10
三年前の八月十九日。午後四時九分。鉛色の空に、雨が降りそうな雲行きだった。中学生で遊び盛りの泉野千景は、住宅街の中央に位置する、敷地の端まで見渡せるほどのコンパクトな公園で、友達五人とサッカーをして遊んでいた。彼らは夏休み中にサッカーにはまり、高校生になったら同じサッカー部に入ろうと、毎日公園に集まっていた。彼らの絆は、とにかく硬かった。
いつものように彼らが遊んでいると、そのうち一人の男の子がミスをして遠くにボールを飛ばしてしまった。千景は、根っからの優しい性格だった。何かアクシデントが起こると、誰よりも早く、動いていた。
「何やってんだ! 今取ってくるから待ってろよー」
千景は手を振りながらボールを追いかけた。公園内で転がっていたボールは慣性の法則には逆らえず、千景と距離をとりながら、少しずつ、少しずつ公園の外へと動いた。
コロコロとひとりでに転がるボールは、車の侵入を妨げるポールに当たった。そのポールが軌道をずらし、ついに公園外へとボールを導いてしまった。それに釣られた千景は、公園から飛び出し、車道と歩道のちょうど境目でボールを掴んだ。
今から戻るぞと振り返ろうとした途端、千景は体の左側に違和感を感じた。
千景の頭が揺れた。ぐにゃ、と歪む視界に、千景は何も考えられなくなった。記憶が飛んだ。記憶だけではなく、彼には一緒にサッカーをしてくれる友達がいなくなった。誰も、そのトラウマから復活できていなかったからである。
これは、ほんの数分間の出来事であった。
――
三年前の八月十九日。午後四時三分。引越しの準備を終えた一花悠李は、幼馴染である西秋 央子と自転車に乗っていた。悠李と央子は友達以上、恋人未満の関係で、悠李は小さな愛情を、央子に寄せていた。
引越しは、その気持ちを伝えるまでの大きさにするために、十分すぎる機会となった。央子は何となく、気付いていた。ただ、関係を壊すまいと、知らないふりをしていたし、それは家族的な愛であり、恋愛ではないとどこか察していた。二人は悠李の引越し先の町内を自転車で下見していた。彼らの時間は誰よりも青春の言葉が似あうものだった。
六分ほどこがれた自転車は徐々にスピードを上げて、公園の近くに差し掛かった。央子の後ろに続いていた悠李はついに口を開く。
「ちかー! 俺ー! やっぱりちかと居たいよー!」
「なにー? 聞こえないよー!」
央子が照れ臭い顔をして後ろを振り向くと、自転車は何か塊に当たり、そのまま前輪を軸としてぐるっと半回転した。衝撃により、車道の真ん中に放り出された央子と自転車は、バリバリと不快な音を立てて通りすがりの車に巻き込まれた。
悠李はすぐさま央子に近寄った。かろうじて息をしていたが、いまにも止まりそうであった。過保護な親に持たされた携帯電話ですぐに救急車を呼んだ。その後、近くの子供たちが意識のない男の子を見つけた。名前を叫んでいたので、きっその男の子の友達なのだろう。息の詰まる空気に、央子の自転車は彼に当たったのだと悟った。頭の中が真っ白になった。悠李は外界とのつながりを拒絶し、ただ一心に、生きのびてくれと、目を閉じて強く願った。
これは、ほんの数分間の出来事であった。
――
二人の説明を聞いた俺は、記憶にない思い出を必死に整理しつつ、必死に問いかけた。
「つまり、俺は階段から落ちて入院、じゃなくて、本当の理由は自転車に轢かれたからってこと?」
「……そうよ」
目を合わせずに頷く母。
「俺は、間接的に、人を殺したってこと?」
顔を伏せたまま、殺してないよ、と悠李。
でも、俺がそこにいたから、央子さんは事故にあった。俺が悪い。俺のせいだ。俺が、俺が。
窓の外から雨音が聞こえてくる。
「俺は、央子さんを殺したの?」
「違う!」
勢いよく顔を上げて否定する悠李。いつもの柔らかい王子様の面影はない。映画で見た、取調室にいる犯人のように、真っ黒で、やつれて、震えていた。震える体を支える心の余裕なんてなかった。
「俺が、ボールを取らなければ、央子さんは死ななかった?」
「ちかは、央子は、生きてる……生きてるの……」
涙のこぼれそうな瞼を強く閉じて、生きていることを強調する悠李。そこまで思う相手がいるなら、何で俺にあんなこともした? 大切な相手を追い詰めた原因は俺なのに。
「悠李、お前、俺のこと代わりにしてた? 名前が『ちかげ』で『ちかこ』と似てるから? あぁ、嫌がらせ? 出会った初めから、俺が原因だって知ってた……? 俺が、お前の好きな人殺したから? なあ、何……?」
「生きてる! ちか……央子は生きてるの。本当。ただ……今でも入院してる。意識はないけど生きてる」
俺はいつか目を覚ますと信じてる、と悠李が涙を流し始めた。中学生の女の子を三年間眠り続けさせている。この原因が俺なのに? ああもう、ついていけない。涙を見せる二人を見て急に孤独になった。どうしたらいいかわからない。沈黙を貫く母さんにもイライラする。
「母さん。どうして今まで教えてくれなかったの?」
「……ここまで話したらもう、千景が傷つくとしても言うけど、今みたいに、自分を責めると思ったから」
「責めるも何も、俺のせいでしょ」
「千景がその責任は負うべきじゃないの。運悪く、二人がぶつかってしまっただけなの。嘘をついてでも、あなたの人生を守りたかった」
家族全員、その気持ちだったの、と母。
「そんなの優しさじゃないよ」
「……そうね、早く言ってあげれば良かったわね」
重たい空気が流れる。もう現実は変わらない。きっと、俺が原因だから、夢を見るようになったんだ。悠李が原因じゃない。俺が大怪我をさせたから、罪を償うために人を助けろって、央子さんが告げてくれたのだろう。
「……もういい、俺が、悪いから。これからどうにかするから」
「ちか……」
「今日はもう風呂入って寝る。一人にさせて」
「わかった……」
悠李は本当にお邪魔しました、と深々とお礼をして帰って行った。母にご飯は、と聞かれたが、喉を通る気がしなかったのでいらないとだけ告げ、いつもより早めに階段を上る。
明日は補修の最終日。試験が返却される。試験の点数なんて、人生に何も影響しない。点が取れたから偉い? 人を死ぬ手前まで追い込んでおいて、俺の人生意味あんの? やってられるか。悠李も母も、全員俺のことを騙して、普通の生活を送らせて。こんな人生、もういらないのに。
手を首に回して力をこめる。少しだけ伸びた爪が食い込んで、痛い。思わず手を離す。
死ぬことができない。自分に死ぬ覚悟すらない。呆れた。央子さんには、もっと痛い気持ちにさせておいて、自分はすっかりそのことを忘れていたのに。
頬から首に落ちる涙を拭い、俺は深い深い、眠りについた。
――
目を覚ますといつもの朝は来なかった。腕の隙間から見える傷の目立つ木製の机。スラックス越しに感じる冷たく固い椅子。そして空間に響く秒針の音。そこはいつも通っている学校の教室だった。
これは夢だ。例の夢だと気付く。嫌な予感がする。時計を確認すると、午前六時四十二分。明日の早朝だ。
誰もいない教室。遠くに見える窓。カーテンが揺れている。カーテンに黒い影が見える。それはベランダにいる人影に見えた。――誰かがそこにいるのだろうか。カーテンの揺れが止まるまで、うわの空で外を眺める。
影は人……に見えたが、どうも頭の位置がおかしい。普段教室で見ている高さよりも明らかに高い。その高さは、胸の高さにある手すりよりもかなり上、ちょうど上半身分ぐらい上の高さに頭がある。……ああ、嫌な想像が止まらない。そろそろと足が勝手に動き出す。一歩、二歩。窓に近づくたびに冷や汗でシャツが肌に張り付いていく。
嫌な予感が確信に変わるまで、そう時間はかからなかった。
俺はカーテンを開け、ベランダへ視線を移す。顔は見えないが、そこには悠李が座っていた。予想通り、手すりの、上に。
なあ、危ないだろ。そんなところにいて、間違って落ちたらどうするんだ。さすがの俺でも助けられないぞ。俺は、非力で、弱くて、力なんてない。悠李を抱えて持ち上げるなんてことは、してやれないんだ。だから、ほら。早くこっちに戻れって。
伝えたいことが沢山あるのに、心が壊れそうで、何も言葉にならない。
悠李は微動だにしない。ただ、視線は下に向けられている。地面を、見つめている。
「悠李ッッ! おい……ちょ、っと、ま……ッ、待て、嘘、なあ! やめろって――!!」
俺はついに大声を出して悠李の腕へと手を伸ばす。その手は届かない。涙と汗でぐちゃぐちゃになった袖が、虚しく空を切る。俺を見た悠李は驚くように目を開けてから微笑み、ゆっくりと下へ落ちていく。ごめんね、と動いた口が見えた。
夢の中だと割り切れないほど、生きた心地がしなかった。早く終われ。早く終われ。
鉛のような重たさを孕んだ、黒い果物が潰れたような、不快な音が聞こえた。地面へ徐々に広がっていく血だまり。綺麗なt栗色の髪の毛の先から、赤が染み込んでいく。
嘘だ。そうだ、夢だ。夢だから……。
目を瞑ると同時に、白い世界に、溶けていく。
――
白い世界。救う対象が悠李でも、変わらず女性がそこにいた。そうか、この子がきっと。
「……央子さん、だよね」
「……そうです」
「今まで何も知らなくて……ごめん」
「私も、ごめんなさい。あなたに干渉したら、この世界が終わってしまうんじゃないかって考えてしまって……」
「俺さ、悠李を助ければ、罪を償える?」
「……」
「なぁ! 教えてくれよ……」
俯く彼女は、急に力が抜けたようにペタンと座り、感情が溢れ出した
「……お願いします! お願い! 悠李を助けて! 悠李に……彼に幸せになって欲しいの……まだ間に合うの!! 千景さんにしか出来ない!! 出来ないの! お願い!」
「……あぁもう!! 分かってるよ!! 俺がどうにかすればいいんだろ!」
意識が遠のいていく。
これが最後の役目だと、俺は思った。
三年前の八月十九日。午後四時九分。鉛色の空に、雨が降りそうな雲行きだった。中学生で遊び盛りの泉野千景は、住宅街の中央に位置する、敷地の端まで見渡せるほどのコンパクトな公園で、友達五人とサッカーをして遊んでいた。彼らは夏休み中にサッカーにはまり、高校生になったら同じサッカー部に入ろうと、毎日公園に集まっていた。彼らの絆は、とにかく硬かった。
いつものように彼らが遊んでいると、そのうち一人の男の子がミスをして遠くにボールを飛ばしてしまった。千景は、根っからの優しい性格だった。何かアクシデントが起こると、誰よりも早く、動いていた。
「何やってんだ! 今取ってくるから待ってろよー」
千景は手を振りながらボールを追いかけた。公園内で転がっていたボールは慣性の法則には逆らえず、千景と距離をとりながら、少しずつ、少しずつ公園の外へと動いた。
コロコロとひとりでに転がるボールは、車の侵入を妨げるポールに当たった。そのポールが軌道をずらし、ついに公園外へとボールを導いてしまった。それに釣られた千景は、公園から飛び出し、車道と歩道のちょうど境目でボールを掴んだ。
今から戻るぞと振り返ろうとした途端、千景は体の左側に違和感を感じた。
千景の頭が揺れた。ぐにゃ、と歪む視界に、千景は何も考えられなくなった。記憶が飛んだ。記憶だけではなく、彼には一緒にサッカーをしてくれる友達がいなくなった。誰も、そのトラウマから復活できていなかったからである。
これは、ほんの数分間の出来事であった。
――
三年前の八月十九日。午後四時三分。引越しの準備を終えた一花悠李は、幼馴染である西秋 央子と自転車に乗っていた。悠李と央子は友達以上、恋人未満の関係で、悠李は小さな愛情を、央子に寄せていた。
引越しは、その気持ちを伝えるまでの大きさにするために、十分すぎる機会となった。央子は何となく、気付いていた。ただ、関係を壊すまいと、知らないふりをしていたし、それは家族的な愛であり、恋愛ではないとどこか察していた。二人は悠李の引越し先の町内を自転車で下見していた。彼らの時間は誰よりも青春の言葉が似あうものだった。
六分ほどこがれた自転車は徐々にスピードを上げて、公園の近くに差し掛かった。央子の後ろに続いていた悠李はついに口を開く。
「ちかー! 俺ー! やっぱりちかと居たいよー!」
「なにー? 聞こえないよー!」
央子が照れ臭い顔をして後ろを振り向くと、自転車は何か塊に当たり、そのまま前輪を軸としてぐるっと半回転した。衝撃により、車道の真ん中に放り出された央子と自転車は、バリバリと不快な音を立てて通りすがりの車に巻き込まれた。
悠李はすぐさま央子に近寄った。かろうじて息をしていたが、いまにも止まりそうであった。過保護な親に持たされた携帯電話ですぐに救急車を呼んだ。その後、近くの子供たちが意識のない男の子を見つけた。名前を叫んでいたので、きっその男の子の友達なのだろう。息の詰まる空気に、央子の自転車は彼に当たったのだと悟った。頭の中が真っ白になった。悠李は外界とのつながりを拒絶し、ただ一心に、生きのびてくれと、目を閉じて強く願った。
これは、ほんの数分間の出来事であった。
――
二人の説明を聞いた俺は、記憶にない思い出を必死に整理しつつ、必死に問いかけた。
「つまり、俺は階段から落ちて入院、じゃなくて、本当の理由は自転車に轢かれたからってこと?」
「……そうよ」
目を合わせずに頷く母。
「俺は、間接的に、人を殺したってこと?」
顔を伏せたまま、殺してないよ、と悠李。
でも、俺がそこにいたから、央子さんは事故にあった。俺が悪い。俺のせいだ。俺が、俺が。
窓の外から雨音が聞こえてくる。
「俺は、央子さんを殺したの?」
「違う!」
勢いよく顔を上げて否定する悠李。いつもの柔らかい王子様の面影はない。映画で見た、取調室にいる犯人のように、真っ黒で、やつれて、震えていた。震える体を支える心の余裕なんてなかった。
「俺が、ボールを取らなければ、央子さんは死ななかった?」
「ちかは、央子は、生きてる……生きてるの……」
涙のこぼれそうな瞼を強く閉じて、生きていることを強調する悠李。そこまで思う相手がいるなら、何で俺にあんなこともした? 大切な相手を追い詰めた原因は俺なのに。
「悠李、お前、俺のこと代わりにしてた? 名前が『ちかげ』で『ちかこ』と似てるから? あぁ、嫌がらせ? 出会った初めから、俺が原因だって知ってた……? 俺が、お前の好きな人殺したから? なあ、何……?」
「生きてる! ちか……央子は生きてるの。本当。ただ……今でも入院してる。意識はないけど生きてる」
俺はいつか目を覚ますと信じてる、と悠李が涙を流し始めた。中学生の女の子を三年間眠り続けさせている。この原因が俺なのに? ああもう、ついていけない。涙を見せる二人を見て急に孤独になった。どうしたらいいかわからない。沈黙を貫く母さんにもイライラする。
「母さん。どうして今まで教えてくれなかったの?」
「……ここまで話したらもう、千景が傷つくとしても言うけど、今みたいに、自分を責めると思ったから」
「責めるも何も、俺のせいでしょ」
「千景がその責任は負うべきじゃないの。運悪く、二人がぶつかってしまっただけなの。嘘をついてでも、あなたの人生を守りたかった」
家族全員、その気持ちだったの、と母。
「そんなの優しさじゃないよ」
「……そうね、早く言ってあげれば良かったわね」
重たい空気が流れる。もう現実は変わらない。きっと、俺が原因だから、夢を見るようになったんだ。悠李が原因じゃない。俺が大怪我をさせたから、罪を償うために人を助けろって、央子さんが告げてくれたのだろう。
「……もういい、俺が、悪いから。これからどうにかするから」
「ちか……」
「今日はもう風呂入って寝る。一人にさせて」
「わかった……」
悠李は本当にお邪魔しました、と深々とお礼をして帰って行った。母にご飯は、と聞かれたが、喉を通る気がしなかったのでいらないとだけ告げ、いつもより早めに階段を上る。
明日は補修の最終日。試験が返却される。試験の点数なんて、人生に何も影響しない。点が取れたから偉い? 人を死ぬ手前まで追い込んでおいて、俺の人生意味あんの? やってられるか。悠李も母も、全員俺のことを騙して、普通の生活を送らせて。こんな人生、もういらないのに。
手を首に回して力をこめる。少しだけ伸びた爪が食い込んで、痛い。思わず手を離す。
死ぬことができない。自分に死ぬ覚悟すらない。呆れた。央子さんには、もっと痛い気持ちにさせておいて、自分はすっかりそのことを忘れていたのに。
頬から首に落ちる涙を拭い、俺は深い深い、眠りについた。
――
目を覚ますといつもの朝は来なかった。腕の隙間から見える傷の目立つ木製の机。スラックス越しに感じる冷たく固い椅子。そして空間に響く秒針の音。そこはいつも通っている学校の教室だった。
これは夢だ。例の夢だと気付く。嫌な予感がする。時計を確認すると、午前六時四十二分。明日の早朝だ。
誰もいない教室。遠くに見える窓。カーテンが揺れている。カーテンに黒い影が見える。それはベランダにいる人影に見えた。――誰かがそこにいるのだろうか。カーテンの揺れが止まるまで、うわの空で外を眺める。
影は人……に見えたが、どうも頭の位置がおかしい。普段教室で見ている高さよりも明らかに高い。その高さは、胸の高さにある手すりよりもかなり上、ちょうど上半身分ぐらい上の高さに頭がある。……ああ、嫌な想像が止まらない。そろそろと足が勝手に動き出す。一歩、二歩。窓に近づくたびに冷や汗でシャツが肌に張り付いていく。
嫌な予感が確信に変わるまで、そう時間はかからなかった。
俺はカーテンを開け、ベランダへ視線を移す。顔は見えないが、そこには悠李が座っていた。予想通り、手すりの、上に。
なあ、危ないだろ。そんなところにいて、間違って落ちたらどうするんだ。さすがの俺でも助けられないぞ。俺は、非力で、弱くて、力なんてない。悠李を抱えて持ち上げるなんてことは、してやれないんだ。だから、ほら。早くこっちに戻れって。
伝えたいことが沢山あるのに、心が壊れそうで、何も言葉にならない。
悠李は微動だにしない。ただ、視線は下に向けられている。地面を、見つめている。
「悠李ッッ! おい……ちょ、っと、ま……ッ、待て、嘘、なあ! やめろって――!!」
俺はついに大声を出して悠李の腕へと手を伸ばす。その手は届かない。涙と汗でぐちゃぐちゃになった袖が、虚しく空を切る。俺を見た悠李は驚くように目を開けてから微笑み、ゆっくりと下へ落ちていく。ごめんね、と動いた口が見えた。
夢の中だと割り切れないほど、生きた心地がしなかった。早く終われ。早く終われ。
鉛のような重たさを孕んだ、黒い果物が潰れたような、不快な音が聞こえた。地面へ徐々に広がっていく血だまり。綺麗なt栗色の髪の毛の先から、赤が染み込んでいく。
嘘だ。そうだ、夢だ。夢だから……。
目を瞑ると同時に、白い世界に、溶けていく。
――
白い世界。救う対象が悠李でも、変わらず女性がそこにいた。そうか、この子がきっと。
「……央子さん、だよね」
「……そうです」
「今まで何も知らなくて……ごめん」
「私も、ごめんなさい。あなたに干渉したら、この世界が終わってしまうんじゃないかって考えてしまって……」
「俺さ、悠李を助ければ、罪を償える?」
「……」
「なぁ! 教えてくれよ……」
俯く彼女は、急に力が抜けたようにペタンと座り、感情が溢れ出した
「……お願いします! お願い! 悠李を助けて! 悠李に……彼に幸せになって欲しいの……まだ間に合うの!! 千景さんにしか出来ない!! 出来ないの! お願い!」
「……あぁもう!! 分かってるよ!! 俺がどうにかすればいいんだろ!」
意識が遠のいていく。
これが最後の役目だと、俺は思った。
