」
そう言い残し、数学教師は教室から出ていった。
左に首を曲げて窓を見ると、虚ろな目をした自分がうっすらと映っている。はあ、今日も早く寝なければ。疲れるためにわざわざ歩いて帰ろう、とか思った。運動が一番睡眠導入に効く。ため息をついた時、窓とは反対側の右隣からぺこぺことプラスチックが動く音と共にそよ風が吹き、頬の温度が下がる。
「ちか、大丈夫?」
風は悠李によって人工的に作られたものだった。透明な下敷きをパタパタと動かしながら俺の様子を伺う悠李に、悪い寝ぼけていたと一言声をかけ、傷が目立ち始めた白い下敷きで力一杯扇ぎ返した。悠李の前髪が浮かび、うわっと声を上げ、手のひらで顔を隠す。周囲から盗み見する女子の顔が赤くなるのを彼越しに見るのは日常茶飯事だ。
「もう、前髪壊すのやめてよ」
「涼しいだろ」
「変に髪に癖つくから」
「癖なんてあってもなくても、お前は変わらん」
「変わるよ」と戯言を抜かす天下のイケメン様。俺のように普通の男が髪型を気にしないのとはわけが違う。顔が良ければ前髪なんて何でもいいのだ。極論、坊主でも特大アフロでも、もてはやされるのだろう。
下敷きを机の上に放り投げ、腕を上げて眠気を覚ます。
「はぁ、次の時間古文だろ。俺教科書持ってくるから」
「ちかー、前髪の罪で俺のも持ってきてー」
「はいはい」
よいしょと席を立ち、廊下にある自分のロッカーに手をかける。古文の教科書は薄くて持ち歩きやすいサイズだが、まあ持ち帰ることはない。夏休みの課題次第では家に置くことにもなり得るが。
綺麗なままの古文の教科書を回収して自分のロッカーを閉め、下にある悠李のロッカーを開ける。
「古文、古文……」
整理整頓の行き届いたロッカーの中から古文の教科書を探す。
あった。教科書を引き出そうとした時、ふわふわとした塊が落ちてくる。その塊はウサギのぬいぐるみのキーホルダーで、まだタグがついている新品だった。女子軍のプレゼントだろうか。随分ファンシーな趣味だ。ただ、悠李のイメージがウサギなのは納得できる。髪の毛柔らかいし。彼女たちの想いを無下にはできないと、うさぎを元いたであろう位置に戻し、俺はそっと扉を閉めた。
「持ってきたぞ」
「ありがと」
教科書を手渡すと、悠李はお駄賃と言い、レモン味の飴を摘まんで渡してきた。
「ほら、あーん」
「ん」
何気なくあーんを受け入れているが、初めからそこまで違和感がなかったので、気にしていない。手も汚れないし。女子たちの視線は気になるところでは……あるけど。飴なら授業中に食べても問題ないと世紀の大発見をした俺たちは、こそこそと飴を食べることで学校に対する反抗心や、秘密を共有する背徳感のような、青春時代特有の何かを感じていた。
数分後、古文教師が二時間目の授業をはじめ、流れるように三時間目の現代文を受けた後、補習初日は終わっていった。太陽がどんどん高くなり、教室に落ちる影の面積は、次第に大きくなっていた。
「ちか、部室行こ」
「おっけー」
鞄を持ち、今日は部活がないのかと期待に胸を膨らませる女子たちに今日はなしと告げながら、部室へ向かう。トランプタワーの前にお昼ご飯を食べるため、絶妙なラインナップの自販機の中で唯一まともな緑茶を買い、喉を潤した。悠李はよくわからない紅茶を買っていた。
部室のドアを開けると、夏独特の熱を持った空気が押し寄せる。
「死ぬ。リモコンどこだ」
「壁についてるよ。早くエアコンつけよ」
ピピ、とエアコンを起動させ、震える粒子たちを落ち着かせる。同好会の部室は基本的に扇風機が支給されるが、無理やり部活になったことで夏の優勝が確保されたのである。この点に関してだけは女子軍に感謝したい。本当にありがとう。
日光で少々熱くなっているパイプ椅子を引き、母が用意した弁当箱を開いた。今日のメニューはオムそばのオム抜き。焼きそば。夏といえば屋台の焼きそばだ。来月末に控えた夏祭りを思い出し、今年も悠李と行くのかなと、ほとんど確信めいた思考が頭をよぎる。女っ気がなさ過ぎるからだ。
「おいしー」
「ちかは焼きそば好きなんだね」
「好き、というか食べ慣れてるのもあるかな。家でよく出るし。もっと甘い卵焼きが乗ってたら余計に美味い」
「へー……なら俺の卵焼き食べる?」
悠李の弁当にはいつも、たんぽぽのように綺麗な黄色の厚焼き玉子が入っている。彼の好物かとも思ったが、いつでも俺に分けてくれる行動から察するに、思いのほか特別好きではないらしい。なら卵焼きは単なる定番なのか、お母さんの趣味なのか。
「良いの? 悠李のお母さんの卵焼き好きだから嬉しいわ。甘さが丁度良くて……いくらでも食べられる。後で直接言いに行かなきゃな。いつも食べさせてもらってますってさ」
「そうだね。今はちょっと忙しいみたいだけど、いつか会いに来てよ」
「むしろ行かせて」
ごちそうさま。ご飯を食べ終えると、薄い紙での建築が始まった。一つの山を作り、その横にもう一つ山を立てる。その上に一枚カードを乗せ、また山を立てる。トランプタワーはその作業の繰り返しだが、集中を切らすと全てがなくなるシビアな世界でもある。一瞬の迷いが、行動が、全てを変えてしまう。
「……」
「……」
「……ちか」
「うわぁっ!」
びっっっくりした。顔。綺麗なお顔が近いです。
情けない声に対し、悠李はもちろん、俺自身も驚いた。パラパラと俺の塔が崩れていく。でもあの顔が急に現れてみ? 好きだとか嫌いだとか関係ない。暴力だ。誰だってそうなる。……うん、でも頑張ってた塔は誰か直してくれよ。
「あ~……やったわ」
「ごめん、そんなにびっくりするとは思わなくて」
「いい加減自覚しろ」
「……褒めてる?」
「褒めてるよ!」
「あぁもう!」とトランプをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせ、机に突っ伏す。すぐに褒めていると察するあたりもたちが悪い。折れるから、と悠李がトランプを回収してくれている雰囲気を感じ取った俺は、素直にどいて俺がやるからと奪い取った。
「で、何? 俺のタワーを犠牲にするほどの話題だったんだろうなあ」
「そんな大それた話題じゃなくて……」
「何?」
「あの、さ。数学の時間、夢でも見てた?」
「え、なに。見てたけど……どうしてわかった?」
「……だって起きた時、顔真っ青だったから。何か嫌な夢でも見たのかなって」
よく見てるな。悠李は俺がシャッフルしていたカードの束から無言で二枚取り、トランプタワーを作り始める。一つ、二つと山ができる度に、先程の腹いせとして息を吹きかけたくなるが、後々面倒なので、グッと堪える。大人の対応というやつだ。それにしても気にかけてしまうほど顔色悪かったのか。
「見てたよ。まあ、あんまり良い夢ではなかったかな。時々見るんだ」
「どんな夢?」
「……俺が見る夢は基本的に誰かが死ぬんだよ。それも、大規模な事故を起こしてさ」
トランプを何枚か取り、意味もなくシャッフルをする。
「今日の夢は猛スピードの車が花屋に突っ込んで、人が沢山怪我をした。瞬きする間に人が死んだ。そんなの見せられたら良い気しなくてさ。真っ青にもなるっての」
「花屋で事故……」
悠李が上に載せようとしていたトランプを落とし、タワーがパタパタと崩れていく。その顔も真っ青だった。
「ビビりすぎ。夢だから。そんなに気にするなって」
「うん……でも、本当に事故には気をつけてよ」
「当たり前だ。安全第一、悠李もな」
「……そうだね」
その後はスピードや戦争など二人でできるカード遊びを一通り遊び倒し、最後に七並べをしてカードをしまった。天才的な思考力を持つ悠李と努力の天才の俺は常に良い勝負をしており、今回の戦績は一勝差で悠李の勝ちだった。
時刻は午後四時を回った頃、俺たちは帰りの電車に乗り込んだ。流石に夏休みとはいえど、通勤時間帯やお昼時、帰宅ラッシュを避けたこの時間では列車の席も何か所か空いていて、俺たち二人は入り口付近に並んで座った。
「夕方も思ったより空いてて良いね。朝もちょっと早く出て遊ぶ? 明日からもうちょっと早く出てもいいけど」
「……明後日からにしよ、俺は悠李と違ってそんなすぐリズム変えられないし」
「そっか……わかった」
『……駅、お降りの際は足元にお気をつけください』
そう聞こえた後すぐに俺たちは席を立ち、出口へと向かう。楽しげなメロディと共にプシュー……とドアが開き、俺たちは電車から降りた。その時、あの顔が横を通っていった。
その顔は、今日夢の中で無残に死んでいった花屋の息子の卯守一樹《 うさね かずき》、ご本人様であった。すれ違いざまの彼の顔には少しの緊張感と焦りが感じられた。薄らと頬は赤らみ、手に持った小さな紙袋が、誰かと幸せになる切符なのだと伝えてくれた。
俺が何とかしなければ。
寂しそうな顔をした悠李と駅で別れた後、俺は真っ先に花屋へ向かった。家と反対方向へ向かう俺の背中を、悠李は不思議そうな顔で見つめていた。
遠くから無慈悲なチャイムが聞こえてくる。
「回収するぞー。解答用紙は裏返して後ろから前へ送ってくれ。名前を書き忘れるなよー。今なら見逃してやるから」
やべーと言いながら叩くようにシャーペンで文字を紡ぐ音と、矢継ぎ早に話す数学教師の声で俺は目を覚ました。
泉野君、と前の女子に心配そうに声を掛けられ、ごめんと謝りながら解答用紙を素早く手渡した。
「小テストの結果で次の補習内容決めるからな。できなかった人は焦るように」
そう言い残し、数学教師は教室から出ていった。
左に首を曲げて窓を見ると、虚ろな目をした自分がうっすらと映っている。はあ、今日も早く寝なければ。疲れるためにわざわざ歩いて帰ろう、とか思った。運動が一番睡眠導入に効く。ため息をついた時、窓とは反対側の右隣からぺこぺことプラスチックが動く音と共にそよ風が吹き、頬の温度が下がる。
「ちか、大丈夫?」
風は悠李によって人工的に作られたものだった。透明な下敷きをパタパタと動かしながら俺の様子を伺う悠李に、悪い寝ぼけていたと一言声をかけ、傷が目立ち始めた白い下敷きで力一杯扇ぎ返した。悠李の前髪が浮かび、うわっと声を上げ、手のひらで顔を隠す。周囲から盗み見する女子の顔が赤くなるのを彼越しに見るのは日常茶飯事だ。
「もう、前髪壊すのやめてよ」
「涼しいだろ」
「変に髪に癖つくから」
「癖なんてあってもなくても、お前は変わらん」
「変わるよ」と戯言を抜かす天下のイケメン様。俺のように普通の男が髪型を気にしないのとはわけが違う。顔が良ければ前髪なんて何でもいいのだ。極論、坊主でも特大アフロでも、もてはやされるのだろう。
下敷きを机の上に放り投げ、腕を上げて眠気を覚ます。
「はぁ、次の時間古文だろ。俺教科書持ってくるから」
「ちかー、前髪の罪で俺のも持ってきてー」
「はいはい」
よいしょと席を立ち、廊下にある自分のロッカーに手をかける。古文の教科書は薄くて持ち歩きやすいサイズだが、まあ持ち帰ることはない。夏休みの課題次第では家に置くことにもなり得るが。
綺麗なままの古文の教科書を回収して自分のロッカーを閉め、下にある悠李のロッカーを開ける。
「古文、古文……」
整理整頓の行き届いたロッカーの中から古文の教科書を探す。
あった。教科書を引き出そうとした時、ふわふわとした塊が落ちてくる。その塊はウサギのぬいぐるみのキーホルダーで、まだタグがついている新品だった。女子軍のプレゼントだろうか。随分ファンシーな趣味だ。ただ、悠李のイメージがウサギなのは納得できる。髪の毛柔らかいし。彼女たちの想いを無下にはできないと、うさぎを元いたであろう位置に戻し、俺はそっと扉を閉めた。
「持ってきたぞ」
「ありがと」
教科書を手渡すと、悠李はお駄賃と言い、レモン味の飴を摘まんで渡してきた。
「ほら、あーん」
「ん」
何気なくあーんを受け入れているが、初めからそこまで違和感がなかったので、気にしていない。手も汚れないし。女子たちの視線は気になるところでは……あるけど。飴なら授業中に食べても問題ないと世紀の大発見をした俺たちは、こそこそと飴を食べることで学校に対する反抗心や、秘密を共有する背徳感のような、青春時代特有の何かを感じていた。
数分後、古文教師が二時間目の授業をはじめ、流れるように三時間目の現代文を受けた後、補習初日は終わっていった。太陽がどんどん高くなり、教室に落ちる影の面積は、次第に大きくなっていた。
「ちか、部室行こ」
「おっけー」
鞄を持ち、今日は部活がないのかと期待に胸を膨らませる女子たちに今日はなしと告げながら、部室へ向かう。トランプタワーの前にお昼ご飯を食べるため、絶妙なラインナップの自販機の中で唯一まともな緑茶を買い、喉を潤した。悠李はよくわからない紅茶を買っていた。
部室のドアを開けると、夏独特の熱を持った空気が押し寄せる。
「死ぬ。リモコンどこだ」
「壁についてるよ。早くエアコンつけよ」
ピピ、とエアコンを起動させ、震える粒子たちを落ち着かせる。同好会の部室は基本的に扇風機が支給されるが、無理やり部活になったことで夏の優勝が確保されたのである。この点に関してだけは女子軍に感謝したい。本当にありがとう。
日光で少々熱くなっているパイプ椅子を引き、母が用意した弁当箱を開いた。今日のメニューはオムそばのオム抜き。焼きそば。夏といえば屋台の焼きそばだ。来月末に控えた夏祭りを思い出し、今年も悠李と行くのかなと、ほとんど確信めいた思考が頭をよぎる。女っ気がなさ過ぎるからだ。
「おいしー」
「ちかは焼きそば好きなんだね」
「好き、というか食べ慣れてるのもあるかな。家でよく出るし。もっと甘い卵焼きが乗ってたら余計に美味い」
「へー……なら俺の卵焼き食べる?」
悠李の弁当にはいつも、たんぽぽのように綺麗な黄色の厚焼き玉子が入っている。彼の好物かとも思ったが、いつでも俺に分けてくれる行動から察するに、思いのほか特別好きではないらしい。なら卵焼きは単なる定番なのか、お母さんの趣味なのか。
「良いの? 悠李のお母さんの卵焼き好きだから嬉しいわ。甘さが丁度良くて……いくらでも食べられる。後で直接言いに行かなきゃな。いつも食べさせてもらってますってさ」
「そうだね。今はちょっと忙しいみたいだけど、いつか会いに来てよ」
「むしろ行かせて」
ごちそうさま。ご飯を食べ終えると、薄い紙での建築が始まった。一つの山を作り、その横にもう一つ山を立てる。その上に一枚カードを乗せ、また山を立てる。トランプタワーはその作業の繰り返しだが、集中を切らすと全てがなくなるシビアな世界でもある。一瞬の迷いが、行動が、全てを変えてしまう。
「……」
「……」
「……ちか」
「うわぁっ!」
びっっっくりした。顔。綺麗なお顔が近いです。
情けない声に対し、悠李はもちろん、俺自身も驚いた。パラパラと俺の塔が崩れていく。でもあの顔が急に現れてみ? 好きだとか嫌いだとか関係ない。暴力だ。誰だってそうなる。……うん、でも頑張ってた塔は誰か直してくれよ。
「あ~……やったわ」
「ごめん、そんなにびっくりするとは思わなくて」
「いい加減自覚しろ」
「……褒めてる?」
「褒めてるよ!」
「あぁもう!」とトランプをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせ、机に突っ伏す。すぐに褒めていると察するあたりもたちが悪い。折れるから、と悠李がトランプを回収してくれている雰囲気を感じ取った俺は、素直にどいて俺がやるからと奪い取った。
「で、何? 俺のタワーを犠牲にするほどの話題だったんだろうなあ」
「そんな大それた話題じゃなくて……」
「何?」
「あの、さ。数学の時間、夢でも見てた?」
「え、なに。見てたけど……どうしてわかった?」
「……だって起きた時、顔真っ青だったから。何か嫌な夢でも見たのかなって」
よく見てるな。悠李は俺がシャッフルしていたカードの束から無言で二枚取り、トランプタワーを作り始める。一つ、二つと山ができる度に、先程の腹いせとして息を吹きかけたくなるが、後々面倒なので、グッと堪える。大人の対応というやつだ。それにしても気にかけてしまうほど顔色悪かったのか。
「見てたよ。まあ、あんまり良い夢ではなかったかな。時々見るんだ」
「どんな夢?」
「……俺が見る夢は基本的に誰かが死ぬんだよ。それも、大規模な事故を起こしてさ」
トランプを何枚か取り、意味もなくシャッフルをする。
「今日の夢は猛スピードの車が花屋に突っ込んで、人が沢山怪我をした。瞬きする間に人が死んだ。そんなの見せられたら良い気しなくてさ。真っ青にもなるっての」
「花屋で事故……」
悠李が上に載せようとしていたトランプを落とし、タワーがパタパタと崩れていく。その顔も真っ青だった。
「ビビりすぎ。夢だから。そんなに気にするなって」
「うん……でも、本当に事故には気をつけてよ」
「当たり前だ。安全第一、悠李もな」
「……そうだね」
その後はスピードや戦争など二人でできるカード遊びを一通り遊び倒し、最後に七並べをしてカードをしまった。天才的な思考力を持つ悠李と努力の天才の俺は常に良い勝負をしており、今回の戦績は一勝差で悠李の勝ちだった。
時刻は午後四時を回った頃、俺たちは帰りの電車に乗り込んだ。流石に夏休みとはいえど、通勤時間帯やお昼時、帰宅ラッシュを避けたこの時間では列車の席も何か所か空いていて、俺たち二人は入り口付近に並んで座った。
「夕方も思ったより空いてて良いね。朝もちょっと早く出て遊ぶ? 明日からもうちょっと早く出てもいいけど」
「……明後日からにしよ、俺は悠李と違ってそんなすぐリズム変えられないし」
「そっか……わかった」
『……駅、お降りの際は足元にお気をつけください』
そう聞こえた後すぐに俺たちは席を立ち、出口へと向かう。楽しげなメロディと共にプシュー……とドアが開き、俺たちは電車から降りた。その時、あの顔が横を通っていった。
その顔は、今日夢の中で無残に死んでいった花屋の息子の卯守一樹《 うさね かずき》、ご本人様であった。すれ違いざまの彼の顔には少しの緊張感と焦りが感じられた。薄らと頬は赤らみ、手に持った小さな紙袋が、誰かと幸せになる切符なのだと伝えてくれた。
俺が何とかしなければ。
寂しそうな顔をした悠李と駅で別れた後、俺は真っ先に花屋へ向かった。家と反対方向へ向かう俺の背中を、悠李は不思議そうな顔で見つめていた。
