重なる景色に、花束を。



 意識を彼方へ飛ばし、しんと静まり返った部屋の中で、枕元に置いたはずのスマートフォンが賑やかに七時十五分を告げる。いつもなら七時に鳴り始めるが、昨晩は遅くまで起きていたせいで、背徳感を感じつつ、画面のタイマーをずらすことで自分を甘やかしてしまった。
 騒ぎ立てるスマートフォンを探すには部屋が暗いと、幼少の頃から変わらない薄き緑色のカーテンを開ける。するとすぐにモヤモヤした気持ちを突き刺すような日差しが首に刺さった。今日も晴れか。
 晴れなら結構。ベッドとマットレスの隙間に落ちた愛用のスマートフォンを充電器を引っ張り上げて回収した後、甘やかして遅れた十五分を取り戻すため、てきぱきと行動した。
 布団を片付けパジャマを脱ぎ、秩序もなく開けっ放しのクローゼットの取っ手にぶら下がるワイシャツを手に取る。見慣れたワイシャツは相変わらずいつの間にかパリッとアイロンがかけられており、母の几帳面さを感じる。
 母の顔がよぎった瞬間、ノックの音が部屋に響いた。母の愛情である。

「ちょっとー、起きてるの?」
「ああ、今起きたよ」
「ご飯出してあるからね」

 わかった、と返事をすると、母が階段を降りる音が聞こえた。中学二年の夏の日に、朝寝ぼけて家の階段から落ち、頭を強く打ってから、多少の遅刻に寛容な母でもほとんど毎日起こしに来るようになった。高校生になった今、もうそんなヘマはしないのに。
 学校指定の薄手で紺に近いチェック柄のスラックスを穿いて、身支度を整える。手慣れたものだ。視界に見飽きて色あせた時間割が入ると、今日は学校で数学がある日だと思い出す。忘れるところだった。嫌な顔をしながら机の上の教科書を手に取る。他の教科書はロッカーに入れたままだが、数学は授業の初めに前回分の小テストがある。それだけではなく復習用のテストが夏休みの補習初日……つまりは今日控えているため、持ち帰らなければならなかったのだ。
 もう忘れ物はないなと鞄の中身と部屋の中をくるりと確認してネクタイを掴み、部屋のドアを開けた。
 今日は多分、大丈夫そうだ。

 母から遅れること数分。階段を降り、二、三畳ほどの狭い玄関に鞄を置く。この玄関マットも随分色が落ちてきている。そのまま流れるように玄関横の洗面所で顔を洗い、さっとスタイリング剤で寝癖を整える。正直可もなく不可もない平均顔で生まれた俺は、ヘアスタイルにこだわりはない。ただスタイリング剤は今流行りのイケメン俳優がCMをやっていたからという安直な理由で母が買ってきてから何となく使うようにしている。スタイリングの一連の作業は五分もかからない。モテようと考えないことで時間が節約出来る。この顔に感謝したい、と思うこともあるが、やはりイケメンにはなりたい。擬態するには同じものに縋るしかないのだ。
 両頬を叩き、暗い気持ちを払拭してからリビングの扉を開けると、朝のテレビ番組が放送されていた。何も変わらない、いつもの日々に安堵する。

『――七月二十日、本日の天気は全国的に晴れ模様となりそうです。こちらには既に子供連れのご家族が大勢詰めかけ、夏休みらしい賑わいを見せています。それではそちらのご家族にお話を――』

 水色のふわふわしたトップスと、薄く花柄が印刷された白いスカート。朝らしい爽やかな衣装に身を包む若そうな気象予報士は、一昨日隣町に出来たばかりの屋外レジャーランドを背に、楽しそうに天気予報を伝えている。名物は日本で最長クラスのジェットコースター。全身がずぶぬれになる仕様は夏にありがたいのだろう。ここ数日は天気も良く、レジャーランドは繁盛しているようだ。世間は夏休みといえどもこんなに朝早くから水に浸かりたいのかと、今日から補習が控える身分も相まって、渋い顔をしてしまった。
 キッチンの対面に置かれたダイニングテーブルに用意されていたのは、目玉焼きとウインナー数本、そして何の葉かわからないサラダと白米。そこに添えられた輝く果汁百パーセントのオレンジジュース。だけかと思いきや、陰に隠れた少なめの白湯。飲み物が二つもあるがこれが我が家の朝の定番メニューで、物心ついた時から同じものを食べているので、今更違和感はない。ウインナーがベーコンになったり、目玉焼きがスクランブルエッグになったりと、申し訳程度のマイナーチェンジはあるが、朝ごはんが大きく変わるのは、誕生日とか記念日といっためでたい日か、おばあちゃんが家に食料を沢山届けてくれた日ぐらいだった。

「補習は何時までなの?」
 母に話しかけられ、目玉焼きにいつもより多めに醤油をかけてしまった。しょっぱそうだ。醤油差しを置き、鞄の中からファイルを取り出して先週もらった補習の案内が書かれたプリントを見せる。
「一応お昼ぐらいに終わる予定。そのあと友達と出かけてくるかも」
「そうなの。お母さんは七月中はまだ仕事あるから、戸締りお願いね」
「はいはい」
 口の中にいつもより多い醤油を感じながら相槌を打ち、もうそろそろ家を出なくてはと、テレビ画面に目を戻す。占いコーナーは必見だ。とはいえ順位がいい日しか信じていないが。

『――それでは今日の運勢、第一位はなんと、しし座のあなた! いつもよりハッピーな一日が送れそうです。ラッキーアイテムは白いストラップ! 続いてはニュース速報です――』
 まさかの一位。信じる日だ。白いストラップは家のカギについているなと考えながら、母に聞こえるようにごちそうさまと呟いた。
 この時、時刻は七時五十分。自宅から学校までおよそ二十分。自転車と電車を乗り継いで毎日のように通っている。補習が始まるのは八時四十五分からであり、今から出発すれば問題なく到着しそうだ。

 ポップなパッケージで苦手なミント味の歯磨き粉で歯磨きを終えて、爽やか度をアップさせる。まずくても綺麗になればいい。洗面横のラックに仕舞われたハンカチをポケットへ滑らせる。母がハンカチを持つ習慣をつけてくれたおかげで、出先でトイレに行って困ることはなくなった。ありがたいが、濡れた布を持ち歩くことはあまり好きではないことはまだ黙っている。
 玄関で忘れ物をチェックし、まだ履き慣れていないスニーカーへ足を入れる。梅雨でドロドロになったものを新調してから少し馴染んできたが、まだまだ踵が硬い。
「……行ってきまーす」
「ちょっと、大きい声で言いなさいよ。いってらっしゃい!」
 出発しようとすると、朝食の後片付けをする母が、キッチンから大きな声をあげて送り出してくれた。
 自分も仕事に行かなければならないだろうに、主婦は大変だなと思いながら白いクマがついた自転車と家のカギを持ち、家を出る。既に暑い日差しが目に入り、思わず日陰へと移動した。
 気象予報士の言う通り、今日は一日晴れそうだ。

 鋭い熱に耐えながら自転車を軽快に走らせた十分後、目的の駅に到着する。駅舎は質素で一見するとアパートなのかと思うほど小さいが、一応自動改札機が設置してあるので、不便はない。
 そんな最寄り駅の入り口横の木陰で、見知った顔がいつも通り待っていた。真夏の気温が嘘のように清涼なオーラを醸し出す彼は、俺が彼の視界に入るや否やすぐに声をかけてきた。

「ちか!」

 艶のある声と同時に、大きく手を振って存在感をアピールする彼は、一花 悠李(いちか ゆうり)である。
 悠李と高校で出会い、現在進行中の歴史は二年目であるが、シンプルに親友といえる存在だ。彼とは桜が散り始める頃、高校の入学式当日の下駄箱の喧騒の中に出会った。初めて目が合った日の様子は今でも、嫌でも覚えている。

――

 入学式。桜が役目を終えようとするその日は風が強くて、母の車から降りた途端、目にゴミが入った。眼鏡もかけず、普段から目薬も持ち歩かない自分にとって擦る以外の対処法はなく、同じ中学校に通っていた愉快な友達の藁谷(わらや)に、涙目状態の俺はいじられていた。彼は黒髪で短髪、中学では陸上部に入部していたため、少しだけ筋肉がついている。少しだけなのは、ほどほどの成績だったからだと本人が言っていた。ごく一般的な外見で、お互い気を使うタイプでもないこともあり、気が付いたら一緒にいるようになった。

 藁谷に「だっせー」と言われながらピカピカに掃除された下駄箱に到着すると、そこには新しい環境に浮かれた同級生が沢山いた。もちろん俺もその中の一人だった。そんな昇降口の一端に、顔見知りの女子を含む、様々な学年が入り混じる人だかりがあった。

「何? クラス分けの紙でもあるの?」
「いやちげーよ……例の高嶺の花。一花だよ。同じ高校かぁ」
「高嶺の花の一花? 誰それ。そんな異名がついた女子いたか?」
 はぁ、とため息をつく藁谷を横目に、ゴミのせいで痛い目をこじ開け、人だかりを凝視した。

 高嶺の花で、芸能人みたいな奴。少なくとも中学にはそんな可憐な子はいなかったはずだ。人だかりができるほどの騒ぎは見たことがないし、もし同じ中学に通っていたならば、見ていなくとも男の間ではその手の噂は聞いているはずである。そう思い頭の中のフォルダを必死にサルベージするが、何も引っ掛からなかった。

 首を捻らせていると、藁谷は人差し指を振り、得意げにこう答えた。
「ばか、男だよ。一花悠李」
 聞いたことがない名前だ。
「去年の暮れにこっちに引っ越してきたって噂知らない?」
「なんだ、男の話かよ。聞いたことないわ」
「中学はもといた地元のまま通ってたらしいけど、高校は引っ越しに合わせて変えたんだって。卒業式間近に街で見かけた女子たちがずっと騒いでたぜ」
 羨ましい、と身震いする藁谷。街で噂される容姿とは珍しい。この町で騒ぎになるのは新しく出来たバナナジュース専門店とか、その程度のものなのに。

「そんなに凄いやつなの?」
「凄いも何も、とにかく顔がいいってさ。見てみようぜ」
「へえー、顔ね……」

 町で騒ぎになる顔。そこまで言われると流石の俺も気にはなる。
 どれどれと一花を目で……探さなかった。
 探すまでもなかった。

 人だかりのど真ん中に、文字通り頭一つ抜けている人が見えた。
 その頭がぐるりとまわり、こちらを見た瞬間、間違いなくこいつだと思った。その顔は何と形容していいのかわからないほど、美しいを体現していた。これは、噂されるレベルだ。

 今は春なのに日差しを感じない凛とした冬のオーラをまとい、白よりも銀と表現するべき、透き通り、目元と頬に少しだけピンク色をさし色にのせる滑らかな肌、伏し目がちで色素の薄い茶色の瞳。それを包み込む切れ長の二重。日本人でありながらはっきりと凹凸のわかる骨格。そしてあるべき場所に収まる口に、果実のようにみずみずしい唇が添えられていた。クールな印象を持ちそうだが、薄茶色のふわふわの髪の毛がそれを程よく抑制して、どこか可愛さをも兼ね備えていた。
 一般人としての感想をあえていうのであれば、芸能界はこういう王子様の集まりなんだなと、納得してしまった。次元が違う。さぞかしモテまくる人生なんだろうな、と藁谷と同じように羨ましくなった。

 しかし彼は、俺の想いとは裏腹に、予想だにしない顔をした。
 それは、いなくなった愛犬を既に探したはずの家の物置の中で見つけた時のように、あるいは誕生日に誰にも言っていないはずの欲しいものを送られた時のように、友達の想い人から告白された時のように……嬉しいような恥ずかしいような、それでいて『どうして』という感情がうずまく視線を向けられ、俺は目を逸らせなくなっていた。
「どうした?」
 おーい、と藁谷に名前を呼ばれて意識を取り戻す。あの視線は何だったのだろう。
 いつの間にか目のごみはどこかに行ってしまって、「なんだよ」とうつろに返事をしながらピカピカのローファーを手に持つ。三年間、大切に履かなければ。
「ぼーっとしてないでクラス分け! 早く確認しようぜ」
「はいはい。お前は探しやすくていいな」
 苗字が藁谷の彼は、今までずっと出席番号が最後で、良くも悪くも名前を見つけることに慣れていた。何度クラス替えしても一番隅の後ろの席に座る特権を与えられていたのだ。
「まあね~。……あ! 俺三組! 相変わらず最後だよ」
「藁谷なんて万年最後だよ」
「うるせ! 自分の名前は見つけたのかよ」
「ちょっと待って……」
 一組、二組、三組と探しても自分の名前が見当たらない。全部で四組しかないため、間違いなく四組だと確信し、四組の欄に目を移す。
「――相藤……、飯田……、あ! 泉野 千景(いずみの ちかげ)! 俺四組だ」
 桜で飾り付けられた紙には、ゴシック体で上から三番目に”泉野千景”と書かれていた。藁谷とは違い、名前がア行から始まる俺は、上から探す方が早く見つかる。名前を指刺して藁谷に確認させると、「なんだよ違うクラスかよ」とがっかりさせてしまった。やっぱりいい奴だ。
「相棒と離れるなんて寂しいぜー。なー、いずみもだろー。お昼は食べに行くよ……ってお前!」
「なに?」
 突然騒ぎ出す藁谷が、壁に貼られた紙を激しく叩く。

「一花! お前の次一花じゃん!」
「え?」
「出席番号の次! 泉野でそのあと一花! 一花も四組だってよ」
 面白がって、「へー、どれぐらいモテるか見て教えろよ」と藁谷が言う。先ほど目が合った例の彼と同じクラスになったらしい。それに出席番号も連番で、入学して一番初めの席は彼の前に座ることが確定した。視界に入らないのは良いが、後ろから圧をかけられるのかと思うと、落ち着かない。
「……まじ?」
 藁谷の言葉が俺を驚かせるための虚言だと、一縷の望みを胸に、もう一度張り出されたクラス分け表を見る。見るまでは、自分が確認するまではまだ現実ではない。シュレーディンガーの猫箱の話を聞いてからは、信用できる何よりも自分の目を信用するようになった。

 四組の表には”泉野千景”、”一花悠李”と続いていた。間違いなく俺の後は一花だった。