重なる景色に、花束を。



「ちか?」
 名前に自分と同じ部分があると謎の親近感を覚えた悠李は、俺のことを”ちか”と呼んでいる。ちかげといちか、の、ちかだ。俺はなんだか恥ずかしさが勝って、普通に悠李と呼んでいた。
「ああ、おはよう」
「おはよ。補習で辛いのに暑さもきついね」
 暑いと言いつつ、見るからに周囲から爽やかな風を吹かす悠李が、すっかりと緑を蓄えた桜の木陰から顔を出す。ただ駅前に立っているだけなのに絵になる彼は、きっと何年経っても王子様で、いつか画面の向こう側に立つのだろうと、残される者の心が疼いた。彼は俺が生きている中できっと一番有名になる友達で、その頃にはもうーーーー、なんて暗い考えはあまり良くないな。
 補習への愚痴を言いながら改札を通る。日差しが反射してホームに差し込んでいた。
 
 電車が普段以上に混んでいる。夏休みといえども義務教育を受ける子どもたちはそもそもこの電車をほとんど利用しないし、むしろ休みであるからこそ海に出かけようだとか、隣県へと帰省するだとか、普段利用しない人びとが想定外の時間に乗り込み、夏の暑さを助長していた。時折窓から見えるかき氷ののぼりや冷やし中華の張り紙は、冷房の効いた車内でいくら忘れようとしてもズキズキと暑さを思い出させる。
 その中でも、暑さへの意識の澱みに隠れない悠李の美貌に少しずつ視線が集まり始める。悠李を初めて見た皆様、どうですか。かっこいいですか。
 悠李は自分よりも少しだけ背が高く、狭い車内という状況ではその顔は更に目立っていた。俺はまたかと思い、彼を守るように目の前に立ち、高校に着くまで無言で電車に揺られることにした。視線が痛いが、彼はいつも向けられた熱い視線に困っていた。出会った時からずっと、そうだった。
 十分程揺られ、高校の最寄り駅に到着する。家の近くの質素な駅舎とは違い、キヨスクも入っているし、南口にはバスがたまにくるくるしているロータリーとかなんとかもあって、なんと学生の味方の駐輪場も大きい。電車がスピードを落とし、停車する。自分の貧弱な体では抑えきれない少しの反動によろけそうになると、吊り革を持ちバランスの安定した悠李がそっと手を伸ばし、俺の腰に回した。

「っと、大丈夫?」
「……おー、ありがと」

 スマートな行為にゾッとする。こんなの、俺はできない。生まれた時から王子様で、何をしても格好が良い。それなのにとっさの気遣いもできる。オーバーキルだ。周りにいた数人の女子が羨ましーと小声で話すのが聞こえる。相手が俺でごめん。意外としっかりした腕だったぞ、と心の中で補足する。
 電車を降り、北口の改札を出る。数年前に駅舎の改装工事が行われ、おしゃれな木製のルーバーがついたファサードを後にする。全体的に実家の近くの駅よりも立派なのは、立地がいい分、利用者も多いからだろう。
 駅の目の前に校舎があるため、駅から出ればすぐに校門が見える。見た目より距離があると感じることもあるが、ぜいたくな悩みであることは間違いない。教員の都合で学年ごとに補習の日程はずらされ、通常よりも賑わいの少ない校舎に見知った顔が吸い込まれていく。

 昇降口を抜け、階段を上がる。廊下には何人かの同級生がいた。悠李に話しかけようとする人もいたが、俺と目が合うとそそくさと去って行った。俺がいてもいいだろ。

「あ、悠李。今日部活やるの?」
 壁に掲示された吹奏楽部員募集の張り紙を見て、思い出す。
「やると思って持ってきたよ」
「何?」
「今日はシンプルにトランプ」
「やば。来るとこまできたな」
 俺すぐ折っちゃうからプラスチックのにしたよ、とクリアケースに入ったカードを、悠李は鞄から得意げに取り出した。

 悠李を誘って立ち上げたボードゲーム部は、悠李大大大部長の権限で活動日が決まる。入学後に俺と悠李は出席番号の妙で話すようになって、俺がボードゲームに誘うようになってから次第に意気投合し、意外にも日向よりも日陰にいることを好む俺たちは、部を立ち上げて居場所を作ることにしたのだ。意外なのは悠李だけか。
 初めは部活として活動するには人数が足りず同好会として認可をもらう予定だったが、どこから情報を聞きつけたのか、高嶺の花とお近づきになりたい女子軍が槍をこさえてやって来た。彼女たちは一緒に活動できなくても構わないと口々に言いながら、三十枚ほどの入部届を置いていった。悠李の顔は引きつっているように見えたが、有難いことに部としての看板を掲げることができたのだった。
 同好会に割り当てられる部屋は別棟のたったの四畳半だが、部活に用意される部室は十二畳から二十畳と、二人のための居場所としてはやや広かった。ボードゲーム部は設立の日も浅く、十二畳の部室だったが。まあ部員が集まる月一のミーティングでは女子軍のうちランダムで選ばれた数人だけを呼んで人生ゲームをするため、丁度いい広さではある。なお、それ以外の日は俺たちの独断と偏見で活動するか否かが決まるというゆるい部活だ。顧問の先生もいつ退職しても問題ないぐらいのおじいちゃん先生が割り当てられたことが、そのゆるさに拍車をかけていた。

「なんでトランプやりたくなったの」
「昨日部屋を片付けていたら出てきてさ」
「なるほど……てかトランプって二人じゃつまらなくないか」
「うん。だからトランプタワーでも作ろ」
「プラスチックでタワー? 机で滑りまくりだろ。なかなかできなさそうだし、他の部員呼んでやった方がいいんじゃないか。トランプタワーたちも人数いた方がうれしいだろ」
 悠李には悪いが、飢えた彼女たちをたまには誘ってあげないと、いつか揉めそうで怖いので、無茶を承知で提案をするようにしている。実際、普段ははおとなしい彼女たちも、悠李の見えないところでは月一じゃ物足りないと俺に抗議をしてくるのだ。

「うーん……みんな悪い人じゃないけど、ちょっとギラギラしてるっていうか……俺はちかと遊べれば十分かなぁ」
 マジックで使うようなシンプルな柄のトランプを持ち、トランプタワーを作ると言う彼は、いたって真面目な顔をしていた。こんなにも真面目な顔をされると断る、という選択肢は頭の中から消えてしまう。
 もともとちかと遊ぶための部活なんだし、と言いながらホームルームのドアを開ける悠李に続いて教室に入る。教室には既にほとんどのクラスメイトが揃っていた。
 眩しい日差しが校舎の横に植えられた樹木にあたり影を落とし、普段の教室とはどこか違うその雰囲気は、夏期休暇の始まりを告げていた。
「ちかは復習テストの範囲は勉強してきた?」
「……俺一夜漬け得意なんだよ」
「あー……間違いないね」
 渋い顔をする悠李。これまで俺が見せつけてきた輝かしい一夜漬けの実績を思い出しているのであろう。
「悠李はどーせ満点、これで提出します」
「プレッシャーだって」
 凡ミスが怖いんだよ、悠李は苦笑いをする。

 席替えのくじ引きに恵まれ、無事に窓際の一番後ろに陣取った俺と、その横に座る悠李は、一時間目に待ち受ける小テストの心配はせずに夏休みの予定を立てるために昨日見た動画の話を始めた。悠李は勤勉だからだが、俺は一夜漬けを味方につけたと思い込んだことで、謎の自信があったのだ。

 数分ほど話をしていると、明らかに寝不足そうな担任が着古したシャツをまとい、ガラガラと音を立てて教室へ入って来た。
「おーす。みんな来てるかー?」
「来てまーす」
「おー、こんな暑い日に偉いな。前後左右いないやつはいるか?」
「飯田がいませーん」
「いるわボケ!」
 クラスメイトのボケをスルーし、出席確認も適当な担任、倉橋 恭(くらはし きょう)は物理教師である。
 白髪が数本混ざる黒髪、アーモンド型で垂れ目の奥二重、控えめな鼻と薄く荒れた唇、物理教師らしい白衣に紺色のスポーツサンダル。当たり障りない普通の容姿ながらも、砕けた物言いと、言動に反する教育への真摯な姿勢が、生徒から絶大な人気を誇る理由である。彼の住処である物理準備室は部室棟から最も近い部屋であるうえ、冷蔵庫を備えているため、夏の間は俺たちもよくジュースを冷やしに駆け込んでいる。それに対して俺の分も買って冷やしておいてよ、と言えるところが頼もしい。
「全員揃ってるな。暑いから俺戻るわ。帰りのホームルームもあるから、三限終わっても勝手に帰らないように」
 じゃあね。そう言い残して倉橋が去ると、入れ替わりで数学教師が入ってくる。一連の間にも必死に教科書を見続けていたクラスメイトたちは、冷めきった瞳を向けて静かな抵抗をしていたが、彼の教科書しまえ、の冷たい一言で絶望の表情を浮かべていた。
 俺はまわりからの評価を変えぬよう、前日にこれでもかと一夜漬けしたおかげで問題なく解ききることができた。残り時間はおよそ五分。もう大丈夫だと思い、俺は机にうつ伏せになり、瞼を閉じた。

 いつも先に解き終わるはずの悠李は、そんな俺を横から見ていたとは知らずに。

――

 ふわふわとした頭。夢の中。いつものあれがやってくる。
 ああ、少しずつ意識がはっきりとしてきた。

 雲が遠くに見える青空。見覚えのある二車線の交差点。道路のそばには一階にコンビニが入った銀行やビジネスホテル、居酒屋など五階程度の建物が多く、駅の近くを連想させる。その建物たちは空と道路と共に、視界の多くを占めていた。眩しい日差しに思わず下に目をやると、ガムがへばりつき薄汚れたアスファルトと、擦り傷の多いガードレールの袖ビームが目に入る。根元から生えた雑草に生命力感じ、目を背けると、左手が届きそうな歩道内側の角に設置された石碑が目に留まった。中央に備え付けられた時計は、午前七時三十分を指している。この時間を、脳裏に焼き付ける。

 視線を道路に戻す。二車線の道路を挟んだ向かいには、地元で人気の花屋があり、俺は彩度の高い花々に吸い寄せられるように交差点の横断歩道を渡りだした。信号の色は気にしていなかったが、問題なく渡ることができたということは、きっと青だったのだろう。目的の花屋は最近女性向けの全国紙に掲載され、早朝にもかかわらず市内外から人が集まっていた。近隣住民ではないと分かった理由は、折り畳まれた小さなマップを持っていたからだ。
 花屋は交差点の渡った角ぐらいにあった。アメリカのニューオーリンズなどの街並みを彷彿とさせるような、ジャズが似合う雰囲気と浅いバルコニーを持つ建物だ。薄い緑色のストライプが入ったシェードの下に花たちは並べられている。色とりどりの花々に、俺の心は少しだけ動揺を見せた。

 店は四十代後半の夫婦と、その一人息子である二十代半ばの卯守 一樹( うさね かずき)が切り盛りしていることでも話題になっている。看板娘ならぬ看板息子が注目されていたのだ。彼はメディアが注目しやすい、所謂男前な外見だった。はっきりとした彫りと立体感のある鼻。印象の強いきりりと目立つ太めの眉毛。ラフで無造作ヘアが逆に映える。腕まくりをした袖の先に少し焼けた肌との境目が見え、女性客が目聡く熱い視線を送る。第一印象としては悠李のほうが衝撃的であったが、二十代に成長したら案外戦えるのかもしれない、なんて、上から目線の印象か。
「今日も卯守さんは男前ね~」
「いえ、そんなに褒めないでください」
 噂の卯守一樹らしき人物は、数人の婦人に囲まれ話しかけられながらも、テキパキと新鮮な花々を水揚げしていた。精悍な印象を受ける容姿に見えるが、性格は思いのほかドライなようだ。
「そのクールな態度もいいのよ~」
「ありがとうございます」
「その照れちゃう感じも素敵です~!」
 落ちた花弁が目に映る。きゃあと黄色い声が聞こえる。これから起こることがわかっているというのに、この状況に慣れ切っていた俺自身に嫌気がさした。

 今回はどうなるのか。いつになったら解放されるのか。もうやめてくれと願う言葉は誰も聞いちゃくれない。

「――きゃあぁぁあ!」
 願いが終わる暇もなく、遠くから黄色い声ではない、恐怖に支配された悲鳴が聞こえだした。女性たちの声以外にも、男性も子供も、散歩中であっただろう犬の咆哮も聞こえる。突如として異質な空気が流れて肌を包み込む。
 一瞬でいつもの悲劇が始まったと、理解した。
 悲鳴が聞こえる方角へと目を向けると、クリーム色に橙色のラインが入ったタクシーが中央分離帯を超えるような猛スピードで暴走してくるのが見えた。真新しい車体が太陽光を反射して思わず目が眩む。運転手の中年男性はぐったりと下を向き、代わって乗客らしき、おとなしそうな女性が目を最大限に開いて、後部座席から飛び出る形で必死にハンドルを握っている。しかし、いくらハンドルを操作しようとも、運転手が目一杯アクセルを踏んでしまっているため、減速する気配は一切ない。エンジン自体を切ることや、ニュートラルへの変更あるいはサイドブレーキなどが緊急時に有効だと祖父から聞いたことがあるが、それもままならない様子に見える。
 異常に気が付いた周囲の車は神速の鉛玉と化したタクシーの暴走経路から外れるように急ブレーキをかけたり、逆ハンドルを切ったりとそれぞれが最低限の衝突を許容し、とにかく”最悪の事態”を免れるために行動した。誰もが愛車のパーツや車のローンなんて気にしなかった。何よりも命が大切だと、全員の心は一致団結していた。

 渦中あって心が異なるのは、花屋にいる人びとだけであった。そこでは皆が夢中になって話をしているおかげで、タクシーが接近するまで誰一人異常事態に気が付かなかったのである。
 彼女らが事態に気が付いたのは、店舗とタクシーとの距離が数百メートル程度になった時点で、暴走するタクシーを避ける術は、誰も持ち合わせていなかった。

 世界が壊れる音は、こんな音なのだろうと思った。
 
 コンクリートや鉄、備え付けられたガラス戸が崩れ落ちる激しい音と同時に、黄色い悲鳴は一つも聞こえなくなった。飛び散る赤い紐状の”何か”と瓦礫。人体の構造には詳しくないが、臓器の一種ではないかと悟った。赤く染められて舞い落ちる、青と紫と黄色と白の花弁は状況に相反して美しく、皮肉にも悲劇の終わりを務めるには相応しかった。直撃を逃れた女性は、先刻まで話していた人が、半身が大きく変形し人でない何かになった現実を直視できない様子で放心している。左足が瓦礫で潰れた女性は痛みとパニックで吐瀉をまき散らし、男前の卯守さんはその存在を判別すら出来ず、瓦礫の下で唯一発見できた逞しい腕がぴくりと動いた後、再び動くことはなかった。タクシーの中の二人はまだ意識があるようだが、頭や腕から血を流し、足元は外壁のコンクリートに潰されている。

「逃げろ!」

 通りかかった半袖のワイシャツを着た中年の男性が大声を上げ、周囲の人びとはビクッと反応した。
「爆発するかもしれない。まだ死にたくないならさっさと逃げるんだ」
 あくまでに冷静な、その声を聞いた動ける人びとは現実を受け入れる間もなく、他人に判断を委ね、お互いを支えあいながらその場を離れた。錯乱した一部の人が知人の欠片を手に持ったまま、ズルズルと引きずる跡が放射状に伸び、凄惨な現場の所在をより明確なものにしていた。
「君も下がって。ここはおじさんが何とかするから、ね?」
「……はい」
 中年男性に見せられた警察手帳を見て、この人かと納得した。何度も見せられた手帳が、この悲劇が間違いなく夢だと告げていた。
 時計は七時四十分を指している。

 意識が遠のく。
 また彼女に会うのだろうか。

 ――

 壁などはない、果てしなく続く白い世界。
 薄茶色の髪に、秋らしい黄色のワンピースにデニムを合わせた、少女とも成人女性ともとれる人物が立っている。左の腰あたりが透けていて、足元のスニーカーの紐は千切れ、片方は裸足である。
「こんにちは」
 女性が悲しそうな顔で俺に話し掛ける。
「またあんたかよ。そろそろ教えてくれよ。なあ……いつまでこんなことを続ければいいんだ」
 少しだけ怒りを乗せた声を出すと、彼女は申し訳なさそうに「もう少しです」と、小声で呟いた。

「もう少しってなんだよ。君は神様か何かなのか?」
「……神様がいればこんなこと……いや、神様はいる、はずかな」
 今にも泣きそうな顔で呟く彼女に、言葉を発することを躊躇ってしまう。ずるい。あなたがこの世界を作り、俺に見せているんだろう。
「……どういうこと?」
「ごめんなさい……お願い。お願いします」
 その言葉だけは残され、彼女の存在はいつの間にか認識できなくなっていた。

 わからない。でもとにかくやらなければ。
 いつも通り、俺が抱え込めばいい。抱え込めば何とかなるんだろう。
 そう思い、白い世界に溶け込んでゆく。
 
 こんな夢を見るのは、俺にとって珍しいものではなかった。朝が怖い。夢を見るから。悲惨な夢を見るから。俺に、意味不明な救いを強いる夢を。